津田沼教会 牧師のメッセージ
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「世を救う光として」(ヨハネ12:36b~50)
ヨハネ12:36b-50、2009・03・29、四旬節第5主日(典礼色―紫―)
エレミヤ書31:31-34、エフェソの信徒への手紙3:14-21

ヨハネによる福音書12:36b~50
 イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。
 「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。
 主の御腕は、だれに示されましたか。」
彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。
 「神は彼らの目を見えなくし、
 その心をかたくなにされた。
 こうして、彼らは目で見ることなく、
 心で悟らず 、立ち帰らない。
 わたしは彼らをいやさない。」
 イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放するのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表わさなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。

 イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗やみの中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終りの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」



説教「世を救う光として」(ヨハネ12:36B~50)

本日は四旬節としての第5主日を迎え、来週は枝の主日を残すのみとなり、その後、四旬節の最後の1週間である受難週に入り、その聖週間を過ごすと、4月12日には、復活祭がやって来ます。
この主の十字架への道行きを覚えるのに、ふさわしい個所として、本日与えられているのは、ヨハネ福音書12:36Bから50節までであります。この部分は、前半の12:36Bから43までが、「イエスを信じない者たち」と小見出しがつけられ、後半12:44から50までが「イエスの言葉による裁き」とこれも小見出しがつけられて、大きく二つの部分に、新共同訳聖書は分けています。
ところで、この部分は、人々の前で、主イエスが公然となさったお話と13章から始まります主イエスの弟子たちへの告別説教、講話の間にはさまった啓示的な主イエスの言葉となっています。
主は、まず、12:36で、「光ある内、光の子らとして歩め」と言われたあと、出て行って彼らから身を隠されたという言葉から始まっています。多くのしるしを彼はなさったけれども、人々は主イエスに信じゆだねなかったと、福音書記者ヨハネは、記しています。
それは、預言者イザヤが語ったように、「彼らの眼が見ても、見ることがなく、彼らの心は理解することがなく、かたくなにされたからである」という言葉が実現するためであり、また、預言者は、「主よ私たちの知らせをだれが信じましたか、また、主のみ腕はだれに啓示されましたか」という言葉が実現したのであると言っています。そして、イザヤは、彼の、すなわちイエスの栄光を見、彼のこと、すなわちイエスのことについて語ったのであると記者ヨハネは、引用聖句を解釈しています。
しかし、実際、指導者たちの中にも、彼へと信じ委ねた者は多かったが、ファリサイ派のゆえに、会堂追放を恐れて信仰告白しなかったのであるといいます。
そして、彼らは、神の栄光、称賛よりも、人間の栄光、称賛を愛したからであると言っています。福音書記者の時代にも、ニコデモやアリマタヤのヨセフのような指導者もいたが、ユダヤ人たちを恐れて、会堂追放を恐れて、信仰告白しない者たちが少なからずいたのでしょう。
2000年近くたった現在でも、いろいろな障害や信仰に入るのを妨害する事柄・事情のゆえに、聖書に、主イエスに、そして教会に今一歩、足を踏み込まないでいる人々は多いことでしょう。
さて、私たちは、今日の主日の祈りにあるように、「あなたのみ言葉に頼らないでは」、そのような方々に、家族に、身内に、同胞に福音を伝道することは困難であります。
続いて、後半は、12:44から50節までであります。「イエスの言葉による裁き」としての啓示的な講和・説教が続いています。
主は、「私は、父から語られた通りに語っている」と大声で叫んで語り始められるのであります。「私を見ている者は、父を見ているのであり、私は、光としてこの世界へとやって来た、それは、私へと信じ委ねる者が、闇へととどまらないためである」と言われます。そして、「私の言葉を聞いても守らない者を私は裁かない、私は裁くためではなく、救うために来たからである。その者をさばくものがある。私が語った言葉が、終りの日にその人を裁くであろう」と言われます。主は、「自分から自分勝手に、私は語っておらず、父から聞いた通りに語っているからである」と言われ、「父の命令とは、永遠の命をあなた方が持つことである」と言われ、「だから、私は、父が言われる通りに語っているのである」と言われます。モーセのような預言者としてではなく、はるかにモーセ以上の者として、父から直接、大権・専権を与えられて、それを語る使者、使節として、自分は来たのであると言われます。
そして、最後に、父の命令とは、私たちが、永遠の命を持ち、私たちが闇と死のうちにとどまることなく、世の光として、やって来られた主イエスの言葉、父の言葉のうちににとどまることであると言われるのであります。アーメン。

