津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「秘められた救い主として」(マルコ11:1~11)
マルコ11:1-11、2008・11・30、待降節第1主日
イザヤ書63:15-64:7、コリントの信徒への手紙一1:3-9

マルコによる福音書11:1~11
 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
 「ホサナ。
  主の名によって来られる方に、
   祝福があるように。
  我らの父ダビデの来るべき国に、
   祝福があるように。
  いと高きところにホサナ。」
 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。



説教「秘められた救い主として」(マルコ11:1~11)
 
本日は、待降節第1主日です。待降節は、アドベントとも言い、それは「到来」というふうな意味を持っています。主のご降誕、クリスマスに備える、準備の時でもあります。ちょうど、復活祭、すなわち白で表わされる時期の前に、紫で表わされる受難節があるように、クリスマスの白で表わされる時期の前に、紫で表わされる待降節が、教会暦の一年の始まりに置かれているのであります。
 そして、ルーテル教会では、この一年の教会暦の始まりの日に、毎年、マタイ、マルコ、ルカの順で、主のエルサレム入城の記事が読まれます。今年は3年サイクルのB年となり、マルコから、その記事が読まれたのであります。しかも、この同じ記事が、ルーテル教会では枝の主日、すなわち、受難週の始まる主日に同じようにもう一度読まれるのであります。それだけを見ましても、このエルサレム入城の出来事がどれだけ重要なものであり、教会によってどれだけ愛されてきた記事であるかが分かるのであります。この出来事は、ヨハネ福音書も含めて、4つの福音書すべてに記されていますが、それぞれ、微妙に違っています。私たちは、マルコ福音書の記事を、まず、もう一度、思い起こしてみましょう。
 それは、このように始まっています。そして、彼らが、ベトファゲへと、そして、ベタニアへと、オリーブ山に向かってやって来たとき、彼は、こう言って二人を送り出す。向かいの村へと出て行きなさい。その村とは、多分、ベトファゲであったでありましょう。それのほうがベタニアよりもエルサレムに近いのであります。主は、さらに、言われます。そうすれば、じきに、あなた方は、つながれている、まだだれも乗せたことのない子ろばを見出すであろう。それをほどいて、連れて来なさい。もしだれかが、何であなた方はそんなことをするのかと言ったなら、こう言いなさい。「主がお入用なのです。彼はそれをすぐまたここに連れ戻しになります」と。
 だれもまだ乗ったことのない子ろばとは、それがささげられる神聖な動物であることを示しています。また、「主がお入用なのです」とは、原文を見ると、「彼のその主が必要を持っている」となっています。その主というのは、だれを指しているのかよく分かりません。その子ろばの所有者か、主イエスご自身のことか、あるいは、神のことを指しているのか。
 子ろばの所有者だとすると、主イエスとその所有者は知り合いであって、二人が前もって、この出来事のお膳立てをしていたとも考えられます。いずれにしても、弟子の二人はその村に入っていくと、主の言われたとおりに事が進み、交差路のようなところに戸口に向かって、つながれていた子ろばを見出します。それで、ほどいていると、そばにいた者たちのうちのある者たちが、あなた方は、子ろばをほどいてどうするつもりかと言ったので、主が言われたとおりに言うと、彼らは行かせてくれたと言うのであります。
この子ろばを徴用してくるという出来事は何でもない出来事のようにも、思われますが、これは、ゼカリヤ書で、メシアがオリーブ山に立つという預言と、メシアが子ろばに乗って来るという預言を成就する出来事なのであります。
 さて、11:7からの後半の記事がいよいよエルサレム入城そのものの記事であります。二人は、子ろばを引いてきて、自分たちの服をその背に敷くと、主イエスはそれにお乗りになります。それは、主が王であることを暗示しています。そして、多くの者たちが、自分たちの服を道に敷き、他の者たちも、野から、葉のついた枝を切って来て、道に敷きます。彼らは、エルサレムでの祭りへの巡礼の者たちであります。そして、前を行く者も、後に従う者たちも、こう叫んで言います。ホサナ、祝福されているのは、主のみ名において来られている方、祝福されているのは、私たちの父ダビデの来るべき王国、いと高きところにおいて、ホサナ!と。
 これは、詩編118:25、26によっています。ホサナーとは、もとの意味は、今救ってくださいといった意味で、詩編の118:25の言葉です。エルサレム巡礼の群衆は、子ろばに乗って入城するイエスを、ホサナ、ホサナといって歓呼するのであります。しかし、主イエスは、控えめにふるまい、沈黙したままであります。そして、主はエルサレムへと、また、神殿の境内へとお入りになり、すべてのものを見回した後、時刻も遅くなったので、12人と共にベタニアへと出て行かれたと記されて、エルサレム入城の記事はあっけなく終わっているのであります。
 主イエスは、低さを持って、自らを抑制しながら、秘められたメシアとして、エルサレムにお出でになられました。私たちは、本日の福音の記事を通して、力を奮ってお出でになられた主イエスの真の姿を知らされています。主ははなばなしい勝利の王として入城したのではなく、一緒に来た人々にもメシアとは分からない形でお出でになられました。
 こうして来られたこの方以外に、私たちを罪から解き放つことのできる人はいません。私は、亀井勝一郎という文学者、評論家との青年時代における出会いからキリスト教に大きくひきつけられました。その全集の第7巻に、東洋の知恵、西洋の知恵というのがあり、そこにキリスト教や聖書の言葉も紹介されていました。それから、20年も、30年もたちましたが、先日、改めて、そこに紹介されている東西の知恵についての文学書や宗教書を取り寄せて学んでみたいと思い、丸繕に行って買ったり、注文してきました。しかし、人間的な知恵に頼るのではなく、超人間的なメシアとして来られた方への信仰をないがしろにしてはいけないと思っています。私たちの常識や理性の働きをも超えて、低くなられて、メシアとして確かにお出でになられた本日の主イエスのエルサレム入城の出来事の意味を私たちは深くかみしめたいと思うのであります。
祈りましょう。
 父なる神さま。私たちは毎日、罪の危険や、危機の中を歩んでいます。どうか、常に聖書、み言葉に立ち返って、メシア、キリストなるお方を信仰することから、私たちを離さないでください。激動する現代の中に置かれていますが、み言葉と共に歩むことを得させてください。今年も待降節を迎えました。あなたとみ子の良き証し人として、家族や友人たちを励まし、助けることができますように。この教会暦の一年の始めという節目にあたって、キリストによって祈ります。アーメン。

