津田沼教会 牧師のメッセージ
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「風を見て沈み始めるペトロ」(マタイ14:22~33)
マタイ14:22-33、2008・08・31、聖霊降臨後第16主日(典礼色―緑―)
列王記上19:1-21、ローマの信徒への手紙11:13-24

マタイ14:22~33
 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。



説教「風を見て沈み始めるペトロ」(マタイ14:22~33)

 私たちは、本日の記事においても、先週に続いて、常識、理性からは信じられないような奇跡の記事を与えられています。これは、マルコの記事にマタイが手を加えて創作したものなのでしょうか。マタイは、ペトロが、主に願って自分も水の上を主のもとに歩いていったというマタイだけの記している記事を残しています。
 大水は、旧約聖書では混沌を表し、恐怖の的でありました。水の上を歩くことが出来るのは、神のみでありました。12弟子たちは、主イエスによって、向こう岸へと、5千人への供食の後、強いて先に舟に乗るように求められ、向かって行きました。主イエスは、ただ一人お残りになり、5千人を解散させ、ご自分は祈るためにただ一人で丘に、山に上られました。山は、神と出会う場所であります。弟子たちは、波によって悩まされていました。それは、私たちの出会う人間的な苦しみを表しているかのようです。それは、風が反対であったからであると記されています。この波により、また、風によって苦しまされている12人の乗った小舟は、教会に属する私たち一人ひとりの経験を、前もって表現しているように考えられます。主イエスは、何スタディオンも離れた、何百メートルも陸地から離れた舟が逆風で悩まされているのを、ご覧になり、第四の見張り番の時、すなわち、午前3時から6時の明け方の時、それは、また、主のご復活の時でもありましたが、海の上を渡り歩いて、弟子たちのほうへとやって来られます。弟子たちは、それをみて、幽霊あるいは、何かの幻影だと思い、怯えて、恐れから叫び声をあげます。主は、安心せよ、私である、恐れるなと彼らに語り掛けられました。私であるというのは、「私は有りて有る者」という旧約聖書で出てくる神の自己表現でもあります。主イエスが、水の上を歩き回ることのできる神であることを、それは示しています。それに対して、ペトロは、「主よ、あなたでしたら、私があなたのほうへと水の上をやって来るようにと命じてください」と言います。主はやって来なさいと応じられました。そして、ペトロは、主のほうへと水の上を歩いていたのでありますが、ふと強力な風を見て、恐ろしくなり、それで、沈み始めるのであります。キリストの命令に従い大胆に歩む時には、私たちは多くの波や風、人生の色々な試練や不安や病気、死の恐れをも克服することが出来ます。しかし、強い風を見るとき、私たちは、キリストが見えなくなり、大水の深みへと沈み始めるのであります。主はペトロが叫んで助けを求めたとき、片手を差し伸べ、ペトロを掴み、舟へと共に上がられました。そして、その時、風はやんだのであります。主は、ペトロに「何へとあなたは疑ったのか、信仰のほとんどない者よ」、言われました。主は、咎められて、そう言われたのではなく、すべての主である私にのみ信頼して常に従って来なさいとやさしく諭されたのであります。そして、舟の中の人々、すなわち、弟子たちは、「真にあなたは神の子です」と信仰告白することが出来たのであります。マタイに出てくる弟子たちは、マルコのそれとは違い、主イエスこそ神の子であると理解し、信じることが出来る弟子たちであります。そして、私たちも、本日のペトロと同じようにしばしば疑いに陥りますけれども、それを克服して、確固たる信仰へと成長できる弟子へと招かれているのであります。主イエスと共に歩む時、私たちは、恐怖、死の恐れ、病気やあらゆる不安、試練をも乗り越えていくことが出来ると、本日の福音は、私たちを励まし、勇気付けてくれるのであります。祈ります。
 天の父なる神さま。
 8月も終わろうとしています。猛暑や残暑の中を今日まで何とか歩むことができました。これから、収穫の秋、伝道の時期を迎えようとしています。どうか、津田沼教会の小さな群れを、あなたが、共にいて、助け励まし、み言葉によって養ってください。今年の主題である「家族や身近なところから、伝道をしよう」という主題を少しでも前進させ、実現させてください。風を見て、沈み始めるのではなくて、常に主イエスを見つめ、主のみ言葉である全聖書の言葉を頼りに、日々の生活を歩ませてください。キリストによって祈ります。
 人知ではとうていはかり知ることの出来ない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。