 望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みにあふれさせてくださるように。



 




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2009/03/29(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「永遠の命を得る」(ヨハネ3:13~21)
ヨハネ3:13-21、2009・03・22、四旬節第4主日(典礼色―紫―)
民数記21:4-9、エフェソの信徒への手紙2:4-10

ヨハネによる福音書3:13-21
 「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって夜が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」





説教「永遠の命を得るため」(ヨハネ3:13~21)

本日の福音はヨハネ3:13から21まででありますが、3:13は、もとの文を見ますと、「そして」、天から降って来た人以外には、天へと上った者はいないと始まっています。ニコデモと主イエスとの対話の1節として続いていますが、いつの間にか、話し手が主イエスから、この福音書記者ヨハネ自身の言葉のように変わって行きます。
天から地への降下があり、それなら、地から天への上昇もある。ニコデモに、地上の事柄を話しても分からないなら、天の事柄を語っても、どうして理解できようかと主はこれまでのところで言っていました。そして、人の子は、モーセが青銅の蛇を作って、それを見上げた者が、たとえ、炎の蛇にかまれても救われたという故事を挙げています。本日の第一の朗読にあげられている出来事です。
モーセに対してつぶやき、神に対して不平を言ったイスラエルの民が、炎の蛇にかまれて死んでいったときに、モーセに願って、モーセが神に執り成し、与えられたのが青銅の蛇でした。
これは、将来の主イエスが、人の子、メシアとして、どうしても、十字架上にあげられねばならないことを前もって表した出来事であり、人々が、神の言葉に信頼して、さおの上にモーセが作った青銅の蛇を見上げるときに、たとえ、蛇にかまれても、命は助かったという出来事でありました。
主イエスは、ちょうどそのように、人の子も上げられることになっていると、十字架の出来事が、父なる神の固い決意であることをお示しになっています。そしてそれは信じる者が皆、彼において永遠の命を持つためであると言われています。あるいは、ヨハネがそのように代弁しています。
そして、有名な3:16の言葉が続くのであります。なぜならば、神は、この世界をそのように愛しなさったからであり、すなわち、その独り子なる息子を与えるほどに、愛しなさったからであり、それは、彼へと信じるすべての者が滅びず、永遠の命を持つためであると言われています。ヨハネ福音書の中の最たる福音と言われている言葉であります。それどころか、全聖書の中の聖書とも言われるみ言葉であります。
彼へと信じゆだねる者は、一人としてその救いから漏れることはないのであります。
なぜなら、神がその独り子をこの世界へと送ったのは、この世界を裁くためではなく、彼を通してこの世界が救われるためであるからであると言われます。しかし、彼へと信じる者は裁かれない、しかし、信じない者は既に裁かれている、なぜならば、神のその独り子の名へと信じ委ねていないからであるとも言われています。
そしてその裁きとは、光が、この世界へとやってきたのに、人間どもは、光よりも闇を愛したからであるとあります。そして、なぜなら、彼らの行いは邪悪だからであると言われます。すべて邪悪な行いをする者たちは、光を憎み、光の方に来ない、なぜなら、その行いどもが、明るみに出されるからであると言われます。
しかし、真実を行う者は、光に向かって来る、そしてその結果、彼の行いどもが、神において、なされたことが、見えるようにされるのであると言われています。
私たちは、光なる、命なる、真理なる主イエス、人の子が神の独り子であったのに、すべての人を救うために、十字架に挙げられ、その命を神が私たちにお与えになったことを知るべき四旬節を歩んでいます。
光を愛するか、闇を愛するか、私たちの生れながらの性向は、闇を愛するものであったのではないでしょうか。しかし、十字架におかかりになられ、復活とご昇天によって、天にあげられた主イエスのゆえに、真理と永遠の命と光を愛し、求める者とされているのです。主は、人の子を信じるか信じないかの決断を、遠い先のことではなく、今、現実の人生の中においてこの瞬間瞬間に求めておられます。私たちは、人の子を救い主と信じる生活を今週もここから、始めていきたいものであります。
人知ではとうてい測り知ることのできない神よりの平安が、あなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。
2009/03/22(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神殿を建て直すイエス」(ヨハネ2:13~22)
ヨハネ2:13-22、2009・03・15、四旬節第3主日(典礼色―紫―)
出エジプト記20:1-17、ローマの信徒への手紙10:14-21

