津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「『魂の配慮』ということ」(マタイ18:15~20)徳善義和牧師
マタイ18:15-20、2008・09・28、聖霊降臨後第20主日(典礼色―緑―)
エゼキエル書33:7-9、ローマの信徒への手紙12:19-13:10

マタイによる福音書18:15~20

「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたし
もその中にいるのである。」



説教「『魂の配慮』ということ」(マタイ18:15~20)徳善義和先生

今からもう10年以上前になるでしょうか、まだ、私が引退をする前の、それでも神学校で教えている最後の時期にかかるころだったと思いますが、大体10数年前。私はあるとき、土曜日のルターのことについての講座で、ルターがワルトブルクのお城の中にいたときに書いた手紙、これを全部翻訳しまして、毎時間、一つか二つ、翻訳をしては、学生たちに配って、ワルトブルクの城から、もう、いろんな手紙があるんです。実におもしろい、50何通残っているんですが、全部翻訳してみたんですねえ。いいのだけを翻訳したんじゃなくて、ともかく全部するというのは、一つ意味がある。選択の余地がありませんから。選ぶと私が選んでいるんですけど、もう全部翻訳をして、ちょうどいいくらい、50いくつ、15回の講義で一回に3つくらいずつ読めばいいというのですから。
 これはワルトブルクの山の上のお城に一人かくまわれている、ルターのウィッテンブルクの町で、反対があるのに宗教改革を進めている同労の兄弟たちに書いた手紙を中心にして、いろんなことが出てくる。とてもおもしろいんです。というのはですね、たとえば、修道院で質素な生活をしていた、お城にいる、これは実際に守り城ですから、守備隊と一緒に食事をするようになる。食の変化ですね、修道院は、きっと素食でしょうが、山の守りの兵隊たちというのは、一体結構な食事を、まあ、兵隊食を食べている。便秘になるんですね、薬を何とかしてくれ、これ以上悪くなると、身の危険を冒してでも、町に出て行って、医者に診てもらわなきゃならんというようなことを書いてある文がある。
 で、博士さま、こんな山の上の城におこもりで、毎日が暇でお困りでしょう。お慰めしますから、一度狩りに行きましょう。隊長さんが、狩りに連れて行ってくれる。ほんとに、山狩りですね。で、マルチン・ルターもウサギを追ったりで、他に何を追ったか知りませんが、ウサギをつかまえるんです、1匹。で、帰って来たとき、手紙を書いてるんですね、今日は狩りに、つきあって行った、殿様たちが宮廷の音楽や踊りと宴会ですね、そして狩りにうつつを抜かすというけれども、もう私は一回でこりごりだ、一生のうちにもう二度と行くまいと思うと、犬がウサギを捕まえてきて、袋につっこむのに大変だった。こんなことは私の性に合わない、と書いたりしているのもあるのですが、まあ、大事なのはウィッテンベルクで宗教改革を進めようと思っている、まあ大体は若い人たち、牧師もいれば、牧師ではない神学者のメランヒトンのような人もいますが、そういう人たちにあてて、今何をすべきか。山の上で、今自分はどういう執筆作業をしているか、で、これをどういうふうに出版してほしいか、そういう手紙です。
 私は、わりと、平凡に、普通に、淡々と翻訳をして、そしてそれを必要に応じて、解説をして、ルターが書き進めていた著作はどういう著作だったか、というような説明をしながら進めていったんですが、ずうっと読んでいって、それまでもあったんですけど、ある日、私は、研究室で準備のために、それを読んでいてですね、ごーんと打たれたんですね。そう言えば、同労の人たちに書く手紙の中で、マルチン・ルターはいつも最後に、私のために祈ってください。私も牧師の一人ですから、神学教師をしていましたけれども、折々に兼任で40数年の間に、いくつかの教会の牧師をいたしました。大岡山教会、もう30年近くも前です、田園調布教会、20年前、武蔵野教会、10年前、それぞれ1年から2年、まあ主として日曜日だけなんですけど、そういうときに、どうしても牧師としての手紙を差し上げなければならないときがありますし、そういうときは大体、まあ特別の状況にあるわけですから、ご主人が思い病気にかかっている奥さんにお手紙を出したりですね、私はいわゆる訪問したりして牧会できませんから、もっぱらもう、日曜日にしか行かない私ができる牧会は、手紙というふうに教会の方、役員の方に申し上げていましたので、いくつも手紙を書いた。そうすると、私は、お祈りしています、主人とお二人のためにお祈りしています、ご家族の皆さんのためにお祈りしています、と書くんです。