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2008/08/31(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「五千人への給食」(マタイ14:13~21)
マタイ14:13-21、2008・08・24、聖霊降臨後第15主日(典礼色―緑―)
イザヤ書55:1-5、ローマの信徒への手紙9:1-5

マタイによる福音書14:13~21
 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。



説教「五千人への給食」(マタイ14:13~21)

 私たちは、この聖霊降臨後の典礼色緑の季節に、主イエスのなさったみ業と、お語りになったみ言葉を、今年はマタイ福音書を通して聞かされています。本日の福音、マタイ14:13-21は、まことに驚くべき、常識では信じることのできない「贈り物の奇跡」が記されています。
 ある人は、教会を批判して、牧師は主イエスが、五つのパンと二匹の魚で五千人もの群衆の飢えを満たし、満腹にさせたなどとありえないことを説教して、信者や求道者・新来者などから献金をまきあげていると本日の記事について単純で率直な怒りをあらわにしました。私たちは、その人を笑い飛ばすことはできません。一体何が、この記事・出来事において言われているのでありましょうか。これが、聖書に書かれているのでなかったなら、私たちとて到底信じることはできない豊かな「贈り物の奇跡」が記されているのであります。この「五千人への給食」の奇跡は、非常に大切な出来事であったので、四人の福音書記者が、それぞれ微妙に違いのある書き方で、この奇跡を書き残しているのであります。
 マタイによる福音書のこの部分の記事を今一度思い起こしてみますと、次のようなものであります。マタイでは、洗礼者ヨハネが殺されたことを知って、主イエスは、あたかもこの文章の少し前のナザレでの出来事に続いて、ひそかに舟に乗り、難を逃れて、寂しい所へ向かわれたのであります。ところが、それを知った群衆は、陸路で方々の町々から、主イエスの向かった場所に先に着いたのであります。それは、ガリラヤ湖の北西であったか、それともヘロデ・アンチパスの領土外である湖の北東のベトサイダの付近であったかもしれません。
 主が舟から上がられると、群衆を見て、深く憐れまれ、そのうちの病人たちを癒されたのであります。そして、時がたち、夕方になったので、弟子たちが近づいて来て言います。
 「もう時がたちました。群衆を解散してください。そうすれば、彼らは、近くの町に行って食料を仕入れることができましょう。」すると、主は言われます。「彼らは出て行く必要を持っていない。あなた方が彼らに食べることを与えなさい。」すると、弟子たちは答えます。「私たちは、五つのパンと二匹の魚以外には何も持っていません。」主イエスは言われます。「それを私のところへ持って来なさい。」そして、群衆には食事のために横になるように命じられました。そして、彼らがそれらを持ってくると、主イエスは、天を見上げて、パンを取り、賛美の祈りを唱え、弟子たちに与え、弟子たちは群衆に与えました。そして、すべての者が食べて、満腹しました。そして、食べている者は、女と子供を別としておよそ五千人であった、というのであります。
 マタイの原文を調べると、マタイの最後の晩餐における食事(マタイ26:26以下)とよく共通した語句から成り立っています。これは、主イエスが最後の晩餐で設定した聖餐式とよく似ているのです。五千人にパンを増幅させた時の奇跡の方法や詳しい叙述は何も記されていません。ただ、パンくずの残りのものは、12の籠に一杯になった。そしてそれを弟子たちは集めて持って来たとだけ、結果が記されています。主イエスが、与えられたパンとは確かに世俗的な・非宗教的な、そして、肉体的な必要を満たすものでもありました。主イエスは天と地のすべてのものの上に権威を持っておられる主でありますから神の子に不可能なことは何もなく、地上の人々の飢えを具体的に満たし、満腹にすることもお出来になります。
 けれども、もっと、必要なことは、私たちに、朽ちることのない真のパンを、聖餐を通してお与えになられることであります。私たちが霊的に渇くことのない食物である主イエスの体であるパンを主イエスは、本日の出来事を通して伝えているのであります。
私たちは何で週ごとに、日曜日教会に集まるのでしょうか。それはこの主イエスのからだ、真の命のパンに与るために、私たちは、日曜日ごとに、教会に招かれ、礼拝に与る、そして、聖餐式に与るのであります。たとえ聖餐式そのものがなくても、実はこの聖卓の周りに集うために集まるのであります。パンの奇跡に与った群衆は、その意味について、この時点では、おそらく気づかなかったでありましょう。しかし、最後の晩餐の席を通し、弟子たちは、五千人の給食の出来事を思い起こして、その意味を悟ったのであります。
 私たちは、しばしば、罪に陥ります。主イエスこそがただ一人朽ちることのないパンをお与えになることの出来る方であります。そして、罪に苦しんでいる時にこそ、進んで私たちは聖餐に与るべきであるとルターも言っております。
  平凡な日常生活の中で、私たちにとって、唯一の救いであり、真理である聖書を中心として、み言葉と共に生活していくことが、危機から免れ、キリスト者として自由に歩む上で不可欠であります。
 私は、暑い夏で、その疲れが出て、誘惑や試練についつい負けてしまうこの時期でありました。しかし、そんなときにも、牧師として日曜日に説教を通して、新たな再出発が出来ることを幸いに思います。まだまだ、残暑は続きますが、毎日主いえすの御からだとそれを指し示す全聖書から離れないで生活を送りましょう。祈ります。 
 天の父なる神さま。
 私たちは、世にまたとない、主イエスと聖書というかけがえのない宝を与えられている一人ひとりであります。力足りず、時として、誘惑に負け、怠慢な生活を送ってしまいがちですが、あなたの朽ちることのないパンであるみ言葉に従って、常に悔い改め、新たな歩みをさせてください。そして、あなたとみ子の証し人として、この世の中に、み言葉に導かれながら、出て行くことが出来ますように。キリスト・イエスによって祈ります。アーメン。






