津田沼教会 牧師のメッセージ
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「罪人を招くために」(マタイ9:9~13)
マタイ9:9-13、2008・06・29、聖霊降臨後第7主日(典礼色―緑―)
ホセア書5:15-6:6、ローマの信徒への手紙5:6-11

マタイによる福音書9:9~13
 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」


説教「罪人を招くために」(マタイ9:9-~13)
 
私たちは、ひとまず、マタイによる福音書の5~7章の山上の説教を終えて、本日は、マタイが主イエスによって、呼ばれ、それに対して、従って行った出来事、そしてそれに関わる主イエスのお言葉を、短く9:9-13において与えられています。
 この出来事は、共観福音書のいずれにも、記されていますが、マルコの記事を下敷きのようにして書かれたマタイは、不適切な部分、記事は省略したり、あるいは逆に、旧約聖書のホセア書の、本日の第1の朗読で読まれた言葉を加えたりしています。
 この出来事が、マタイ福音書記者の自分に関わる記事だとすると、徴税人であったマタイは、この記事を特に一生忘れられない記事として書き上げたに違いありません。
 マタイは、主イエスが、その通りがかりに、マタイという徴税人が、机に向かって座っているのを目にして、私に従ってきなさいと言われたときに、すぐに、主イエスに従ったと記しています。マルチン・ルターは、父母の家からエルフルト大学に戻ろうとしたときに、落雷にあい、聖アンナさま、私は修道士になりますと誓ったその若き日の体験を一生忘れなかったといいます。私たちも、自分が洗礼を受けたときの出来事を一生忘れるべきではないでしょう。私にも、辛い体験が重なり、27歳の復活祭の日に洗礼を受けたのでした。ルターのような純粋な思いから、洗礼を受けたとはいえません。しかし、どのような経過から洗礼を受けたとしても、主イエスによって、教会へと呼ばれて、あなたに従いますと応じたことには変わりはないと思います。私の同級生たちも同窓会などであいますと、いろいろな体験をしています。そして、特に、辛い体験、病気とか、死にそうな目にあったとか、必ずしも順調に人生が開けなかった人のほうが、より深く人生を味わい、より素敵な大人になっているのを目にします。
 さて、本日のマタイは、人々から軽蔑される徴税人でありました。たとえ、裕福であったとしても、特に、ファリサイ派のような律法をこと細かく守って生きている人々からは後ろ指をさされ、実のところは暗闇の中に生きていたでありましょう。そんなマタイを見て、主イエスは私についてきなさい、私の弟子にしようと言われたのです。
そして、大勢の徴税人や罪人を家に集めて、主とその弟子たちと共に食事を一緒にしつつあったのであります。それを見たファリサイ派どもは、あなた方の先生はなぜ罪人と共に親しい仲間としての食事を共にすることをしているのかと質問します。主は、それを耳にして、医者は丈夫な者にはいらない、かえって、病弱な者に必要なのであると応えられ、私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招く、呼ぶためであるといわれ、その前に、「私が求めるのはいけにえではなく、憐れみである」というホセア書の本日の第1の朗読で読まれた言葉をあなた方は言って学びなさいと説かれたのであります。
罪を赦す権威のある主イエスが言われる言葉であります。私たちが礼拝に集まるのも、いけにえや祭儀のためではなく、週ごとに、罪の赦しを受け、神の憐れみに与るためであります。そして、私たちは、健康である限り、死ぬときまで、日々、罪を悔い改めながら、いわば、洗礼を絶えず思い起こしながら、いわば洗礼を一生あらたに体験しながら、残りの人生を隣人の助けと神に仕えるために生きるのであります。アーメン。



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2008/06/29(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「すべてはキリストの土台の上に」(マタイ7:15~29)
マタイ7:15-29、2008・06・22、聖霊降臨後第6主日(典礼色―緑―)
申命記11:18-28、ローマの信徒への手紙1:8-17

マタイによる福音書7:15~29
 「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」

 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」
 イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。



