津田沼教会 牧師のメッセージ
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「新しく創られる私たち」(ヨハネ2:1~11)
ヨハネ2:1-11、2008・12・28、降誕後主日(典礼色―白―)
イザヤ書62:1-5、コロサイの信徒への手紙1:15-20

ヨハネによる福音書2:1~11
 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておかれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。



説教「新しく創られる私たち」(ヨハネ2:1~11)

 本日は、降誕後主日であります。クリスマスは、来年の1月4日の顕現主日の前日まで続きます。このクリスマスの時に、本日、与えられている福音は、ヨハネ2:1-11であります。三日後に、と始まっていますが、その前の文を見ますと、その翌日という書き出しが三回続いてあり、その三日後は、7日目を意味するのでありましょうか。私たちが新しく創造されることを暗示しているのでしょうか。それとも、三日後に復活なさる主イエスの出来事を暗示しているのでしょうか。本日の出来事をもう一度思い起こしてみましょう。
三日後に、主イエスの母が、ガリラヤのカナにおける婚礼、結婚式があって、そこにいた。ヨハネ福音書では、イエスの母と書かれていて、マリアという名前では出てきません。 
さて、この婚礼には、主イエスも呼ばれていて、彼の弟子たちも共にいたとあります。主の親戚の結婚式であったのでしょうか。そのとき、婚宴の席で大事な喜びのために、用いられるぶどう酒が足りなくなるということが起こったのであります。主の母は、それを知って、「彼らはもうぶどう酒を持っていません」と語ったのであります。主は、「女の人よ、あなたと私と何なのですか、何で関わろうとするのですか。私の時はまだ来ていません」とだしぬけに、答えるのであります。私の時とは、主イエスの受難と十字架の時であります。それが、主が栄光を受ける時でもあると言われるのであります。しかし、主は、母の伝えた出来事を無視なさったわけではありませんでした。また、主の母も「この人の言うことは何でもその通りしてください」と従順に答え、これは私たち、主の弟子の模範的な従順を示しています。
さて、そこに、ユダヤ人の清めの慣習のための石の水がめが6つ置かれていました。いずれも、2ないし3メトレテス入るものでした。1メトレテスはほぼ40リットルですから、少なくとも全部の水を合わすと、500リットル以上は入るわけです。
主は、奉仕する者たち、「ディアコノス」に命じて、水がめの縁まで、上まで満たすようにと言われました。そして、彼らが井戸から汲んで来たのでしょう、一杯に満たすと、今度は主は、それを宴会の世話役、支配人のところに持って行くように命じますと、彼らは運びます。そして、世話役が味を確かめると、その水は、上質のぶどう酒に変わっていたのであります。7つに足りない6つの水がめは、主イエスこそが、ユダヤ教を完成する終末的な救い主であることを暗示しているのかもしれません。
しかし、世話役は、それが、どこから来たものか、知らなかったので、花婿を呼んで言いました。「だれでも、はじめに良いぶどう酒を出し、人々が酔いが回ったころに、質の落ちるものを出すのに、あなたは、今まで良いものを取っておいた」と言って、花婿をほめたのでした。この最初のしるしを、主イエスは、ガリラヤのカナで行いました。そして、それは、弟子たちと、わずかな奉仕人たちだけが知ったにすぎません。彼の最初の弟子たちはこれを見て、主を信じ、主は栄光を現されたのであります。
主イエスは、都のあるユダヤにおいてではなく、ガリラヤの小さな町カナにおいて最初のしるしを行われたのであります。私たちは、この奇跡の出来事を本日の福音を通して知らされています。しるしは、主イエスを救い主として信じるための手段でありました。私たちは、しるしをなさる超越的な神を、またそのみ子イエスを、聖書を通して知らされています。最初は信じられなかったし、理解できなかったけれども、今はその同じ奇跡を見ないでも信じることのできる信仰を与えられています。「人となられた主イエス・キリストによって、私たちは、あなたの命、御神の命に生きる者とされています」と本日の特別の祈りでは祈られています。そのように、私たちは、水から変えられた喜びのぶどう酒を主によって知らされている新しい人に変えられています。新しいぶどう酒は新しい革袋にと主イエスは言われましたが、私たちは、主イエスによって変えられた新しいぶどう酒によって、新しく創られた者として、この1年を歩み始めたいものです。アーメン。