スポンサーサイト
2008/11/30(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「終りの日における報い」(マタイ25:31-46)
マタイ25:31-46、2008・11・23、聖霊降臨後最終主日(典礼色―緑―)
エゼキエル書34:11-16、23―24、テサロニケの信徒への手紙一5:1-11

マタイによる福音書25:31~46
 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いていたときに飲ませず、旅をしていたときに、宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられるのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」



説教「終わりの日における報い」(マタイ25:31~46)

いよいよ、本日でもって、聖霊降臨後最終主日を迎えました。私たちは、この教会暦の一年間、三年サイクルのA年としてマタイ福音書を中心としながら歩んできました。マタイ福音書は、整えられた文体で書かれており、主の祈りなども、私たちは、マタイのほうを選んで唱えています。まさしく、教会に向け、信者に向けて書かれているのがマタイ福音書だと思います。そして、この一年間、何とか無事に教会の働きがなされていたことを感謝したいと思います。
  さて、教会暦の最後に与えられているのは、終末の日において予想され、主によって約束されている本日の個所、マタイ25:31-46であります。私たちは、主によって、良い木からは、良い実が自然ともたらされる。キリストにつながっていれば、おのずと良い働きの実が生まれると教えられていますが、現実の信仰生活を振り返りますと、思い通りにはなかなかいかないのが、率直なところであります。
しかし、私たちは決して絶望することなく、み言葉に立ち返り、教会につながって生きたいと願うものです。私たちは、終わりの日に、裁きの日にどのようになるのか。それについて、本日の個所で主は、私たちが地上で行った小さな慈善のふるまいであっても、それは、必ず報われるということを約束されているのであります。「報い」という言葉は、仏教ではよい意味でもよくない意味でも用いられますが、キリスト教ではどちらかといえばよい意味で用いられています。しかし、本日の個所では両方の意味で考えられています。
さて、本日の記事について、今一度思い起こしてみましょう。終わりの日に、人の子がその天使たちと共にやって来るとき、彼は、その栄光の座につくであろうと主は言われます。これは、ダニエル書7章に出てくる終末の預言の成就であります。人の子のような者が現われ、天使たちを伴い、終わりのときに、日のような老いたる者すなわち、神の前に来てあらゆる王権、栄光等を受けるというようなことが記されています。主イエスはそのような方として終わりの時に、再臨されるのであります。
そして、羊飼いが羊と山羊を夜により分けるようにすべての民、全人類をより分け、羊たちを自分の右に、山羊たちを自分の左に置くのであります。もちろん、羊のほうが、価値が高く、人の子によって正しい者とされた者たちを示しています。そして、人類の王であられるイエスは、まず右に置かれた者たちに言われるのであります。さあ、あなた方は、この世界の始めから備えられていた王国を領有しなさいと。なぜなら、私が飢えていたとき、私に食べさせ、あるいは、牢にいたときやって来てくれたからなどなどと。右に置かれた者たち、正しい者たちは言います。主よ、私はいつあなたを飢えたとき食べさせたり、牢にいたとき訪ねたりしたでしょうか。それに対して、王、ユダヤ人たちのみならず、この世界の全人類の王は言います、これらの私の兄弟の取るに足りない一人にしてくれたのは、私にしてくれたことなのだと。
また、左の者たちには、この王は、同様に言われます。あなた方は悪魔とその手下に備えられている永遠の炎へと入るが良い。なぜならば、私が飢えたり渇いたり、病気だったり、よそ者だったり、牢にいたとき、私を助けてくれなかったからだと。すると、彼らも言います。主よ、いつあなたが、飢えたり牢にいたりなどなどしたときに、私はお世話しませんでしたか。王は言います。この取るに足りないものの一人にしてくれなかったのは、私にしてくれなかったのだと。そして、悪い者たちは、永遠の罰へと出て行き、正しい者たちは永遠の命へと出て行くと主は約束されています。私たちは何も偉業をなす必要はありません。普段の平凡な日常生活の中でちょっとした援助を特に苦しんでいる人たちに示せばいいのです。家庭生活の中で、身近な生活の中でこそ、本日の終りの日における報いは問われ、永遠の罰か、それとも、永遠の命へと出て行くことになるのかが問われているのであります。主は、主によって選ばれた正しい者たちである私たちが、永遠の命に与かることになることを強調し、受難前の弟子たちとの講話を終えているのであります。私たちの日常生活のささやかな振る舞いと態度が、終りの日の報いにつながるといわれているのであります。
毎日の平凡な生活の中でこそ、この二つの報いに分けられることになることを私たちは肝に銘じて、この一年間の教会暦の歩みを、感謝をもって閉じ、新しい教会暦の一年へと出発していきたいと思います。アーメン。
2008/11/23(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「終末に向かって生きる」(マタイ25:1~13)江本正幸牧師
マタイ25:1-13、2008・11・16、聖霊降臨後第27主日(典礼色―緑―)
ホセア書11:1-9、テサロニケの信徒への手紙3:7-13