2008/08/24(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「思いがけない招き」(マタイ13:44~52)内海望牧師
マタイ13:44-52、2008・08・17、聖霊降臨後第14主日(典礼色―緑―)
列王記上3:4-15、ローマの信徒への手紙8:31-39

マタイによる福音書13:44~52
 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

 「あなたがたはこれらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」



説教「思いがけない招き」(マタイ13:44~52)内海望牧師

 先週に引き続き、「天の国」のたとえです。44-46節を読むと、「天の国」は「宝」のようなものであるとされています。ただ「宝」と言われてもどういうものかはっきり分かりません。ただ、それが「持ち物をすっかり売り払ってでも買いたい」と決心するほど貴重な宝であることは分かります。
 ところで、今まで持っていたものを「すっかり売り払う」とはどういうことでしょうか。それは持ち物を全部なくすということです。今まで持っていたものを手放すということは大変な勇気を必要とします。私たちは多くの物をもっていなくても、どんな小さな物でも手放したくないし、むしろ、それにしがみついて生きています。
 「天の国を信じる」ということは、自分の人生にもう一つの宝を付け加えるというようなものではなく、どちらか一方の宝を選ぶ「あれか、これか」という選択なのです。これは大変厳しい言葉のように思われます。
 ところが、このたとえの中で、農夫も商人も「喜んで、持ち物をすっかり捨てて」いるのです。決して勇気を奮って、苦渋に満ちた大きな決断をしてということではないのです。それほど宝が素晴らしかったということでしょう。
 この農夫は毎日額に汗して畑を耕して生計をたてていたのでしょう。しかも、宝が畑に隠されていることを知らなかったのですから、小作人であったでしょう。日雇い農夫のようなものです。希望と喜びに満ちた生活でなく、辛い毎日を送っていたと想像することが出来ます。ところが、思いがけず宝に出会ったのです。その驚きと喜びは想像できます。
 この出来事は、私たちにイエスさまの招きを思い起こさせます。毎日人々の軽蔑の眼差しにさらされ、涙をこらえて生きていた徴税人や罪の女、地を這うような生活をしていた罪人と呼ばれる人々、イエスさまはこのような人々を御許に招いて下さったのです。食卓を共にして下さったのです。彼らにとって、イエスさまの招きは全く思いがけないものであったのです。ですから、大喜びで、すべてを捨ててイエスさまに従ったのです。
 この農夫もこの思いがけない神さまの招きを知ったのです。天の国は、「この私にも神さまの招きはあるのだ!」という恵みの発見だとイエスさまはおっしゃるのです。だからこそ農夫は「喜びながら」すべてを売り払ってイエスさまに従ったのです。
 商人はどうでしょうか。彼は農夫とは違います。価値あるものをもっていました。それでも、高価な真珠を見出した時、それは思いがけない「高価な宝」であったのです。本当に高価なものを見出したと言えましょう。それを発見したとき、商人としての損得を忘れ、すべてを売り払ってでも、この真珠を買ったのです。
 彼は、この世にこんなに美しい真珠が存在することは想像もしていませんでした。今自分が持っている真珠が無価値に見えるほどのものだったのです。その意味で、この商人にとっても天の国は思いがけない宝の発見であったのです。その意味で、この商人にとっても天の国は思いがけない宝の発見であったのです。
 ここで私たちは、パウロやルターを思い浮かべます。ルターの父親は刻苦勉励の結果、財産と名声を得ました。そのおかげでルターは大学まで教育を受け、当時としては、最高のエリートでした。しかし、キリストの福音に出会ったとき、すべてを捨てて福音に従いました。
 パウロはフィリピ書で、自分がどんなに価値あるものを持っていたかを羅列します。家柄、教養、人格すべて非の打ちどころがなかったとまで語っています。ところが、「主キリスト・イエスを知ることのあまりの素晴らしさに、一切を塵あくたと見なしている」(フィリピ3章7節以下)と語っているのです。

