津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「ガリラヤ湖畔での再会」(ヨハネ21:1~14)
ヨハネ21:1-14、2009・04・26、復活後第2主日(典礼色―白―)
使徒言行録4:5-12、ヨハネの手紙1:1-2:2

ヨハネによる福音書21:1~14
 
その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかに二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。




説教「ガリラヤ湖畔での再会」(ヨハネ21:1~14)

 先週は、マルコ福音書の付録として後に付け足された16章の9節から18節までの主イエスの復活の記事が読まれました。そして本日、復活後第2主日は、ヨハネ福音書の21:1-14が福音として与えられています。そして、これ、ヨハネ福音書21章も、後で付加されたいわば補充された付録の部分であります。
そのことは、その書き方や、使われている語句などによって分かるのであります。マルコの16:9節以下と同じように、この21章の部分のヨハネ福音書の記者は、この記事をやはり、ここに加えないではおれなかったのであります。本日の記事をもう一度思い起こしてみましょう。
「それらのことの後に」、ペトロたちは、ティベリアスの湖の近くに集まっていたのであります。それは、ペトロをはじめとする7人であったと書いてあります。ペトロは、「私は漁をしに行く」と言いますと残りの6人も「私たちも行こう」と言って小舟に乗り込むのであります。
しかし、その夜は、1匹も取れなかったのであります。夜は、漁に最適の時であると言われますが、どういうわけか、1匹も取れなかった。そして、ついに、朝となりました。そのとき、ガリラヤ湖の湖畔へとある人物、実は復活の主イエスが立っておられたのであります。そして、彼らに「子たちよ、何か獲れたか」と声をかけられるのであります。彼らは、「いいえ、何も獲れていません」と答えます。
すると、その人は、「舟の右手に網を投げてみなさい」と言われました。それで、彼らが言われた通りにすると、夥しい量の魚がかかり、彼らは引き上げることができなかったのであります。
すると、主に愛されてきた弟子は、「あれは、主だ」と分かって叫んだのであります。自分たちの力や企てでは、一晩中かかっても、1匹も取れなかったのに、主のご命令に従うと非常な成功に弟子たちは与るのであります。
「人間を取る漁師にしよう」と、主は、ペトロたちを召し出されましたが、主イエスの弟子は、自分の力や努力にたよっては成果を得ることはできないのであります。
さて、ペトロは、「主だ」ということを、聞くと、上着をまとって、湖に飛び込んだのであります。それは、200ペキス、92メートル位の岸辺に近いところであったからであります。
ペトロは、行動するのにすばやい弟子でありました。「主に愛されてきた弟子」は、だれかはよく分かりませんが、12弟子たちの頭であるペトロと共によきパートナーであり、主の証しを保証するのになくてはならない弟子であり、この二人が、ヨハネ福音書においてはお互いに補い合う存在として出てきます。
いわば、理想的な弟子として、主イエスみ言葉とみ業を保証する、なくてはならない人物なのです。
さて、残された弟子たちも網をひきずりながら、陸に上がると、既に炭火がおこされてあり、その上で魚が焼かれており、パンも用意してありました。
復活の主イエスは、自分を見捨てて逃げた弟子たちをとがめるどころか、「さあ、やって来て朝食をとりなさい」と自分の弟子たちを招き、もてなす主であります。
「あなた方が獲ってきた魚からもいくらか持って来なさい」と言われるので、ペトロが乗り込んで、力を合わせて、引き上げると、153匹の魚であって、しかもお、その網は破れていませんでした。153という数字は、1+2+3+・・・17で、153になります。17は、10と7であり、いずれも完全数であります。
ペトロたちは、全世界へと、人をすなどる航海へと今から出て行くのでありますが、「破れていなかった網」は、教会が世界に充満し、いろいろな人々の多様な教会ができていくけれども、それはそれでもって一体をなす調和のとれた一つの聖なる公同の教会であります。復活の主は、こうして、エルサレムのみならず、ガリラヤでも弟子たちに現れ、主は私たちがどこにいても、復活の体を顕わして下さるのであります。弟子たちは復活の主にであっても、最初はいつも分かりませんでした。理解できませんでした。しかし、私たちもまた、この主に、聖書を通し、教会を通して再会することができるのであります。
どのような逆境の中にあっても、いや、むしろ、そのような時にこそ、復活の主は私たちに顕わされ、その主と共に歩む時、人知をこえた力で弟子たちの群れに大勢の世界中の人たちを加えて下さるのであります。アーメン。