ヨハネによる福音書2:13~22
 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。



説教「神殿を建て直すイエス」(ヨハネ2:13~22)

本日は四旬節第3主日となりました。今日から、しばらく、ヨハネ福音書から福音の記事が選ばれています。今日は、先ほどお読みしましたように、ヨハネ2:13-22の主イエスによる宮清めの記事が与えられています。
なぜ、ここが、四旬節の福音個所として選ばれているのでしょうか。しばらく、ご一緒に、本日の福音について考えてみたいと思います。
 他の共観福音書では、福音記事の終りの方で、エルサレム入場と共に、主による宮清めがでてきますが、ヨハネ福音書では宣教の始まったばかりの2章の部分で、その出来事が記されています。それは、なぜでしょうか。主イエスは宣教の始めと終わりに、宮清めをなさったのでしょうか。ヨハネ福音書は、4つの福音書の中では、最後に書かれた福音書でありますが、主は過越祭に少なくとも3度、エルサレムに詣でています。ですから、ヨハネ福音書のお蔭で、私たちは主イエスの公の活動が3年程であったということが分かるのであります。
 ですけれども、神殿を清めるという出来事は、ヨハネ福音書記者にとって非常に大事な出来事であった。そしてまた、礼拝ということは、主にとって何よりも大切であったので、他の福音書記者とは違って、宮清めを最初の書き出しに近い部分にヨハネ記者は、置いたのではないでしょうか。
 私たち津田沼教会では、週日の間にも、「聖書を読み、祈る会」や「英語で聖書を読む会」などを設けて、聖書の学びをしていますが、1週間の信仰生活で中心となるのは、いうまでもなく、主日礼拝であります。福音書記者ヨハネにとっても、礼拝ということが一番大切であった。そこで、歴史的事実はともかくとして、最初の部分に、ヨハネは、宮清めの出来事を位置づけていると考えられるのであります。
 さて、主は、過越祭が近づいたので、エルサレムへと上って来られます。もちろん、弟子たちも一緒でした。そして、神殿の境内に入られると、そこで、牛や羊や鳩を売っている者や、両替人を見出します。すると、主は、ひもぎれか、縄のようなもので鞭を作られ、牛や羊を皆追い出し、両替人の小銭をまきちらし、机をひっくり返し、そして、鳩を売っている者たちにいいます。それらのものを、ここから、持ち去れ。私の父の家を、商売あるいは、市場の家にするな、と。そのとき、弟子たちは、聖書の言葉、詩編にあります「あなたへの熱意が私を食い尽くすであろう」とあったのを思い出していたのであります。
 ユダヤ人たちは、あなたはそんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのかと問い詰めます。すると主は、この神殿を壊してみよ、私はそれを三日間で建て直してみせるといわれました。
 ユダヤ人たちは、この神殿は46年もかかって建てられてきたのに、あなたは、それを三日で建て直すのかといいます。実は、この時、主は、ご自分のからだのことについて語っておられたのであります。当時のエルサレム神殿は、ヘロデ王の時から、46年ほどかかって建てられ、修復されていたものであり、それは、ローマ軍によって包囲され崩される紀元後70年までさらに、修復され続けたのであります。
