津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「私が与える安らぎ」(マタイ11:25~30)
マタイ11:25-30、2008・07・27、聖霊降臨後第11主日(典礼色―緑―)
イザヤ書40:26-31、ローマの信徒への手紙7:15-25

マタイによる福音書11:25~30
 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」



説教「私が与える安らぎ」(マタイ11:25~30)

 「まさにその時、主イエスはこう言われた」と、本日の福音の記事は始まっています。すなわち、「天地の主なる父よ、あなたをほめたたえます。なぜならば、これらのことを、知恵ある者たちや賢い者たちから隠され、幼子のような者たちにそれらを啓示されたからです」と。多くの町々が、主イエスと使徒たちに聞かず、悔い改めなかったときに、主は感謝の祈りを、父にささげているのです。
 本日の記事は、前半の父なる神に向かっての祈り、11:25-27、と後半の人間たちに向かっての招きの言葉、11:28-30の二つの部分から成っています。そして、本日のこの記事の部分は、マタイ福音書の要約のなかの要約とも言われています。ちなみに、この個所は、ルターが、アイスレーベンに赴き、貴族たちの和解の仲介の労をとった後、死の数日前に最後に礼拝説教をした個所でもあります。
 本日の主イエスの言葉は、マタイが、主イエスを、新しいモーセとして捉えている部分であり、しかも、はるかにより偉大なモーセとして、主イエスを表している部分でもあります。
 主イエスにおいて、天の国、神の支配が到来していることを、この世の賢い者たち、知恵ある者たちは、必ずしも理解しませんでした。それは、現代でも、また、現代の日本でも同じことがいえるでありましょう。かえって、幼い者たちのような、ガリラヤの漁師であったような無学な者たちに、父なる神は、その神的秘密を、啓示されるのであります。「このように、父よ、御好意は、あなたの前に成りました」と主はいわれます。そして、すべてのことどもは私にゆだねられており、父以外に息子を知る者はなく、息子と息子が啓示しようと欲する者以外に父を知る者はありませんと祈られました。旧約では、モーセに神が顔と顔を合わせるようにして語られましたが、新約聖書においては、主イエスに対して、すべての啓示が神によって与えられているのであります。
 それから、主イエスは、今度は人間に向かって語られます。すべての疲れている者、重荷を負っている者は私に向かってやって来なさい。私が休ませてあげよう。それは、すべての、罪によって疲れている者たち、そしてすべて罪という重荷を負っているものは、私に向かってやってくるようにという招きの言葉であります。私たちは、主イエスのもとに、やってこない限り、罪の疲れ、罪という重荷から解放されないのであります。
 あなた方に向かって私のくびきを担いなさい、そして、私から学びなさい、すなわち、私が柔和であり、心で持って低い者であることを学びなさいとも訳すことができます。そうすれば、あなた方自身に安らぎをあなた方は見出すであろうと言われます。なぜならば、私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからであると言われます。
 モーセは、旧約聖書で最も柔和な人と言われていますが、イエスは、更に優れた、新しいモーセとして、十字架の死に至るまで父のみ旨に従順で、モーセよりもはるかに柔和で謙遜なお方であります。
 ルターは、死を前にして、自分は、神のみ言葉の哀れな乞食にすぎないと告白しました。
 私たち、すべての人間は、主イエスのところに赴かない限り、罪の縄目から解き放たれて、安らぎを得ることはできないのであります。多くの弱点や課題を、私たちはそれぞれ持っていますが、主イエスのところに行くことにより、主イエスがそれを代わって、あるいは共に担って歩んでくださるのであります。私たちも、主イエスのもとに、幼子のよう信頼して、すべてをゆだね、律法の裁きに代わる真の安息を得たいものであります。
                                  アーメン
 




スポンサーサイト
2008/07/27(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「確かな報い」(マタイ10:34~42)
マタイ10:34-42、2008・07・20、聖霊降臨後第10主日(典礼色―緑―)
エレミヤ書28:5-9、ローマの信徒への手紙6:15-23

マタイによる福音書10:34~42
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。
人をその父に、
娘を母に、
嫁をしゅうとめに。
こうして、自分の家族の者が敵となる。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。

 「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」


説教「確かな報い」(マタイ10:34~42)
 
