津田沼教会 牧師のメッセージ
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説教「栄光の主イエスを仰ぐ」(マルコ9:2~9)
マルコ9:2-9、2009・02・22、変容主日(典礼色―白―)
列王記下2:1-12a、コリントの信徒への手紙二3:12-18
マルコによる福音書9:2~9
 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセとともに現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どういえばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たこと意をだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。





説教「栄光の主イエスを仰ぐ」(マルコ9:2~9)

本日は、顕現節の最終主日で、変容主日であります。神ご自身、あるいは、復活の主キリストを現す白が、聖卓の布、あるいは、ストールの色として与えられています。先ほど、歌いました主の変貌日の歌、148番の3節には、「あがないの主、約束の主、栄光の主イエスをここに仰ぐ」とありました。主の栄光が、本日の出来事において現されているのであります。本日の週報にも載せましたが、昨年から甲府教会・諏訪教会に赴任されていました平岡正幸先生が思いがけない脳内出血で倒れられ、10ほどの闘病の後、2月18日の水曜日の朝5時過ぎに、天に召されました。
 一緒に、パストラルケア・カウンセリングの研究会で学んだり、説教研究会でご一緒したりしました先生の58歳の生涯はあまりにも突然で、死と生は隣り合わせていることを、痛感させられました。先生は、私の主任牧師就任式にもはるばる三鷹教会から駆け付けて、説教をして頂いたこともあり、非常に活躍されていた先生でもあって、本当にいたたまれない気持ちでいっぱいです。私たちの生は限りがあることを改めて、感じさせられています。
 さて、本日の記事はマタイ、マルコ、ルカといずれにも記されている出来事ですが、ここでも、マルコが一番古いことを感じさせられます。主は、六日後、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に導かれます。この六日後というのは、フィイポ・カイザリアでのペトロのした信仰告白、「あなたはメシアです」という告白から6日後と考えられます。
 昔は、この山はタボル山だと考えられてきましたが、「高い山」とあり、あるいは、フィリポ・カイザリアの地から、考えて、北東に40キロほど行ったところにあるヘルモン山という2000メートル級の山ではないかとも考えられています。
そして、この日の出来事は、実際は、復活後の出来事を、主イエスの生前の時点にさかのぼらせて、考えられたフィクションではないかとの疑問も出されてきました。しかし、「6日後」、「エリヤとモーセ」、「雲の中からの声」と言った言葉使いや内容は、復活の記事とは相容れないものなのです。事実としての経験を追憶して書かれたというふうに考えられるのであります。
主は山に上ると、皆の前で形が変えられます。そして、その服は、どんなさらし職人もそんなに白くはできないほど、真っ白に輝いたのであります。そして彼らに、エリヤがモーセと共に見られ、主イエスと彼らは語り合っていたのであります。
ふいにペトロは、「私たちがここにいるのはすばらしいことです。私たちは3つの仮小屋を造りましょう。一つはあなたに、一つはモーセに、一つはエリヤに」とペトロらしい唐突な申し出をします。彼は何が起こっているのかを知らず、彼らは非常に恐れていたからであると記されています。
エリヤは、預言者たちの代表であり、モーセは律法を代表しています。すなわち、旧約聖書全体がこの二人によって示されているのであります。すると、雲が起こり、雲の中から声が成ります。「これはわたしの愛する子、これに聞け。」と。私たちは、ここにおいて、洗礼の時には主イエスに向かって起こった言葉が、弟子たちに向けて語られたのであります。
私たちは、主イエスの言葉に聞かなければならないのであります。他の者に、その者がどんなに素晴らしく見える存在であっても、キリスト以上に聞き従ってはならないのであります。主は、弟子たちと下山するとき、命じました。「人の子が死人たちの中から復活するときまで、あなた方が見たことをだれにも話してはならない」と。
そして、主イエスの教えとは、何よりも主イエスが「人の子」として苦しむメシアであるということであります。私たちを救いうる唯一の救い主は、十字架で苦しむメシアであるということを、私たちは信じなければならないのです。
平岡牧師は、58歳の生涯を終わるまで、統一教会の会員の統一教会からの脱会や、オーム真理教の信者の救出にも奔走されました。まだまだ、今からという時に、思いがけず、天に召されました。私たちも、自分の寿命がいつまでなのか、誰も知ることはできません。
しかし、私たちは、キリストによって見出された者として、それぞれの生涯を主イエスのみによる救いを証しする信仰生活を、平岡先生の走られた道と同じ道に従ってまっとうしたいものであります。先生は、主イエス・キリストに従う道のりを精一杯歩まれ、この主以外に、最終的な信頼を置ける存在はないことを証しされて、一足先に天国に行かれました。
 本日の主の変容の出来事は、旧約・新約の全聖書66巻が、救いは、主イエスおひとりにあることを指し示した一方的な神の啓示の出来事であります。主イエスを私たちの唯一の絶対信頼できるお方であり、唯一私たちの罪をお赦しになられる方であることをもう一度確認したいものです。アーメン。