 ですから、私はそれを書くだけでなく、心をこめて祈った、そして神さまは、そのときどきに、み心に適って、私の祈りに聞いて下さったと思っていましたけれども、しかし、そういう手紙を書いた時に、牧師を数十年続けてきてね、あなたのために祈っていますと書いても、私のために祈って下さいと書いたことがなかった。これが、ルターの手紙を読んだ時に、ぐーんと私に来たことなんですね。それまで、ほんとに淡々と訳していた。私は翻訳をする時には、通訳と同じで翻訳機械のようにずうとやっていきますから。ルター研究所でも若い先生たちが、いろいろ一緒に翻訳してくれるんですが、先生たちが半年かかるようなところを、私は、十日でやってしまうんです。そりゃ、速い、機械になりきってやるんですね。で、そういうふうにして淡々と読んでいて、それに必要なコメントをして、講義をしていたつもりが、全然違う角度で、私のために祈ってください。もう60過ぎていましたから、その時に私は思ったんですね。マルチン・ルターのこの手紙を通して、私のために神さまがくださったプレゼントだ。60歳過ぎてまもなく引退、そして、老後になって、最近は有難いことに、後期高齢者という称号までいただいて、で、そういうふうになっていく私のために、神さまは、今までお前は、あなたのために祈っていますと手紙に書いたかもしれないけれど、これからは、私のために祈ってください、と書くようになるだろう。書きなさい、素直に書きなさいと、神さまは言ってくださったような気がしてですね、がーんと打たれたんですけど、これは、打ちのめされてしまう打たれ方ではなくて、ほんとに私は改めて、牧会者とは何であるか、その一句から、マルチン・ルターの山の上の手紙のその一句から、学んだような気がしました。
 で、今日、私たちが読んでいる個所も、そういうことにつながっていると思います。で、これは、マタイの福音書に書いてあるこの言葉をずうっと読んでいって、そのもとになっている旧約聖書と比べてみるとよく分かるんですが、最初のところはあなたと一対一でよく話をせよというところは、レビ記に出てくるんです。で、レビ記に出てくるんだけれども、違うんですね。レビ記に書いてあるもののイエス・バージョン、イエスさまの言い方に変わっているんです。最初のところ、そうですね、レビ記にどう書いてあるかと言うと、心の中で兄弟を憎んではならない、同胞を素直に戒めなさい、兄弟と同胞というふうに書いてあるんですけども、まあともかく憎んではならない、素直に戒めなさいと。イエスは、少し違った言い方をしている。兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って、二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。兄弟を得る。で、次のところは、これは、申命記の19章、同じく15節なんですが、二人か三人で、一人でだめなら、二人か三人でというのは、レビ記と申命記、全然違う文脈で出てくるんですから、違って当たり前なんですけど、犯罪行為のときですね、旧約聖書の文脈でも法廷などというものはなくても、いわば、一種の裁判の係争ケースです、ですから犯罪なんです。不法な罪、犯罪を犯す人がいたら、その人に対しては、二人、三人、ちゃんと証人になるように、二人、三人でということが書いてあるんですけど、イエスさまはそう言わない。書き換えたんです、置き換えたといったらいいでしょうかね。一人で話をしても聞かなければ、二人、三人で話をして、二人、三人がきちっと証人になるように。つまり、旧約聖書、レビ記の言葉と、申命記の言葉をイエスは、イエスの弟子たちの群れに、そしてやがて、その弟子たちの群れの周りに集まってくる信仰者の群れ。ここでは、教会とこの文脈は訳していますけども、集会ですよね、集団といったほうがいいかもしれない。パウロから以後の使徒の時代になると、エクレシア、教会と訳されるエクレシアという単語を使っているんですけども、このときはまだ、集会とか集団、グループ、というような意味なんですが、そういう集会の中のあり方として、全体を話しておられる。
 それに続いた文脈は、これは、二人、三人の文脈は、どういう文脈か。今日読んだ前、半分のところでは、どっちかといえば、裁判的な文脈ですね。証人になる。しかし、この二人、三人の文脈は、教会の祈りの文脈だ、というところで、すぐれて、信仰者の共同体の出来事としてイエスが弟子たちにお話になった、ということが分かります。
 で、皆さん方は、内海望先生がここに見えているから、あの「慰めと励ましの手紙」のことを折に触れて話しに聞いていらっしゃると思いますが、そういうことも含めて、私も
ですね、改めて、私のために祈ってくださいというところから始まって、マルチン・ルターにおいて、「魂の配慮」ということはどういうことなのかなと思った。
 魂の配慮というのは、普通、我々がキリスト教用語でいうと牧会と、牧師の会、牧師が教会を牧する、羊飼いの仕事をする、そういうところで来ているんです、牧師が教会に対して、羊飼いの働きをする、というのは、これはカルヴァンから始まった考え方ですね。で、マルチン・ルターはそう考えなかった、で、私はそういう意味でいうと日本のキリスト教はこの面でですね、カルヴァンに影響を受けている、あるいはちょっとひどい言い方をすると毒されている、という一面だってありはしないかとすら思っている。