 ここで立ち止まって、「思いがけない」という言葉にこだわってみたいと思います。「思いがけない」ということは、「合理的でない」あるいは「筋が通らない」ということを含みます。
 ファリサイ派の人々、律法学者がイエスさまに我慢できなかったのは、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」として徴税人、罪人を赦し、罪人と共に食卓を囲まれたという点にあったのです。
 彼らは、イエスさまが「信心深い人々のために命を捨てて下さった」というなら理解できます。しかし、「不信心な者のために死んで下さった」(ローマ5:6)ということはどうしても理解できないし、納得も出来ず、ただ怒りに燃えたのです。
 言い換えれば、私たちが神さまの招きに与っている、神さまに愛されているということは筋が通らない出来事なのです。私たちの誰が「私は、神さまに愛されるに相応しい」と言えるでしょうか。私たちは思いと言葉と行いによって日々罪を犯しています。そうしたいからではありません。善を行おうとしながら悪を行ってしまうのです。怒り、憎しみ、そねみの心を捨て去ることは出来ません。この罪人である、私のためにイエスさまが死んで下さったのです。これこそが「思いがけない宝」であり、人生を変える喜びです、しかし、逆にファリサイ派の人々から見れば「筋が通らない愛」であり、不正に見える愛なのです。
 ところが、いつの間にか私たちはイエスさまの十字架の赦しを「思いがけない出来事」としてではなく「当たり前」のことのように考えてはいないでしょうか。「神は愛なり」と涼しい顔をして語ってはいないでしょうか。
 ルターは、「神さまからあまりにも多くの多様な恵みを受けているので、それらに目を眩まされて、一番大きな恵みを見失っている」と警告の言葉を語りました。
 悪い種、悪い魚、毒麦が初めからあるのではありません。私たちは、神さまの忍耐に甘えて、一番大切な宝を見失い、悪い魚になってしまっているのです。
 私たちはファリサイ人から見るならば理不尽な、怒りを覚えるほどの法外な恵みをイエスさまから受け取っているのです。この宝を改めて見つめ直し、この贈り物を心から喜びましょう。そして、終わりの日にイエスさまと共に天の宴会に連なる喜びを希望として生きて行きましょう。ルターは、「キリスト者とは、事実においては罪人だが、希望において義人である」と語りました。そうです。私たちは罪人です。しかし、「キリストの十字架によって罪を赦された罪人」「招かれた罪人」なのです。このイエス・キリストは決して私たちを見放すことはありません。「一人でも滅びないように」忍耐して、法外な、思いがけない愛を注ぎ続けて下さっているのです。
 今日の第二の日課を開いてください。ここには感極まった、心から激しく突き上げて来る喜びの賛歌が鳴り響いています。
 何ものも、私たちをこの「キリスト・イエスにおける神の愛から離れさせることは出来ない。」とパウロと共に心からの喜びの賛歌を歌いましょう。
 今日も、イエスさまは私たちのために祈り、私たちを思いがけない、法外な宝へと招いてくださっているのです。
 