マタイによる福音書25:1~13
 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壷に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時をしらないのだから。」



説教「終末に向かって生きる」(マタイ25:1~13)江本正幸牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン。

 教会には私たちが普段使っている暦―西洋暦とは違う暦があります。いわゆる教会暦といわれるものですが、それによりますと、今は一年の終りの時です。そして来週は一年の最後の主日を迎え、再来週は新年―待降節を迎えることになります。
 しばらく教会に来ておられる方なら、誰でもご存知と思いますが、キリスト教には再臨というものがあります。イエス様が再びおいでになって、私たちが真の信仰者であるか、審判される。いわゆる終末、この世の終りの時です。しかし、「終り」というのはあまり良い響きを持っていません。したがって私たちは無意識のうちにそのことを考えるのを避けようとしているのではないかと思います。
 けれども、聖書の一番初め、創世記の1章1節には、「初めに、神は天地を創造された」とあります。そして、「初め」があるからには「終り」があるはずです。主イエスさまは、「私はアルファであり、オメガである。初めであり、終りである」と何回も繰り返されました。「初め」があって、「終り」がある。私たちもそのことは理屈としては良く分かります。けれども私たちは潜在的に輪廻的な考え方を強く持っていますので、「終り」の方のことはボケてしまっている、曖昧になってしまっているという気がします。しかし、「終り」があり、主の再臨があり、最後の審判があるということは、聖書が何回も繰り返している厳然たる事実です。本日は良い機会ですので、そのことに思いを致したいと思います。
 今、教会暦のことを話しましたが、もう一つ、暦のことを話しておきたいと思います。毎日のように大きな事件が起こっていますが、その中でも大きな事件というのは今でも尾を引いている「金融危機」のことでしょう。これはユダヤ人が大量の売りを入れて、9月29日にニューヨーク株が777ドルの下げを記録しました。それが連動して30日には世界中を巡り、世界同時株安となりました。この世界同時株安というのは、今まで10年と少しの間に3回ほどあったと思います。ですから10月14日になって今度は東証株価が1171円高と史上最大の上げとなった時は、また元に戻ると期待を抱かせたものです。
 けれども欧米の見方は初めからずっと悲観的であり、公的資金の注入など実際的な対応を急ぎました。なぜでしょうか。それは私たちの知らない何かを知っていたからです。それは何か。私たちは大体、自分中心に物事を考えますから、自分たちが西洋暦を使っていると、みんながそうだと考えてしまいがちです。しかし、そうではないんです。イスラムではイスラム暦を使い、ユダヤ人はユダヤ暦を使っているんです。
 で、ユダヤ暦では9月29日は日本でいう大晦日、9月30日は正確にいうと、ユダヤ暦5769年の元旦です。一日の始まりをどこの国にするか、そしてまた、ユダヤでは夕方から一日が始まりますから、多少時間のずれが出てきますが、それがあったとしても「この新年から、俺たちユダヤ人のシナイする新しい時代が始まった」という宣言だったのです。時を選ばない今までの世界同時株安とは違っていたのです。
 777ドルの下げというのは、スロットマシーンなら大当たりなんだがなあーと思っても、あるいは「偶然だ」ということでも良いのでしょうが、ユダヤあるいはユダヤ人のことを学び始めると、じきに「何事も偶然などということはあり得ない。舞台裏を覗くと、思わぬ人が、思わぬ役を担っている」という言葉にぶつかります。7というのは聖書では特別な意味を持っています。ですから777が何を意味するか、これは一人ひとりが考えて下さるとよいでしょう。
 さて、その終りの時、主の再臨の時について、聖書には、「その日、その時は誰も知らない」と記されています。いつかは分からない。しかしある日、ある時、ノアの時のように、それは突然に必ず来るのです。「ノアの時のように」というのは、「人々が飲み食い、娶り嫁ぎなどしている時」と書いてあります。
 日本ルーテル教団には、英語を教えながら伝道する、大学を卒業して間もないくらいの若い人たちが来ていますが、この人たちが「この『飲み食い』というのは、今の日本の姿だ、そして『娶り嫁義』は今のアメリカの姿だ」と言いました。本当にテレビではグルメの番組や食べ物の番組が溢れています。世界にはまともに食事を出来ない人がたくさんいるのにです。そしてアメリカでは結婚・離婚が繰り返されています。ですからアメリカに友達がいる人は大変なのだそうです。MissなのかMrsなのか分からない。間違えると非常に失礼になる。あるいはそれでMsという言い方が出てきたのかもしれません。いずれにしても聖書が預言している状況と非常に似通ってきているわけです。