 考えてみてください。このイエスの弟子たちにお語りになった勧めの背後にはどういうことがあるだろうかと思うのですね。事柄が事柄として起こって、教会の中で問題が起こる、あるいは問題を起こした人がいたら、まず一対一、いわゆる世に言うプロシージャーというやつですね。事の筋道を立てて、筋立ててこういうふうにやっていけばいいんだ、というマニュアルではないですね、これは。
 で、マニュアルのように見えるこの教会の中でのもめごとの処理のマニュアルのように見える、このイエスさまのお言葉の背後に何があるか。いつも、我々はマタイにしても、マルコにしても福音書全体の中で読んでいかなければならない。イエスがどういう思い出いつも、弟子たちにも、弟子たちはしょっちゅうイエスさまに叱られているんですが、とりわけマタイは弟子たちを戒められるイエスさまの姿を何回にもわたって、示しているんですけど、なかなかそれでも分からない弟子たちの姿がある。私たちと同じだなというふうに思いますが、群衆に接しておられる、ついこないだも、五千人の給食、私はあの日珍しくよその教会で説教したのですが、全然違う文脈で話をしました。いつも私たちが読まない、ちょうど、しかもこの新共同訳の聖書は、ページが違っているところがあるんです、ページのこの切れ目になっている。ヘロデの誕生日の宴会の話が出て来て、ページをめくるとあの五千人の給食の話が出てくる。で、私は、その二つの話を、ヘロデの誕生日の宴会か、荒野の五千人の五つのパンと二匹の魚という、そういう食事かのね。イエスさまが招いておられるのは後者のほうです。それに対して、私たちは選択を迫られているんですよね。ヘロデの誕生日の宴会、ついにはヨハネの首までが宴会の興として供される。
 そういう宴会、を選ぶのか、宮殿の。それとも、荒野でイエスの五つのパンと二匹の魚を裂いて、感謝して分け与えてくださる、荒野の宴を選ぶのか。絶えず、その問いの前に、その荒野の宴を支配しているのは、イエスの愛と憐れみですね。イエスの深い、愛と憐れみなんです。イエスは弟子たちをきつく叱っておられる、まだ、分からないのかと、とこう言っておられるときでも、この深い、憐れみによって、叱責をしておられるわけで、ここでも、教会にもめごとがおこったとき、まあ、このごろはそういうのがあるんですね。社内でそういう規定を作っておかなければいけないんです。社内で問題がおこったとき、危機対応能力と言うんですが、それにどう対応するかという。心ある人たちはいつもそれに備えているはず、ですね。
 で、もちろん、神学校、ルーテル学院大学でも、ちゃんとそういうのは日ごろから考えてある。セクハラ委員会もありますし、まあ、その他、色々ね。委員会やら何やら作って、世の中で起こりうることは、学生が五百人もあれば、教師も数十人になれば、いろいろと起こりうる、と考えてマニュアルを作ってあるんですが、そいうマニュアルの一つがここに書いてあるんじゃない。
 この背後に、イエスの憐れみがある。で、憐れみというのは、皆さん方お聞きになって、群衆が飼う者のない羊のようであるのを御覧になって、イエスは深く憐れまれた、と書いてある個所がある。マタイにもあります、どの福音書にも出てくる。深く憐れまれた、腹を痛めた、はらわたを痛くして、群衆のことを憐れんでおられる。この憐れみの延長線上に、その上に、主の憐れみの上に、このマニュアルがある。
 そう、我々は思わなければいけない。もちろん、これは、だから、今でも、教会の中で何か事が起こったときに、そのまま実際に適用していくんですけど、しかし、主の愛と憐れみを忘れるならば、これは、単なるマニュアルになって、聖書の言葉じゃない。
 で、もちろん、会社で、社長さんがたまたまクリスチャンで、いや、聖書にだってこういうふうに書いてあるんだから、まず一対一でやって、それでだめなら、二三人連れて行ってやって、そして、次に、少し広いレベルで、それでも言うことを聞かなければ、これはしょうがないなということになるのかなあと、その話でもちろんいいんだけれども、イエスさまが教えておられることならば、主の憐れみ、神の憐れみを感じないでは、このマニュアルは受け止めることができない、ということになるだろうと思います。
 で、それは、どういうことでしょうかね。で、あの内海先生の大きな翻訳をきっかけとして、私は、また、私なりに勉強をしてみるわけですが、うん、これはおもしろそうな論文があるぞ、と思うと三鷹に行ったついでに、図書館でコピーしてくるんですね、数十ページ。この頃、困った、そういうものは、私の研究室にあるんですけども、研究室のどこにあるのか、たいてい分からなくなっていますから、図書館で借りたほうが速い。で、コピーして読んでみるわけですね。インターネット、便利ですね。アマゾン、アマゾンというのはインターネットで本屋さんで一番大きな大手と言っていいでしょう。