 




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2009/02/22(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「罪人を招くために」(マルコ2:13~17)内海望牧師
マルコ2:13-17、顕現節第7主日(典礼色―緑―)
イザヤ書44:21-22、コリントの信徒への手紙二1:18、

マルコによる福音書2:13~17
 イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
 


説教「罪人を招くために」(マルコ2:13~17)内海望牧師

 この個所は、イエスさまの招きがどのようなものであったかをよく示してくれます。
 イエスさまは「通りがかりに」レビを招かれたと書かれています。すなわち、イエスさまは「前提なしに」レビに声をかけられたのです。彼が評判の悪い徴税人の一人であることはご存じでした。しかし、彼が実際どんな人間であるかについては何一つご存じではありませんでした。彼が信仰深いかどうか、良い性格かどうか、など一切ご存じではなかったと思われます。また、レビもイエスさまについて何も知らなかったでしょう。何故なら、レビはイエスさまの説教を聞いていたわけでもなく、ただ収税所に座っていただけだったと書かれています。
 そのような人物に、イエスさまは「通りすがりに」「私に従いなさい」と声をかけられるのです。いわば資格審査なしに弟子になさったのです。相手がどのような人間であるか推し量ることはなさらないのです。相手が極悪人であるかも知れないのです。しかし、そのようなことに一切頓着されずにイエスさまは招きをなさって下さる方なのです。ここにイエスさまの招きの「凄さ」があるのです。
 私たちは、決してこんな軽はずみなことはしません。自分の友人にふさわしいかどうかは時間をかけて慎重にきめます。「人間は人間にとって狼である」という言葉は常に正しいのです。当然のことながら用心に用心を重ねます。
 「軽はずみ」という言葉を用いました。イエスさまは軽はずみだったのでしょうか。確かに、イエスさまの「選び」は失敗したかのように見えます。いざという時に、12弟子は一人残らずイエスさまを見捨てて逃げ去ってしまいました。また、イエスさまがゲッセマネの園で血の汗を流して祈っていらっしゃる時、眠りこけてしまうような頼りない集団であったのです。イエスさまにいちばん取り立てて頂いたのに自分の身に累が及びそうになると「彼なんか知らない」と言うペトロのような人物もいました。あまつさえ弟子の一人はイエスさまを銀30枚で売ったのです。役に立たないばかりか、裏切る者まで出て来たのです。人間の目から見れば、イエスさまの弟子選びは、完全に失敗したと言ってよいでしょう。しかし、イエスさまはそれでも確かにレビを招かれたのです。これは失敗ではありません。イエスさまは初めから、イエスさまから見れば全く無価値な、いやイエスさまを苦しめる人々をあえて弟子として下さっているのです。これが、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」というみ言葉の意味です。このことをしっかりと心に留めたいと思います。
 このイエスさまの招きは、当の招かれたレビからすれば本当に嬉しい出来事でした。財産はあっても、隣人との交わりの外側に置かれているこの私に!声をかけて下さる方がいたということは喜びに喜びを重ねるような出来事であったのです。ルカ福音書によると、レビは喜びの余り、「盛大な宴会を催した」ということです。レビの喜びが手に取るように分かります。時々、聖書には喜びのあまり、羽目を外すような表現があり、驚かされます。(踊るダビデ。サウル王の娘ミカルの嘲り。サムエル下6章)
 しかし、ファリサイ派の律法学者が言うように、この招きによってイエスさまは「罪人の仲間」、ある訳によると「罪人の一味」となってしまったのです。
 しかも、イエスさまは、このファリサイ派の人たちの非難を聞いて、大胆にも「私は罪人を招くために来たのだ」とはっきり断言されたのです。これはファリサイ派の律法学者にとっても、レビにとっても、前代未聞の出来事でした。
 ファリサイという言葉は「分離する」という意味です。きちんと律法を守り、良い生活をして罪人の生き方から「離れる」という信条に生きた人々です。立派であり、また思い上がった人々です。