 さて、本日の福音書の物語は、その再臨の時に、備えていて天国の宴会に与ることのできた者と、十分な備えをしなかったために、その宴会に出席することのできなかった者の物語です。
 イエス様の再臨の話は24章から続いていますが、今日の箇所のすぐ前の24章45節には、「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間通り彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか」と、主人すなわちイエス様は聞かれました。「忠実で賢い僕」、それが終末に備えるクリスチャンに期待される理想像です。そのうちの一つの資格である「賢さ」についての説明が、今学ぶ「十人の乙女のたとえ」です。
 24章45節~51節では男の僕をたとえに用いたので、今度は「おとめ」を借りて説明しておられるのでしょう。ここで、「賢い」と訳されている言葉は、「分別がある、聡明である、また先の考えがある」ということです。マタイ7章の24節~27節には、「岩を土台とする家と、砂を土台とする家のたとえ」が出てきますが、そこで、「賢い人」と「愚かな人」と訳されている言葉は、ここで使われている言葉と同じです。従って賢いというのは、岩を土台として家を建てる者のことである、また愚かというのは砂を土台として家を建てる者のことである、ともいえます。
 さてこのたとえを理解するのに、ユダヤの結婚手続きを知っておく必要があります。ユダヤでは男女が結婚するのに、三段階の手続きがありました。第一は男と女の双方の両親が子らの結婚の約束を取り交わすもので、まあ強いていえば日本の婚約式に相当します。
 第二は、ユダヤの婚約式です。これは結婚の前約束ではなくて、「夫婦になった」契約のことです。この日から二人は法律上、正式な夫婦です。けれどもまだ同棲生活には入れません。ついでですが、降誕物語のマリヤとヨセフはこの関係にありました。
 実際の同棲生活はちょうど一年後に始まります。これが第三の段階です。二人がいよいよスウィート・ホームを築くということで、盛大な宴会が催される。旧約聖書には「7日の振る舞い」という言葉がでてきます。このマタイ25章はこの宴会の場面です。
 普通は花婿が花嫁を迎えに来て、花婿の家で宴会をする。従って10人のおとめたちは、花嫁の家に迎えにくる花婿を待ち受ける女たちであると考えられます。けれどもいくら身支度が遅れたからといっても、花婿が夜中に花嫁を迎えに来るとは思えませんし、また花婿が戸の内に入ると婚宴が始まっています。ですからこの10人のおとめは、花嫁の玄関で、花嫁の代理として、花婿を迎えようとしていた、「花嫁の友」のことであると考えるのが最も自然です。
 10人というのは、そういう習慣であったのか、たまたまその時10人であったのか、よく分かりません。10というのは聖書では聖なる数というので選ばれたのかもしれません。2節に「五人は愚かで、五人は賢かった」と言われていますが、これもクリスチャンの半数が天国に入れられて、半数が天国から締め出されるということではありません。これは人数を教えるための数字ではなく、すべてのクリスチャンが天国に入れるか、出されるかの可能性を五分五分に持つ者として、一人ひとり緊張して自己吟味するように、という意味で選ばれている比率でしょう。
 では次にこの五人の女の「賢さ」はどこにあったのでしょうか。イエスさまはたとえの終り、13節に「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」と言われています。「目を覚ましていなさい」。これを文字通り、賢いということだと考えると、このたとえはすっかり訳が分からなくなります。というのは5節によれば、10人が10人とも、「皆眠気がさして眠り込んでしまった」からです。無理もありません。どう見ても、花婿が来るのが遅すぎて、「真夜中」になってしまったからです。ですから寝てしまった事自体は非難されていません。ここではおそらく花婿の到着が予想以上に遅かったことを強調して、突然出迎えの支度をしなければならなかった驚きを力説するための技巧です。10節を見てみると、賢いおとめは「用意のできている」と言い換えられています。ですから、「賢い」というのは、たとえ一時は居眠りするにしても、よそ事に心奪われることがあるにせよ、とにかく「花婿だ、迎えに出なさい」という叫びが聞こえた時に、出迎えられる、「用意のできている」賢さのことです。
