マタイ5:38−48、2008・06・8、聖霊降臨後第4主日(典礼色―緑―)
レビ記19:17−18、コリントの信徒への手紙3:10−23
コリントの信徒への手紙一3:10〜23
わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。
だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。
「神は、知恵のある者たちを
その悪賢さによって捕えられる」
と書いてあり、また、
「主は知っておられる、
知恵のある者たちの論議がむなしいことを」
とも書いてあります。ですから、誰も人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。
説教「救いの礎、イエス・キリスト」(コリント一 3:10〜23)原拓也牧師
レビ記19:17〜18について、レビ記は「律法」と言われているモーセ五書の三番目に置かれており、その目的は「約束の地に向かうに当たり、イスラエルが神の民として整えられる」事である。その中で今日の日課の19章は「十戒」を具体的に示したものとして知られている。
19章は、1〜8節で「神を懼れて生きる」事について、9〜18節で「人を愛して生きる」事について教えている。キリストはこの18節後半を「人間関係の基本」としておられる。この部分を通して、私たちは、「クリスチャンは、神の民の中で愛の交わりを通して成長し、成熟してゆく者」であることを知る。
次にマタイ5:38〜48であるが、この部分は「山上の説教」と言われるキリストの教えの一部であり、「人々の中での信仰者のあり方」を教えている。
その教えの中心は「キリストの弟子たちの生き方は、旧い戒めを超えた新しいものである」というところにある。
この日課を含む21〜48節において、特徴的に用いられている一つの表現がある。それは「あなた方も聞いている通り・・・しかし私は言っておく・・・」という言葉であり、ここでは「私」が非常に強調されている。
あたかも、「律法は・・・言っている」或いは「律法は・・・命じている」「しかし、私は(敢えて)言う、・・・・」と語っておられるようである。
ここでは、律法を無視するのではなく、律法を超えた生き方が教えられている。―――-「聞いている事(律法、規範)」を単純に守る事と、それを「自分のもの」として消化して生きてゆく事とは、外観は似ていても質的には大きな違いが有る。キリストが教えていらっしゃるのは「自由に生きているけれども、律法には抵触しない生き方」である。
この教えを突き詰めてゆくと「完成された生き方」となる。(43〜48節)。
「天の父が完全であられるように、あなた方も・・・・」これが聖さではなく隣人を差別しない生き方として言われているとしても、私たちは自分自身がそのような者でないことを告白せざるを得ない。そしてその思いは私たちを自分への失望、救いへの疑いや不安へと導いて行きやすい。
このような者に向かってルターは次のように言っている。「あなたが自分の罪に驚愕したなら、何時までもそこに留まっていてはならない。そこから他のもの(福音)に移らねばならない。そうでないと絶望してしまう」と。
そこで、私たちも「コリントの信徒への手紙一」に移ってゆこう。
コリントの信徒への手紙一3:10〜23(10〜15節のみを取り扱う)
ここでは「神の前での信仰者のあり方」が教えられている。10〜12節に「土台はイエス・キリストであり、その上に各人が建てる」と言われる。この部分を概観してみよう。
10〜11節=「土台」はイエス・キリストである。この「土台」という語はヘブライ人への手紙6:1〜2では「基本の教え」と言われているように、揺るがす事のできない「基礎」という意味を持っている。
12節=クリスチャンの人生は、この土台の上に建てられる。クリスチャンの人生は、この土台の上にのみ成り立つものであって、これ以外のところにクリスチャン生活は存在しない。
13〜14節=各人の人生は「かの日」に明らかに(評価)される。私たちの人生の価値(質)は外観からは判断できないものであり、「かの日」に主によって評価され、「報い」か「損害」が与えられる。
この「報い」と「損害」についてはここでは具体的に何も言われていない。ただ一つハッキリしているのは、この両者とも「救い」とは別問題という事である。
14〜15節=救いの確かさ。すべてのものが焼き尽くされても「土台」は残る。――自身の後にも、火事の焼け跡にも。
この「土台」はイエス・キリストであるから、「その人は・・・救われる」と聖書は断言する。
使徒言行録4:12で「ほかの誰によっても、救いは得られません・・・」と聖書が言うとき、「この方によるならば、人はすべて救われる」という事も言われているのである。
ルターは「私が神の国に入った時に驚くことが二つある。その一つは、あの人は必ず神の国に入っているだろう、と思っていた人が来ていないことであり、もう一つは、(この)私がここに来たということである」と言っているが、私たちは「救いの礎はイエス・キリストのみである」という信仰によって、救いの確信と神に対する平和を持っている。
アーメン。
レビ記19:17−18、コリントの信徒への手紙3:10−23