本日の福音、マタイ10:34-42は、10:34-39と10:40-42とに、新共同訳聖書と共に、大きく二つに分けられます。前段は、艱難と家族の分裂というテーマであり、後段は、宣教者を受け入れることに関する事柄であります。本日の部分も、先々週からの12使徒の派遣に関しての文章の続きでありますが、先週までの部分が、どちらかと言えば、むしろ、宣教する者、牧師や宣教師などを念頭において考えられていたのに対して、本日の部分は、すべてのキリストに従う者、弟子、信者一般に関わる問題であります。
 主は、まず、次のように言われるのであります。あなた方は考えないように、すなわち、私が来たのは、平和を地上に投ずるためであると、そうではなく、かえって、剣を投ずるためである。なぜならば、人を彼の父に向かって背かせ、娘をその母に向かって、また、嫁をその姑に向かって背かせるために私は来たからであると。そして人の敵どもは、その家の者であると言われるのであります。これは、ミカ書の7章6節に出ている言葉でありますが、主は、ご自分が来たことによって、この言葉が実現すると的確にも言われるのであります。そして、私を超えて、父や母を愛する者は、私にふさわしくない、また、私に勝って息子や娘を愛する者も私にふさわしくない。また、自分の十字架を負って、私の後について来ない者は、私にふさわしくない。自分の命を得ようとする者はそれを失い、しかし、私のために、その命を失った者は、それを見出すであろうと言われるのであります。
 今から、私たちは、暑い夏を迎えます。そして、お盆の前後に、自分の両親に、あるいは、息子、娘に、あるいは、孫に、兄弟に会う機会が増えるでありましょう。私も、特に少しからだの弱っている父を見舞いに、一家で帰省する予定でいますが、こんなことがありました。ドイツに旅行に出る前に、父が体を非常に弱らせ、なかなか、電話も通じない、何とか近くにいる妹たちに連絡をして、父が検査入院をしたことを知って、不安なままに、ドイツ旅行に出かけたのであります。もどって、父が何とか大丈夫であることを知って、安心し、その後、時差ぼけなどもあって、しばらくそのままにしていたのであります。すると、母から電話がかかってきて、何事か、安否を訊ねる電話もしないで放っておくとは、私の妹も、私の信じているキリスト教とは一体どんな宗教なのかと言っているとすごい剣幕で怒られたのであります。
 主が、本日言われていることは、決して、親孝行をしないでいいとか、家族のことは二の次でいいと言われているのではありません。私のあげた自分の例は適当なものではないでしょう。しかし、主イエスの言葉は、実際言われているとおりなのであります。私たちが、家族に愛着を持つのは、自然なことであり、大切なことであります。けれども、主イエスとの関係を破ってまで、肉親の愛情の絆を優先することは、キリストを信じる者としてふさわしくないのであります。私たちは、家族と親しい交わりをこの夏もなさる方が多いでしょう。しかし、その場合に、本日の主イエスの言葉を思い起こしたいものであります。そして、私たちは、主イエスに従いながら、蛇のように賢く、また、鳩のように純粋で混じりけのない者でありたい。
 さて、後段では、主は、こう言われます。あなた方を受け入れる者は、私を受け入れるのであり、私を受け入れる者は、私を遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者の名へと受け入れる者は、預言者の報いを受けるであろうし、正しい者を正しい者の名へと受け入れる者は、正しい者の報いを受けるであろう。そして、これらの小さい者の一人に弟子の名へと冷たいものの一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、彼の報いを失うことはないであろう、と。
 これらの小さい者とは、キリストの弟子たち、私たちすべてのことであります。私たち小さい信者を、受け入れる者、すなわち、冷たいものの一杯を飲ませてくれたり、あるいは、私たちの言う言葉を受け入れる者も、その報いを失うことはないであろうと、主は約束してくださっています。
 ですから、私たちは、自分でできる限りの主イエスの証しをすればよいのであります。また、宣教者、牧師や宣教師や伝道師につめたい水一杯でも飲ませて、もてなし、支える者がいるならば、その者もまた、それによっても、預言者、正しいことを教える教師、あるいは、いと小さき者、その人と同じ報いに与ることが主によって約束されているのであります。信者の人の中にも教会にこれない人もおられます。しかし、私たちをもてなし、私たちの証しする主のお言葉を受け入れる人もまた、確かな報いに与ると主は約束してくださっています。
 私たち、信者、すべての信者は、それぞれ、自分の十字架を負い、主に従って歩みつつ、悩み、苦しみを体験しなければなりませんが、主イエスが主のお言葉を語る者、聞く者、すべての信者に、確かな報いを約束してくださっています。私たちはそれに慰めと励ましを与えられて、この夏も主イエスを自分なりに証しする時としたいものであります。そしてそのときにこそ、この世の他のものでは得られない、真の喜びが与えられるのであります。アーメン。

