津田沼教会 牧師のメッセージ
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「キリスト者の自由」(ヨハネ8:31~36)
ヨハネ8:31-36、2008・10・26、宗教改革主日礼拝(典礼色―赤―聖餐式)
エレミヤ書31:31-34、ローマの信徒への手紙3:19-28

ヨハネによる福音書8:31~36
 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」

説教「キリスト者の自由」(ヨハネ8:31~36)
本日は宗教改革主日の礼拝であります。マルチン・ルターがいたヴィッテンブルクの町には今でも町教会と城教会がその時代そのままと言っていい状態で残っており、教会として用いられています。そのうちの城教会の扉に、1517年、ルターが34歳位のときに、全聖徒の日すなわち、11月1日の礼拝のその前日10月31日に95か条の提題、当時、聖ペトロ大聖堂の修復などのために、ローマ・カトリック教会が贖宥券いわゆる免罪符を売って資金にしていたのなどに、反対して、それを問題提起したのでありますが、これが思わぬ反響を捲き起こします。しかし、ルター自身は、当初はローマ教会から離れるつもりは毛頭なかったのですが、やがて、破門され、帝国アハト刑という身分保障外という制裁を受けます。そしていつ誰によって殺されるか分からない生活となったのであります。しかしここから、新しく抗議する教会すなわち、プロテスタント教会を起こさざるをえない事態になっていったのであります。それは、宗教のみならず社会改革ともなる大きな改革の運動になりましたが、その中心人物マルチン・ルターは、聖書研究、特に晩年は旧約聖書を教える聖書教授として、もちろん、牧師でもありますが生涯を全うしたのであります。  
すなわち、彼は1483年生まれですから、1546年までの63歳くらいの生涯を、その時から、当時のザクセン選帝侯や諸侯に守られて過ごしたのであります。
本日の説教の題を「キリスト者の自由」とつけておきました。それは、ルターの最も有名な書物の一つの著書名でもあります。それは、最初の部分でラテン語版の翻訳では以下のようになっています。
「キリスト者は、あらゆるものの、最も自由な主であって、何ものにも隷属しない。」
「キリスト者は、あらゆるものの、最も義務を負うている僕であって、すべてのものに隷属している。」
さて、本日の福音は、ヨハネ8:31~36であります。これらの言葉は、当時のヨハネの教会の状況を反映して記されています。多くのもともとはユダヤ人でそこからキリスト者になった人々がヨハネの教会にはいたようです。
その時代、紀元後90年代から100年頃であろうと考えられますが、一方ではユダヤ教からの迫害もあり、他方ではローマ帝国からの迫害もあり、さらには、グノーシス主義という異端が幅をきかし、人間の体・肉体を汚れているものとして、これを知識(グノーシス)によって解脱し、この世から距離を置くという宗教もはびこっていました。
そういう中で、本日の福音の主イエスの言葉は記されているのであります。「私の言葉にとどまるならば、あなた方は私の弟子である」と主は言われます。すぐ前の8:30で分かりますように、主のしるしを見て表向きには信じた多くのユダヤ人がいました。そして主は、「真理はあなた方を自由にする」と言われます。
この真理とは、誤解されることも多いのですが、いわゆる学問の追求や特に自然科学の追求によって得られる客観的な真理を意味するものではありません。そうではなくて、主イエスが天の父のもとから遣わされ、父の言葉を守り、私たちに伝えてくださったところの真実であります。すなわち、父のみ心を主イエスは私たちに伝えており、それに従順であるならば、死と闇との罪から解き放たれ、命と光を見出し、真に自由なものとして生きることができるというものです。
すべての罪を行う者、すなわち、人間と神の義からはなれて生きる者は、罪の奴隷であると主はいわれます。父の意志を語る主イエスの言葉にとどまり、それを守るならば、私たちを罪から解き放たれるという主イエス自身によってもたらされる真実を受け入れるかどうかであります。
当時の「ユダヤ人たち」特にファリサイ派は、自分たちがアブラハムの子孫であることを誇り、自己満足に陥り、主イエスと対面しながらも、そこからかたくなに離れませんでした。主イエスは、「神の独り子であり、息子である私が永遠にあなた方を自由にするのであり、奴隷は、その家に永遠にはとどまれないのである」と言われました。
マルチン・ルターに戻って言いますならば、「奴隷的意志について」という著作のなかで、私たちは、神の奴隷になるか、悪魔の奴隷になるか、そのいずれかであって、中立はありえないといいます。それに対して、「愚神礼賛」などでよく知られていたエラスムスは、人間には神の似姿が損なわれて入るが、少しは残っており、救いに向かってある程度は自由であるといいました。そういう意味での自由意志が人間にはある程度残っていると反論するのであります。しかし、ルターはあくまでも、堕罪以降の人間には神を信じて、すべてをゆだねきる以外には救いの可能性はないと主張しました。私たちもそう信じます。
宗教改革主日に当たって、改めて聖書を心から信じ、父と子なる主イエスの十字架と復活に信頼して、信仰生活も社会生活も歩んでまいりたいものであります。アーメン。