スポンサーサイト
2009/04/26(日) 10:30:03| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主イエスの復活の証人」(マルコ16:9~18)内海望牧師
マルコ16:9-18、2009・04・19、復活後第1主日(典礼色―白―)
使徒言行録3:11-26、ヨハネの手紙5:1-5

マルコによる福音書16:9~18
 〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。

 その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。

 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」〕



説教「主イエスの復活の証人として」(マルコ16:9~18)内海望牧師
 
イースターは教会にとって最も嬉しい出来事です。ところが、福音書が語るイースターの出来事には爆発的な喜びは見当たりません。特に、マルコ福音書は暗い記事が目立ちます。今日の日課を読んでも、「信じなかった」という言葉が二度も出て来ます。イエスさまは「弟子たちの不信仰とかたくなな心をおとがめになった」とまで書かれています。
これでは、福音書は「不信仰者の記録」になってしまいます。この暗さを象徴する場面は15章47節です。「マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた」と述べられています。じっと墓を見つめるマリアの姿!そこには人間の深い絶望が感じられます。
彼女たちの気持ちはよく分かります。イエスさまの宣教活動の初めから、つまりガリラヤからずっと仕えて来た女性たちです。彼女たちは、このイエスさまこそ本物の救い主、世界に希望を与える方であると信じていたのです。ですから、すべてを捨ててイエスさまに従って来たのです。ところが、そのイエスさまが罵られ、打ち叩かれたあげく十字架で無残な死をとげてしまったのです。二人のマリアは全く絶望していました。結局、この世界の最後の勝利者は「罪と死」なのだという思いが彼女たちの心を奈落の底に沈めてしまったのです。
二人は、人生は結局「生から死へ」「光から闇へ」と向かって行く過程なんだという暗澹たる気持ちでうずくまっていました。あれこれ考えても、結局は権力の力が最後には勝利するのであって、正義とか愛とか叫んでも、罪の力には敗れ去ってしまうのだという事実が二人のマリアの心に重くのしかかっていたのです。
それでも、彼女たちは、思い返して、翌日の朝早く香料を携えて墓に行きました。するとどうでしょう。生と死を隔てていた石が転がされ、墓には白い衣を着た二人のみ使いが座っていました。そして「イエスさまは復活なさってガリラヤへ行かれる」と告げたのです。暗い死の印である墓穴が輝ける場所に変えられていたのです。罪と死が最後の勝利者ではないということが明らかになったのです。
しかし、女性たちは、ただ震えあがり、逃げ出してしまったのです。誰にもイースターの喜びを伝えることはしなかったのです。ここでマルコ福音書は終わります。私たちは、暗闇に取り残された思いになります。
ところが、今日の日課は、重点がマリアからイエスさまに移ります。マリアや弟子たちの側から見れば、これは不信仰の記録です。しかし、今やイエスさまご自身が弟子たちに対して行動を起こされるのです。ここでマリアや弟子たちの不信仰は相変わらずそのままです。
しかし、イエスさまは信じることが出来ないマグダラのマリアにご自身を現されたのです。
マグダラのマリア。彼女は、イエスさまによって七つの悪霊を追い出して頂いた女性です。伝説によれば、「罪の女」であったとも言われます。社会では最も軽蔑されていた女性であったかも知れないのです。このマリアの許に復活のイエスさまが真っ先に姿を見せて下さったのです。先週も、「ことにも、あのペトロにも」というみ使いの言葉と同じように心うつ光景です。その後、エルサレムを離れてとぼとぼと去って行く二人の弟子のもとにもイエスさまはご自身を現されました。それでも、弟子たちは信じませんでした。
私は、この「信じなかった」という言葉はその通りだと思います。死者の復活という出来事は信じられないのです。努力して「何とか分かろう」としても、理解できないのです。人間の理性の限界です。
 また、私たちは「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」というイエスさまの言葉によっても平和を得ることが出来ない時があることも事実です。この世の権力、罪の力、思い煩いが強く迫って来るとき、私たちは動揺します。明日のことを思い煩い、不安と恐れの中に投げ込まれることもしばしばです。