 弟子たちは、主イエスのご復活の後、主がこのとき、言われていたお言葉を思い出し、聖書と主が語られたその言葉を信じたというのであります。主イエスは、私たちが、エルサレムの神殿でもなく、サマリアのゲリジム山においてでもなく、霊と真とをもって、主イエスを礼拝するようになることを、この時、預言されていたのであります。
主は、しるしを求めるユダヤ人たちに対して、ヨナが三日間魚のなかにいたというしるししか、あなた方には与えられないだろうと、別の個所でいわれています。
 主イエスは、この神殿を三日のうちに建て直すと約束なさいました。そしてそれは、背景に、エルサレム神殿をひかえ、ご自分の方に向けて、ご自分の体にあわせて、そう言われたのかもしれません。
 私たちは、現在、世界中で、この方が、十字架につけられ、三日後に復活した命の主であることを、教会を通して、信じ、礼拝しています。
 私たちは、罪深く、毎週のように、否、毎日、心と行いと言葉によって罪を犯す弱い存在であります。しかし、主が、私たちのために、十字架についてくださり、しかも三日後に復活なさって、弟子たちのもとに現われ、そして、四十日間、彼らと交わられた後、天に昇り、今は天の父の右の座について、そこから聖霊をおくってくださっています。主は今も、聖霊を通して働かれているのであります。私たちが、毎週、この主の体である教会に集まるのは、自分の決心や決断で来るのではなく、聖霊の働きによっているのであります。
実際、なかなか、変わらない私たちの欠点や弱さ、怠りや脆さを抱えながらも、罪の赦しをすでに与えて下さっている神のみ前に赦されて、集まるのであります。
 そう言う意味で、本日の主イエスのなさった出来事、語られたお言葉は、主の十字架への道行をおぼえるのに、ふさわしい記事なのであります。私たちは、何事にも決して、絶望しないで、死にすら、絶望しないで新たな希望をもって、罪を懺悔しながら、新しい1週間へと押し出されていきましょう。祈ります。
 天の父なる神さま。
私たちは、多くの弱さや欠点、また、それぞれが人にも言い難い課題を抱えています。しかし、あなたは、そのような私たちのもとに来て下さり、み子を十字架の死の後、三日間墓の中におさめさせたのち、復活させられました。私たちは、み子の復活により、新しい命、永遠の命を与えられて、どのような困難をも乗り越えて行く希望と力を与えられています。今もなお、この主を知らずに生きている多くの同胞に、欠けのある土の器にすぎない、私たちを用いて、あなたは、父とご自身をすべての人に宣べ伝えさせるといわれます。
 どうか、この四旬節のとき、私たちの罪をより深く認識し、主のみ苦しみをおぼえ、私たちのために苦しまれた十字架への道をおぼえて、より慎ましい生き方、柔和な、平安の道をあゆませてください。キリストの名によって祈ります。アーメン。

2009/03/15(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
説教「仕える喜び」(マルコ10:32~45)
マルコ10:32-45、2009・03・08、四旬節第2主日(典礼色―紫―)
創世記28:10-22、ローマの信徒への手紙4:13-17a

マルコによる福音書10:32~45
 一行がエルサレムに上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振っている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」




説教「仕える喜び」(マルコ10:32~45)