望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださるように。

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2008/10/26(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「福音に打たれる」(マタイ21:33~44)内海望牧師
マタイ21:33-44、2008・10・19、聖霊降臨後第23主日(典礼色―緑―)
イザヤ書5:1-7、フィリピの信徒への手紙2:12-18

マタイ21:33~44
 「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋ただきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。
 『家を建てる者の捨てた石、
  これが隅の親石となった。
  これは、主がなさったことで、
  わたしたちの目には不思議に見える。』
 だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」



説教「福音に打たれる」(マタイ21:33~44節)内海望牧師
 今日のイザヤ書の日課を読むと、神さまが、雨の日も、嵐の時も汗水流して葡萄を丹精こめて育てる状況が書かれています。4節では、神さまが「私が葡萄畑のためになすべきことで、何かしなかったことがあるというのか。」とまでおっしゃっています。すべての手段を尽くして、愛する葡萄畑の世話をしたとおっしゃるのです。これは、私たち人間に対して神さまが注いで下さった愛情の深さを表わす言葉と言えましょう。聖書には、ときに感情的すぎると思われるほど、神さまの愛についての表現がちりばめられています。しかし、酸っぱい葡萄しか出来ませんでした。人間は神さまの期待を裏切ったのです。
 ここには、長い歴史を通して、預言者たちを遣わし、「私はだれの死をも喜ばない。立ち返って生きよ」と繰り返し、心を尽くして人間に呼びかけ続けた神さまの深いため息が聞こえてくるような箇所です。裏切られた愛情の痛みが伝わってくる文章です。
 今日の福音書のたとえにあるように、人々は預言者たちを袋叩きにしたり、殺したりするだけで、決して悔い改めて神さまの許に立ち帰ろうとはしませんでした。それが旧約聖書の歴史といってもよいほどです。
 しかし、人間の暴虐はとどまることを知りません。神さまが「自分の息子なら敬ってくれるだろう」と言って独り子イエスさまを地上に送った時、農夫たちは「これは、跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。」と言ってイエスさまを葡萄園の外に放り出して殺してしまったのです。
 この記事は、エルサレム城外のゴルゴタの丘で十字架につけられたイエスさまのことを指しているのです。ここに神様の痛みは絶頂に達するのです。独り子を殺された者の痛みです。
 しかも、「相続財産を奪う」ということは、まさに世界を神さまから奪い取って、自分たちの物とするということです。人が神さまにとって代わるという意味です。
 確かに、現代の人間の姿を見ていると、傲慢の極致にあるように思われます。まさに人間が神となり、神さまが創造された自然を尊ばず、思うがままに利用し荒廃させ、生態系をこわし、核兵器で強さを競い、聖なる戦いと称して、何千万の無辜の市民を殺戮しています。
 「人間を万物の尺度」と考えて生きているとしか見えません。
 ここで立ち止まって考えてみましょう。
 実際は、人間が神さまの独り子を十字架につけて殺した時、物語は終わったはずです。そのような人間は生き続けるべきではないのです。因果応報、罪を犯した者は滅ぼされる、という結果ですべて終わるのが当然なのです。私たちにもよく分かる考え方です。
