津田沼教会 牧師のメッセージ
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説教「権威ある新しいお方」(マルコ1:21~28)
マルコ1:21-28、2009・01.25、顕現節第4主日(典礼色―緑―)
申命記18:15-20、コリントの信徒への手紙一8:1-13

マルコによる福音書1章21節~28節

 一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。
「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。



説教「権威ある新しいお方」(マルコ1:21~28)
 本日は、新年から始まりました顕現節も4回目の主日を迎えます。マルコの記事は今年3回目であります。最初の記事は、主イエスの洗礼の時に、天が裂け、鳩のように、”霊“が主イエスに向かって下ったという出来事でありました。主イエスは、神の霊を受けたお方として人々の前に現れたお方であります。
先週はマルコは、主がガリラヤの湖のほとりで、4人の漁師を弟子にするという出来事でありました。
それに続く本日の記事で、初めて、カファルナウムという主イエスがガリラヤ宣教の拠点とした町が出てきます。原文では「そして、彼らはカファルナウムへとやってくる。そしてすぐに、彼は安息日に会堂に入って教えておられた」と本日の記事は始まっています。何を教えておられたのかは書かれていません。しかし、神の国は近づいた。御自分の到来と共に神の支配が始まっているというような内容であったでありましょう。しかし、教えに専念する主イエスご自身にマルコは関心があったのでありましょう。
さて、そこではすべての者たちが、彼の教えに圧倒されていた、なぜならば、彼は、権威ある者として、そして、律法学者たちのようにではなく、教えておられたからであると書かれています。当時の律法の伝承にとらわれることなく、神の支配を自由自在に教えておられたのであります。するとすぐ、―そのときというふうに新共同訳聖書は訳していますが、清くない霊における人が彼らの会堂にいて、こう言って叫んだのであります。「ナザレのイエス、お前と我々と何の関係があるのか。我々を滅ぼしに来たのか。私は知っている、お前は神の聖者だ」と。神の聖者とは、イエスが神である、あるいは、神のみ霊が宿ったお方であるということであります。悪霊は、イエスが神の遣わした方であることを知っているのであります。主は、それに対して言われました。「黙れ、そして彼から出て行け」と。この黙れというのは、口籠を牛などの動物にかけるという意味の言葉であります。
 主は、当時の悪霊の存在という信じられていた存在をご自身も信じておられました。しかし、主は他の者たちのように、魔術を使ったりするのではなく、ただ言葉だけによって、悪霊を追い出すことがお出来になるのであります。
さて、すると、清くない霊は、大声をあげ、その人を痙攣させて、出て行ったのであります。そして、そこにいたすべての者たちは、お互いにこう論じ合いながら驚いたのであります。「これは、何なのか。新しい、権威ある教えだ。清くない霊どもでさえ、彼が命じると彼に従うように強いられるのだ」と。そして彼のよき聞こえは、報告・評判は、すぐに、ガリラヤのあらゆる近隣へと出て行ったというのであります。
 主イエスは、私たちのうちに、巣くおうとする清くない霊どもをさえ、その言葉の力によって、言葉だけで追い払うことができるまったくそれまでの人々、預言者や学者たちとは質の異なる新たな権威をもって、この地上にお出でになられました。
 さて、先日アメリカで1月20日には、オバマ氏が黒人としては初めて、大統領となり、就任演説を行いました。それは、世界的不況と戦争、環境汚染などの世界が直面している困難な中で、一人ひとりが自分の持ち場で、精一杯働くことを世界の一人ひとりに訴えるものでした。ある人が政治と宗教がよくなることが、今の日本で一番大事だと言われましたことをおもいだします。
さて、私たちは、毎日の生活の中で、本日の福音の出来事から2000年近くたっても同じ悪霊との戦いの中に置かれています。今日は、礼拝後に津田沼教会の定例総会が開かれます。
 忌憚なく一年間の報告と新たな一年の宣教計画について話し合いたいと思います。私たちも、教会としてまた、家庭で、職場でいろいろな課題をもっていますが、しかし、悪霊との戦いはすでに、2000前に主が勝利されたその道を私たちは歩むことができると約束されているのであります。主の悪霊との勝利の後を私たちは歩むことができるのです。この一年間の津田沼教会の歩みの上に神さまのご加護がありますように祈りましょう。
 わたさいたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりするすべてをはるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。