 日本語のでも、英語でも、ドイツ語の本でも、それぞれの国にアマゾンという会社ができていて、もうコンピューターで、インターネットで注文すると、ドイツからの本でも在庫さえしていれば、十日で、私のところに本が届きますから、大変便利。私は、本買うのやめたと宣言したのですけども、家内にもそう言って、家内もほっとした顔していましたが、また、こっそり買ってるわけですね。で、十日で届くんですけど、送料が高い。十日で来るということは航空便で来るということですから。アマゾンというドイツの会社は、日本でもそうだと思いますけど、処理をほとんど全部コンピューターで処理する。注文したら、御注文受け取りました、取り消しは何日以外に、このアドレスにしてくださいと。
品物をお送りしました、ついては、返却したいならそのまま、お返しください。見てからではだめだ、そのままお返しくださるなら結構です。まあ、私はいつも買うんです。で、牧会学の本を買った。で、ひそかに願っているわけですよね。私は、キリスト教の歴史の研究ですから。
 牧会ということについての歴史の変遷、が、1章書いてないかな、その牧会学の先生なら、そういう1章、歴史という1章を書いてるだろうと。ドイツ語では牧会とは書いていません、魂の配慮ですね。魂の配慮の歴史、そうすると羊飼いが羊を飼う、という意味じゃない。これは、カルヴァンなんです。その本で分かった、私は。で、おぼろげながら、私は知っていましたが、マルチン・ルターはそうじゃない。簡単に言えば、中世とマルチン・ルターだけ、今比べてみると、よく分かるんです。中世は、魂の配慮という言い方があるんです。ラテン語で言います。それは、魂たちという複数形ですね、魂たちの配慮という、複数形です。で、だれの魂をというふうに考えてみている。司祭が、聖職者なんですね。信徒の魂たちを、複数形、配慮する。という行為は、司祭が教会で行うサクラメントに尽きるんです。教会にいらっしゃい、神父様待ってますよ、告解、悔い改め、改悛の秘蹟をうけたいなら、それじゃあ、こちらの部屋に来てください。お次の方どうぞ。すだれ越しに、私はこんなことしました、あんなことしましたと言うと、それをイエスさまが赦してくださいます。あなたはそれがほんとに悪いことだと思うなら、赦していただいたんだから、家に帰って、1週間、塩とパンで過ごしなさい。と言ったりするわけなんです。
 昔、私たちが見た禁じられた遊びでも、あの少年ミシェルにも、神父様はそういうのをしましたが、じゃ、教会堂に行って、教会堂の床にひざまずいて、聖壇の前で、主の祈りを十回、してきなさいと、こう言った場面があったかと思います。
 で、マルチン・ルターがこのラテン語の言葉をこの魂たちの配慮というラテン語の言葉を、ドイツ語にした。そして、マルチン・ルターはドイツ語に訳した時にもそうですけれども、内容的にも「魂たち」ではなくしたですね。「魂の配慮」。魂の配慮というのは、魂たちというのでなく、一人一人の魂を配慮する。だから、そのときは、一つですよね。しかも、マルチン・ルターは、神が一人一人の魂を配慮してくださる。というふうに理解する。すぐさま、司祭が、とこう言わない。神さまが一人一人の魂を配慮してくださる。
 だから、私たちは祈らなければならず、そして、マルチン・ルター自身も、そのために神さまがあなたの魂も配慮してくださるように、慰めてくださるようにと、いたわってくださるようにと、ほかの人に祈ってほしいと、言ってるわけです。
 私のために祈ってください、と。十年ほど前に、私にショックを与えた、あのルターの手紙の、ほとんど結びの言葉ですね。結びの言葉の背景には、実は、牧師であろうと信徒であろうと誰であろうと、神さまが一人一人の魂を配慮して慰めていてくださる。そこで、私たちが受け取るべきものは、神さまからの慰めなんだ、ということを、ルターは牧会、魂の配慮というキリスト教の言葉使いですよね、その用語の背後に込めて、中世の考え方と違う。これが宗教改革の考え方になった。だから、牧師が信徒の魂の配慮をすることができるのは、牧師もまた神さまから、魂の配慮をいただいてから、神さまからの魂の配慮の結果、神さまから慰めをいただいているから。だから、牧師は信徒一人一人の魂の配慮をし、神さまの慰めを伝えることができる。という牧会になっていく。
 まあ、厳格な、厳格主義のカルヴァンと違うんだなあと、改めて私は、私はその本のたった1章読むのですから、私は牧会学の専門ではありませんから、その1章を読めばいいんです。高くつきますが、大きな本買って、たった50ページしか読まないと。でもね、その1章読んで、ああ、この本を買ってよかったと思ったんですね。