 ではその「用意」はどういう点にあったのでしょうか。3節、4節を見てみますと、皆が「ともし火」を持っていました。しかし賢い乙女たちは壷に油を入れて持っていたというのです。5人の賢さは花婿が何時来るか分からないので、別の壷に油を用意したほど、花婿の来る時に対して慎重な備えをとっていたということです。「この慎重な備え」ということ、自分自身はどうであろうかと真剣に吟味してみなくてはなりません。その時になったら、なんとかなるさと安易に考えてはなりません。その時になってもどうにもならないことがあります。事実、この物語ではどうにもなりませんでした。夜中に買いにでても開いている店など、ある訳がないのです。「しまった」と気づいたときには遅かったのです。
 ところで、この油や明かりは何を意味しているのでしょうか。聖書では油というとき、多くの場合、聖霊を意味します。私たちキリスト者というのは、この聖霊が私たちのうちに働いていることによって、キリスト者であるわけです。したがって聖霊の油にあらゆる信仰生活の芯を浸している人だけが、まことに生命力ある信仰生活を行えると共に、いつまでも色あせぬ信仰生活を保ちうるのです。
 パウロはⅠテサ5章19節(p.379)で、「“霊”の火を消してはいけません」と警告しています。ここでは聖霊の油によって照らされる「あかり」を聖霊そのものに見立てています。御霊の炎を消す者は、実力を発揮できないし、長続きもしません。聖霊の油の切れた人は形式的に、形の上だけ信仰を守ることができるでしょうが、最後の時にはそれは何の役にもたたないのです。
 最後にこのおとめたちの会話から学んで見ましょう。愚かな女はともし火の油がなくなりつつあるのを見て、他の5人の女に油を求めますと賢いおとめの返事はこうでした。9節「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買ってきなさい」。愚かな5人の女にも、そのことがはっきり分かりました。したがって、「意地悪」とは怒らないで、早速買いに走ります。けれども夜中に店など開いているはずもなく、彼女たちは締め出されるほかありませんでした。
 5人の愚かさは、「あなたがたの油を私たちに分けてください」と頼んだ点にあります。聖霊は信者から信者へとおいそれと分け与えられるものではありません。使徒言行録8章にペトロたちが奇跡をするのを見て、魔術師シモンは金を持ってきて、19節「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください」と言った記事があります。けれどもペトロは魔術師シモンに申しました。20節「神の賜物を金で手に入れられると思っている」のか(口語訳)。神の賜物はお金では買えないのです。兄弟姉妹の間で取り引きすることもできません。直接、神さまのみ言葉に従い、神さまに祈り求めることによってだけ、恵み与えられるものです。神さまはそれぞれに聖霊の賜物を量りに従って、分け与えておられます。ということは言い換えれば、その人自身になくてはならぬもので、余りは無いということにほかなりません。聖霊の油は信者一人一人が、各自神さまからいただいて、蓄えておかねばならないものです。クリスチャンの信仰はこの点になると、徹底的に個人的であります。主を迎える備えにおいては、一人一人が自分自身に、信仰を確かめていなければなりません。
 ヨハネの黙示録3章11節(p.456)に、「わたしは、すぐに来る。あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守りなさい」とあります。わたしたちはこのためにこそつとめるべきです。現在、社会にも教会にも色々な問題があると思います。それぞれの問題は私たちが協力して真剣に取り組んでいかねばならないものです。けれどもそのやり方や考え方はどうでしょうか。ムダをし、遠回りをし、あるいはつまらないことを繰り返すということがありはしないでしょうか。イエスさま、今はちょっと都合が悪いんですということがないでしょうか。そして、それはとりもなおさず、主イエス様はまだまだお出でにならないという油断があるからでしょう。イエス様が明日にでも来られるというのであれば、私たちはそれこそ、最も大切な最も主に喜ばれることをするのではないでしょうか。
 聖書は告げています。「わたしはすぐに来る」。わたしたちはそのことを決して忘れてはなりません。私たちはそのことを覚え、それがいつであっても良いように、準備する。いつも最も大切な物を追い求めて行く。私たちの生活は日々そのようでなければならないと思うのです。
 「わたしはすぐに来る。だからあなたの冠が誰にも奪われないように、自分の物を固く保っていなさい」。そのために、「思慮深くありなさい」、そして「いつも目を覚ましていなさい」。
 どうか私たちがそういう者とされて、日々を送っていくことができますように。この新しい一週、特にそのことを覚えて過ごすことができますように。