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2009/01/25(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主イエスに召されて」(マルコ1:14~20)
マルコ1:14-20、2009・01・18、顕現節第3主日(典礼色―緑―)
エレミヤ書16:14-21、コリントの信徒への手紙一7:29-31

マルコによる福音書1:14~20
 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

 イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。




説教「主イエスに召されて」(マルコ。1:14~20)
 
本日から、通常の顕現節に戻り、教会暦で用いる布の色も緑となっています。そして、本日与えられている福音は、マルコ1:14-20であります。この部分は、1:14-15と、1:16-18と1:19-20に分けることもできるかと思います。
 イエスの宣教の開始と、最初の弟子たち4人の召命、呼び出しが記されています。最初の部分から見ていきましょう。
まず、それは、このように始まっています。かのヨハネが渡された後、イエスは、ガリラヤにやって来られて、神の福音を、すなわち、神からの良い知らせを宣べ伝えて、こうお語りになるのであります。「時は満たされた、神の国は近づいた、あなた方は、悔い改めて、福音を信ぜよ」と。洗礼者ヨハネが、神のご計画のもとに、ヘロデ・アンティパスの手に捕らえられ、しかし、これを境に、主イエスの宣教が開始されるのであります。
この「時」というのは、カイロスという言葉でして、神によって定められた絶好の機会が、この「時」に満たされ、実現しているというのであります。そして、神の国が近づいたというのは、未来のこととして神の国が迫って来たというのみでなく、神の国が、主イエスにおいて既に実現しているということであります。貧しい者は主イエスにおいて既に福音を知らされていると主は言われたことでもそのことが窺えます。
そして「悔い改める」というのは、メタノイア、文字どおりには、心を入れ替えるという意味でありますが、主イエスが言われている本当の意味は、神に立ち帰る、旧約聖書のスーブという意味であります。そして、福音とは「良い知らせ」であります。この最初に発された主イエスのお言葉に、これから始まるすべての主イエスの説教の要約が与えられているのであります。
 そして、引き続く1:16-20は、4人の兄弟が弟子とされるという出来事であります。1:16-18は、シモンとその兄弟アンデレが呼ばれるという出来事です。主は、ガリラヤの海・湖のことでありますが、それに沿って、歩いておられるとき、網を投げているシモンとその兄弟アンデレに目を留められたのであります。なぜならば、彼らは漁師だったからであるとあります。
本日の1:14-20の、各節は、最初の節を除いて、すべて、「そして」「そして」「そして」という接続詞でつながっています。主は、二人に向かって、声をかけます。「わたしについて来なさい。そうすれば、あなた方を、人間どもの漁師になるように私がしよう」と。本日の第1の朗読のエレミヤ書では、裁きとして、漁師がすべての魚を釣り上げるであろうとありましたが、ここで、主が言われている猟師とは、主イエスへと人々を信じる者へと招き寄せる働きへと召し出すと言われるのであります。そして、主イエスの弟子とされるという本日の出来事は、それは、何も牧師などに限られた召し出しではありません。私たち主イエスに呼ばれた、そしてそれに応じたすべての人が、周りの人を、そして世界中にわたって、主イエスこそ唯一の救い主だと主イエスへと招く使命を与えられて召されているのであります。そしてそのために、教会があるのであります。
一人ひとりが悟ってそれでよしとするのではなく、家族へ、友人へ、出会うすべての人々に、イエス・キリストを紹介する使命を与えられて、私たちは主イエスに召されたのであります。二人はすぐに、網を残して主に従います。
続いて、少し湖沿いを進むと、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが船の中で網を修復しているのを目にされます。そして、主が呼ぶと、彼らもすぐに、ゼベダイとその雇い人たちを後に残して、彼の後について行ったのであります。私たちが、主イエスに出会い、洗礼を受け、あるいは、求道中の方も、本日の4人と同じ立場にあります。
私たちは、それゆえ、同じ信仰の兄弟姉妹が、教会から離れないように、心を砕くことが求められています。私たちは、主イエスによって、彼らが網の手入れをしていたように、兄弟姉妹が、心を一つにして、教会にずっとつながるように、責任を与えられているのであります。教会に行きたくても行けない事態も高齢化や病気などによって起こります。残念ながら、いろいろなことで、躓く兄弟姉妹もおられます。
しかし、私たちは、主イエスに一生従って、人々を絶えず、主イエスに結びつける、教会につなげる使命と特権を与えられているのであります。私たちは、主の一方的な呼びかけに応じて、主の弟子とされた尊い一人ひとりであります。その主イエスの声に従い、人々を教会へと招き入れるわざに励んでまいりましょう。アーメン。