2008/07/20(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「魂といのちの主」(マタイ10:16~33)
マタイ10:16-33、2008・07・13、聖霊降臨後第9主日(典礼色―緑―)
エレミヤ書20:7-13、ローマの信徒への手紙6:1-11

マタイによる福音書10:16~33
 「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。
 弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼベルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」

 「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

 「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」




説教「魂といのちの主」石居基夫牧師(日本ルーテル神学校)
 
今日の聖書の個所は、イエス様が12人の弟子を遣わされる、そのときのみ言葉を記しています。12人の使徒と呼ばれた弟子たちは、実際にこのときにイエス様のこのみ言葉によって弟子としての働きを担って、それぞれの場所に遣わされて行ったでありましょうし、また、おそらく、後にイエス様に従う生涯を生きていく長い歩みの中で繰り返し、このイエス様のみ言葉を思い起こし、立たされてきたのではないかと思うのです。この福音書を記したマタイもまた、この同じイエス様のみ言葉によって、生かされてきたのではないか。そのように思われる。そしてまた、私たち自身も、この主のみ言葉によって、生かされていく。そのように言うことができましょう。
 しかし、このみ言葉は、イエス様に従う者、その生涯の歩みに対して、幸せに満ち溢れたような約束が語られているかというと、そうではなく、むしろ従いゆく者に当然のように待ち構えている艱難、その厳しさということを語っている。これはいったいどういうことなのでしょうか。「あなた方を遣わすこと、それはオオカミの群れの中に羊を送り込むようなものだ。」イエス様はそのように言われているのです。いのちの危険が迫ってくるようなそういう状況が、あなた方を待ち構えているだろう。と言われているわけですから、驚くようなみ言葉です。
 もちろん、私たちは、この後に、イエス様ご自身も十字架に架けられることを知っていますし、また、この弟子たち、そしてこれに続く時代にイエス様に従う歩みを生きた最初のキリスト者たちがどれほど、ユダヤ教から、また、ローマの帝国から迫害を受けたかと言うことを知っていますから、なるほど、そうした迫害を予測し、その宗教的政治的な状況の中にあっても信仰を堅く保つべき教えを語られたのだと、わかるのです。地方法院に引き渡される。それは、ユダヤ教の現実の中でやがてはイエス様をキリスト・救い主として信じることが、危険な思想、唯一のユダヤ教の神様への冒涜的な事柄だと言って捕えられ、その信仰を捨てるか、命を捨てるかと迫られることにもなる。そういう状況の中へと生きていく、生きていかざるを得ないキリスト者たちへの励ましと支えを語られているところだ、と言ってよいでしょう。主はどのような時にも、信じる者の魂を見捨てられるようなことはない。「体を滅ぼしても魂を滅ぼす力のない者を恐れるな」というみ言葉は、命に勝る価値あるものについて教えるのです。そして、そうした神様とのつながりの中で生きる力を弟子たちに教え、私たちに伝えるもの、と言っていいでしょう。
 では、もしそういう厳しさを語っているのだとしたら、私たちにとって、つまり、そうした迫害がもはや過ぎ去った時を生きる私たちにとっては、これはあまり意味のない言葉だということになるでしょうか。もちろん、今の日本はキリシタンの時代ではないので、キリスト者になって迫害を受けるというようなことは一応はないことになっている。まあ、迫害はありませんが、実際には結構面倒なこともあります。まだ、1パーセントの恨みということにもなるけれども、教会に行くというところくらいまでは良くても、洗礼を受けたいなどと表明しようものなら、それはやめなさいと言われないわけじゃあない。だから、そういう反対される状況があるので、こうした言葉は、そうした反対されたり、拒否されたりする信仰者の生き方をイエス様がお支えになるために語られているということであるなら、それは、まったくそのとおり。
 けれども、実は、このみ言葉は、そういう意味合いを持っているわけですけれど、もう少し考えてみると、実はもっともっとチャレンジングな意味を思わされる。
 つまり、イエス様に従って、遣わされ、生きていくということは、人・他者との間に摩擦を生み出さないではいないということです。このイエス様に従うということは、ことによると、他の人が正しいと思うこと、これが当然のことで当たり前、また、常識的で、社会的に人々から認められる生き方だとされるような生き方を歩むということにはならない、そういう生き方への招きの言葉だと言わなければなりません。
 なぜか。主に従う。それは、人がどう考えるか、あるいは社会の持っている価値観ではなくて、神様のみ言葉を大事にしていくという生き方であるからです。それは、ある意味で当然のように社会からの強い拒否の態度を受け止めなければならないということでもあり得ます。そのことは、私たちが少しく考えてみると、よくわかることです。

