津田沼教会 牧師のメッセージ
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「聖霊降臨の約束の成就」(使徒言行録2:1~21)
使徒言行録2:1-21、2009・05・31、聖霊降臨祭(典礼色―赤―)
エゼキエル書37:1-14、ヨハネによる福音書15:26-16:4a

使徒言行録2:1~21

 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現われ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されるのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フィリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、また、エルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
『神は言われる。
 終りの時に、
 わたしの霊をすべての人に注ぐ。
 すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。
 わたしの僕やはしためにも、
 そのときには、わたしの霊を注ぐ。
 すると、彼らは預言する。
 上では、天に不思議な業を、
 下では、地に徴を示そう。
  血と火と立ちこめる煙が、それだ。
  主の偉大な輝かしい日が来る前に、
  太陽は暗くなり、
  月は血のように赤くなる。
  主の名を呼び求める者は皆、救われる。』」


説教「聖霊降臨の約束の成就」(使徒言行録2:1~21)
 
本日は聖霊降臨祭であります。本日は、使徒言行録2:1-21の出来事から、ご一緒に聖霊降臨の出来事の意味について考えてみたいと思います。聖卓や説教壇に用いています本日の赤の色は、この聖霊降臨の日に下った聖霊が、炎の舌のように弟子たちの一人一人の上にとどまったという出来事から、取られています。
本日の使徒言行録の出来事は、こういうものでありました。五旬祭、すなわち、50日目、過ぎ越しの祭りから、50日目、七週の祭りとも呼ばれるユダヤ教の三大祭、もう一つは、スコトの祭り、仮小屋の祭りでありますが、この50日目が満ちたとき、彼ら、弟子たち、12人であったでしょうか120人の者たちであったでしょうか、彼らは一つとなって共にいたのであります。
そして、突然、激しい風が突進するような音が家を満たしたのであります。そして、彼らに、分かれた舌の形をした炎のようなものが見え、彼らの一人ひとりに向かってとどまり、彼らは、霊が彼らに宣言するように与えるままに、他の言語で語りだしたのであります。で、エルサレムへと定住する敬虔な人たち、ユダヤ人たちが天下のあらゆる国から帰って来ていました。彼らは、その音、あるいは、その声が起こったので、やって来て、自分の国の言葉で、弟子たちが語っているのを聞いて驚いていました。多言奇跡であったのでしょうか。それとも、異言のようなものであったのでしょうか。
多分、多言奇跡でありましょう。彼らは、周りの世界中からエルサレムへと戻ってきて住みついた者たちでありました。ユダヤから、あるいは西の今のチグリス・ユーフラテス川近辺の場所から、また、北西の黒海や地中海に面する国々から、さらには、南西のエジプト、リビアの近辺から、あるいは、クレタ島の島国や、アラブ、アラビアの内陸に住む者たちから、そして、最後には、当時のユダヤ人たちにとって最果てと考えられていましたローマからの滞在者など、世界中の民族からユダヤ教に改宗した人々やユダヤ人たちが住み着いていたのでありますが、彼らは、ガリラヤ人たちが、自分の生まれ故郷の言語で神の大いなるみ業を語るのを聞かされていたのであります。
彼らは皆、驚き怪しみ、これは一体どういうことだとお互いに語り合っていましたが、別の者たちは、あれらは、新しいぶどう酒に酔っているのだとあざ笑う者たちもいました。
その時、ペトロが、11人と共に立って声を張り上げ、緊急性をもって彼らに宣言します。ユダヤ人の人たち、またエルサレムに在住するすべての人たち、このことをあなた方に知っていただきたい、私の宣言する言葉に注意を払ってほしい。今は、朝の9時だから、彼らは酔っているのではない。そうではなくて、これこそ、預言者ヨエルが預言していたことである。
すなわち、神は言われる、終わりの日に、私はすべての肉に、人に、私の霊から注ぐ。すると、あなた方の息子娘は預言し、あなた方の若者は幻を見、あなた方の老人たちは夢を見、また、私の僕、しもめに向かってもその日々には、私の霊から注ごう、すると彼らも預言する。上では、天に不思議なことが、下では、地にしるしを与えよう。血と火と煙の上記を。太陽は闇となり、月は地に変わろう、主の大いなる栄光の日が来る前に。そして主の名を呼ぶものは皆救われる、とペトロは、宣言したのであります。主イエスが、復活し、昇天なさり、再びお出でになる前に、主の名を呼ぶ者は皆救われるであろうとの旧約の預言が、本日のこの聖霊降臨の出来事を通して実現したのであります。
そして今も、聖霊に導かれながら、私たちは、全世界に普遍的に、この日の出来事以来、この救いへと招かれているのであります。私たちは、この日の出来事を通して、既に終末的な救いに与っているのであります。主の再臨の前に、既に、すべての人に救いが用意され、成就されていることを、私たちも、身近な家庭で、また、社会で、証ししていきたいものです。
 人知では、とうてい、測り知ることのできない神の平安が、キリスト・イエスにあって、あなた方と共にあるように。アーメン。