2009/01/18(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主イエスも受けた洗礼」(マルコ1:9~11)
マルコ1:9-11、2009・01・11、主の洗礼日(典礼色―白―)
イザヤ書42:1-7、使徒言行録10:34-38

マルコによる福音書1:9~11
 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて〝霊〝が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。



説教「主イエスも受けた洗礼」(マルコ1:9~11)

 本日は、主の洗礼日の礼拝であります。東方教会、オーソドックスのギリシャ正教やロシア正教においては、主の洗礼日は、三大祝日の一つであるそうであります。
本日の記事、マルコ1:9-11では、主イエスは、他の者たちにはわからない、ひそかな神顕現、エピファニーを経験しているのであります。
マルコ福音書は「『神の子』イエス・キリストの福音の初め」と始まっていますが、本日の主イエスの洗礼は、主がご自分が「神の子」であることを、ご自分の目と耳を通して証明しているのであります。
本日の短い記事をもう一度思い起こしてみましょう。元の文、原文をみますと、「そして」、それらの日々に、おいて、成ったことには、イエスはガリラヤのナザレからやって来られた、そして、ヨルダン川へと、ヨハネによって、洗礼をお受けになった。「そして」、水から上がられるとすぐに、天どもが裂け、鳩のような霊が彼へとくだってくるのを見られた。「そして」、声が天から成った。「あなたは、私の息子、愛する者、あなたにおいて私は大いに喜んでいる。」こういう短いが、「そして」という言葉で3節をつないで、簡潔な文によって、主イエスの洗礼の記事がまとめられているのであります。
主イエスだけが、洗礼の時に、天が裂け霊が鳩のように、そのような形でなのか、あるいは鳩のように柔和に、静かに、創世記の1章2節の時のように、海の表をうごめいていたのか、霊が主イエスに向かって、くだってくるのを御覧になり、次には、声が天から成ったのであります。「あなたは私の子、愛する者、あなたにおいて私は大いに喜んでいる」という神の声は、主イエスが、イスラエルの王であることを示しているのか、苦難のしもべであられるのか、それとも、犠牲となることを示しているのか、いずれとも考えられます。詩編の2編の7節からか、イザヤ書42章の1節からか、創世記22章のアブラハムが独り子イサクをささげようとした出来事からか、主イエスがいかなるお方なのかを、本日の主イエスの洗礼の出来事は示しているのであります。
主の洗礼において、久しく途絶えていた神との交流が回復され、示されたのであります。私たちの洗礼は、この主イエスの洗礼を通して、私たちも神の子供とされるものであり、本日の祈りにもありましたように、神に喜ばれ、み心に適った命を生き、永遠の命に与ることができるものとされているのであります。