 ところが、まさにここから驚くべき複因果始まったのです。イエスさまは自ら呪いの木である十字架に死ぬことによって、私たちの呪いを引き受け、私たちに復活の命を与え、祝福を回復して下さったのです。物語は、神さまの怒りの報復というもっとも分かりやすい図式で終わりませんでした。神さまの愛は、人間の想像をはるかに越えた豊かなものであったのです。このようにして、神の国は罪人に与えられたのです。(他の民族に与えられたということは罪人に与えられたと考えられます。)死すべき罪人が救われたのです。
 イエスさまは新しいイスラエルの土台、まさに「隅の親石」となられたのです。これは、衝撃的な出来事でした。だから、自分たちは正しく、救われるべきだ、罪人は罰せられるべきだと考えていたファリサイ派の人々は怒り狂ったのです。その意味では、徴税人、罪人と食事を共にし、その罪を赦すイエスさまに詰め寄るファリサイ派の人々は理屈に合っているのです。
 何度も繰り返し語っていますが、私たちは、死すべき罪人です。これは疑いもない事実です、私たちのうち誰が神さまの前で正しいと言えるでしょうか。
 私たちは、イエスさまの十字架の死をもっともっと真剣に考えなければならないのではないでしょうか。
 私たちの罪を贖うためには、神さまの独り子の死という代価が必要であったのです。それほど、私たちの罪は深刻なのです。
 しかし、イエスさまは罪に死んだ私たちを御自分の死によって復活させて下さったのです。私たちは、死すべき罪人です。これは絶対に変わらない事実です。しかし、私たちはキリストの十字架の死という代価によって死から復活した私なのです。これも絶対に変わらない事実です。
 「絶対に赦されない私が、絶対に赦されている」という全く矛盾した出来事の中で、私たちは生きているのです。論理的ではありませんが、私たちは、この二つの絶対に生きているのです。この二つの絶対を成り立たせているのが、イエスさまの十字架の苦難と死、そして復活の出来事なのです。
 復活の説教が少なくなったと言われ始めてから時が経過しました。しかし、相変わらず安価な救いが語られているような気がします。「罪の赦し」のためには、イエスさまの十字架の死がどうしても必要だったのです。私たちは、「死んでよみがえる」という言葉の意味をもう一度真剣にとらえ直す必要があります。死すべき私が、イエスさまの犠牲の血によって生きることが出来るのです。
 「福音に打たれる」ということは、この事実との出会いを意味しています。罪の深い淵から、復活の命へと引き上げられた喜びと感謝のうちに生きていこうではありませんか。

 
2008/10/19(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「後にいる者が先になる」(マタイ20:1~16)
マタイ20:1-16、2008・10・12、聖霊降臨後第22主日(典礼色―緑―)
イザヤ書55:6-9、フィリピの信徒への手紙1:12-30

マタイによる福音書20:1~16
「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたちのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」



説教「後にいる者が先になる」(マタイ20:1~16)
説教前の祈り
天にいます父なる神よ。あなたは、寛大な、慈しみ深い方であられます。私たちは、もともと、神の選ばれた民イスラエルに属するものではありません。また、私たちは、つきつめれば、第11時に、すなわち夕方近い、午後の5時に神によって招かれ、そのぶどう園で働くように導き入れられた者であります。しかし、私たちの周りには、まだまだ、父の憐れみと寛大さを知らずに、又それを知らされずに、人間としての自己の力によって生きようとし、苦しみ、もがいている多くの同胞がいます。
 しかし、私たちは、同胞にあなたの愛を宣べ伝える労苦の厳しさに、ついつい、つぶやき、相手の非をあげつらい、宣教のわざを放棄してしまいそうになることがしばしばであります。
 しかし、あなたは、そんな小さな私たちをあえて、用いようとされます。どうか、一人も、広場でむなしく時を過ごし、ぶどう園での働きに与ることのない人がでませんように、私たちの小さな宣教の業を、本日の福音のみ言葉を通して強めてください。キリストによって祈ります。