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2008/12/28(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神賛美の時」(ルカ2:1~20)
ルカ2:1-20、2008・12・24、降誕祭
イザヤ書9:1-6、テトスへの手紙2:11-14

ルカによる福音書2:1~20
 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、彼を賛美して言った。
 「いと高きところには栄光、神にあれ、
  地には平和、御心に適う人にあれ。」
 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。




説教「神賛美の時」(ルカ2:1~20)
 
皆さま、クリスマスおめでとうございます。12月25日が正式にはクリスマス、主のご降誕日でありますが、私たちは、毎年、24日をその前夜としてクリスマスイブ礼拝を守るのであります。
 皆さま、どのようなクリスマスをお迎えのことでしょうか。楽しく、順調に迎えている方もおられることでしょうし、中には、大変な思いをしながら、この礼拝に臨まれている方もおられるでしょう。クリスマスとは、私たちに救い主が与えられた出来事を思い起こす礼拝であります。
旧約聖書は「初めに、神は天地を創造された」との創世記から始まるのですが、この創世記のことを、英語ではジェネシスと言います。それは、起源、すなわち、救いの起源、源という意味であります。そして、新約聖書でも、マタイは、イエス・キリストの誕生の次第とはじめに出てきますが、これも、ジェネシスと言うのであります。
 クリスマスとは、私たちが、どこから来て、今どこに立ち、そして、これから先どこに行こうとしているのかを、考える時であります。それで、私たちは、毎年、この12月24日のイブ礼拝では、イザヤ書、テトスへの手紙の本日の個所と共に、ルカ福音書2:1~20が与えられ、毎年毎年、ここから説教されるのであります。
 しばらく、ご一緒に、ルカ福音書2:1~20から、考えてみたいと思います。まず、最初に、そのころ、皇帝アウグスツスから、全住民に登録をするようにと命令・勅令が出て行ったと、本日の記事は始まっています。そして、それは、シリアの総督がキリニウスであったときの最初の住民登録であったと出てきます。ルカは、歴史に忠実で詳しい福音書記者でありますが、主イエスがお生まれになった紀元前4年から7年くらい前のその時代にそのような大規模な地中海世界の住民登録がなされたという確かな記録は残っていません。
 ですから、キリニウスが、シリアで勢力を得て、次第に総督のような地位を得ていた頃の住民登録がかなり長い年数にわたってなされていたのかもしれません。歴史家の目を持っていたルカにとっては、その正確な年代よりも、この人口調査というローマ帝国の権力をも用いて、神は、救いの計画を実現されたということが、ルカの言いたいところであったのでしょう。ルカ福音書2:1~20には、実に簡単明瞭に、主イエスのご誕生のときのいきさつがまとめられています。
 この登録のため、すべての者たちが、自分の町へと進んでいました。そして、ヨセフもダビデの家と家族の出だったので、ナザレから、ユダヤのベツレヘムへと上りましたが、登録するために、婚約していたマリアと一緒だったが、彼女は身ごもっていて、ベツレヘムに来た時、月が満ちて、男の子の初子を産み、飼い葉桶の中に、布切れでその乳飲み子を動きにくいように締めて、寝かせた。なぜならば、彼らには、寄宿舎に場所がなかったからであると記されていあす。
洗礼者ヨハネは、山里中で話題になるような奇跡と共に生まれたときに祝福されましたが、主イエスは、誰にも目を留められないような形で、洞窟か何かの家畜小屋でうぶごえをあげたのであります。
 そして、その地域で、羊飼いの野と言われるところがあり、羊飼いたちが羊の世話をしながら、寝ずの番をしていました。すると、突然み使いがそばに立ち、主の栄光が彼らを照らしたのであります。彼らは大きな怖れを恐れさせられたと原文では書かれています。すると、み使いは言います。「恐れさせられるな。見よ、今日あなた方のために救い主が生まれた、この方はこの民すべての喜びになる。この方こそ、ダビデの町における主、メシア(キリスト)である。そして、これが、あなた方へのしるしである。すなわち、あなた方は、飼い葉桶に寝かされている乳飲み子を見出すであろう。」
すると、たちまち、天のおびただしい軍勢が起こり、賛美しながら、こう語って現われたのであります。「栄光がいと高きところにおいて、神に。そして、地上では平和がご好意の人間たちにあるように」と。
 救い主の誕生が最初に知らされたのは、貧しい、見放された羊飼いたちにでありました。私たちの新共同訳聖書では「平和がみ心にかなう人にあるように」と訳されていますが、少し曖昧であります。「み心に適う人」と言うと何か立派な、正しい行いをする人、徳のある生活をする人というようなニュアンスがあります。しかし、これは、「神のご好意に与る人間たちに」すなわち、全人類に平和があるようにということであります。そして、平和というのも、外見的な平和ではなく、いろいろな諸勢力のバランスの中にあって人間が完全な状態になるように、といった意味であります。そういう意味を込めて、貧しい者、体の不自由な人、目が不自由な人にも平和が与えられるようにと、天使たちは合唱したのであります。
 天使たちが去って行った時、羊飼いたちは、お互いにこう話し合っていました。「さあ、ベツレヘムまで行こう。そして、主が知らせてくれた事・言葉を見ようではないか」と。そして、彼らは急いで行って、そのしるし、ヨセフとマリアと布にくるまれたその乳飲み子を探し当てたのであります。それは、見栄えのしない、平凡な、みすぼらしい光景でありました。その光景を見た彼らは人々に主が知らせてくれた事・言葉どもを知らせました。結果は、聞いていた人々はみな驚いたとだけ記されています。で、一方、マリアは、その心の中であれこれと考え、それらの出来事や言葉を、心に宝のように積んでいたのであります。
 そして、羊飼いたちは、引き返したのであります、すべて、彼らが語られた通りに見聞きしたことで神をあがめ、賛美しながら。
 主イエス・キリストは、カルバリの十字架上で最もみじめな死を遂げますが、お生まれになったときから、低く生まれ、私たちの罪のために十字架を背負ってお生まれになったのであります。その知らせを聞いて神を賛美しながら帰って行った羊飼いたちのように、私たちも、たとえどのように、落ち込み、順調でないときにも、この救い主イエスが、本日の飼い葉桶と共に、私たちを導いてくださることを信じて、新しい一年を過ごしてまいりましょう。