説教「すべては、キリストの土台の上に」(マタイ7:15~29)
 私たちは、聖霊降臨後の主日、この緑色で表されます時期、マタイによる福音書を通して、主イエスの語られたお言葉や、なさった働きについて学んでいきます。そして、ここのところ、マタイ福音書5-7章の山上の説教から、主イエスのお言葉を学んできました。
 本日与えられています福音、マタイ福音書7:15~29は、その締めくくりに当たる山上の説教の最後の部分であります。
 主は、外側は、羊の覆いをしているが、内部は、貪欲な狼である者たちに気をつけなさいと言われます。私たちは、すべての人々に、救い主キリストを宣べ伝えたいと願っていますが、この世の中には確かに、貪欲な狼のような人々も混じっており、それは、恐らく世界の終わりの日までそのようでありましょう。
 主は続けて、人はすべてそのもたらす実で、その人がいかなる人間であるか判断することが出来ると言われます。ばらが、ぶどうの実をもたらすことはないし、あざみが、イチジクの実を結ぶこともない。すべて、良い木はみごとな実をもたらし、腐った木はみごとな実をもたらすことはないと言われます。すべて良いりんごの木はよいりんごの実をもたらす。腐った悪いりんごの木からみごとなりんごの実をもたらすことはないのであります。
 そして、主イエスは、すべて主よ、主よと私に言う者が天の国に入るのではない。彼らは言うであろう。私たちは、神の啓示を宣言しましたし、奇跡の働きをもなしてきましたと。しかし、私は、あなた方を知らない、不法を行う者たちよ、私から離れ去れと言うであろう。そして、なぜあなた方は、主よ、主よと言いながら、天の父のご意志を行わないのかと私は言うだろう。それゆえ、私の言葉を聞いて行う者は、次の人のように譬えられよう、と言われ、それは、分別のある人で、彼は、岩に向かって基礎を置いて家を建てた人である。大雨がくだり、川がやって来、風が起こり、その家に打ち付けたが、その家はびくともしなかったのであると言われ、逆に、私の言葉を聞いて行わない者は、次の愚かな人に似せられようと言われます。すなわち、彼は、砂の上に自分の家を建てたのであり、大雨がふり、風が吹き、その家にたたきつけた。すると、その家の崩壊は大きなものだったのであると言われます。そして、これを聞いていた群集は主イエスの言葉に圧倒されていた。なぜなら、彼らの律法学者のようにではなく、権威を持つ者のように、主は教えておられたからであると、締めくくられています。
 私たち、ルターの足跡を求めてドイツの北から南へとドイツを巡る旅をここ11日間を7名で無事終えることが出来ました。ルターは、「信仰のみ」を言った人です。それは、行いはどうでもよいということではまったくありません。すべてのことを、聖書にのっとって、信仰にのっとって、そこから初めて、真のよき働き、行いがあふれ出ざるを得ないとルターは言ったのです。ローマ教会から帝国アハト刑を受け、命の保障もなく、教皇からは破門されて、しかし、幸いにも優れた諸侯たちに守られて、宗教改革の働きが、ルターを中心になされていきました。私たちは、ルターと共に、信仰の原点に立ち返りながら、全てのことをキリストの土台の上に見定めながら歩むとき、よいりんごの木が見事なりんごの実をもたらすことを信じて生きていけます。アーメン。
2008/06/22(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神さまを信頼して」(マタイ6:24~34)内海望牧師
マタイ6:24-34、2008・06・15、聖霊降臨後第5主日(典礼色―緑―)
イザヤ書49-13-18、コリントの信徒への手紙一4:1-13

マタイによる福音書6:24~34
 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
 
 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自ら思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」