今は年の初めで、皆様も年賀状のやりとりで忙しかったことでしょう。私がもらったお返しの年賀状に、ある青年の方が、「教会に行っていると、一人で生きているのではないことを知らされます」というような率直な言葉を一文記しておられました。私たちは、教会員は父と子と聖霊のみ名による洗礼を受けています。主イエスも私たちと同じように洗礼を受けられたのであります。主は罪なきお方であるので、主も洗礼を受けられたということは、初代教会の人たちにとって実際には困惑させられる出来事でありました。しかし、マルコは、当然のことのように、主イエスの洗礼を記し、しかし、その時の出来事、神顕現の主イエスにおいて経験せられた秘められた出来事をはっきりと記しているのであります。
さて、パウロも言っているように、私たちは、洗礼により、キリストと共に死に、キリストと共に生きる者とされており、もはや、男も女もなく、奴隷と主人の区別もなく、キリストにあって一つとされているのであります。主イエスの洗礼の時に、天が裂け、久しい時代、疎遠になっていた神と人との間の親しい交流が、回復されました。
キリストの洗礼の時に、父なる神は、「あなたは、私の息子、愛する者、あなたにおいて私は大いに喜んでいる」と天から声が成り、また、天が割かれて、霊が鳩のように、主に向かってくだるのを主は御覧になりましたが、このとき以降、断絶されていた父なる神との親しい交わりが、私たちにも与えられているのであります。
と同時に、その主は、苦難のしもべでもあり、十字架につかねばならないことも、このときの神の声によって示されたのであります。本日礼拝に出ている私たちの多くは、すなわち、教会員の皆様は、洗礼を受けていますが、その方々は、本日の主イエスの洗礼ともつながっていること、また、求道者の方々も、この洗礼に招かれていることを常に覚えていきたいものです。
祈りましょう。
天の父なる神さま。私たちがあなたのみ心に適った生活ができますように、私たちを憐れんでください。そして、どのような困難や試練にも打ち克って生きていけますように、聖霊の導きをお願いいたします。この2009年の一年間の信仰生活を、あるいは、求道中の方々には、あなたに導かれ、招かれるその道を、それぞれ祝福してくださり、辿らせてください。キリストのみ名によって、祈ります。アーメン。
人知では到底測り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
2009/01/11(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主の星に導かれて」(マタイ2:1~12)
マタイ2:1-12、2009・01・04、顕現主日(典礼色―白―聖餐式あり)
イザヤ書60:1-6、エフェソの信徒への手紙3:1-12

マタイによる福音書2:1~12
 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
『ユダの地、ベツレヘムよ、
 お前はユダの指導者たちの中で
 決していちばん小さいものではない。
 お前から指導者が現れ、
 わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現われた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。