人知では到底はかり知ることのできない平安が、キリスト・イエスにあってあなた方を守るように。アーメン。
2008/12/24(水) 19:00:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「あけぼのの光が」(ルカ1:67~79)
ルカ1:67-79、2008・12・21、待降節第4主日(典礼色―紫―聖餐式あり)
ゼファニア書3:14-17、フィリピの信徒への手紙4:2-7

ルカによる福音書1:67~79
 父ゼカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。
 「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。
  主はその民を訪れて解放し、
  我らのために救いの角を、
  僕ダビデの家から起こされた。
  昔から聖なる預言者たちの口を通して
      語られたとおりに。
  それは、我らの敵、
  すべて我らを憎む者の手からの救い。
  主は我らの先祖を憐れみ、
  その聖なる契約を覚えていてくださる。
  これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。
  こうして我らは、
  敵の手から救われ、
  恐れなく主に仕える、
  生涯、主の御前に清く正しく。
  幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。
  主に先立って行き、その道を整え、
  主の民に罪の赦しによる救いを
      知らせるからである。
  これは我らの神の憐れみの心による。
  この憐れみによって、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、
  我らの歩みを平和の道に導く。」




説教「あけぼのの光が」(ルカ1:67~79)

皆さん、クリスマスおめでとうございます。本日は、待降節第4主日ですが、クリスマスの日、12月25日に近い日曜日として、クリスマス主日としても祝っています。私たちは、今年は教会歴のB年で、マルコ福音書を中心としながら、新しい年を待降節から、新たに始めていますが、特別な場合には、ルカ福音書や他の福音書も与えられるのであります。そして、B年としての待降節第4主日の本日は、ルカの1:67-79が備えられているのであります。いわゆるベネディクツウスとも言われるザカリアの賛歌と言われる部分であります。ザカリアは、神殿で奉仕の任にくじで当たったとき、神殿内で天使のお告げをます。ザカリアも、その妻のエリサベトも、既に年をとっていたのですが、あなた方に男の子が生まれ、その子はメシアに先立つエリアのような存在になると告げられたのでありますが、ザカリアは、その時、信じることができなかったので、それから、男の子が生まれるまで、ものが言えなくされたのであります。
しかし、お告げの通り、男の子が生まれてまもなく、割礼をその子に施す時が来て、村里の人々が集まり、その子の名を父と同じザカリアとつけようとしたとき、ザカリアは、木板にその子の名はヨハネ、すなわち、「主は恵み深い」という天使から授けられた名を書いて示し、それから、ものが言えるようになって、そのことが、ユダの山里中にうわさになったのでありました。
その時に、父ザカリアは、聖霊に満たされて、ザカリアの賛歌を歌ったのであります。「ほめたたえられよ、イスラエルの主なる神は」、と始まるこの賛歌は、イスラエルの主なる神をたたえる前段の1:68から1:75までと、洗礼者になるヨハネに係る1:76から79までにわけることができます。