説教「神さまを信頼して」(マタイ6:24~34)内海望牧師

福音書の日課を通して御言葉を聞きたいと思います。
 イエスさまは、『「何を食べようか何を飲もうか」あるいは「何を着ようか」ということで悩むな』とおっしゃるのです。それよりも「命」そのものに目を向けよとおっしゃるのです。これは「死を覚えよ」とも言うべき厳しいみ言葉ですが、反面、私たちを日常の思い煩いから解放するみ言葉でもあります。
 私たちは、日常生活のこまごました思い悩みで心がいっぱいになるときがあります。思い煩いの種は、一つ一つは小さいことであっても、絶え間なく次々に起こり、私たちの神経を苦しめます。その結果、私たちは疲れ果ててしまうのです。
 イエスさまは、このような思い煩いに振り回されている私たちに「空の鳥を見よ。」とおっしゃいます。神さまがお造りになった広々とした世界に目を向けよという意味です。
 「神さまを信じる者」は、顔をあげて「命の与え主」である方に心を向けることが出来るのです。その時、私たちは目の前の「思い煩い」から自由にされ、新鮮な空気を胸一杯に吸い込むような経験をします。心に新しい生命の息吹が注がれる喜びです。聖霊の息吹と言ってもよいでしょう。このような経験は信じる者の特権です。
 そこに何が見えて来るでしょうか。それは、「命の与え主」である神さまの一貫して変わらない「人間への愛」です。
 ここで、第一の日課に目を転じましょう。イザヤ49:13以下です(1143頁)。ここにはあふれる喜びの歌が奏でられています。「天よ、喜べ・・・」という言葉で始まる喜び溢れる歌声があたりを満たします。
 この個所は、14節にあるように、「もう神さまからも見捨てられた」と絶望していた捕囚の民に、その絶望に逆らって神さまの救いの御手が伸ばされていたことを経験した民の賛歌です。
 ここで、神さまは力強く約束をして下さいます。人間の愛の中では最も強い母親の愛でも、ときにはくず折れてしまうこともあろう、しかし、「わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたを わたしの手のひらに刻みつける。」とおっしゃって下さるのです(15、16節)。
 これは、何としても忘れずに、私たちの心にしっかりと刻み込んでおきたいみ言葉です。そして、この約束の言葉が、今日の福音書の日課であるイエスさまの「山上の説教」にこだましているのです。確かに、この神さまの愛は、この教会、私たちの群れに生きて働いているのです。
 この愛を信じていたからこそ、使徒パウロは最も苦しい試練の中で、「四方から苦しめられても生き詰まらず、途方に暮れても失望せず、打ち倒されても滅ぼされない。」と力強く語ることが出来たのです(コリント二4章8節以下)。
 「神さまの愛を信じる」ということは、このような強さが身に着くということではないでしょうか。
 さて、福音書に戻ります。
 私たちはしばしば人間の力では変えることの出来ない事柄に悩んでいます。マタイ6:27節でイエスさまは「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでものばすことができようか。」とおっしゃいます。確かにそうです。私たちは人生を手中にしてはいません。「命」は「私の所有物」ではありません。命の長さ(寿命)は、人間の努力では変えることは出来ない事実です。それでは絶望すべきでしょうか。そうではありません。私たちは、命の創造者であり、与え主である神さまの愛の約束を信じることが出来るのです。
 イエスさまは、「あなたがたは価値あるものではないか」とおっしゃいます。神さまは、創造された世界のすべてのものを「極めて良かった」とおっしゃったのです。人間が神さまの命令にそむき、罪の中に生きるようになっても、神さまは「良きもの」として人間を愛し続けて下さったのです。
 「神はその独り子をお与えになったほどに、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と書かれています。事実、イエスさまは私たちが永遠の命を」生きるように、その十字架の血によって私たちの罪を洗い清めて下さったのです。
 このように考えると、聖書の歴史は、神さまの信実(誠意)と人間の不信実とのせめぎあいの歴史なのです。そして、ついに神さまの誠実さが御子イエス・キリストの十字架の愛によって最終的に貫き通されたのです。そして、私たちが古い自己に死に、新しい私として復活する道筋を作って下さったのです。この神さまの御子の命をかけた誠実に信頼しましょう。
 こんなにまで愛し通してくださった神さまに対して、私たちはどうすべきでしょうか。心から感謝し、感謝のうちに悔い改めることこそ、復活の命に生きる道ではないでしょうか。「感謝のうちに悔い改める」のです。何故ならイエスさまは「悔い改めたら赦す」とはおっしゃっていないのです。私たちが罪に沈んで自分中心に生きているときに既にイエスさまは十字架に死んで下さったのです。「先手を打たれる神さま」の姿がここにあります。
 この愛によって生かされている者として、神さまの約束を信頼し、すべての思い煩いから解放され、喜びの日々を過ごそうではありませんか。その時、私たちの喜びは、愛となって隣人の間にも広がっていきます。