 私たちも弟子たちと同じところにいることを告白せざるを得ません。ところが、イエスさまは11人の弟子が食事をしているところにいらっしゃいました。ヨハネ福音書によると、イエスさまご自身が食卓に招かれたと記されています。聖餐式を思い起こさせる箇所です。
14節以下のイエスさまの姿には迫力があります。イエスさまは「弟子たちの不信仰とかたくなな心をおとがめになった」と書かれています。それは、「私が今ここに君たちと共にいるのに、なぜ信じないのか」と迫っていらっしゃるように聞こえます。そして、イエスさまは、間を置かずに「全世界へ行って、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」と弟子たちに使命を与えられるのです。圧倒的な迫力です。
今やイエスさまは、不信仰に陥っている人間の限界を外側から打ち破って、弟子たちに迫っていらっしゃるのです。
その後、マリアや弟子たちがどうなったかはここには何も書かれていません。しかし、私たちは教会の2000年の歴史を知っています。あの信じないペトロをはじめ、ヨハネ、ヤコブなどが教会の柱となり、更にパウロたちが加わり、イエスさまの福音を全世界に宣べ伝えた群れが存在していた事実を知っています。数え切れない名前も知られない多くの人々が、「イエス・キリストは今も私たちと共にいらっしゃる。罪と死ではなく、イエスさまの愛こそ最後の勝利者である」というしっかりとした信仰をもって、それぞれの人生を歩み通したのです。
彼らは、あの迫害の時、死をも恐れず断固として「イエス・キリストは世界の主である」と告白しました。また無数の人々が、死の蔭の涙と共に歩んでいる時にも、共に歩んで下さるイエスさまを信じて慰めと勇気とを与えられました。私たちは、たとえば、すべての希望を奪い取られたというナチの強制収容所の中で数多くの人々が復活のイエスさまによって希望を与えられたことを知っています。これは誰も否定することのできない事実です。教会はこの復活のイエスさまを伝えることによって、世界に希望と喜びを与え続けて来たのです。教会の存在こそ、復活のイエス・キリストを力強く証明する印なのです。
この教会という群れの存在こそ、今日の日課の結論ではないでしょうか。信じることが出来なかった弟子たちがイエスさまのみ言葉によって再び立ち上がったのです。イエスさまがガリラヤで弟子たちに出会ったということは象徴的です。何故なら、つまづき倒れた弟子たちがもう一度出発点に立ったことを示しているからです。
そして、私たちが特に目を向けなければならないのは、マグダラのマリア、ペトロをはじめ弟子たちをお招きになったイエスさまは決してお見捨てにならなかったという事実です。ペトロもマリアたちも不信仰に陥りました。されているのです逃げ去ったり、イエスさまを知らないとさえ言ったのです。
しかし、「あのペトロにも」とおっしゃったイエスさまの愛は揺らぐことなく、ずっと彼らの上に豊かに注がれていたのです。イエスさまは、決して諦めず、時には声を荒げて「わたしを信じなさい。わたしは常にあなたと共にいる」と励まして下さったのです。そして、生きて行く使命までも与えて下さったのです。つまり、この命令は、「私は君たちを当てにしている」ということです。ペトロはこの赦しの愛の前に心から悔い改めました。マグダラのマリアも勇気を与えられました。この罪の女にもイエスさまの愛は豊かに注がれていることによって慰められました。
ですから、私たちもイエスさまの愛に生きて良いのです。私たちも変わることのないイエスさまの愛に包まれているのです。私たちも、当てにされているのです。「主の復活の証人として」遣わされているのです。何という光栄でしょうか。自分の心に巣くう死の闇を見つめて生きるのでなく、目を上げてイエスさまの輝きに包まれて生きて行きましょう。
不信仰な私の所にまで来られて、「さあ、共に歩もう」と促して下さるイエスさまと共に希望と喜びのうちに復活の人生を新しく歩もうではありませんか。
2009/04/19(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主ご復活への畏れ」(マルコ16:1~8)
マルコ16:1-8、2009・04・12、復活祭(典礼色―白―聖餐式あり)
イザヤ書25:6-9、コリントの信徒への手紙一15:21-28

マルコによる福音書16:1~8

 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚きことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたよりも先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。




説教「主ご復活への畏れ」(マルコ16:1~8)