前段では、ザカリアは、イスラエルの神は、神のしもべダビデの家、子孫に救いの角を起こされたといいます。それは、メシアが与えられるということであります。主なる我らの神は、父アブラハムに誓った誓いを忘れることはなく、我らの敵どもを彼らの手から救ってくださる、とイスラエルの歴史を顧みながら、歌うのであります。新共同訳の訳文では、わかりやすく、短く文が句読点で切られていますが、もとの文をみると、一気に歌ったかのように、長い文でつながっているのであります。イスラエルの民、我らがいかに敵ども、我らを憎む者たちによって苦しめられたか。しかし、み民イスラエルに与えられた救いの約束を、忘れることはなく、ついに、メシアを私たちに与えられた。私たちは、恐れることなく、清く正しく生涯にわたってあなたに仕えますと、前段では主をほめたたえているのであります。
それから、自分たちに与えられた、将来、洗礼者ヨハネとなるわが子について、歌うのであります。お前は、いと高き方の預言者と呼ばれ、主の前に道を備えるために、後に来られるその方の前を進む者となるであろう。それは、その民に対して彼らの罪の赦しにおける救いの知識を与えるためである。そして、私たちの神の憐れみの心のゆえに、私たちに天から、すなわち、上から、「あけぼのの光」、夜明け、メシアの到来が私たちを訪れるであろうと、歌います。「あけぼのの光」とか「若枝」は、旧約聖書ではメシアの到来に関わり用いられる表現でありました。
さて、そして、闇において、死の陰において住んでいる者たちに対して、それは現れるであろう。そして、私たちの足を、平和の道へとまっすぐに正すだろうと歌い終えています。
これこそが、クリスマスの出来事ではないでしょうか。私たちは、かつて、罪と暗黒の中に座している者でありました。しかし、そこに、天からの、上からの暁が、夜明けが、私たちを照らしてくれたのであります。メシアは、特に新約聖書になると、あけぼのの光とも、明けの明星とも、太陽とも言い表わされています。私たちは、ザカリアと共に、このベネディクツウスを歌うことができます。このメシア、キリストのご降誕によってこそ、私たちの罪は赦されるのであります。
そして、主のご降誕によって、私たちは、罪から解き放たれ、真に自由な生き方ができるようにされているのであります。この方によらずしては、私たちは、闇と死の影に座している、うずくまっている哀れな存在にすぎません。
洗礼者ヨハネは、村里中の人々によって、この子はどんなにすばらしい者になるだろうかと評判になりました。主イエスは、馬小屋の中で、人々に知られることなくお生まれになり、わずかに、羊飼いや占星術の学者たちによって、訪れられ、拝まれたのにすぎませんでした。
私たちは、新しい一年を、この主イエスのご降誕の意味を考えつつ、自分の罪に死に、自分に与えられた洗礼を忘れることなく、また、教会の聖卓に月ごとに、いや、毎週集められながら、主イエス・キリストの体とその尊い血に与かって、恵みに満ちた一年を送りたいものであります。祈りましょう。
天の父なる神様。
クリスマスが今年もやってきました。み子・主イエス・キリストは、私たちの暗黒と死の影に上より輝き出でたあけぼのの光、明けの明星です。あなたの不思議なご計画が実って、私たちは、新しい生涯を日々歩むことがゆるされています。しかし、私たちは弱く、罪に陥りやすく、日ごとに心と言葉と行いによって、み前に罪を犯すことが多い者です。
どうか、み子によって、真の平安の道へと私たちの足をまっすぐにしてください。そして、出会います全ての人に、あなたにある平安と幸福とを告げ知らせる福音の使者とならせてください。新しい一年、あなたの顧みと堅い約束に信頼して歩む者としてください。
キリスト・イエスによって祈ります。アーメン。