 で、その文脈で、今日、私は、今年はですね、フレッシュにその本を読んだところで、この文脈を読んでみるとよく分かる。兄弟を戒めたり、兄弟と関わる、兄弟のもめごとに関わるんですよ。その関わり方は、関わらなきゃならないと言っているんです。見て見ぬふりをするんじゃなくて、やっぱり関わらなければならない。心と心を開いて関わらなければならない。これは、旧約と大きな、レビ記の言葉と大きな違いですね。レビ記の言葉は、心の中で兄弟を憎んではならない。もう、そこから始まってるんですから。もう、そうじゃなくて、もうすっぱり、そして、これは、終わりは、二人三人祈るという、そういう文脈ですから。全体が神の憐れみに包まれた言葉として聞かなきゃならない。
 で、牧師だけじゃない、信徒だって、そういう意味では一人一人の人と、そういう話をすることもあるだろう、と思います、相談を受けてね。そのときに、心を開いて率直に話をしながら、しかし、神の魂の配慮、神の慰めをいただいているんだということを心に思い浮かべながら、その人と話をしないと。まあ、世の中で言っているような処理の仕方で、これはこうしてこうなるんだ。私なんかそういう、結論を速く出しすぎるタイプですから、家内にもしょちゅう言われる。三鷹の教授会でもよく言われた。徳善先生のは結論が速いって。間違ってはいないみたいなんだけども、こうぱあっと出ちゃう、という感じを与える。
 こういうことがマニュアルにあるとそうなる。神の慰めをしっかりと心に留める。神さま、私の魂に慰めをください。私の魂の配慮のために、兄弟たちよ、どうか、私のために祈ってください。という思いの中で、このことが、起こるかどうか。
 で、今日の、よく、こういう規定は、マタイ福音書における教会規定、という表題でコンメンタリーなんか、書かれるときがあるんですね。で、教会規定、危機対応の仕方、という問題ではない。その背後に、我々一人一人、牧師も含めて信徒一人一人が神の慰めをいただいて、その慰めの故に、その慰めをしっかり心に留めながら、その慰めによって自分が慰められて、心が慰められれば、心が暖かくなるんですから、その慰めをいただいて兄弟に、この会話の結びには、すぐ分かってもらえないかもしれないけれども、しかし、この会話の行き着くところは、神さまの慰めが彼の中にももたらされるように、この出来事を通して、当事者にとってはつらいことかもしれない。そういう話をしなければならない。で、この出来事を通して、私たち二人ともが、心が傷ついたり、心が病んだりするのではなくて、神さまの慰めをもう一度いただくことができるように。その兄弟と一緒になって二人、三人とここに書いてあるんです。一緒に祈ることができるように、そういうつながりの中で、教会のさまざまなことが、語られていくという、そういう教会の姿がここに示されているというふうに思うんです。で、弟子たちはまだ、自分たちの周りにやがて形成されてくるであろう、信仰の集団の事柄について知らない。使徒言行録は、もちろん、まだ始まっていないから知らないんです。
 だから、使徒言行録の中に身をおいたときに、ペトロにしても、ヤコブにしても、その他の兄弟たちにしても、このことが分かってくる。神の憐れみによって生きる、生かされる。神の憐れみによって、兄弟と話し合う。そういう魂の配慮の姿を知らされていくということに、なるのだというふうに思います。
 そうなら、私たちはこのイエスさまのお勧めがあるとおりに、私たちの群れのためにも、私たちの信仰者としてのお互いの交わりのためにも、共に祈り、あなたのために祈っていると言うことができ、そして私が比較的生涯の終わり、牧師生活の終わりになって、がーんと知らされたように、私のためにも祈ってください。こういう文脈の中で、教会のこと、教会の兄弟姉妹たちのことを、考えていかなければならないのだ、その大きな文脈の中で、私は今朝の福音書を読みながら、そう、最近の私の読書の一端を踏まえて、心に刻んだことでした。
お祈りしましょう。
 天の父なる御神さま。あなたは御独り子を通して、そのはらわたを痛ましめるほどに、私ども一人一人のために、憐れみと配慮をしてくださり、私たちの思いを超えた、慰めをその時々に必要な形で与えてくださいます。今日もそのような、あなたご自身から、イエスを通して私たちに注がれる、あなたご自身の配慮と慰めを私たちの魂にいただくことができ、そのあなたの慰めの中で、教会のこと、教会の兄弟たちのこと、そして、いろいろなことが起こってなお、私たちが共に導かれるように。共に祈ることができるように、導かれていくことを、共々に心に刻みました。主よ、どうかこの津田沼教会の信仰の群れをあなたが、そのように神の憐れみに生きる信仰の共同体として、導いてくださいますように。どうか、私たち一人一人の信仰者の交わりが、あなたのために祈ります、私のために祈ってくださいと、心の底で思い続けながら、過ごしていくような者となりえますように、あなたの導き、慰めをどうか私たち一人一人に与えてくださるようにお願いをいたします。感謝をして主のみ名によって祈ります。アーメン。
  