説教「主の星に導かれて」(マタイ2:1~12)
 本日は顕現主日であります。顕現とは、神がみ子において顕わされるということであります。
ところで、皆様、新年、お正月をいかがお過ごしになられたことでしょうか。私も、新年礼拝の後、今は、四国の松山に住んでいる両親を訪ねて、帰省してきました。私たちは、この年の始めに、親しい家族や身内と顔を合し、話を親密にすることが多いのではないかと思いますが、皆様どうでしたでしょうか。私は、両親が教会から久しく離れているのを何とかしなければならないと思い、ルーテル松山教会に、母を連れて、森優牧師夫妻を訪ねたのでありました。ルーテル教会は、九州特に熊本市と東京に集中しているのですが、特に田舎で信仰を持ち続けるのは、非常に困難であります。
ある方が、先日も、燃えている薪は、それらが一緒に燃えている時には、燃え続けるが、一本になると、すぐ消えてしまうと教えられてそれ以降ずっと、教会に連なっていると、語られましたが、まさにそのとおりであります。私たちは、努めて、教会につながるように、身内や知人、友人ともどもに連絡を密にして、お互いに努力したいものであります。
 さて、本日のマタイ2:1-12は、「三人の博士たち」と称されてなじみ深い話、出来事であります。本日の個所をもう一度、思い起こしてみますと、ユダヤの王がヘロデのころ、東方からマギたちが到着したのであります。それがどこであったかは、よく分かりません。ペルシャであったのか、アラビアであったのか、今のイラクのあたりのバビロニア、カルデヤ人であったのか、さらには、エジプトやインドからも星を頼りにやって来たと伝説はいろいろとなされてきました。
彼らは、エルサレムに来てこう語るのであります。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見て、拝みにやって来たのです。」占星術の学者たちと、新共同訳聖書は訳していますが、彼らが、王であったのか、魔術師のような者であったのか、祭司のような身分であったのか、よく分かりません。しかし、やはり東方から来た異邦人の賢人たちであったようであります。
さて、古代においては、洋の東西をを問わず、偉大な王や皇帝が生まれる時には、星が輝き出でたというような記録が数多く残されています。
しかし、マタイによっては、これは旧約聖書の民数記に出て来るバラムのなした預言の成就であると考えられているようです。
「ヤコブから星が輝き出る、あるいは、ヤコブから尺が生え出る」とバラムが託宣を受け、預言していたその言葉の実現と考えられるのであります。しかし、このときのヘロデ王と全エルサレムの住人はうろたえたと書かれています。この世界は闇に包まれています。その時代もそうでした。時の権力者ヘロデ大王は、苛酷なことを平気でする悪王でありましたし、民の祭司長たちや、律法学者たちも、ユダヤの王の誕生を知って、歓迎するどころか無関心であった、あるいは心を騒がすばかりであったのです。ヘロデはまず彼らを集めて、どこで、聖書によって、メシアが、キリストが生まれているのかを問いただしました。すると、「それは、ユダヤのベツレヘムです。それは、こう書かれていますから」というのです。「ユダのベツレヘムよ、お前はユダの君たちの中で最も小さいものではない。お前から、指導者が出る、そのものが私の民イスラエルを牧するであろう」と。これは、ミカ書とサムエル記に書かれている預言の言葉をつないで引用してあるのであります。
それから、ヘロデは、マギたちをひそかに呼んで、いつからその星が輝き始めたのかを詳しく聞き、「私も拝みに行くからよく調べて知らせてくれるように、そうすれば、私も行って拝もう」と言って、彼らを送り出しましたのであります。
すると、その主の星が再び輝き出て、彼らを先導し、その幼子のいる家の真上でとどまり、「彼らは、それをみて大きな喜びを喜んだ」と書かれています。そして、家の中へと入り、幼子とその母を見出し、ひれ伏して拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげたのであります。ユダヤ人の王に、異邦人たちが最初に気づき、礼拝をささげ、服従を示し、天へと宝を積んだのであります。
そして、夢で、ヘロデのもとに帰るなとのお告げを受けて、別の道を通って彼らの国へと引っ込んだというのであります。
 この世界は、罪にまみれています。今もそうであります。しかし、この罪の世界へと、幼子として、神の独り子はおいでになられたのであります。私たちは、神の言葉を頼りに、本日のマギたちと同じように、この真の王をひれ伏し拝む礼拝を続ける一年を送りたいものです。そして、出会うすべての人々を教会へと粘り強く導く者になることを願いたい、いや、そうすることがゆるされている一人ひとりであることを確かめていきたいものであります。アーメン。
 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、キリスト・イエスにあって、あなたがたにあるように。








2009/01/04(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主の恵みの年の告知」(ルカ4:16~20)
ルカ4:16-20、2009・01・01、新年礼拝(典礼色―赤―聖餐式あり)
創世記1:1-5、コリントの信徒への手紙二5:17-19

ルカによる福音書4:16~20
 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
「主の霊がわたしの上におられる。
 貧しい人に福音を告げ知らせるために、
 主がわたしに油を注がれたからである。
 主がわたしを遣わされたのは、
 捕らわれている人に解放を、
 目の見えない人に視力の回復を告げ、
 圧迫されている人を自由にし、
 主の恵みの年を告げるためである。」
 イエスは巻物を巻き、係りの者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。