 本日の福音は、先ほど、お読みしましたように、マタイ20:1-16であります。それは、マタイ19章の終わりの、「しかし、先にいる者が後になり、後にいる者が先になる」という言葉と、20章16節の、「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になるであろう」という同じ内容の言葉で、囲まれています。そして、20章の始まりは、なぜならば、天の国は以下のように譬えられるからであるとなっています。
 その内部の譬えの記事を今一度思い起こしてみましょう。ある一家の主人が朝早く、彼のぶどう園で働く者たちを雇うために、広場へと、労働市場へと出て行きます。そして、彼らとその日1デナリオンの賃金で働いてもらうことに決め、空しくしていた者たちを彼のぶどう園へと派遣します。そして、彼はまた、第3時、すなわち9時頃、第6時、すなわち12時頃、第9時、すなわち午後3時頃に、同じように広場に出かけて行って、正当な賃金を支払うとの契約をし、彼のぶどう園へと出発させます。
 そして、最後に第11時、すなわち夕方近い午後5時ころに、出かけていくと、まだ空しく立ちすくんでいる人々を見出し、彼らに、「なぜ、何もしないで立っているのか」と聞くと、彼らは、「誰も私たちを雇ってくれなかったからです」と、答えます。彼は彼らにも、支払う約束をしてぶどう園へ行くように命じます。
 そして、夕方遅くなったとき、現場監督、すなわち管理人を呼んで、終わりの者から始めて、最初の者たちの順で賃金を支払うように命じます。夕方の五時ころから1時間ほど働いた者に、1デナリオンが支払われます。そして、最初に雇われた者たちは、自分たちの番が来た時、夕方5時から働いた者よりも、もっと多く支払われるだろうと期待しました。ところが、彼らも1デナリオンしか受け取りませんでした。彼らは不平を言い、主人に、「あなたは、一日の仕事の重荷と暑さに耐えて働いた私たちを、1時間しか、働かなかった者たちと同じ扱いにした」といってつぶやいていたのであります。
 それに対して、主人はその一人に言います。「仲間よ、私はあなたをだましてはいない。あなたは、私と1デナリオンの契約を決めたではないか。自分の分を取って、出て行くがよい。私が自分のものを、自分がしたいようにすることはできないとでもいうのか。それとも、私が良い者なので、あなたの眼は濁るのか、すなわち、あなたは私の気前のよさをねたむのか」と反論したのであります。
 この主人とは、何よりも慈しみに富んでおられる神であります。旧約聖書に出てくる神であります。確かにこのお方は、正義の神でもあります。主イエスも、終わりの日にすべての人を羊と山羊のように、その行いに応じてより分けると言われており、報いがあることを約束なさっておられます。しかし、それ以上に、はるかに、父なる神は、憐れみ深い神であります。「善人にも、悪人にも、雨を降らせ、太陽を昇らせる方」(マタイ5:45)であります。
 そして、私たちは、いずれも、突き詰めれば、夕方の5時になって、そのぶどう園で働くように招かれた労働者のような者であります。そして、しかしなお、私たちの周りには、まだまだ、主人のぶどう園を知らず、空しく広場で、市場で立ちすくんでいる人々がいます。そして私たちは、彼らもぶどう園に行って働くことができるようにとりなすように、それを喜んでなすように、主人である神は今も招いておられます。私たちは、教会の門をくぐる新来者を心から歓迎しようではありませんか。そしてそれは、主人である父なる神が本日の譬えから窺えるように、途方もなく寛大で親切である方であることを、凝視し続ける時にのみ、できることであります。
私たちに主人から与えられる1デナリオンとは、私たちの功績によるのではなく、父なる神の一方的な恵みによって与えられる永遠の命をも意味しています。そのことを、感謝しながら、私たちは、この世界というぶどう園ですべての人々が働き、誰一人あぶれることなく、永遠の命に与ることができるように、各人の持ち場持ち場で精一杯み国の宣教に励んでまいりましょう。アーメン。
 