 どうか、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。
 
祈り
天の父なる神さま。
この礼拝の時をありがとうございます。
様々な問題を含みつつ、そしてまた愚かさを繰り返す私たちに
あなたさまは今日も福音の言葉を与えてくださいます。
弱く、愚かで罪深い私たちをお見捨てにならず、あなたさまは
私たちの主として、私たちを統べ治めてくださいます。
そのことを覚えて心より、感謝いたします。
私たちの現状は暗くても、あなたさまは輝く、朝の光として
私たちを招いておられます。
そして、あなたさまに向かって生きること、主の大いなる日に
向かって生きること、そこに私たちが真のキリスト者として、
生きて行く生活があることをお教えになられます。
どうか、私たちがそのことを覚え、それに向かって、力一杯
生きて行くことができますように。一人ひとりを邪悪や誤りや
生ぬるさからお救い下さい。
そして一人ひとりを守り支え、力と勇気とをお与え下さいますよう
お助けください。
この津田沼教会がこの地にあって、地の塩、世の光としての務めを
十分果たして行くことができますうよう、強め導いて下さい。
また交わりの輪が深められ、広められて、互いに手を取り合い
助け合いつつ、進んで行くことを得させて下さい。

どうぞこの一週も私たち一人ひとりといつも共にいて下さいまして
その歩みを守り、支え、祝福して下さいますように。
これらの感謝、願い、主イエス・キリストのみ名によって祈ります。
                        アーメン。
2008/11/16(日) 10:30:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「いかに生きるべきか」(マタイ22:34~40)
マタイ22:34-40、2008・11・09、聖霊降臨後第26主日(典礼色―緑―)
申命記26:16-19、テサロニケの信徒への手紙一1:1-10

マタイによる福音書22:34~40
 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」



説教「いかに生きるべきか」(マタイ22:34~40)
 
私は、本日の説教題を「いかに生きるべきか」とつけておきました。私は、主イエスに出会い、洗礼をうけるまでは、求道生活を数年しながら、教会には通っていましたが、主イエスこそが、そしてその父なる神こそが、唯一の正しく「いかに生きるべきか」を教えてくれる方だとは分かっていませんでした。
 キャンパスクルセードという学生向けの伝道をしている集会に、英会話も学べるということで、大学生の頃、通いましたが、あるとき、何があなたにとって一番大切なものかと問われたときに、私は「真理」だと答えましたが、スタッフのある宣教師は、「イエス・キリスト」だと言われました。その頃の私には、何も、それはイエス・キリストに限る必要はないではないかと疑問に思ったことを憶えています。私は、大学に学問をし、また、将来の職業なども頭にあって夢見ながら入ったこともさることながら、何よりも自由と真理を求めて、動きまわっていました。
しかし、疾風怒涛の時代と青春時代が言われますように、心の中には、永続する平安はなく、これこそ真理だと思ったものが、しばらくすると、すぐにそうでなくなって、挫折してしまうことの繰り返しでした。しかし、いろいろな経過を辿って、教会の人たちからも導かれながら、27歳で洗礼を受けたのです。
 今は、どうでしょうか。今も、心と思いと行いとによって、主のみ前に罪を犯す毎週の繰り返しであります。しかし、主イエスが、そのような私を赦すために、2000年前に十字架にかかられたことを知らされ、主の十字架と復活の他には、人間には救いがないことを知っています。
 先週は、アメリカの大統領選挙があり、オバマ氏が初の黒人として次期大統領に選ばれました。彼はどのような大統領になるのでしょうか。私たちは、世界の政治が少しでもよくなり、世界を、あるいは日本をリードする指導者たちのために祈らなければなりません。
 当日の新聞を読んでいて、彼の言行録のなかに、アメリカでは、現在、宗教の中に、教会へと逃避して、なだれこむ人々が増えているというような誤解を招きそうな言葉も言っているのがちょっと気になりました。
ところで、日本の政治家にも、土肥隆一という衆議院議員でかつ日本基督教団の牧師である人がいます。あるとき、私がつながっている修養会で彼の講演を聞いたのですが、彼は、宗教と政治が良くなることこそが今の日本で一番大切なことだと言っていました。
さて、本日の福音は、サドカイ派が復活論争で主によって沈黙させられたことを聞いて、同じく主の敵対者であったファリサイ派の人々が一つの場所に集まり、そのうちの一人、律法の専門家が、主を試すために質問したことから、始まっています。「先生、律法のうちで一番大きい命令はどれですか」と。旧約聖書の教えをトーラーと言いますが、そのころの考え方としては色々あったようです。主が失言することを、律法の専門家はねらったのでしょう。彼に対して主は、「『あなたは、主なる神をあなたのすべての心において、あなたのすべての精神・魂において、また、あなたのすべての思いにおいて愛さなければならない・愛するであろう』(申命記6:5)これが、最も大きく、また第一の命令である」と言われ、「第二もそれと同様である。すなわち、『あなたは、あなた自身のようにあなたの隣人を愛しなさい・愛するであろう』」というレビ記19:18を結びつけたのであります。そして、この二つに律法がかかっているし、預言者たちもかかっている、全旧約聖書がかかっていると結ばれたのであります。神を愛するという言い方は聖書では比較的稀な言葉であります。なぜならば、神が私たちを先に、み子の十字架を通して愛してくださったからであります。また、主の言われる「あなたの隣人を愛せよ」というのには、敵も含めてあらゆる人々が考えられています。
「神を愛し、人を愛する」ということは、マタイ5-7章の山上の説教の要約でもあり、また、モーセを通してシナイ山で与えられた十戒の要約でもあります。それが一番大切な聖書、イエスの時代の人々にとっては旧約聖書のエッセンスであり、人が「いかに生きるべきか」の答えだったのであります。それは、すべての隣人に愛着を持てというような表面的なことでは決してなく、私たちが接するあらゆる隣人に関わりを持ち、その必要に応えていくことであります。そして、これを語られた主がやがて、十字架の死と復活を通して、先に私たち一人ひとりを愛してくださったことに応えて、私たちは主なる神のご意志に忠実に従っていくことが求められているのであります。
祈りましょう。
 天の父なる神さま。
 私どもは、日ごとに、また、週ごとに、み前に、心と思いと行いによって罪を犯し、また、なすべきことを怠って、主日を迎えることが多くあります。それを、懺悔し、よき行い、すなわち、あなたを愛し、すべての人を愛する道をあなたはみ子を通して教えてくださいました。一年の教会暦の終わりへと近づいていますが、どうか、私たちの目を開き、心を開いて、あなたのみ旨に適った生活が出来るように、あなたのみ言葉を聞かせてください。私たちは、なかなか人をそのままに受け入れ、愛することが出来ませんが、あなたが先に、私たちを無条件で愛し、赦してくださいました。どうか、あなたの命令につき従い、既に救われた者として、全人格を傾けてみ心に適った生き方をなさせてください。世界の指導者たち、政治家や教師や役所で働く人々をはじめ、すべての人々が毎日み心に適った働き、行き方が出来るように導いてください。キリストによって祈ります。アーメン。
2008/11/09(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「天の国における慰め」(マタイ5:1~12)
マタイ5:1-12、2008・11・02、全聖徒主日(典礼色―白―聖餐式あり)
イザヤ書26:1-13、黙示録21:22-27