2008/12/21(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「救いを指し示す長い指」(ヨハネ1:19~28)内海望牧師
ヨハネ1:19-28、2008・12・14、待降節第3主日(典礼色―紫―)
イザヤ書61:1-4、テサロニケの信徒への手紙5:16-24

ヨハネによる福音書1:19~28
 さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
 「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。
  『主の道をまっすぐにせよ』と。」
 遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。



説教「救いを指し示す長い指」(ヨハネ1:19~28)
 ルーテル教会、聖公会は聖書日課を用いて礼拝を致します。日課表を用いると、自分の好きな聖書の個所を読むのでなく、「与えられたみ言葉を聴く」という姿勢で礼拝に出席するためです。牧師も自分の聖書解釈より前に、与えられたみ言葉を聴くという姿勢を取らされます。非常に難解な個所が与えられる時もあります。そこで、牧師の苦闘が始まるわけです。しかし、これで、説教が「み言葉中心」で、社会評論や、自分の思想の開陳という危険から守られているということは確かです。
 なぜ、このようなことを初めに述べるかというと、今日与えられた日課は、先週と同じように洗礼者ヨハネについての記事だからです。悩むところです。
 さて、ルターはアドベントに好んで「ヨハネの指し示す長い人差し指」について説教したと言われます。
 ヨハネの指は、自分でなく他者を示すために用いられています。今日の日課では、「私は・・・ではない」という否定の言葉が3度も出てきます。「私はメシア(キリスト)ではない」「私はエリヤではない」「私は預言者の一人ではない」とヨハネは、はっきり断言します。イエスさまの荒れ野での誘惑を持ち出すまでもなく、私たちはどうしようもなく自分の栄誉を追い求めます。人から尊敬され、褒められることを喜びます。仕える者より仕えられる者になりたいのです。そして、それが高じると、やがて自分は偉い人間で善悪を知る者となり、人々の上に君臨し、人を裁く者となるのです。これは自分を神さまと同格とする恐ろしい傲慢です。これこそ、アダムとイブもそうでした。まさに原罪です。
 メシア、エリヤ、預言者と人々から呼ばれることは、当時の人々にとって最も大きな栄誉です。しかし、ヨハネは今、徹底的に栄誉を拒否しています。ただ、救い主を示す「声」、ルターによると「長い指」に徹しているのです。ここに、ヨハネの生き方を見ます。説教者は、人物も、名前も重要視されません。ただ救い主を指し示す声なのです。しかし、残念ながら、私たちはこの誘惑に打ち勝てないのです。
 ここで、ルターがことさらにヨハネの「長い人差し指」と名付けたのには理由があります。それは、人間が自己神格化から、目を離すためには、ずっと先にある本当の救いに目を向ける必要があるからです。それほど、私たちは自己中心的生き方にしがみついているのです。
 ところで、聖書には次のような言葉があります。「望みがない所で、なおも望む」(ローマ4章18節(279ページ))。ここを「あらゆる希望に逆らって希望し」と訳した人もいます。意味深い訳文だと思います。
 私たちは多くの希望、あるいは救いを求めて生きています。この世界には、私たちを惹きつける数多くの希望の光があります。しかし、それらはほとんどただ自分の欲望の実現を願っているにすぎません。それを、私たちは救い・希望と錯覚しているのです。