スポンサーサイト
2008/09/28(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「人をつまずかせないということ」(マタイ18:1~14)
マタイ18:1-14、2008・09・21、聖霊降臨後第19主日
エレミヤ書15:15-21、ローマの信徒への手紙12:9-18

マタイによる福音書18:1-14
 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」

 「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」

 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もしそれを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」





説教「人をつまずかせないということ」(マタイ18:1-14)
 
私たちは、本日、主イエスが弟子たちに向かって語られた一連のお言葉を与えられています。ルカにも、このペリコペーのうちの一部の並行個所がありますが、ルカでは、論敵に対して語られた言葉となっています。しかし、マタイでは、それは、弟子たちに対して語られた言葉であり、すなわち、私たちを戒め、励まし、勧めをするお言葉となっています。
 マタイ福音書は、特に教会向けに語られた福音書であり、そして、弟子たちは、主イエスの言葉を理解し、み言葉を咀嚼することのできる弟子たちとして描かれています。従って、マタイは現代の読者である私たちをも、12弟子たちと同じく、主イエスの言葉の真意を理解できる存在として考えています。
 さて、本日の記事は、弟子たちのうちで誰が一番偉いか、という問題と、罪への誘惑、すなわち、私たちが兄弟を躓かせるという危険性と、そして、迷い出た1匹の羊が探し出されることについての私たちの天の父の喜びという三つの内容・部分から成り立っています。
 そして、この3つの部分に共通しているのは、主イエスを信じる小さな子供や、小さな存在、例えば、求道中の者たちや、信じて間もない信者や、心の貧しい者たち、更には、信仰歴には関係のないすべての信徒同士が、お互いにつまずかせることのないように、すなわち、主イエスを信じていることから、離れさせ、棄教させ、背教させることがないように常に気をつけるようにという主題であります。
 最初の段落では、いきなり、「その時、弟子たちがやって来て、主イエスに尋ねる」のであります。「さて、誰が天の国ではより偉大なのでしょうか」と。主イエスは、それに対して、子供を歓迎して呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、言われます。「よく言っておくが、あなた方は翻って、この子供のようにならなければ、天の国へは決して入らないであろう」と。天の国とは、何も死後の天国だけを指すのではなく、現在においても神のご支配に与れないということであります。なぜでしょうか。子供といっても成長段階があり、10歳くらいになると嘘をつくことも覚えるのですが、子供は大人のように自力を誇ることがないのであります。私たち大人は、自慢したり、地位の上下で悩んだり、喜んだりするのでありますが、子供は、自分が非力であることを知っており、その点で大人よりも謙虚なのであります。そして、主は、「私のために、このような子供の一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである」と言われるのであります。
 さて、第二の段落は、「私へと信じているこれらの小さい者の一人を躓かせる者は、大きな石臼を喉の周りにひっかけて海の深みに沈められるほうがよいであろう」と非常に厳しいことを言われます。躓かせる、あるいは、躓きということばが、何度も出てきますが、これは、英語のスキャンダルという言葉のもとになっている言葉であります。せっかく信じていた主イエスを、信じないことへともたらし、不信仰という罪に陥れるということであります。主イエスを信じている小さい人とは、求道中の人や、信じて間もない人や、飢えている人や、牢に入れられている人や病気の人や、金持ちのもとにいた貧しいラザロのような人も入るでありましょう。実はもっと言えば、私たち、教会のメンバーみんなが、主イエスへと信じている小さい者の一人同士に過ぎないかも知れません。
 言い換えれば、躓かせるとは、すべての主イエスを信じている者を、信じなくする罪へと陥らせることでありましょう。主は、それに対して、非常に厳しく戒められるのであります。「もし、あなたの手や足や目があなたを躓かせるようであれば、それらを切って投げ捨てよ、両手両足、両目をもって永遠の火へと、地獄の火へと投げ込まれるよりも、からだの一部が不自由になって命に入るほうがあなたには益である」とまで言われています。
 この主のお言葉を考える時、だれが、この言葉に耐えられるでしょうか。私どもは、罪にまみれた存在であり、私どもを見て、主イエスを信じている人が躓かない、不信仰へと陥らないと断言できる人がいるでしょうか。それは、厳格に言えば、本日の主日の祈りにありますように、「すべての人のため苦難の道を歩まれた」み子のほかにはだれもいないのではないでしょうか。
 しかし、そのような私たちの弱さについて、主はよく御存知でありました。「この世界は災いである、躓きがあるがゆえに、すなわち、罪への陥れがあるから。それは避けられない。しかし、その人を通して躓きが来るその人は災いである」、と主は言われました。私たちの世界は、誘惑に満ちています。あらゆるサタンの勢力が、主イエスを救い主、神の子と信じる信仰から引き離そうとしています。そして、私たちは、実際日ごとに、心と思いと行いとによって罪を犯すのですが、しかし、最後まで父のご意志に従順に歩まれた十字架と復活の主によって、私たちは人を躓かせるという罪を克服することができると主は戒め、かつ励まされるのであります。
 そして、三番目の譬えを主は語られます。「あなた方にはどう思えるか。100匹の羊が与えられた人がいてそのうちの1匹が迷い出たら、99匹を山に残して捜しに行かないか。そして、その1匹を探し当てたなら、迷い込まなかった99匹の上によりも、その1匹の上に彼は喜ぶであろう。そのように、これらの小さな者たちの一人が滅びることは、あなた方の天の父にとって、その御意志ではない、喜びではない」と、主は言われます。
 私たちは、私たちの天の父によって、また、その遣わされたみ子によって滅びから見出され、救い出された一人一人であります。そして、それが、天の父のこれ以上にない喜びであると主は断言し、約束なさり、私たちを慰め、励ましてくださるのであります。天の父のみ子への信仰から、いと小さき者たちを、離れさせることのないように、私たち教会員同士お互いに注意したいものであります。私たち主イエスの弟子たちは、十字架の死に至るまで天の父のご意志に従順であられたみ子を知らされている者であります。私たちもみ子の従順の道を歩み、謙虚に歩み、これからの1週間も力を与えられていきたいと思います。 
祈ります。天の父なる神さま。私どもの現実の状態を完全に知られたならば、私どもは、兄弟を躓かせざるを得ないような罪多き存在です。しかし、あなたは、み子を通して苦難に満ちた十字架の道を辿らしめ、私たちもその道を歩むように示してくださいました。私たち教会員の一人一人をあなたが導いてください。そして、お互いが欠点や重荷を負う存在であることを認め、赦し合い、励まし合う関係へと導いてください。信仰には段階がありますが、地上の生を終える時まで、私たちの信仰は常に不安定で非常に小さく、脆いものです。あなたのみ言葉と導きなしには、兄弟姉妹を躓かせないことはできません。どうか、憐れみ、助けてください。アーメン。

私たちの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。 
2008/09/21(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「あなたはキリストをだれと言うか」(マタイ16:13~20)
マタイ16:13-20、2008・09・14、聖霊降臨後第18主日(典礼色―緑―)
出エジプト記6:2-8、ローマの信徒への手紙12:1-8

マタイによる福音書16:13~20
 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。




「あなたは、キリストをだれと言うか」(マタイ16:13~20)
 