マタイによる福音書5:1~12
 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄ってきた。そこで、イエスは口を開き、教えられた。

 「心の貧しい人々は、幸いである、
   天の国はその人たちのものである。
  悲しむ人々は、幸いである、
   その人たちは慰められる。
  柔和な人々は、幸いである、
   その人たちは地を受け継ぐ。
  義に飢え渇く人々は、幸いである、
   その人たちは満たされる。
  憐れみ深い人々は、幸いである、
   その人たちは憐れみを受ける。
  心の清い人々は、幸いである、
   その人たちは神を見る。
  平和を実現する人々は、幸いである、
   その人たちは神の子と呼ばれる。
  義のために迫害される人々は、幸いである、
   天の国はその人たちのものである。
  わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」



説教「天の国における慰め」(マタイ5:1~12)

 本日は、全聖徒主日を迎えています。先週は、宗教改革主日でありましたが、宗教改革記念日は、全聖徒の日、すなわち、11月1日の前日に、マルチン・ルターが全聖徒の日の前日、すなわち、1517年の10月31日に、小さな町ヴィッテンベルクの城教会の入り口の扉に95か条の提題を掲げたということから守られるようになった礼拝であります。
本日の福音として、マタイ福音書5:1-12が与えられています。それは、なぜでありましょうか。そのことを、しばらく、皆さんとご一緒に考えてみたいと思います。本日の記事は、すぐ前の個所(マタイ4:23-25)を見ますと、ガリラヤの周りから、大勢の群衆が押し寄せて来て、その中の多くの病人を癒した後に、主は、群衆を顧みられながら、彼らを後にして、「山へと」お登りになられます。山は壮厳な場所であります。私も、田舎が四国ですが、今では足が弱ってままなりませんが、若いときは帰省のおりにはすぐ裏山の1000メートルほどもある山へよく登ったものであります。「山」に登ると厳粛な気持ちに満たされます。聖書の中で「山」といえば、シナイ山にモーセが1人で登っていって、十戒などの律法を神から与えられたことが思い起こされます。
さて、主がお座りになると、「弟子たち」が近づいてきます。まだ、マタイ福音書においては、12使徒の選出は出ていないのですが、ここで、初めて「弟子たち」という言葉が出てきます。これは、4人の漁師たちを中心に、主イエスについて一緒にやって来た心ある人々、すなわち、広い意味での弟子たちであったと思います。
そして、主は口を開いて語り始められたのであります。本日の主の言葉、マタイ福音書の5:3から12までは、8福などと呼ばれます。しかし、「幸い」、あるいは「祝福」とも訳せますが、この言葉は、9回出てくるのであります。これは、マタイが3つずつ組み合わせる表現を好んだためであるかもしれません。
同じような幸いについての文章がルカ福音書にも出てきます(ルカ6:20-23)。ルカのその個所では、四つの「幸い」になっています。どちらが、オリジナルあるいはオリジナルに近いかはよく分かりません。マタイでは、まず、「心の貧しい人は幸いである。天の国は彼らのものであるから」と始まっています。そして、この8福、あるいは、9福とは、この「心の貧しい人々は幸いだ、天の国はその人たちのものである」と言われたものを、広げていったようなものであります。もとのギリシャ語の文を見ますと、いずれも「マカリオイ ホイ・・・」となっており、祝福されているのは、以下の人々だよという表現が続いています。そして、「貧しい人」「柔和な人」「悲しんでいる人」という言葉も同じ発音で始まっており、実に美しくリズムカルな、憶えやすい文章になっています。
ルカ福音書のほうは、ただ「貧しい人は幸いだ、神の国はあなた方のものである」となっている点が違っています。昔、神学校に行くよりも前にもう25年くらいも前になりますが、私は洗礼を受けた後数年教会学校の先生をさせていただいていましたが、ある時、教会学校の合同キャンプがあって、神戸や他の教会からも、小さな子供たちが集まり、能勢キャンプ場というところに行ったことがあります。それは初めての経験でしたが、「種まきの譬え話」主題のキャンプであり、学年ごとでしたが、私も低学年のグループを担当していました。そして、劇なども終わって、帰るとき近づいた前日でしたか、記念に木のかけらの板に、好きな聖書の言葉を書くことになりましたが、子供たちは、どうしても「心の貧しい人は幸いだ、天国は彼らのものである」というほうを書きたいというのです。小学校低学年で、2、3年生くらいだったでしょうか。私は「貧しい人たちは幸いである。神の国はあなた方のものである」というほうを薦めたのですが、彼らはただの「貧しい人たちは幸いだ」というほうのではだめである、どうしても「心の貧しい人々は幸いである。天国は彼らのものである」というのにしたいと言い張ったことを憶えています。