 そのような希望が全部失われても、なお本当の希望がある、あるいは、それら全部に逆らって本当の希望に目を向けさせようとするのが、「ヨハネの長い人差し指」なのです。私たちは、あまりにも多くの希望を身の回りに置いているので、はるか地平線から射し込む明けの明星、「大いなる光」、本当の希望を見失っているのです。ですから、「長い」「ながーい」と発音すべきかもしれません。
 しかし、「本当の希望」とは何でしょうか。ヨハネは洗礼を授けていました。当時、ユダヤ教だけでなく、多くの宗教で「水に浸る」という儀式は行われていました。それは、「洗い清める」という意味でした。日本でも「斎戒沐浴」して、神さまの前に出る、という宗教的な習慣があります。
 ところが、ヨハネの洗礼は「悔い改め」「罪の赦し」を指し示していました。そして、イエスさまがそれを完成させる方であるというのです。「聖霊で」という言葉がそれを示します。
 「悔い改めとは何か心の中で新しい決断をするというようなことではなく(お正月や、
学期の始めなどに)、全生涯にわたる完全な方向転換」を意味します。つまり、自分の栄誉に仕える自己絶対的人間から、神さまの僕として生きる生き方への転換です。主人が「私」から「神さま」へと変わるのです。古い自分が死に、新しい私が生まれることなのです。
 洗礼は「清めの儀式」ではなく、「水の中に沈められること」なのです。ルターは、小教理問答書の中で、「古い自分が溺れ死ぬことだ」と語っています。パウロもまた、「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました」と語っています。
 それだけではありません。パウロは、更に「わたしたちは、古い自分がキリストと共に十字架につけられ、キリストと共に復活したのだ」と続けるのです。
 つまり、洗礼とは、「古い自己中心的な私が溺れ死に、キリストと共に新しい私が生まれる」という出来事なのです。「罪の赦し」が与えられる出来事です。ここにおいて、あの「生涯にわたる方向転換」という「悔い改め」も完成するのです。
 「キリストに結び付けられ、新しい人間として生きることが許される。」これより、喜ばしい福音はありません。私たちは誰でも「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けて下さい」という切なる祈りを持っています。しかし、残念ながら、私たちは自分の力で自分を新しくすることはできません。どんなにこすっても、洗っても、罪は私たちの本性にこびりついて拭い去ることはできないのです。しかし、イエスさまは、その十字架の死によって死すべき私たちと共に死に、古い私を滅ぼし、新しい復活の命を与えてくださったのです。
 ヨハネは今、そのようなイエスさまの福音を、その長い指によって指し示してくれているのです。「主の道をまっすぐにせよ」というみ言葉に従って、その長い人差し指で、私たちの歩むべき道を示してくれているのです。私たちはさまざまな安っぽい希望を追い求めることを止め、目を上げて、ヨハネの指し示す彼方をまっすぐに見つめ、しっかりと歩もうではありませんか。悔い改めと復活の光に目を向けようではありませんか。
 私たちは、クリスマスを目の前にしております。イエスさまが、私たちの罪を負い、私たちを新しい人間として復活させる方として、この地上に来られ、私たちと共に歩んでくださることを感謝するときです。クリスマスを私たちの復活を感謝する時として喜び迎えましょう。