私たちは、主イエスのなされたみ業と語られたお言葉を中心に、マタイによる福音書に沿って、毎週のテキストを与えられて、現在を歩んでいます。本日の個所はその中でも、ターニング・ポイント、転換点ともなっている部分であります。マタイは、ここではマルコとは違って、マルコにはない主イエスのお語りになった独自の言葉を付け加えています。それが、マタイの伝承にあったものか、あるいは、マタイが編集したものであるのか、その辺は明らかではありません。ペトロの信仰告白の記事に、マタイが、受難の時に主が語られた言葉を時間をさかのぼらせて、ここに記しているのか、あるいは、さらに、復活後に主が語った言葉ではないのか、この部分については色々な疑問が寄せられています。
しかし、それはそのままにしておいて、私たちは、ここに書かれているとおりに、もう一度、本日の出来事、語られている言葉のやり取りを思い出してみましょう。
 前後関係は、あまり明瞭ではありません。主イエスが、フィリポ・カイサリアの地方にやって来た時のこと、主は質問しておられたと、本日の記事は始まっています。ガリラヤの湖から、40キロほど北にのぼった所に、この場所はありました。ヘロデ・フィリポがカイサリア、すなわち、皇帝に敬意を表して付けられた名前の場所です。当時は、ローマ皇帝が、「主」であり、また、「神の子」とも呼ばれていた時代で、この地方は特に豊穣の神、パンの神など異教の神崇拝の盛んな場所でありました。そこで、主は弟子たちに人々は、人の子を何者だと語っているかと質問されていたのであります。
 例によって、シモン・ペトロが代表して、答えます。ある者は、洗礼者ヨハネだと、また、ある者は、エリヤだと、あるいは、エレミヤ、更にはかの預言者たちのうちの一人だと言っています。それに対して、主は、では、あなた方は私をだれと言うのかと聞かれました。ペトロは、あなたこそ、メシア、生ける神の子ですと告白したのであります。マルコでは、あなたは、メシアですとだけ、答えているのに対して、マタイでは、生ける神の子と追加して宣言しているのであります。メシアがやがて来られて、ダビデの王統から生まれ、永遠に続く王国を打ち立てると、旧約聖書では約束されていたのであります。そしてペトロは、ここで主イエスこそ、その待たれていたメシア、油注がれた王であると宣言したのであります。
 現在の世界中の人々でも、主イエスが、世界の四聖人の一人であることはだれでも認めています。でも、聖書の中で告白されている主イエスは、それにとどまらず、メシア、生ける神の子であられるのです。
 その時、主イエスは彼に応答して、言われました。バルヨナ・シモン、あなたは祝福されている、このことを啓示したのは、脆い肉と血であるあなたの人間性ではなく、天におられる私の父であると。キリスト教は、啓示の宗教であり、バルトが語ったように危機の宗教であります。人間が作った宗教ではなくて、神がみ言葉を語り、人間に働きかける宗教であります。
 シモン・ペトロはここでは、バルヨナ・シモンと呼ばれています。あるいは、バルヨナというのは、ヨハネの子とも考えられますが、1説では、無政府主義者とか革命家とも考えられています。ペトロのここでの告白は、バルヨナと呼ばれるのがふさわしいほど大きな転換点を秘めているからでありましょうか。しかし、それをなさしめたのは彼の人間性によるのではなく、天におられる私の父の啓示によったのであると主は言われます。
 そして主は、続けて、ペトロよ、あなたの岩・ペトラの上に、私は私の教会を建てようと言われるのであります。教会とは、エクレシアという言葉であり、福音書ではマタイに二度ほどしか出て来ない言葉であります。アラム語でしゃべられたと考えられる主イエスは、アラム語では何という言葉を用いたことでありましょうか。カーハールという言葉だったかもしれません。それは、集会とか会衆を表す言葉でありました。
 しかし、主イエスのお建てになる教会は、それまでのみ民イスラエルの民、集団でもなければ、待たれていた終末に実現するダビデ的王国でもありませんでした。それは、メシアのみ国でありました。そして、しかも、そのメシアとはこの記事の後に続いて出てくるように、苦しむ・十字架におつきになるメシア・油注がれた方でありました。
 主は、さらに、ペトロに、あなたに天の国の鍵を与えよう。あなたが、地上で縛るものは、天上でも縛られてあるであろうし、あなたが、地上で解くものは、天上でも解かれてあるであろうと言われるのであります。
 ローマ・カトリック教会は、本日のペトロに関する記事を基として、ペトロを最初の教皇と考え、カトリック教会はそのペトロから権威をずっと受け継いでいると考えてきました。ペトロに、教会の始まりを見出し、天国に入る鍵をペトロが与えられている、そしてカトリック教会が現在に至るまでそれを正統的に受け継いでいると考えるのであります。
 しかし、これは、弟子たちの代表としてのペトロを指しており、脆い人間性をも併せ持った弟子に与えられている権能であります。ここでの12弟子たち、更に、すべての教会のメンバーが、法的な制定したり、秩序や規律を作り、あるいは、罪を免除する権能を与えられているのであります。
 教会をお建てになり、お造りになったのは、主イエスであります。私たちは、旧約の民ではなく、まったくそれとは別の不連続な、メシアのみ国のメンバーであります。一人一人には、さまざまな賜物が与えられてはいますが、ペトロと同じく私たちにも、つなぎ、解く、しばり、赦す・放免する権能が与えられているのであります。
 ところで、聖書のことは非常に詳しく深く知っている人の中にも、教会は組織だから入らないと言われる方もおられます。確かに、この世界の地上の教会は、完全ではなく、欠けの多い器である弟子たちの集まりであります。しかし、教会とは、メシアである主イエスが、また、父なる神が、私たちを呼び集めた、その外から集められた集団なのであります。み子を送られた父なる神が、み子を十字架に付け、苦しむメシアとして救いを成し遂げ、私たちをみ国に招き入れられたのであります。あなたは、私をだれというかと聞かれるとき、私たちも、ペトロと同様に、あなたこそメシア、生ける神の子ですと、私たちも大胆に告白していく者となろうではありませんか。
 祈り
私たちは、メシアのみ国を構成する一人一人です。私たちは孤立しては生きていけません。あなたの呼び集められた一人一人と、兄弟姉妹として、欠けを補い合いながら生涯を歩む者としてください。教会を離れている仲間をもあなたが顧みて下さい。