子供たちは、本能的に、マタイのほうを好み、選んだのであり、マタイが、「心の貧しい人々は幸いだ」としたのは、まことに、ふさわしいことであったのです。原文を見るとこれは、「霊でもって物乞いする者たちは祝福されているよ」、というようなニュアンスで書かれています。経済的に貧しい人が幸いから、外されているわけではありません。彼らも神により近い人々でありましょう。しかし私たちの「霊でもって」、神に信頼して救いを求める以外にはない人々、神の言葉、聖書により頼む以外には生きていけない人々こそ、神は祝福なさると、主イエスは言われるのであります。
 私は、兄弟5人で育ちましたが、兄や妹たちにくらべて、社交的でなく、能力も人格も、自分は劣ると感じさせられていました。小学校の5、6年くらいであったでしょうか。夕方、風邪をひいてたか何かであったでしょう。私は布団に一人早々ともぐりこんでいたのであります。すると父母たちが話をしていて、兄は優れていると語っているのが聞こえてきました。私は、自分が劣っていることを非常に感じさせられ、何ともいえぬ孤独を味わったことがありました。さて、それから、長い青春時代を経て、ついに、百万遍近くにあったルーテル京都教会に行くようになりました。いろんな辛いことや、病気や、困難に出会って、その中で、キリスト教に落ち着き、27歳の時、今はもう亡くなられましたが、二人の姉妹と一緒に洗礼を受けたのであります。そして32歳になって、神学校に行き、当時のルーテル神学大学の3年に編入されて、6年間もかかって、按手を受け、牧師にまでなったのであります。その間も決して順調にいったとは言えません。
洗礼を受け、牧師になったからといって、昔の私がまったく変わったということはありません。津田沼教会に来て、ある時のこと、京都教会で宣教師をしていた先生の息子さん夫婦が訪ねてきてくれたことがありました。その宣教師さんは、確か七人の子供さんに恵まれていましたが、その末っ子の息子さんが、夫婦で会いに来てくれました。彼が、京都教会時代から、20年ぶりくらいに会ったのですが、私と会って言うことには、「渡辺先生は京都時代とまったく変わってないね」というふうに感想を漏らしました。ほめられているのか、くさされているのかは分かりませんでしたけれども、昔のままで牧師をしていると感じたのでしょう。
しかし、私は、「霊でもって、神にすがらざるを得ない貧しい者」であることを、今では幸いであると思っています。本日は、最初に言いましたように、全聖徒主日、マルチン・ルターが、全聖徒の日の前日の10月31日に95か条の提題を掲げ、宗教改革が始まったのですが、それも、本日の福音が読まれる日であったことは意味深いことだと思います。彼もまた、死を前にして、「私は神の前にみ言葉を毎日の糧として求めずには生きていけない、み言葉の乞食である」と言いました。主は、悲しんでいる者たち、義、正しい行いに飢え、渇いている人たち、柔和な人たち、平和を作り出す者たちは幸いだ、また、私のためにののしられ、迫害され、うそを言われながらあらゆる悪口を言われているあなた方は、幸いだ。あなた方の前の預言者たちにも同じように人々はしたのであると慰め、励まされました。神の言葉に立ち、それを証しする弟子たちは、いつの時代でも、昔のイザヤやエレミヤほどではないにしろ、いずれも、迫害を受け、殺されたりしているのであります。
 本日、思い起こすために、生前の方々の遺影が飾られています。この人たちも、みんなそれぞれに、誤解を受け、迫害を受け、悩みと困難を乗り越えて、天の国の祝宴に与っている方々であります。そして、み言葉の前に集まっている私たちすべても、聖徒であります。私たちのこの世の命は、昔の詩人も歌っているように、「70歳か、80歳」くらいものであります。歴史の中であっという間に、いつ消えるとも知れないはかないものであります。しかし、私たちは自分の罪深さを思い知らされ、主イエスのお言葉にのみ全信頼を寄せて、聖徒とされたのであります。聖徒とは、徳のある人とか、聖人といった意味ではありません。神なしには、救いはないことを知らされたすべての人であります。
 今日私たちは、聖餐に与ります。これは、終末の日における主のもとでの祝宴の先取りであります。私たちは、聖餐式に与るごとに、み国で休んでおられる方々と共に与るのであります。皆さんの上に手の祝福が豊かにありますように。アーメン。



2008/11/02(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。