2008/08/17(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「倉に集められる麦の喜びに」(マタイ13:24~35)
マタイ13:24-35、2008・08・10、聖霊降臨後第13主日(典礼色―緑―)
イザヤ書44:6-8、ローマの信徒への手紙8:26-30

マタイによる福音書13:24~35
 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

 イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
 また、別のたとえをお話になった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

 イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
 「わたしは口を開いてたとえを用い、
  天地創造の時から隠されていたことを告げる。」



説教「倉に集められる麦の喜びに」(マタイ13:24~35)
私たちは、先週の平和の主日の記念日で用いた赤から、再び、聖霊降臨後の緑の典礼色に戻り、本日はマタイ13:24-35による主として主イエスの語られた譬え、み言葉が与えられています。本日の内容は、主イエスがなされた天の国の譬えとして、毒麦の譬え、からし種の譬え、パン種の譬えが与えられており、それに付随して、主イエスがなぜ、そのように譬えで、群衆に、また、弟子たちに語られるのかが説かれています。
天の国とは、「もろもろの天の王国」という言葉であり、神の国とも言われ、神の御支配を意味します。主イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣教の初めに第一声をあげられました。神の支配が近づいているから、あなた方は全生活を神に向かって方向転換せよ、と言われたのでありますが、本日の譬えは、その天の国とはどのようなものであるのか、神の御支配とはどういう状態であるのかを語っているのであります。それを主イエスは、群衆に、また、弟子たちに譬えで語られ、譬え以外では一切語られなかったと言われているのであります。
それは、預言者が語った言葉が満たされるためであったとマタイは記しています。これは、実際には詩編78:2を少し解釈しなおして引用しているのであります。詩編78:2は、新共同訳聖書では、「わたしは口を開いて箴言を、いにしえからの言い伝えを語ろう」となっていますが、それをマタイは少し、変えて、「私は、譬えどもにおいて、私の口を開こう、[世界の]初めからの隠されたことどもを私は告げよう・発散させよう」というふうに言い換えているのであります。そして、天の国の3つの譬えを、本日の個所で、主イエスは語られるのであります。
私たちの生活が、あるいは、人類の歴史が、天の国、すなわち、神の御支配に与るとは、どういうことでありましょうか。毒麦のたとえを、最後にし、先に、からし種、および、パン種の譬えから、聞いていきましょう。天の国とはまず、からし種に譬えられると主は言われます。それは、すべての種のうちで最も小さい種だが、成長すると、どんな野菜よりも大きくなり、空の鳥たちがやって来てその枝に巣を作るほどの木になると主は言われます。津田沼教会の周りにも、牧師館の駐車場を含めて、2本、3本とからし種の木が高く育っています。パレスチナでは、2.5メートルから3.5メートルほどにも、特別に大きいものでは、5メートルにもなると言われていますが津田沼教会のからし種の木でも2.5メートル位にはなっています。最初は、種といわれるものの中で最も小さな種粒にすぎないが、成長すると空の鳥がやって来て巣を作るほどの木となる。これは属国を保護する大王国を表現する言い方であり、世界中に、異邦人にも、天の国、神の支配は及ぶことを、主イエスは言われているのであります。実際、現在世界中にキリスト教は広がっています。