私たちの内に働くみ力によって、私たちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
2008/09/14(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「私たちも恵みの食卓に与る」(マタイ15:21~28)
マタイ15:21-28、2008・09・07、聖霊降臨後第17主日(典礼色―緑―)
イザヤ書56:1-8、ローマの信徒への手紙11:25-36

マタイによる福音書15:21~28
 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。



「私たちも恵みの食卓に与る」(マタイ15:21~28)

私たちは、本日、聖餐式に与ります。本日のマタイ15:21-28は、直接、聖餐そのものに関わる記事ではありませんが、聖餐礼拝の本日に相応しい福音の記事であると思います。
この「カナンの女の信仰」と新共同訳聖書では小見出しがつけられている出来事は、マルコでは、シリア・フェニキアの女の信仰となっています。二つを対比して読むと興味深いのですが、今は、ただマタイによって、大筋をもう一度思い起こしていきたいと思います。
「主イエスは、そこから出て行き、ティロス、シドンの地域へ難を逃れた」というふうに読むことが出来ます。彼が、ユダヤ、イスラエルの領域を離れて、シリアの方面まで、実際に行かれたことがあるのかどうかは、よく分かりません。
さて、すると、カナンの出の女の人がやって来て言うのであります。「ダビデの子、主よ、私を憐れんでください、なぜなら、私の娘がひどく悪霊に取り付かれているからです」と。ところが主は、いつもの主イエスと様子が違います。彼は何もおことばを答えられないのであります。しかし、女の人はあきらめません。弟子たちは、たまらなくなって、主のもとにやって来てたまらなくなって、こう乞います。「主よ、あの女を退散させてください」、あるいは、「その願いを聞いてやってから、早々と立ち行かせてください、なぜなら、叫び声を上げて付いてきていますから」と。しかし、彼女はひるまず、「主よ、私を助けてください」、とひれ伏し、繰り返すのです。このカナン人は、神の子供たちであるイスラエルの民とは異なる異邦人を現しています。そして、ひょっとしたら、後のマタイの教会における異邦人であった者たちを暗示しているのかもしれません。
主は、こうお答えになって言われます。「私は、イスラエルの失われた羊たちのもとへ意外には遣わされていない。」しかし、「主よ、助けてください」と女の人は食い下がってきます。主は、「子供たちのパンを取って、小犬たちに投げてやるのはよろしくない」と答えられます。すると、女の人は答えます。「はいそうです、そして、子犬たちも、彼らの主人の机・食卓から落ちるパンくずは食べるのです。」そして、ついに主イエスは、その時彼女に言われました。「おお、女よ、あなたの信仰は大きい。あなたが願っているとおりになるように。」その時から、その娘は癒されたと結ばれています。
私たちは、この物語を読む時、異邦人の百人隊長の同じような記事を思い起こします。
この時も主は、このような信仰を、イスラエルにおいて見たことがないと言われて、そのしもべを癒され、やがて、いつの日か東から西から、北から、南から大勢の者たちが神の祝宴に与ると約束されたのでした。
確かに、本日の日課のイザヤ書にも、ローマ書にもありましたようにユダヤ人たちは、異邦人に対して、神の選びについてはより優れた地位に立っています。しかし、異邦人でも、その旧約聖書におけるイスラエルの特権を認め、謙虚に主に哀れみを求め、くじけることのない信仰に立つ時、主イエスは、その信仰をも受け入れてくださるのであります。そしてそれは、私たち現代の日本人のキリスト教の信者も同じであり、本日のカナンの女と同じ地位に立っています。私たちは、罪を担い、それを自覚して洗礼を受け、信仰を告白し、主イエスのもとに集められた者たちであります。
そして、私たちは、聖餐式のある本日、主の食卓の周りに集います。そのとき、自分の罪を告白して主の食卓に与るだけではなく、お互いに円を描いて両隣りに立つ兄弟姉妹の罪のためにも、赦しを祈りあう者でありたいと思います。そして、世に向かっても、カナンの女のような忍耐強く粘り強い信仰と謙虚さを持って、主イエスから、「あなたの信仰は大きいなあ、あなたが願うとおりになるように」と励ましていただいて、実生活の中で朱を証ししていく信者になりたいと思います。アーメン。 
2008/09/07(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。