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2009/05/31(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「十字架、復活、そして昇天」(使徒言行録1:1~11)
使徒言行録1:1-11、2009・05・24、昇天主日(典礼色―-白―)
エフェソの信徒への手紙1:1-15-23、ルカ24:44-53

使徒言行録1:1~11
 テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。

 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊による洗礼を授けられるからである。」
 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終えると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」




説教「十字架、復活、そして昇天」(使徒言行録1:1~11)

本日は、昇天主日であります。私たちは、毎週のように、使徒信条を説教の後に唱えますが、そこで、私たちは毎週、主イエスが、ポンティオ・ピラトのもとで、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り、三日目に死人の内よりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり、と信仰を告白しているのであります。このような信仰は、理性では信じることが出来ず、私たちは、ただ信仰の目を開かれて、初めて、この信仰告白を信じることが、できるのであります。
先週も、礼拝に、若い御夫妻が礼拝に出席され、自分たちの子供、息子さんが高校になる、それで、いろいろと心配な年頃になってきたので、超越的なキリスト教のような考え方を息子さんに知ってほしいと考え、御主人のほうは、昔、宣教師さんから英語などを学んだことがあり、教会で何とかしていただけないでしょうかと相談され、まだ、本人の意向を聞かずに今日は来たのでと、新来者カードにも住所などはお書きにならないで帰っていかれました。是非、英語で聖書を読む会などに通われることを勧めた次第でありました。
さて、本日は、第一朗読の使徒言行録1:1-11を取り上げてしばらく、皆さんとご一緒に、主のご昇天の意味について考えてみたいと思います。使徒言行録は、ご存知の通り、ルカ福音書の記者ルカの第二巻として、ティオフィロさまに献呈するものとして書かれたものであります。ルカの本日の福音の記事と、使徒言行録の記事とではかなり、違った感想を持つと思います。しかし、全体としてみれば、大きな食い違いはないのであります。例えば、ルカでは、使徒たちは、主ご昇天の後、大喜びで帰ってきて、神殿で絶えず、神をほめたたえていたとありますが、本日の使徒言行録では、弟子たちは、置いてきぼりにされたように、天をみつめ、主とのお別れを絶望的なものとして悲しんでいるかのようであります。
しかし、エルサレムから、この後、この都で主イエスによって約束された聖霊降臨の出来事が起こり、弟子たちは次第に、世界に、地の果て、ローマ帝国の都、ローマまで、キリストの福音と神の国を宣べ伝えて行き、使徒言行録の終りは、パウロが、絶えず、訪ねて来る人々に、主イエスの救いを宣べ伝えていたという場面で終わっているのであります。
さて、本日の記事をもう一度思い起こしてみましょう。主イエスは、40日に渡って弟子たちの前に現われ、このエルサレムに約束されたものを受けるまで、とどまっているようにと指示され、その時から、「あなたがたは約束されたもの・力を受け、エルサレムからユダヤ、サマリア、そして地の果て、ローマにまでも復活の証人になる」と言われて、天に上げられるのであります。
弟子たちは、立ち尽くして、主が雲に乗って彼らから離れ、取り上げられて行くのを、呆然とみつめていたのであります。彼らは、まだ約束されていた聖霊降臨の出来事を、信じえず、人間的な目で、この師である主イエスとの最後のお別れに絶望的にならざるを得なかったのであります。
けれども、その時、二人の輝く衣を着た人、天使がそばに立ち、力付けるのであります。「あなたがたは、なぜ、呆然として雲に乗ってあげられていく主をみつめているのか。あの方は、あなた方が見たのと同じ有様で、手段で、また、あなた方のところに現われる」と再臨の主の約束をするのであります。私たちも、この世の中で、一人見放され、孤独に襲われて、もう希望は絶えたと感じさせられるような、辛い体験に時として出会います。この時の弟子たちも同じだったでしょう。
しかし、私たちは、主より、聖霊を既に受けて、主によって常に見守られている存在なのであります。主は、いつの日にか終りの日に、また、同じように、雲に乗ってお出でになられることを約束なさっています。それがいつであるかは、主もご存知でなく、父なる神のみが知っておられると主は言われました。
私たちもまた、本日の弟子たちのように、聖霊を受けて、復活の証人になるべく、地の果てにまで、遣わされているものであります。十字架すなわち主の苦しみと復活と、そして昇天という本日の出来事によって、私たちは、常に場所を超えて、また、時間を超えて、主が父の右に座して、聖霊を送られ、どこにいても、どんな苦境の中に立たされていても、共にいて下さることが、可能になったのであります。
使徒言行録は、聖霊行伝というふうにも言われます。その聖霊に満たされての、復活の主の証人としての働きは、今も私たちを通して続けられているのであります。天に上げられた独り子によって、私たちも永遠に生きることができる者とされているのであります。
祈りましょう。
 天の父なる神さま。
 私たちは、しばしば、神さまからも見放されて、一人ぼっちだと悩まされ、孤独と寂しさに襲われることがあります。しかし、主は、天に挙げられ、そこから、父と共に、聖霊を絶えず送っておられます。
そして、私たちが地の果てにまでも、神の国、また、復活の主の証人として、この世界に遣わされていることを、危機のときにこそ思い起こさせ、2000年前の弟子たちと同じように、困難と迫害にもめげず、あなたの証を日々、なせる範囲でなしていくものとさせてください。主イエスの言葉からはなれず、また、主の霊の導くままに、歩むものとなさせてください。次週の初の聖霊降臨の出来事を喜びをもって、共に迎え、祝うことができますように。キリストによって祈ります。