また、主は、天の国は、パン種、すなわち膨らし粉を、女の人が取って、3サトン、―1サトンは12.8リットルでありますから、かなりな量でありますが、その小麦粉の中に隠したようなものであり、それで全体が膨らまされるのに似ていると言われるのであります。天の国は、はじめは見えないけれども、結果は大きなものとして現されることになるというのであります。私たちの信仰というものも、そのようにやがて大きくなる。
確かに、現在、キリスト教は、そして、教会は、全世界に広まっています。しかし、まだまだ、私たちの周囲を見渡すとき、キリストを救い主として信じ、教会につながっている人は、主イエスがお語りになった預言からは程遠いのであります。特にそのことを、私たちは、8月のこのお盆を迎える時期に、身内と触れ合い、友人たち、あるいは田舎の同窓会などで同級生たちと会う機会に痛感させられるのであります。
さて、最後に、毒麦の譬えについて、ご一緒に考えてみましょう。主は、もう一つの譬えを彼ら、群衆や弟子たちの前において語られるのであります。天の国、神の御支配は以下のように譬えられる。それは、ある人が、彼の畑によい種をまいたのであります。ところが、人々が眠っている間に、敵の人がやって来て、その良い麦の種の間に毒麦をまいていって、立ち去ったのであります。やがて、良い麦の種は芽を出し、実をもたらしましたが、そのとき、毒麦も現れたのであります。彼のしもべたちは、家の主人のところにやって来て、言います。だんなさま、あなたがまいたのは、良い麦の種だったのではありませんか。それなら、どこから、あなたの畑は毒麦どもをも持っているのですか。主人は答えます。敵の人が、それをしたのだ。それなら、私たちが行って、毒麦を引き抜いてきましょうか。主人は答えます。あなた方は決して、毒麦と共に良い麦も引き抜くことにならないように。そうではなくて、刈り入れの時に、私は刈り取る人に、まず、毒麦を刈り取って束にし、火に向かって投げ込むようにさせよう。それから、良い麦は、刈り取って、私の倉に集めるように言おうと。
私たちの教会の中には、毒麦も、良い麦と同じようにして、混じり合っています。ルターは、教会において、真のキリスト者はごくわずかなものだと言いました。また、自分が、救いへと予定されているのか、裁き、滅びへと予定されているのか、しょっちゅう思い煩うことはやめなさい。それよりも、精一杯、自分に与えられた日々の任務、仕事に精を出しなさいと言いました。
神さま、そして、主イエスは、忍耐強く、終わりの日まで、私たちを見守り、私たちが、倉に集められる麦の喜びに与れるように、待っておられるお方であります。
 日本で、特に田舎では、キリスト教の人、教会に行く人は非常に少ないです。都会でも事情はそれほど変わりません。しかし、この8月のお盆の時期、私たちは、大きな宣教の困難と共に、チャンスにも直面しています。どの人が、よき麦であるのか、それとも毒麦、雑草であるのかは、刈り入れの時まで、主イエスは待つと約束されています。よい麦が1本でも間違って引き抜かれることがないためであります。いったん、キリスト教に、あるいは教会に躓いた人であっても、主なる神、そしてみ子主イエスはご自分のところに帰って来る信徒を、また、求道者を待ち続けていてくださいます。一人でも多くの人々に、私たちも忍耐強く、また、思慮深くふるまい、聖書に記されている天の国、神の御支配を受け入れ、最後は共々に主の収穫の倉に集められる者となるように、働きかけ、告げていく証し人になっていきたいと思います。祈りましょう。
天の父なる神さま。私たちは、力弱く、欠けた土の器に過ぎません。しかし、あなたは、私たちをもお用いになって、人々を天の国、神の御支配に招きいれようとなさいます。この8月の夏休みの時期、希望をもってみ子キリストによる恵みと救いを宣べ伝えていくことができますように。あなたの器として、私たちの体と心を守り、強め、支えてください。キリストによって。アーメン。
2008/08/10(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「キリストにおける平和」(ヨハネ15:9~12)
ヨハネ15:9-12、2008・08・03、平和の主日(典礼色―赤―聖餐式あり)
ミカ書4:1-5、エフェ2:13-18