説教「主の恵みの年の告知」(ルカ4:16~20)

皆さん、2009年、明けましておめでとうございます。私は、経済のことは本当によくわからない者でありますが、世界が金融危機に見舞われて、苦しんでいる方々が大勢いるということは、新聞の記事などを通して、知らされています。
2009年1月20日の次期アメリカ大統領オバマ氏の就任式をもって、少しでも世界の人々の悩み・苦しみが改善されるようにと願わざるを得ません。けれども、私どもの霊的な悩み・苦しみは、主イエスのみ言葉とみ業によらない限り、解決できないのであります。本日は、主の命名日でもありますが、昨年同様、新年礼拝の記事、ルカ4:16-20の方を選ばせていただきました。教会暦の色は、新年礼拝では、赤が用いられます。しかし、まだ、顕現主日の前日、今年の場合1月3日(土)までは、白が用いられ、クリスマスが続いています。
新年のこの喜ばしい時に、そして、まだその最中でありますクリスマスのこの日に、なぜ、ルカ4:16-20が与えられているのでしょうか。しばらく、ご一緒に、考えてみたいと思います。
主は、その育ったナザレの町に、お入りになったのであります。それは、主自ら洗礼をお受けになり、み霊がくだり、そして、40日の悪魔の試みにあわれて後、公の宣教の働きを始められて間もないころのこととして、与えられている記事であります。主は、ご自分の習慣に従って、安息日どものある一日に、会堂に入って行かれたのであります。そして、会堂長から、おそらく有名になっておられたラビの一人として、主は聖書を読むように招かれたのでありましょう。それは、私たちが今行っている礼拝の原型のようなものであったでしょう。詩編が歌われ、シェマー、イスラエルという個所が繰り返し、唱えられ、モーセ五書が読まれ、そして、預言者が読まれたのであります。主が渡されたのは、イザヤ書の61編の1節、2節あたりの個所でありました。「主の霊が私に向かってあり、それは、なぜなら、主が私に油を注がれたからである。それは、貧しい者たち・物乞いたちに、神の救いの使信を告げ知らせ、囚人たちを解放を告げるためであり、目の見えない者たちに視力の回復を告げ、踏みにじられた者たちを解放において、送り出すためであり、主のご好意の年を告げしらせるためである」と主は朗読されたのであります。実際のイザヤ書には、主の報復を敵どもに告知するといった言葉があり、また、61章よりも少し前の方のほうの言葉が加えられたりしていますが、ルカにとっては、主イエスが、公の生涯に入られた意味は、本日の福音を告げ知らせるためでありました。主の恵み、喜び、ご好意の年が、主イエスの到来によって成就するのであります。会堂のすべての者たちの眼どもは、彼を尊敬と信頼をもって、凝視していた、注目していたとあるのであります。
しかし、このすぐあとには、ナザレの人々が、主イエスを受け入れず、拒否したということが記されています。主イエスというお方は、私たちが、全面的な信頼をただ一人のこのお方にささげるか、それとも主イエスを退け、拒否するか、いずれかを私たちに迫るお方であります。
神殿の境内で、生まれたばかりの幼子イエスを見て、抱いて、シメオンが預言したように、「この子は多くの人を倒れさせたり、起こしたりすることになる」、そのいずれかに、私たちもつくことになる、そのようなお方であります。この新しい年の初めに、私たちの罪を滅ぼし、罪を赦すためにお出でになられたこのお方を決して見失うことなく、拒絶するのではなく、尊敬と信頼を常に捧げ、従っていくものとなるように招かれていることを確認しつつ歩んでいきたいものであります。
主は本来裁きではなく、恵み、神のご好意・福音に私たちを与らせるために来られたのです。アーメン。
2009/01/01(木) 11:00:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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