コリントの信徒への手紙一3:10〜23
わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。
だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。
「神は、知恵のある者たちを
その悪賢さによって捕えられる」
と書いてあり、また、
「主は知っておられる、
知恵のある者たちの論議がむなしいことを」
とも書いてあります。ですから、誰も人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。
説教「救いの礎、イエス・キリスト」(コリント一 3:10〜23)原拓也牧師
レビ記19:17〜18について、レビ記は「律法」と言われているモーセ五書の三番目に置かれており、その目的は「約束の地に向かうに当たり、イスラエルが神の民として整えられる」事である。その中で今日の日課の19章は「十戒」を具体的に示したものとして知られている。
19章は、1〜8節で「神を懼れて生きる」事について、9〜18節で「人を愛して生きる」事について教えている。キリストはこの18節後半を「人間関係の基本」としておられる。この部分を通して、私たちは、「クリスチャンは、神の民の中で愛の交わりを通して成長し、成熟してゆく者」であることを知る。
次にマタイ5:38〜48であるが、この部分は「山上の説教」と言われるキリストの教えの一部であり、「人々の中での信仰者のあり方」を教えている。
その教えの中心は「キリストの弟子たちの生き方は、旧い戒めを超えた新しいものである」というところにある。
この日課を含む21〜48節において、特徴的に用いられている一つの表現がある。それは「あなた方も聞いている通り・・・しかし私は言っておく・・・」という言葉であり、ここでは「私」が非常に強調されている。
あたかも、「律法は・・・言っている」或いは「律法は・・・命じている」「しかし、私は(敢えて)言う、・・・・」と語っておられるようである。
ここでは、律法を無視するのではなく、律法を超えた生き方が教えられている。―――-「聞いている事(律法、規範)」を単純に守る事と、それを「自分のもの」として消化して生きてゆく事とは、外観は似ていても質的には大きな違いが有る。キリストが教えていらっしゃるのは「自由に生きているけれども、律法には抵触しない生き方」である。
この教えを突き詰めてゆくと「完成された生き方」となる。(43〜48節)。
「天の父が完全であられるように、あなた方も・・・・」これが聖さではなく隣人を差別しない生き方として言われているとしても、私たちは自分自身がそのような者でないことを告白せざるを得ない。そしてその思いは私たちを自分への失望、救いへの疑いや不安へと導いて行きやすい。
このような者に向かってルターは次のように言っている。「あなたが自分の罪に驚愕したなら、何時までもそこに留まっていてはならない。そこから他のもの(福音)に移らねばならない。そうでないと絶望してしまう」と。
そこで、私たちも「コリントの信徒への手紙一」に移ってゆこう。
コリントの信徒への手紙一3:10〜23(10〜15節のみを取り扱う)
ここでは「神の前での信仰者のあり方」が教えられている。10〜12節に「土台はイエス・キリストであり、その上に各人が建てる」と言われる。この部分を概観してみよう。
10〜11節=「土台」はイエス・キリストである。この「土台」という語はヘブライ人への手紙6:1〜2では「基本の教え」と言われているように、揺るがす事のできない「基礎」という意味を持っている。
12節=クリスチャンの人生は、この土台の上に建てられる。クリスチャンの人生は、この土台の上にのみ成り立つものであって、これ以外のところにクリスチャン生活は存在しない。
13〜14節=各人の人生は「かの日」に明らかに(評価)される。私たちの人生の価値(質)は外観からは判断できないものであり、「かの日」に主によって評価され、「報い」か「損害」が与えられる。
この「報い」と「損害」についてはここでは具体的に何も言われていない。ただ一つハッキリしているのは、この両者とも「救い」とは別問題という事である。
14〜15節=救いの確かさ。すべてのものが焼き尽くされても「土台」は残る。――自身の後にも、火事の焼け跡にも。
この「土台」はイエス・キリストであるから、「その人は・・・救われる」と聖書は断言する。
使徒言行録4:12で「ほかの誰によっても、救いは得られません・・・」と聖書が言うとき、「この方によるならば、人はすべて救われる」という事も言われているのである。
ルターは「私が神の国に入った時に驚くことが二つある。その一つは、あの人は必ず神の国に入っているだろう、と思っていた人が来ていないことであり、もう一つは、(この)私がここに来たということである」と言っているが、私たちは「救いの礎はイエス・キリストのみである」という信仰によって、救いの確信と神に対する平和を持っている。
アーメン。
2008/06/08(日) 10:30:00| 未分類|
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