ヨハネによる福音書15:9~12
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」

ミカ書4:1~5
終わりの日に
主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
どの峰よりも高くそびえる。
もろもろの民は大河のようにそこに向かい
多くの国々が来て言う。
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
主はわたしたちに道を示される。
わたしたちはその道を歩もう」と。
主の教えはシオンから
御言葉はエルサレムから出る。
主は多くの民の争いを裁き
はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。

人はそれぞれ自分のぶどうの木の下
いちじくの木の下に座り
脅かすものは何もないと
万軍の主の口が語られた。
どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。
我々は、とこしえに
我らの神、主の御名によって歩む。

エフェソの信徒への手紙2:13~18
 しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。
 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。




説教「キリストにおける平和」(ヨハネ15:9~12)
 
今から、63年前の8月15日に日本は敗戦を認め、第二次世界大戦は終わりました。しかし、未だに人類はイラク戦争やパレスチナ紛争に見られるように、戦争をやめてはいません。私たちは、特に日本社会ではこの時期、平和について、また、戦争の罪責について毎年、新聞等で盛んに取り上げられます。そんな中で、本日は聖書のみ言葉を通して、改めて平和の大切さを覚える主日としたいと思います。本日の旧約聖書、使徒書、そして、福音の個所は、それぞれ、平和の主日にふさわしい個所が与えられています。
 まず、第一の朗読でありましたミカ書4:1-5について、ご一緒に考えてみたいと思います。終わりの日々に、世界の諸国民、その当時、イスラエルを圧迫していた多くの国民が、遂にはシオンの丘に向かってやって来る、大河の流れのように、彼らは流れ来る、そして周りの高い丘どもは低くされるというのであります。
預言者たちも、祭司たちも、そのなすべき働きをしていない、荒れ果てたエルサレムが現実であったときに、本日のミカ書の記事は、終末の時には、すべての国々が、主なる神の教えを聞き、主の道を知るために、やって来るというのであります。そして、彼らは、剣を打ち直して、鋤とし、槍を打ち直して鎌にし、もはや、国は国に対して剣を上げず、戦いについて学ぶことをしないときが終わりの日には来ると約束しているのであります。そして、農民たちは、ぶどうの木の下やイチジクの木の下に座して平和に暮らす時が来るというのであります。
そして、国々の民は、おのおのその神の名において歩むが、私たちは、旧約聖書で一貫して出て来る万軍の主なる神の名において、永遠に歩むであろうと約束されているのであります。
 次に第二の本日の朗読個所、エフェソ2:13-18においては、キリストによってもたらされた平和が語られています。敵意という隔ての中垣を、主イエスは、十字架とその血において取り壊された。もはや、ユダヤ人も異邦人も関係なく、神と人との関係や、人と人との関係において、既に和解と一致が主イエス御自身の死を通してもたらされたというのであります。そして、ユダヤ人と異邦人を分けていた律法も、廃棄されたというのであります。
 ヘブライ語では、平和はシャロームといい、ギリシャ語ではエイレーネといいますが、聖書でのそれらの意味はただ、戦争のない時期といったものではなく、神のみがもたらすことのできる完全な状態あるいは、繁栄とか調和、秩序を意味しています。私たちは、主イエス御自身によって敵意という壁の障害物を既に取り払われているのであります。
 そして、最後に本日与えられている福音は、ヨハネ15:9-12であります。主イエスが御自身を指して、「私はまことのぶどうの木である」と譬えられたその中の一節であります。父が私を愛してくださったように、私はあなた方を愛した。あなた方は、私を愛するなら、私の命令にとどまるであろう。そして私の命令とは、あなた方がお互いに愛し合うことであるというのであります。
 私たちが、主イエスが、私たちを愛してくださったように、愛し合うならば、憎しみやそれから帰結する戦争もなくなるはずであります。しかし、現実には私たち人類は、主イエス亡き後も、なお2000年に渡って、戦争を続けて来ました。
さて、第二次世界大戦の中で、殉教者となったある韓国の牧師がいます。それは、朱基徹(チュ・キチョル)という名前の人であります。彼は、戦争中日本が韓国人にも強制した神社参拝に服しませんでした。そして、確かまだ50歳前に、最後の牧会をした平城教会のときに、日本人の刑務所に度々連行され、遂に終戦を待たずして殉教の死を遂げたのであります。彼は「造り主である主なる神のみを拝まねばならない」との十戒の教えを全うして殉教者となったのであります。彼は元来温厚な人柄で、みことばの説教に力を入れ、どこの赴任した教会も100人ほども集まるように成長させた牧師でありましたが、最期まで牧師夫人の支え・励ましや教会員の祈り、そして何よりも聖書に支えられて正しい信仰を守り抜くことができたのであります。
 私たちは、そのような先人の信仰を是非受け継いで、世界平和のためにも祈り、信仰に挺身して歩みたいものであります。ミカ書が預言したような世界平和が実現するときまで「キリストにおける平和」を追い求めていきましょう。アーメン。
 





2008/08/03(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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