2009/05/24(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「あなた方は、私の友」(ヨハネ15:11~17)
ヨハネ15:11-17、2009・05・17、復活後第5主日(典礼色―白―)
使徒言行録11:19-30、ヨハネの手紙一4:1-12

ヨハネによる福音書15:11~17
「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」



説教「あなた方は、私の友」(ヨハネ15:11-17)

 いよいよ、喜ばしい復活節も、本日で復活後第5主日を迎え、次週は、昇天主日となり、再来週は聖霊降臨祭、ペンテコステへと移動していきます。復活後の主日としては、本日がいよいよ終わりとも言えるのであります。そして、今週は、先週に引き続いて、ヨハネ15章の11節から17節が、与えられています。ここも、いわゆる、十字架の死がすぐ後に迫っている告別説教と言われている言葉の中にあります。
 主イエスは、先週の個所で、私はまことのぶどうの木、そして、父なる神は、園丁である。私につながっている、とどまっている枝は、父が剪定をして、ますます豊かに実を結ぶが、そうでない木は、投げ捨てられ、枯れて焼かれてしまうと厳しい言葉を残されました。そして、互いに愛し合いなさいと、命じられ、それが、豊かに実を結ぶことだと、教えられたのでありますが、本日の記事もそれに続いている主イエスの言葉であります。
 主は、先週の個所、み言葉を話したのは、あなた方の喜びが私においてあり、私の喜びがあなた方においてあふれるためであると、まず、言われます。私たちが互いに愛し合うならば、主イエスは喜びで満たされ、私たちも喜びでまっとうされることになると言われるのであります。そして、重ね重ね、私は、あなた方に掟、戒律を与える、すなわち、互いに愛し合いなさいと言われるのであります。
 そして、あなた方を、私は友どもと語ると言われます。なぜならば、僕、奴隷は、その主人が何をしようとしているのか知らず、ただ、命じられるままにするほかないが、私は、あなた方を友というふうに語る。なぜなら、私は、私を遣わした父から聞いたことをすべて話したからであると言われます。
 日本のキリスト教グループには、沢山なグループがありますが、その中の一つに「イエスの友会」というのがあります。私は、今、54歳ですが、27歳のころに洗礼を受けて、その前後に、賀川豊彦先生の「死線を超えて」の中巻「太陽を射る者」という自伝小説を読んだのであります。神学生新見栄一が、神戸のスラム街へ入って行く所から、中巻は始まっていました。その本から、大きな影響を受けて、教会につながり、洗礼を受けたのでありますが、その弟子たちや同労者たちと一緒になって作ったグループが「イエスの友会」というグループであります。その名の所以が本日の主イエスの言葉であります。私は、このところ、毎年、夏休みを頂いて、二泊三日の夏期聖修会に出席させていただいています。
 今年は、奇しくも、プロテスタント日本宣教150年記念の年であり、また、ルーテル教会にとっては、ルーテル神学校創設100年の節目に当たると共に、賀川青年が、神戸にその当時あったスラム街に入って100年目、献身100年記念に当たるのであります。