 私たちは、聖灰水曜日(今年は2月25日)から、日曜日をのぞく40日間、そして、先週過ぎ去りました受難週の1週間を含めての40日間、主の十字架への道行きを覚えて、この時期を過ごしてきました。津田沼教会でも、今年は、受難週の金曜日に受苦日の礼拝を持ちました。主は、十字架を背負われ、ゴルゴタの丘で、二人の強盗と共に、十字架につけられ、十字架上から七つの言葉を残して、息を引き取られました。
しかし、それですべてが終わったわけではなかったのです。主自らが予告され、預言されておられた通りに、死んで三日目に、父なる神によって復活させられたのであります。その時の出来事を、私たちは本日、マルコの記事を通して、知らされているのであります。 
私たちは、この地上の命が果てたならば、もうそれで一切が終わると考えがちであります。そして、主のご復活、そして、私たちの復活ということがなかなか信じられないのであります。聖書を愛読し、教会に親近感を持っているけれども、復活ということが、どうしても、信じ難く、キリスト教に入らないという方が少なくないと思います。
 けれども、聖書は、特に新約聖書は、旧約聖書に預言されていた通り、神の独り子、主イエスがご復活なさった、父なる神によって、死人の中から起き上がらされたという知らせを、いろいろな証人たち、使徒パウロや、四つの福音書記者の証言や記事を通してはっきりと告げられているのであります。
 マルコ福音書16:1-8は、もともと、マルコ福音書の結末でありました。いろいろな疑問があり、説がありますが、私たちは、マルコ福音書の結論として書かれている本日の記事をそのまま、本来の結語として、信じることができます。その後に、カッコ書きで載せられている記事は、復活の主イエスが実際にご復活の体で顕現されたことを、記さずには、気が済まなかった人たちの載せた付録のようなものであります。
では、四つの福音書の中で最も古いと考えられるマルコ福音書の本来のオリジナルの結末と考えてもよい16:1-8の記事とはどんなものであったかをもう一度思い起こしながら、主のご復活について、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 それは、こういうものでありました。安息日が過ぎたとき、すなわち、今でいう土曜日の日没後、マグダラのマリアと、ヤコブの母マリアとサロメは、主のご遺体に塗るための香料を買い出しに行きました。そして、安息日どもからの第一日目、すなわち、週の始めの日、今の日曜日の、ごく朝早く、日が上ったときに、彼女らは出かけます。今の季節でしたら、午前4時か、5時ころの時であったでしょうか。しかし、彼らは、墓の入り口をふさいであった石をだれが、転がしてくれるだろうかと互いに語り合って進んで行きました。
 ところが、目を上げてみると、既にその大きな石が既に転がしてあったのを彼女たちは見るのであります。そして、中に入ると、右手に若者が白い長い服を見て座っているのを見て、驚きます。すると、彼は言います。あなた方は、十字架につけられたナザレのイエスを探している。しかし、彼はもうここにはおられない。御覧なさい、彼らが彼を納めた場所である。彼は復活させられたのだ。
さあ、あなた方は、彼の弟子たちと、特にペトロとに伝えなさい。彼は、復活させられた。そして、あなた方に言われた通りに、ガリラヤに先に行かれている。そこであなた方は彼を見るであろうと。
そして、彼女たちを、身ぶるいと困惑とが捕らえた。彼女らは、そこを出て逃げ去った。そして、「彼らはだれにも、何も話さなかった。彼らは恐れていたからである、なぜならば。」大体、そういうふうに記されています。復活の主に現実には会わずに、彼女たちも、ペトロや弟子たちも、主を見ることなく、天使の証言と約束だけを与えられて、復活の出来事が記され、マルコのオリジナルでは完結しているのであります。
 「ごく早く夜明け前に、太陽が上ったときに」、彼女らは、起きて、主の体に香料を塗りに出かけたのでありました。マルコは、主の復活の様子も、復活顕現も記さずに、主が復活させられたとの若者、すなわち天使の証言だけを伝えているのであります。
 つい先日、主を知らないと否定したペトロと見捨てて逃げた弟子たちと、死によって、それまでの師弟関係、あるいは仲間としての交わりが、絶えるという結末とはならなかったのであります。主の復活は、さまざまに他の新約聖書の記者たちによって記されています。
 神ご自身が起こしたこの出来事によって、この世界の死と闇の領域に、新しい命が回復されたのであります。受難、十字架の予告と共に、聖書に預言されていた通り、三日後に復活すると約束されていた主イエスの保証の言葉が、実現されたのであります。
 主のご復活により、神の憐れみと赦しが、私たち一人一人に与えられ、まさに義の太陽が昇り、この日から新しい日が始まったのであります。そしてそれは、3人の女たちに、身ぶるいと困惑、我を忘れるほどの恐れと畏敬の念をひきおこしたのであります。そして私たちは、本日の記事を通して、今も神のご計画とその成就を知らされ、新しい、真の命を生きることが許され、可能とされているのであります。ハレルヤ、アーメン。
 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。