 本日は四旬節第2主日であります。四旬節、主イエスのの受難をおぼえるべき日に与えられています本日の福音は、マルコ10:32-45であります。いよいよ、主はご自分の受難の時が来たことを悟られ、エルサレムへと上って行かれます。そして、弟子たちの先頭に立って、進んで行かれるのを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れたというふうに、書かれています。
ところで、マルコ福音書に出て来る弟子像は、最後の最後まで、そして主ご復活の時まで、主の真意が分からず、理解できず、恐れる弟子たちであります。
そこで、主は、再び12人を呼び集めて、自分の身にまさに起ころうとしている出来事を語り始めます。「見よ、私たちは、エルサレムへと上って行く。そこで、人の子は、祭司長たちや律法学者たちに渡される。そして彼らは、彼に死刑を宣告する。そして彼らは、彼を、異邦人たちに渡す。異邦人たちは、彼をあざけり、彼につばきをはきかけ、鞭打ち、殺すであろう、そして三日後に彼は起き上がる、復活するであろう。」
 しかし、弟子たちは何のことか、まったく理解できないで恐れるばかりであったのです。それどころか、まさにその時に、ゼベダイの子、ヤコブとヨハネは、「先生、お願いがあるのですが、それをかなえてください」とやってきます。主が「何を私にしてほしいのか」と聞かれると、「あなたの栄光の時に、私たちの一人をあなたの右に、残りの一人を左に座れるようにしてください」と願い出るのであります。
やがて、主は栄光の王座におつきになられると、彼らは早合点していたのであります。主は、「あなた方は、何を望んでいるか分かっていない。あなた方は、私の飲む杯を飲み、私の受ける洗礼を受けることができるかと聞かれる」と、彼らは、「できます」と答えます。主は、「あなた方は確かに私の杯を飲み、洗礼を受けることになろう」と言われます。弟子たちにも、生涯苦難の道が待ち受けていることを主は教えられるのであります。私たちも、平安な道を常々願っていますが、十字架に向かう主と同様に、主に従う弟子として苦しみを受けることになると教えられるのであります。私たちも、12使徒ほどではないしても、主に従っていくとき、苦難の杯を飲み、苦しみの洗礼を受けるのであります。
しかし、主は、「しかし、私の右、左に座ることは、私にそうすることができることではなく、そのように備えられている人たちにだけ与えられるのである」と言われます。これを聞いた10人は2人のことで、怒り始めます。
すると、主は、彼らを呼び寄せ、こう語られるのであります。「あなた方も知っているように、異邦人の長と自任している者たちは、民を支配し、彼らのうちの支配者たち、すなわち大きい者たちは、民に圧政を強いている。しかしあなた方の間ではそうではないのである。あなた方のうちで大きくなりたい者はあなたがたの奉仕者となるであろう、あなた方のうちで一番になりたい者はすべての者のしもべ、すなわち奴隷となるであろう」と。「そして、なぜならば、私が来たのも、仕えられるためではなく、多くの人たちの身代金として、私の命を与えるためであるからである」と言われるのであります。
 神さまは、私たちに仕えてくださるために、身代金として、罪からの解放のあがないとして、主イエスを遣わされたのであります。
私たちは、むしろ自分が人から仕えられ、認められ、よくされることを願いがちですが、主イエスは、十字架の死に至るまで従順なしもべとして、神の御心を行われました。そして主は、私たち弟子たちもその主の道に従うことを望んでおられます。
私たちは、もろく、迷いやすく、主の教えと違った道に陥りやすい存在であります。しかし、栄光の復活の主にまみえ、真の喜びに与るためには、主が言われるように、苦い杯と洗礼に与る道を歩まねばなりません。この社会で、人に、家族に、兄弟姉妹に仕える道こそ、実は本当の喜びに与る道であります。そのことを主イエスの言葉によってもう一度確認する者となりたいものです。主は、御自分の命を、私たちに与えて下さったのですから、私たちも、精一杯、人々に仕える道を歩みましょう。
人知では到底測り知ることのできない神の平安があなた方の思いと心とを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。
2009/03/08(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
説教「四十日間の誘惑」(マルコ1:12~13)
マルコ1:12-13、2009・03・01、四旬節第1主日(典礼色―紫―)
創世記9:8-17、ペトロの手紙一3:18-22