 糸賀一雄という人が戦後の混乱の中で、知的障害を持った子どもたちのために医療と教育を兼ねた入所施設の「近江学園」をつくりました。資金も計画も十分にない中で、彼は世に訴えて、資金も集め、自ら開拓をして、その学園を作ります。もちろん、私たちは、社会福祉の中での偉大な業績として、多くのことを学ぶのですけれども、当時多くの人たちは、こうした働きにどれだけの価値があるのかと否定的な反応も少なくなかったのは当然でした。社会全体が混沌としていた時代です。なかなか容易に事が進んだわけではなかったのです。糸賀は「この子らに世の光を」ではなく、「この子らを世の光に」と訴えて、福祉の働きの重要性を訴えます。憐れみをもらう存在なのではない、この子どもたちこそ世の光なのだから、輝かせなければならないと、訴えた。彼は、キリスト者でありました。
 彼の日記が残されて、今は全集に収録されています。その中で、彼がどうしてこの働きに出かけて行ったかということが書かれています。そこには、彼がキリストの愛に押し出されてそこに行ったのだとは書いていない。彼は、この働きを通して、イエス・キリストに会いに行くのだというように書いている。
 それは、まさに、その子どもたちがキリストを表してもいるということでもあるし、また、そこにイエス様ご自身がおられるという意味かとも思う。
 私たちがキリスト者として立派な自分となって、それから、福祉の働き、人を助ける働きをしていきましょうというのではない。キリストに従う。それは、そこにキリストがその人々のために愛をもって働いてくださるのだから、その手となり足となるように招かれるということであるということでしょう。
 主が私たちを愛してくださったように人を愛することへと、私たちは主の弟子とされました。イエス様は、いったい、今どこにおられるのか。あの罪人や病人のそばに行かれて、罪の赦しを宣べ伝え、癒し、神の国を表していかれたイエス様は、私たちに先立ち、どこにおられて、招かれているのか。弱い、小さくされた者のそばにあること。その道は決して社会の中で皆から支持されるような働きでは必ずしもない。むしろ、世の中の流れに逆らうものであるかもわからない。その招きを聞いていくということを私たちは求められているのだと思う。神の義を求め、神の平和をもたらすときに人はそれを容易には受け取れないのです。なぜか。それは皆自分が神様よりも人よりも大事だからです。だから、あのときにもペトロも他の弟子たちも主を見捨てて行ったのではありませんでしたか。主の道は、誰からも、つまり私たち自身にも受け入れがたいものであり続けるのです。

 イエス様に従っていくこと、それは、ただ私たちが主を信じる者として、他の人にあまり理解されないけれども、信じていきますというようなことにとどまらない。むしろ、イエス様によって捉えられ、生かされていく。そこに私たちはキリストの愛を伝えていく者とされているのです。
 この神様のみ業を妨げるもの。それは単に信仰的に反対するという力とは限りません。むしろ、この世界の中に神様のみ心がなされることを妨げるものとして、あらゆるところに私たちを捉えようとしているのです。そこには悲しみや嘆きがあり、あるいは、羨みや嫉妬がある。そうした力は、私たちを誘惑し、私たちを外から捉えようとしているのです。旧約聖書のアダムの堕罪の物語も、またそれに続くカインとアベルの物語も、いかに巧みにそうした悪魔的な力が私たちを捉えるものか。そして、また私たちのうちに神様のみ心から離れるような力がうごめくことをよく伝えているのです。
 私たちがそうした力によって、主から引き離されようとすることを、イエス様はよく知っていてくださいます。髪の毛の一本も数えられているのであれば、私たちが弱く、そうした私たちを神様から引き離す力の中で自分を失い、あらゆる関係から切り離されてしまうものであることをもよく知っておられるのです。だからこそ、今日の、この主の弟子としての招き、また、派遣の言葉によって、私たちが本当に主の愛のうちに捉えられた者であることをイエス様は伝えてくださっているのです。どんな敵対する力の中にあっても、「その時には、言うべき言葉は教えられる。」父の霊が私たちのうちに働いてくださるというのです。私たちが神様に愛され、神様から命をいただき、主キリストによってもう一度捉えられて、生きる者であることを私たちのうちに思い起こさせてくださる。そうして、私たちが何者であるのか証しさせられていくというのです。主によって愛され、赦され、生かされるのだ。そのことこそ、イエス様のものとして生かされる不思議であり、また、希望だと信じるのです。
 主が私たちの魂といのちを守り、生かしてくださるのです。そうであれば、この招きの声に聴き、愛をもって主に従う者となっていきたいのです。今、このときにイエス様の弟子として、愛された者としての恵みを心にしていきたいのです。そして、小さな愛のともし火を掲げていく者となっていきたいのです。