人知ではとうてい測り知ることができない神の平安が、キリスト・イエスにあってあなた方を守るように。
2008/10/12(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神は愛である」(マタイ18:21~35)
マタイ18:21-35、聖霊降臨後第21主日(典礼色―緑―聖餐式あり)
創世記50:15-21、ローマの信徒への手紙14:1-18

マタイによる福音書18:21~35
そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」




説教「神は愛である」(マタイ18:21~35)

 私たちは、本日のマタイ18章において、これまで、兄弟を躓かせないようにすること、小さな兄弟を滅ぼすことがないようにと、いった牧会的配慮が、主題とされてきました。そして今朝の18章の最後の個所18:21-35では、神の赦しと神の愛、忍耐がその譬えにおいてよく示されています。
ところで、私たちは、日々ささいなこと、取るに足りないこと、兄弟からの罪、例えば兄弟からの誤解や無視や嘲笑といったことで、悩まされる者であります。それは、兄弟、すなわち信仰の共同体の内部にのみ限らず、世の中の人間関係の中でもよく起こることでありますが、本日の個所では、先週までに引き続いて、中心は、主イエスによってもたらされた共同体のメンバーが、自分に対して罪を犯した場合に、何度赦せばよいかという問題が、ペトロによって主イエスに質問されています。ペトロは兄弟が自分に対して何度も罪を犯す場合、何回まで赦すべきなのでしょうか。7度までで十分でしょうかと質問します。すると、主は、7回までとは言わない、7の70倍まで赦しなさいと答えられたのであります。
創世記の4:24では、カインの報復が7倍なら、レメクの報復は77倍であるとレメクが報復を妻たちに誇っているのに対して、主イエスは、7の70倍まで、限りなく自分に罪を犯す兄弟を赦しなさいと言っておられます。
 しかし、これは、先週の福音でも言われていたように、兄弟を戒めることをしないということではありません。悪、兄弟の罪を見てただただ忍従せよというのではありません。
 今日の2番目の文章、譬えでは、ある王である人と悪い僕、けちな、恨みをもったしもべの譬えが出てきます。
 この専制君主は、非常に変わった王であります。おそらく、大きな州を任されていた長官か知事のような家来が、とてつもない横領を犯したのであるかもしれません。1万タラントンの借金、横領か何かをした官吏が引き出されたのであります。そして、ただちに、処刑したりするのでなく、妻も子も売り、自分も売りに出されて、残りの生涯をすべて返済にあてさせようとしたのであります。ところが、その悪党の家来、しもべは、土下座して「主よ、返済するまで、待ってください。返しますから」とひれ伏すのであります。
この王は、それを見て、はらわたが痛む思いになり、驚くべきことには、その返済を免除して、その場から行かせてくれたのであります。これは、通常では考えられない寛大さであります。
ところが、この「悪い」僕、「濁った目の」しもべは、今度は自分のしもべ仲間に会い、たったの100デナリオンの貸しがあるのを見つけて、のどをしめ、すべて返せといい、「待ってくれ、必ず返すから」という願いも拒んで、牢に入れて労役でまかなわせようとしたのであります。王の家来であり、おそらく彼らも行政官であった仲間たちは、この出来事に心を痛め、すべてを詳しく主人に伝えたのであります。すると、今度は、主人はこの悪い僕を召しだし、拷問する牢役人に引き渡して、返済まで、死ぬまで苦しめたというのであります。
私たちは、心から、兄弟の罪を赦さないなら、天の父なる神からも赦されないと、主は言われるのです。しかし、私たちは小さな子供のように、父なる神にすべてをゆだねて、低き者にならない限り、天の父のように完全な存在にはなれません(マタイ5:45)。人間の徳によって人間関係をよくするやり方では、根本的な解決にはなりません。ゆきつくところは、主イエスを十字架におつかせになってでも、人の罪を赦そうとされた父の愛によってのみ、真の心の平安と祝福に与れるのであります。アーメン。
 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。





2008/10/05(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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