 しかし、大なり小なり、私たち人間全部が行っている生き方です。「私はあそこまでは行っていない」と他人を低く見ることでやっと安心して生きているのが人間です。決して私たちは、ファリサイ派の人々より良い心を持っているなどと言えないのです。彼らを非難する資格はありません。
 ここで思いを深めてみたいと思います。ここが肝心な点です。私たちはこのたとえを聞きながら、自分をどちら側に置いているでしょうか。
 私たちは自分をレビのように喜び踊る気持ちで聞いているでしょうか。イエスさまはこの罪深い私にも招きを与えて下さっているという喜びのうちに聞いているでしょうか。
 私たちは自分たちをファリサイ派の人々の方に身を置いていることを知って愕然とすることがあるのではないでしょうか。私たちこそ罪深いファリサイ派なのです。
 ダビデが預言者ナタンから「人の物を奪い取る金持ち」の話を聞いたとき、「そのような者は死罪にすべきだ」と激怒しました。しかし、預言者ナタンに「その男はあなただ」と言われて自分の犯した罪に震えあがったという物語を思い起こします(詩編51編)。
 私たちは「罪人」という言葉の意味を道徳的な罪と考えないようにしたいと思います。私たちは人に後ろ指を指されるようなことはしていないと思っています。確かにそうでしょう。
 しかし、私たちが自らの心の奥底を見つめるならば、私たちの心が自己に向かってねじれていることが分かります。「罪を犯したから罪人になるのではなく、罪人だから罪を犯す」というルターの言葉は正しいのです。私たちの心は自己中心にしか働かないのです。このような私たちが、神さまの前で真摯に自分の心と向き合うなら、私たちにはイエスさまの招き以外に救いがないことに気付きます。ところが、私たちは「来る日も来る日も神さまを必要としている訳ではない」とうそびきながら日々安閑と過ごしています。
 あるいは神さまの顔を避けて生きています。「神さまは『立ち帰ること』(悔い改め)を願って招いてくださっているのに、神さまから逃げ出す私だった」とルターは後年自分を振り返っています。
 そのような私たちにイエスさまは資格審査抜きに招いて下さっているのです。素直にイエスさまの罪人への招きに従いましょう。イエスさまは罪人と共に歩み、弟子たちがすべてイエスさまを見捨ててしまった時も、十字架上で取り成しの祈りをして下さった方です。イエスさまが「父よ、彼らをお赦しください」と祈られた時、その「彼ら」のなかに「私」がいることを尽きざる感謝をもって受け入れましょう。私たちこそ招かれた罪人なのです。私たちは、罪人でありながら、同時にイエスさまの十字架の愛、赦しの恵みの中で生きているのです。素晴らしいことではありませんか。罪人を招くイエスさまの愛は前代未聞の出来事なのです。
 ところで、マルコは好んで「皆」とか「全住民」という言葉を用いています。これはイエスさまのなさる一つ一つの出来事がどんなに大きな出来事であり、全世界に届いたということを表現したかったのでしょう。パウロも「主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイヤ州に響き渡った」とテサロニケの信徒への手紙(一1:8)で述べています。
 このような大きな出来事を私たちは聞いているのです。私たちがこの罪人を招くイエスさまのみ言葉をしっかりと心に留め、その喜びに生きるなら、それは全世界に響き渡る出来事なのです。「愛」とか「喜び」は伝染するものです。「伝染する」ということは、いつの間にか風邪をひいてしまうような出来事です。これは悪い例かもしれません。しかし、伝道というものは宣伝ではなく、み言葉に力そのものがいつの間にか全世界に響き渡るのです。私たちは小さな群れです。罪人を招くために、この私の所にまで来て下さったイエスさまに感謝する喜びは、必ず隣人の心にも喜びを与えて行きます。生きて働く主イエスの愛の証人として生きて行きましょう。
2009/02/15(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「人の子の罪を赦す権威」(マルコ2:1~12)
マルコ2:1-12、2009・02・01~12、顕現節第6主日(典礼色―緑―)
ミカ書7:14-20、コリントの信徒への手紙一9:24-27