2008/07/13(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「十二使徒の派遣」(マタイ9:35~10:15)
マタイ9:35-10:15、2008・07・06、聖霊降臨後第8主日(典礼色―緑―聖餐式あり)
出エジプト記19:1-8a、ローマの信徒への手紙5:12-15

マタイによる福音書9:35~10:15
 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

 イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。

 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返って来る。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」



説教「十二使徒の派遣」(マタイ9:35~10:15)

 本日は、十二使徒の派遣についてのみ言葉です。主が、十二使徒を選び、み国の福音を告げ広めようと、決心なさったのは、人々が、飼い主のいない羊どものように、悩まされ、倒れ伏しているのをご覧になり、腸を痛める思いで一杯になったからであります。み国の福音とは、何でありましょうか。それは、神が私たちの生活を支配し、統治してくださるあり方であります。2000年前の主イエスの時代も、また、現代は更に一層、神を信じることが希薄になっている時代であります。日本の現在を考えてみましても、いろいろな不正がはびこっている。しかし、そのような罪の世界に、主イエスはお出でになり、また、お一人でそれを救おうとされるのではなくて、弟子たちを選び、この世界の中へ、ご自分と同じ権能を持たせてお遣わしになるのであります。悪霊を追い出し、病人を癒し、死人をも生き返らせる、ご自分がなされるのと同じ力を弟子たちにも働かされるのであります。
 その12使徒の中には、徴税人マタイも、主を裏切ることになるイスカリオテのユダも含まれています。12人の頭と目されているのは、シモン・ペトロでありますが、12人は、一人一人のなした奇跡やはなばなしい働きについては、聖書は事細かには記していません。
 ですが、彼らは、主によって主と同じ権能を付与され、特に、マタイの教会では、イスラエルの失われた羊どものもとへ、まずは、み国の福音を告げ広めるようにと、送られるのであります。マタイは、極端とも思えるような、宣教のあり方を主イエスの口を通して勧めています。財布には、金、銀、銅貨もいれず、杖も持たず、二枚の下着も持たず、履物も持たずに出て行くようにと、主イエスは指図しています。
 そのような極端なあり方は、何を意味しているのでありましょうか。それは、ただ、主イエスのみ言葉にのみ、全面的な信頼を寄せることが重視されねばならないことを示しています。
 神学生のとき、ある信徒代表が、牧師となっていく人たちに、これからは、聖書だけを頼りに、宣教に勤しんでくださいと励ましのメッセージを、簡単に表明されているのを、私は目撃しました。また、ある教師試験の信徒の委員は、毎週、一つだけでよいから福音を見出して、説教壇に上るようにしてくださいと勧めの言葉をくださいました。
 説教をするのには、聖書の原典や、すぐれた注解書をいくつか読むことも必要であります。けれども、行き着くところは、聖書の言葉であり、主イエスのみ言葉にのみ、全信頼を寄せるということであります。
 そして、粘り強く、ある町のある人を注意深く捜してその家にとどまり、平和の祝福を祈り、より条件の良い人や待遇のよい家を次から次へと探し回るなと、主は戒めておられます。そして、次週のみ言葉ですが、鳩のように素直に、蛇のように賢くありなさいと、主は、十二使徒たちに戒めて、送り出されたのであります。これは何も牧師だけに限られた戒め、勧めではありません。私たち、キリストに先に召された者が、当然、取るべき態度、姿勢であります。私たちのとどまった家の人がふさわしければ、あなた方の祈った平和の祝福はその人の上にとどまるだろう。もしふさわしくなければ、その平和はあなた方に返って来る。その場合には、あなた方は、その家、その町を出るとき、足の塵を振り払いなさい。あなた方はなすべきことを十分に果たしたのだから、次の場所へ、後ろを振り向かないで進みなさいと言われます。私たちも、そのように、賢く、忍耐強く、周囲の人々への主イエスの証しを希望と勇気をもって実行していきたいものであります。アーメン。

2008/07/06(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。