さて、そのイエスの友会というのには、五綱領があって、敬虔、純潔、平和、奉仕、労働を目標として定めて、教会に下座奉仕をするというのであります。
しかし、本日、イエスが弟子たちを友と語られるのは、弟子たちが主から友と呼ばれるのにふさわしかったからではありません。ヨハネ福音書では、友を表す言葉も、愛を表す言葉も、同じことを意味するものとして、用いられています。ですから、主イエスは、弟子たちを、そして、私たちを「私の愛する者たち」と語りかけて下さるのであります。
 そして、主は、あなた方が、自分から私を選んだのではなく、私があなた方を選んだと
言われます。私たちは、自分で決断して洗礼を受けた、あるいは、自分から教会を求め、教会へ通いはじめたと思いがちですが、主イエスの方が先に私たちを選んで下さっているのです。
一人一人を大事な、大事な者たちとして、選んで下さっているのであります。そして、もちろん、それは、世の中の人全部を招かれておられるのでありますが、残念ながら受け入れて従順に従う人と、そうでない人とに分かれるのであります。
 主は、何人も、自分の命をその友どものために、捨てる以上に大きな愛を持っていないと言われます。自分の命を捨てると訳されていますが、これは、後で出て来る、あなた方を「任命した」という字と同じで、自分の命をその友のために「置く」という言葉であります。
 本日のこの個所の主の言葉を文字どおり実践して、自分の命を捨てて、友どものために、犠牲になったというような出来事も少なからず起こりました。三浦綾子さんの「塩狩峠」の主人公などはその例でありましょう。しかし、愛する者たちのために、その罪の贖いとして、真にご自身の命を「置かれた」方は、主イエスの他にはおられないのであります。なぜならば、主は、神の独り子であられたのに、この世界にくだり、父なる神が、その独 
り子をも与えるほどにこの世界を愛されたところのそのお方であるからであります。
 主は、私たちが出て行って、実を豊かに成らせ、実を残すようにと、私たちを任命なさいました。そして、言われました。私は、あなた方に掟を与える、すなわち、お互いに愛するように、と。
私たちは、家庭で、また、この津田沼教会で互いに愛し合うことによって、実を豊かに結ぶことになるのであります。そして、そのことを見て、周りの人々が、主イエスの愛を知るようになるのであります。身近なところでこそ、私たちは、愛し合い、赦しあうようにと、主によって、召された者たちであります。主は、十字架につけられ、ご復活させられる前に、最後の遺言として、これらの言葉を残されました。私たちは、み言葉から離れやすく、しばしば、罪に陥る弱いものでありますが、御自分の命をも置き、差し出された主に従って、何よりも愛と信頼に満ちた生活を築いていきたいものであります。祈りましょう。
 天の父なる神さま。
 復活後の第5主日を迎え、主ご復活の喜びを私たちは知らされています。しかし、私たちは、罪深く、弱さと汚れに満ちております。どうか、日々をあなたのみ言葉によって、歩ませてください。怠りや、弱さを、あなたが解決へと導いてください。今年も、五月の半ばを迎え、一年のたつのの速やかさを覚えさせられます。どうか、あなたが先頭に立って、私たちを家庭への伝道へと、また、地域や社会への宣教へと押し出してください。キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