マルコによる福音書1:12~13
 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。




説教「四十日間の誘惑」(マルコ1:12~13)

 いよいよ、本日は四旬節第1主日であります。先週の2月25日の灰の水曜日礼拝から、主日をのぞく40日間が四旬節であります。そして、今年は4月12日が復活祭に当たります。これから、この6週間ほどの間を、主の十字架への道行を覚えながら、また、洗礼を受けている方々は自分たちの受けた洗礼を思い起こしながら、過ごしたいと思います。
 ルーテル教会で四旬節第1主日に毎年与えられるのは、主イエスが受けた40日間の試み、誘惑の記事であります。そして、今年はB年ですから、マルコ1:12-13が与えられています。もとの文を見ますと、「そして、すぐに、霊は、彼を荒れ野へと追いやる」という言葉で本日の記事は始まっています。霊とは、主の洗礼の時に下って来た霊、聖霊のことであります。
「そして、彼は、荒れ野で40日間、サタンによって誘惑されていた」と続いています。誘惑とは、罪へ陥らせようとする試みであり、さらには、もう少し広く試練に遭われていたとも考えられますが、私たちが人生という荒れ野の中で会う誘惑、疑いや、危機などを主イエスは本日の出来事において、私たちと同じように受けておられるのであります。本日の主日の祈りにもありますように、私たちがみ言葉から離れるように、悪の力は内外に強く働いています。あるときは、人を通して、あの人はなぜあんなことを私に向かって言うのだろうか、というような疑惑と恨みに陥ってしまうこともあります。
しかし、主イエスの遭われた40日間の誘惑によって、神の子としての主イエスは、私たちの出会うあらゆる種類の誘惑にここで既に耐え、打ち克っておられるのであります。サタンとは、古くは天の法廷において人間を告発する検事のような存在としてヨブ記の1、2章では考えられています。しかし、主イエスの時代には、いろいろな名前を持った悪の力、悪霊の親玉のように考えられるようになっていました。そして、サタンは、神の力に対して逆らい、人間をみ言葉から、聖書から何とかして離れさせようとする存在と考えられていました。
私たちも、このサタンによって今も毎週のように、いや、毎日のように時々刻々、罪に陥らされるように試みられています。しかし、主イエスは、本日の出来事を通して、2000年程まえに、既にサタンの試みに勝利されているのです。私たちは、主の体験を通してサタンに打ち克つ道を既に与えられているのであります。
「荒れ野」とは、サタンや悪霊のすみかのように考えられていました。そして、そこには、凶暴な野獣たちが潜んでいるところだと思われていました。しかし、主は、その荒れ野にあって凶暴な野獣と平和のうちに共におり、天使たちが彼に仕えていたと記されています。天使たちが、主イエスに食事の給仕をしていたとも考えられます。私たちの人生の荒れ野においても、しばしば、疑いや、苦悶が、サタンによってもたらされます。出エジプトを遂げたイスラエルの民は40年間、試され、誘惑され、しばしば罪に陥りました。
しかし、主の場合には、40日間のサタンの試み、誘惑に既に打ち勝たれているのであります。私たちのぶちあたるどんな苦しみも疑いも、既に主によって経験されているのであります。私たちが出会う誘惑・試練で主が味わわれなかった、どんな誘惑、試練もないのであります。
聖書によれば、主は、一度も罪を犯されなかったが、あらゆる誘惑に耐えた方であります。私たちは、主に助けを求めながら、主が向かわれる十字架への道行を40日間、主に従って歩みたいものであります。
 人知ではとうてい測り知ることのできない平安が、キリスト・イエスにあってあなた方を守るように。アーメン。


2009/03/04(水) 14:58:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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