マルコによる福音書2:1~12
数日後、イエスが再びカ
ファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。



説教「人の子の罪を赦す権威」(マルコ2:1~12)
 
本日の記事の部分から、律法学者あるいは、ファリサイ派との主イエスの闘争が始まります。そして、それは、3章の6節では、主イエスをどのようにして殺そうかというヘロデ派の人々との相談にまで及ぶのであります。
 本日の出来事について、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。「そして、数日後、彼が再びカフェルナウムへとやって来た時、彼が家にいることが聞かれ・知れ渡る」と本日の記事は始まっています。そして、大勢が集まったので、戸口の辺りまで、隙間もないほどになった、そして、主イエスはみ言葉を語っておられた、すなわち、良い知らせを語っておられました。
そして、4人が中風の人を担いでやってきますが、群衆のゆえに、主に近づくことができなかったので、彼らは屋根をはがし、泥の部分を掘って、彼のいたあたりにその床、マットレスか藁布団のような粗末なものを、彼をそこに伏させたまま、つりおろしたのであります。彼らの信仰、彼らには、あるいはその人の親が含まれていたかもしれませんが、中風の人自身の信仰をも含めて、5人の主への絶対的な信頼を見て、主は言われるのであります。
「子よ、あなたの罪どもは赦される。」罪とは、神との関係での、あるいは、人間的な関係でのあらゆる義からの乖離のことであります。
 ところが、そこに、律法学者たちのある者たちが座っていて、彼らの心の中で論じていたのであります。「このようになぜ、この者は、語るのか。彼は冒瀆している。神おひとりの他には、だれが、罪どもを赦すことができるのか。」
主イエスは、彼らが彼らにおいて論じていることに、すぐに彼の霊でもって気づいて、言われます。「あなた方はあなた方の心において、なぜそれらのことを論じているのか。どちらが、たやすいことか、中風の人に、あなたの罪どもは、赦されているということか、それとも、こう言うことか、起きてあなたの床を担ぎ、歩きまわりなさいと。」
 さて、二つのうちでどちらが容易なことなのでしょうか。表面的に見れば、「あなたの罪どもは、赦されている」と言うことの方がたやすいでありましょう。なぜなら、罪どもが赦されているかどうかは、証明できないことだからであります。
それに対して、「起きよ、あなたの床を担げ、そして歩きまわれ」ということは、その奇跡が成功するか失敗するかのテストをするという危険を負うことになりますから、そう言うことの方が単純に考えれば難しいと考えられます。
 しかし、主は、「人の子が罪を赦す権威を持っていることをあなた方が知るように」と言われてその中風の人にお語りになります。「私はあなたに言う、起きて、あなたの床を担ぎ、あなたの家へと出て行きなさい」と。するとすぐに、彼は起き上がり、皆の前を床を担いで出て行った。そして、これを見たすべての者は、驚いて、こう語りながら、神をほめたたえた、すなわち、「このようなことは、私たちはかつて見たことがない」、と本日の記事は終わっているのであります。
 さて、主イエスは、「私が、あなたの罪どもを赦す」とは言っておられません。「人の子」が、地上で罪を赦す権威を持っていると言われているのであります。「人の子」とは、だれのことでありましょうか。「人の子」とは、ダニエル書7章13、14節に出て来る称号であります。「人の子」とは、単なる人間を指す場合もありました。また、それは、キリスト教の共同体を指す、すなわち教会が赦す権威を持つとの説もあります。しかし、主イエスは、御自分のことを、メシアだと意識して、ダニエル書7章で出て来るように、「人の子のような者が天の雲に乗り、日の老いたる者の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた」と言われているその「人の子」を御自分にあてはめて使われたと考えることができます。
 「人の子」として、メシアとして、主イエスは、中風の人に「あなたの罪どもは、今赦される」ということがおできになる唯一のお方であります。本日のミカ書にありましたように、罪を赦すことのできる方は、旧約聖書では本来、主なる神のみでありました。しかし、「人の子」メシアとして、主イエスはこの地上で罪を赦す権威を与えられており、本来、天において神の専権である罪の赦しを私たちのために媒介することがおできになるのであります。そしてその「人の子」は、十字架につけられ、苦しまれるお方でもあります。
 祈りましょう。
天の父なる神さま。
あなたの独り子であるみ子イエスが、人の子として、この地上で私たちの罪を赦すためにおいでくださったことを感謝いたします。私たちの遭遇するさまざまな病が癒されると共に、それ以上に私たちの罪どもが赦され、霊的な健康が回復されますように。そして私たちをあなたの望まれる姿にしてください。キリストによって祈ります。アーメン。