 
2009/05/17(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「ひとりではできない」(ヨハネ15:1~10)
ヨハネ15:1-10、2009・05・10、復活後第4主日(典礼色―白―)
使徒言行録8:26-40、ヨハネの手紙一3:18-24


ヨハネによる福音書15:1~10
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」
 


説教「ひとりではできない」(ヨハネ15:1~10)

本日の説教題を「ひとりではできない」と付けておきました。これは、私たちは一人で孤立して、何事においても力を合わせなければ、人間は生きていけないといった私たちの社会で言われていることを、念頭に置いたものではありません。すなわち、私の意図は、主イエス・キリストを離れていては、主イエスの私たちにお求めになっている愛の生活、毎日の日常生活で、実を結ぶことはできないということを、指し示すためであります。
さて、本日の与えられている福音、ヨハネ福音書15章は、来週の福音である15:11-17までを含みつつ、実を結び、実が残るという点で一つのまとまりをなしているのであります。
ヨハネ福音書15章は、すぐ前の14:31において、中断し、主の一行が最後の晩餐の場所から出て行った後の文章のようにも、見えますが、13章、あるいは14章から16章あるいは17章までは、最後の講話として、告別説教をまとめて、記されているのであります。
 そういう文脈の中での15:1-17が、本日と来週の主日に、復活節にふさわしい福音として与えられているのであります。それは、なぜでしょうか。本日の主の言葉は、すぐ後に迫っている十字架の出来事、受難と死、そして、復活と天の父への出発をみすえながら、記された主のお言葉なのであります。本日の主の語られたお言葉について、皆さんとしばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 主は言われます。「私は本物のぶどうの木、御父は、園丁で、あなた方はぶどうの木の枝である」と。ぶどうの木は、旧約聖書に多く見られ、そこではイスラエルの民の象徴でありました。ぶどうの木は、ぶどうの実を生み出すすばらしい木であります。ところが、神に選ばれたこの民は、神からしばしば離れ、主イエスの時代に至るまで、罪を犯し、決して良い実を生み出すことはできなかった、失敗の民であったのであります。
 しかし、主イエスは、旧約の民イスラエルとは違って、良い枝をつけ、良い実を結ぶことができる真のぶどうの木なのであります。そして、弟子たちは、その枝だとたとえられるのであります。
 しかし、弟子たち、また現在の私たちは、常に幹である主イエスのみ言葉と、その働きに、つながっているのでなければ、決して自分からは豊かな実を結ぶことはできないのであります。そのことを、私たちはよく知っています。
 そして、私たちは、絶えず主につながっていなければ、よき実を結ぶことはできない。主は「私を離れては、あなた方は何も実を結ぶことはできない」と言われるのであります。私たちの実生活を顧みてみましょう。家庭の崩壊、団欒の時が失われていく現代の家族は、キリストのお言葉となさったみわざに、常につながっていなければ、決して充実した家庭生活を築くことはできません。
普段の毎日の生活の中でこそ、私たちは、キリストにつながって愛と信頼に満ちた生活ができるかどうかが、試されているのであります。そして、私たちが、主から離れてしまう時、私たちは火の中へと実を結ばない枝として投げられ、燃やされてしまうのであります。一日一日、主の言葉につながって行く時にのみ、愛に満ちた家庭生活あるいは、社会生活、地域での生活が可能になるのであります。
 このぶどうの木は、主イエスがもたらしました聖餐式によって、ユダヤの多くの祭り、特に三大祭り、過越しの祭り、七週の祭り、そしてよりもっと仮小屋の祭り、すなわちスコトの祭りが成就されたことを暗示させているとも言えましょう。聖餐につながり、毎日多忙な日もありますが、私たちは何をさておいても、み言葉によって養われてまいりましょう。
私たちのうちに働く御力によって、私たちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。