2008/12/14(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神に心を向けよう」(マルコ1:1~8)
マルコ1:1-8、2008・12・07、待降節第2主日(典礼色―紫―聖餐式あり)
イザヤ書40:1-7、ペトロの手紙二3:8-14

マルコによる福音書1:1~8
神の子イエス・キリストの福音の初め。
 預言者イザヤの書にこう書いてある。
 「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
あなたの道を準備させよう。
荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
 その道筋をまっすぐにせよ。』」
そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現われて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」




説教「神に心を向けよう」(マルコ1:1~8)

待降節も第2主日となり、本日は、今年与えられている中心の福音書、マルコ福音書の1:1-8が福音として与えられています。これは、マルコ福音書の序文であります。その序文は、どこまでで、切るべきか諸説があり、マルコ1:1-14までを考える人もいます。その後から具体的な宣教が始まっているからです。序説は、福音書の全体の冒頭にあっていずれの福音書にとっても非常に大切な部分であります。マタイもヨハネも、ルカも初めの部分は非常に力を入れて書いています。また、同じように、終りの部分も重要であります。
さて、本日の日課1:1-8は、洗礼者ヨハネの登場が中心となっていますが、それは、1:4-8で具体的になってきます。最初の書き出しは、非常に印象的であります。「神の子、イエス・キリストの福音の初め」となっています。創世記は、「初めに、神は天と地とをお造りになった」とありますし、ヨハネ福音書は、冒頭に「初めに言葉があった」とありますが、マルコは、主イエス・キリストが神の子であって、そこから、福音、すなわち戦勝の知らせ、良きニュースが新たにはじまるというのであります。しばしば、言いますように、4つの福音書の中ではマルコが一番古く書かれたと考えられているのであります。旧約聖書で、長らく待たれた「救い主、メシアの福音」がここからはじまったとマルコは宣言するのであります。そして、旧約聖書から引用し、マルコは、預言者イザヤにおいて、こう書かれていると続けるのでありますが、それらの預言はイザヤだけではなく、出エジプト記やマラキ書に出ているみ言葉も併せて用いられているのであります。
そして、マルコ福音書は出だしに、「主イエスの到来と、その先駆者、洗礼者ヨハネの登場」を記しているのであります。「見よ、私は私の使者をあなたよりも前に派遣する。彼があなたの道を備えるであろう。声が荒野において叫ぶ。あなた方は主の道を用意せよ。あなた方は彼の道をまっすぐにしなさい」と。そしてそのとおり、成ったことには、洗礼を施す者ヨハネが荒れ野において、現われ、罪の赦しへの悔い改めの洗礼を説教しながら、現われたというのです。悔い改めというのは、メタノイアという言葉で、言葉そのものの本来の意味としては、「心を変えること」でありますが、福音記者のこの語を用いている意味は「生活全体を神に向けて方向転換すること」を意味しています。私は、なかなか、生活が改まりません。牧師として、説教を整えることは大切な仕事でありますが、ついつい着手が遅くなり、皆様にご迷惑をかけています。その他訪問や、手紙書きなどについても同じことが言えます。しかし、主イエス・キリストの良き知らせは、既にはじまっているのであります。この本日の時から、新たな出来事が既にはじまっているのです。新共同訳聖書は、「福音の初め」と書いて、「福音の始め」とは書いていません。まったく新たな出来事が、この時からはじまったからであります。
洗礼者ヨハネの荒野での説教に大きな反応を見せて、全ユダヤの地方が、また、エルサレムの全住民が続々と出てきており、彼らの罪を告白して、ヨハネから洗礼を受けていました。このヨハネは、終末のときに再来すると信じられていたエリヤであると主イエスは後に語っています。彼は、主がやって来る前に、「その道を整えるために悔い改めの洗礼」を、すなわち、その必要を説教していたのであります。彼は、エリヤのように、禁欲的な食事や身なりをして現われました。それは、当時のユダヤ教の洗礼ともクムラン教団の洗礼とも違っていました。しかし、一回限りの全ユダヤ人に対する悔い改めの洗礼でありました。そして、彼は断言します。「私は水で洗礼を施しているが、私の後から来られる方は、私よりもずっと強い、すなわち超人間的なお方で、私はその方のサンダルの紐をかがんで解くにも値しないものであり、その方の奴隷にも値しないものである」と宣言したのであります。
実際には、ヨハネの影響力は強く、その亡き後も、弟子たちは存在したけれども、彼は道備え役としての使命に専念したのであります。私たちも、洗礼者ヨハネと共に、ご降誕の、そして、また、再臨の主イエスの到来を心を神に向けながら、静かに待ち望みたいものであります。アーメン。


2008/12/07(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神に心を向けよう」(マルコ1:1~8)
マルコ1:1-8、2008・12・07、待降節第2主日(典礼色―紫―聖餐式あり)
イザヤ書40:1-7、ペトロの手紙二3:8-14

マルコによる福音書1:1~8
神の子イエス・キリストの福音の初め。
 預言者イザヤの書にこう書いてある。
 「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
あなたの道を準備させよう。
荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
 その道筋をまっすぐにせよ。』」
そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現われて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」


2008年12月7日(日)午前10時半~11時45分、待降節第2主日礼拝
説教「神に心を向けよう」(マルコ1:1-8)渡辺賢次牧師

同日午前9時半~10時15分、教会学校
説教:「主の道を整えなさい」(マルコ1:1-11)渡辺賢次牧師
祈祷:渡辺真理恵姉
奏楽:渡辺真理恵姉

教会学校はすべての子どもさんのために、開かれています。
保護者の同伴も歓迎します。子ども礼拝の中で、献金があります。
いくらかでも、お小遣いの中から持たせてください。
聖書やさんびかは、教会に備え付けてあります。

2008年12月6日(土)午後3時~午後5時、教会学校クリスマス会
少し早いですが、教会学校のクリスマス会です。
礼拝の中では献金があります。ささやかなプレゼントも用意してあります。
保護者の同伴も歓迎します。主のご降誕を祝いましょう。
2008/12/07(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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