 
  
 
 
2009/02/08(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「いやしと説教のみわざ」(マルコ1:29~39)
マルコ1:29-39、2009・02・01、顕現節第5主日(典礼色―緑―)
ヨブ記7:1-7、コリントの信徒への手紙一9:16-23

マルコによる福音書1:29~39
 すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブもヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。

 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでもわたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。


説教「いやしと説教のみわざ」(マルコ1:29~39)

私たちは、本日、顕現節第5主日のために、集まっています。先週は、主はカフェルナウムへとやって来て安息日に、会堂で教え、また、汚れた霊に取りつかれていた人を汚れた霊を追い払うという出来事がおこりました。
それに続く記事、マルコ1:29-39が本日与えられている記事であります。すなわち「そして、彼らはただちに、会堂から、シモンとアンデレの家へとやって来る、ヤコブもヨハネも一緒に、と始まるのであります。本日の出来事は、ペトロが目の当たりにした忘れることのできない出来事を、ペトロの視点から描いているのであります。ペトロは、この日の出来事を素晴らしかった日々のできない出来事として、マルコ福音書の記者におそらく口頭で伝えたのであります。私たちの先生、主イエスが私たちの家に会堂からすぐに来て下さったというのであります。
そして、彼らはシモンのしゅうとめが、熱を出して、伏していることを伝えます。すると、主は、彼女の部屋の中に入り、手を取って起こすと、彼女は起き上がり、熱は出て行った。そして、彼女は、主に、そして彼らに給仕して、仕えていたというのであります。主は、私たちの、ありふれた、罪に満ちた家の中に入ってくださり、私たちをいやし、また、その結果、私たちは、主に仕えることも許されている者であります。
安息日が終わり、日没になると、今でいえば土曜日の日没後に、人々はすべての病人や悪霊にとりつかれた者たちを彼のもとに連れてきていました。そして、マルコは特にここで、町全体が、その戸口に向かって集められつつあったとまで、記します。はなばなしい成功した主イエスのみ働きであるように思われます。ある人は、この日のような最初に主イエスのなさった出来事の日々を、ガリラヤの春と言いました。そして、主は、大勢の様々な病気を持つ病人たちや悪霊につかれた人々をいやしておられました。そして、悪霊どもにものをいうことをお許しになりませんでした。
彼らは、彼を知っていたからであると、マルコは記しています。主は何者であることを、悪霊たちは、知っていたのでありましょうか。マルコは、それを特別明らかにすることもなく、抑制して書いています。
さて、主イエスは、明朝、非常に朝早く、まだ暗いうちに起き上がられ、外に出ていかれ、人気のない場所に行かれて、祈っておられました。続いて、主がいなくなったことに気づいたシモンは、そしてその仲間たちは、すぐに彼の後を追います。マルコは非常に生き生きといかにも目撃しているかのように表現しています。彼は追跡し、主を見つけて、皆があなたを求めていますと言います。
すると、主は他の近くの町や村へと行こう、私はそこでも、宣教しよう、すなわち説教しよう。そのことのために、私は出て来たのだからと言われます。そして、主は、彼らの会堂へと、全ガリラヤへとやって来て、説教し、悪霊を追い払っていたと、マルコは本日の出来事を要約して記しています。
主は、カファルナウムでの成功に安住するつもりはありませんでした。主は、まだ、み言葉といやしのみわざが、なされていない至る所に、喜んで出て行かれるお方であります。そして、十字架の死に至るまで、主はそのみ働きをまっとうされるのであります。
そして、今も、私たちは、生きておられる方、主イエスのいやしとみ言葉へと毎週教会へ招かれているのであります。どなたにも、1週間のうちにも大きな危機や試練が与えられています。けれども、主は、すべてをご存じで、週ごとに、み言葉と聖礼典によって、私たちを養い、守ってくださいます。主よ、どうか、今日も私たちを憐れんで下さい。そして、み言葉によって強められ、新しい1週間に新たな希望を持ってここから赴かせてください。アーメン。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。

2009/02/01(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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