2009/05/10(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「私の羊を飼いなさい」(ヨハネ福音書21:15~19)
ヨハネ21:15-19、2009・05・03、復活後第3主日(典礼色―白―)
使徒言行録4:23-33、ヨハネの手紙一3:1-2

ヨハネによる福音書21:15~19

 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。


説教「私の羊を飼いなさい」(ヨハネ21:15~19)
 本日の福音は、ヨハネ福音書21:15から19節であります。先週の記事の続きで、7人の弟子たちが朝食をすませたそのとき、復活の主はペトロに「ヨハネの子、シモン、私を、これらの者以上に愛するか」とお語りになります。
 ペトロは「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、主は「私の小羊を飼いなさい」と言われます。
 主は、再び二度目に「ヨハネの子シモン、あなたは、私を愛するか」と聞かれます。ペトロは、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えます。主は、再び、「私の羊の世話をしなさい」と言われます。
 そして、また、「ヨハネの子、シモン、あなたは、私を愛するか」と聞かれます。ペトロは、主が三度も、同じことを聞かれて、自分が鶏が鳴く前に三度、主を知らないと言って、見捨てて、裏切ったことを思い起こし、恥ずかしさと自責の念で悲しくなり、「主よ、あなたは何もかもご存じです。私があなたを愛していることは、あなたが知っておられます」と答えます。すると主は、「私の羊を飼いなさい」と同じことを三度、命じられたのであります。この文章は、何気なくさっと、読んでしまいますが、原文を見ると、多彩な言語が用いられており、美しい文章となっています。
 シモン・ペトロは、主によって、あなたの上に教会を立てようと、主によって選ばれた12弟子の頭でありました。主は、ペトロが、また、12弟子たちが、自分を見捨てて、最後の時に、逃げ去ることを知っておられました。しかし、主は、その後で、彼らに復活して現れ、世界宣教へと送り出されたのであります。
 「私の羊を飼いなさい」と主は、三度も、ペトロに、命令し、委託しました。「私の羊」とは、何よりも教会につながっていく信徒や求道者の群れであります。しかし、私たちは、本日の主日の祈りにもありましたように、主イエスによって、みもとに、招かれた者として、毎日出会うすべての人々、特に失われている人々や、傷ついている人々にも、み言葉を取り次ぎ、主イエスへと導く使命を、与えられていると言わなければなりません。
 ペトロと同様に、私たちは、自分の誇りや、業績を捨てて、主イエスに従順に従う生活を送りたいものであります。
 「牧師」とは、「羊飼い」の意味であります。羊は、迷いやすい人間存在を表しています。
そして、しかしながら、教会につながるすべての人が、羊であると共に、羊飼いの責任と特権を与えられているのであります。
 この対話の後、主は、ペトロが神の栄光をどのようにあらわすか、その死についても言及されています。この記事が書かれたときには、既にペトロは殉教の死を告げていたでありましょう。
 主に従うということは、今では、殉教ということこそないが、最後の時まで、私たち一人ひとりに、犠牲と主への全幅の信頼をもって、従順に従って行くことを意味しているのであります。
 「主イエスに出会った人は皆、天に召されるとき、主イエスに感謝するものである」とどなたかが書いておられたのを若い時に読んだことを思い出します。
 教会から離れている人々も、主イエスへの愛を持ちながら、最後は天に召されるのではないかと私は信じます。私たちにできることは、何とかして、そのような人々も、教会の群れとして、再び戻れるように努力することであります。そして、世のすべての人々に、主イエスによる救いを、一人でも多くの人々に伝え、証ししていく人生でありたいと思うのであります。アーメン。
 

2009/05/03(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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