2009/04/12(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「十字架をめざして」(マルコ11:1~11)
 マルコ11:1-11、2009・04・05、枝の主日(典礼色―紫―聖餐式あり)
ゼカリヤ書9:9-10、フィリピの信徒への手紙2:6-11

マルコによる福音書11:1~11
 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」二人は出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
 「ホサナ。
  主の名によって来られる方に、
   祝福があるように。
  我らの父ダビデの来るべき国に、
   祝福があるように。
  いと高きところにホサナ。」
 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。



説教「十字架をめざして」(マルコ11:1~11)

 いよいよ、本日から、受難週、聖週間が始まりました。そして、本日与えられている福音は、マルコ福音書11:1-11であります。ルーテル教会の教会暦の日課の中では、恐らくこの個所だけが、一年の主日において二度も読まれ、アドベント第1主日と共にエルサレム入城の記事が本日読まれるのであります。
それだけを見ても、教会において、これまで、どれだけ、この記事が愛され、大切にされてきたかが分かるのであります。そして、このエルサレム入城の出来事は、4つの福音書すべてに記されているのであります。
さて、いつも、言いますように、4つの福音書の中では、マルコがその成立が一番早く、一番古いのであります。それは、本日のエルサレム入城のそれぞれの福音書を読み比べればわかるのであります。
マルコ福音書では、救い主、メシアの輝かしい入城としては書かれていません。一番素朴で、地味なのであります。主がメシアであることが、秘められ、隠されているのであります。
さて、本日の出来事を、マルコの記事に沿ってもう一度思い起こしてみましょう。彼らは、エルサレムへと近づき、オリーブ山の麓へと、そしてペトファゲとベタニアへとやって来た時、主は、二人の弟子に命じて言うのであります。「向こうの村へ行きなさい。そうすれば、まだ、だれも乗せたことのない子ろばが見つかる。その子ろばをといて引いて来なさい。もし誰かが、子ろばをほどいて何をするつもりかと、聞かれたら、『彼のその主が必要を持っている。またすぐに、ここにお戻しになります』と、答えなさい」と。
それで、彼らが出て行き、村、たぶん、エルサレムに近いベトファゲの村であったでしょう。そこに入ると、通りの外に戸口に向って、子ろばがつないであり、ほどいていると、そこに立っていたある者たちが、「そんなことをして、どうするつもりだ」と言います。彼らは、主イエスが命じて下さった通りに、行かせてくれたのであります。
主は、弟子たちの出会う困難に対して、彼らを守る言葉をあらかじめ与えて下さるのであります。私たちが進むべき道において、迷う時にも、主は、必要な言葉を与えてくれます。
さて、彼らは、帰って来て、上着を子ろばの上に敷き、すると、主は、お乗りになられます。大勢の人が、上着を広げたり、野から、葉のついた付いた枝を切ってきて、しき広げます。そして、前を行く者も、あとを行く者も、「ホサナ、主の名によって来られた方に祝福があるように。父ダビデの王国が祝福されるように、いと高きところにおいて、ホサナ」と歓呼します。
しかし、主イエスは、黙々とエルサレムに向かって入って行かれるのであります。それは、受難と十字架の死が待っている場所へと、身分を低くして、その十字架の死に至るまで、人の子として、しもべのように、低い形で進んで行かれるのであります。
そして、人々はいつの間にか消え、主は神殿の境内のすべてのものを見回された後、12人とベタニアへと出て行かれるのであります。
私たちも、この十字架に向かわれる主の姿を見上げながら、従順に歩むなら、私どもも、この日本の社会も、世界も大きく変わるでありましょう。私たちは、受難週をそのようにして、心を低くしながら、人々に、また、社会に仕える道を、ここから再び歩み始めましょう。アーメン。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
2009/04/05(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。