   
2008/06/15(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「救いの礎、イエス・キリスト」(コリント一3:10~23)原拓也牧師
マタイ5:38-48、2008・06・8、聖霊降臨後第4主日(典礼色―緑―)
レビ記19:17-18、コリントの信徒への手紙3:10-23

コリントの信徒への手紙一3:10~23
 わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。
 だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。
 「神は、知恵のある者たちを
   その悪賢さによって捕えられる」
と書いてあり、また、
 「主は知っておられる、
  知恵のある者たちの論議がむなしいことを」
とも書いてあります。ですから、誰も人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。



説教「救いの礎、イエス・キリスト」(コリント一 3:10~23)原拓也牧師
 
 レビ記19:17~18について、レビ記は「律法」と言われているモーセ五書の三番目に置かれており、その目的は「約束の地に向かうに当たり、イスラエルが神の民として整えられる」事である。その中で今日の日課の19章は「十戒」を具体的に示したものとして知られている。
 19章は、1~8節で「神を懼れて生きる」事について、9~18節で「人を愛して生きる」事について教えている。キリストはこの18節後半を「人間関係の基本」としておられる。この部分を通して、私たちは、「クリスチャンは、神の民の中で愛の交わりを通して成長し、成熟してゆく者」であることを知る。
 次にマタイ5:38~48であるが、この部分は「山上の説教」と言われるキリストの教えの一部であり、「人々の中での信仰者のあり方」を教えている。
 その教えの中心は「キリストの弟子たちの生き方は、旧い戒めを超えた新しいものである」というところにある。
 この日課を含む21~48節において、特徴的に用いられている一つの表現がある。それは「あなた方も聞いている通り・・・しかし私は言っておく・・・」という言葉であり、ここでは「私」が非常に強調されている。
 あたかも、「律法は・・・言っている」或いは「律法は・・・命じている」「しかし、私は(敢えて)言う、・・・・」と語っておられるようである。
 ここでは、律法を無視するのではなく、律法を超えた生き方が教えられている。―――-「聞いている事(律法、規範)」を単純に守る事と、それを「自分のもの」として消化して生きてゆく事とは、外観は似ていても質的には大きな違いが有る。キリストが教えていらっしゃるのは「自由に生きているけれども、律法には抵触しない生き方」である。
 この教えを突き詰めてゆくと「完成された生き方」となる。(43~48節)。
 「天の父が完全であられるように、あなた方も・・・・」これが聖さではなく隣人を差別しない生き方として言われているとしても、私たちは自分自身がそのような者でないことを告白せざるを得ない。そしてその思いは私たちを自分への失望、救いへの疑いや不安へと導いて行きやすい。
 このような者に向かってルターは次のように言っている。「あなたが自分の罪に驚愕したなら、何時までもそこに留まっていてはならない。そこから他のもの(福音)に移らねばならない。そうでないと絶望してしまう」と。
 そこで、私たちも「コリントの信徒への手紙一」に移ってゆこう。
コリントの信徒への手紙一3:10~23(10~15節のみを取り扱う)
 ここでは「神の前での信仰者のあり方」が教えられている。10~12節に「土台はイエス・キリストであり、その上に各人が建てる」と言われる。この部分を概観してみよう。
 10~11節=「土台」はイエス・キリストである。この「土台」という語はヘブライ人への手紙6:1~2では「基本の教え」と言われているように、揺るがす事のできない「基礎」という意味を持っている。
 12節=クリスチャンの人生は、この土台の上に建てられる。クリスチャンの人生は、この土台の上にのみ成り立つものであって、これ以外のところにクリスチャン生活は存在しない。
 13~14節=各人の人生は「かの日」に明らかに(評価)される。私たちの人生の価値(質)は外観からは判断できないものであり、「かの日」に主によって評価され、「報い」か「損害」が与えられる。
 この「報い」と「損害」についてはここでは具体的に何も言われていない。ただ一つハッキリしているのは、この両者とも「救い」とは別問題という事である。
 14~15節=救いの確かさ。すべてのものが焼き尽くされても「土台」は残る。――自身の後にも、火事の焼け跡にも。
 この「土台」はイエス・キリストであるから、「その人は・・・救われる」と聖書は断言する。
 使徒言行録4:12で「ほかの誰によっても、救いは得られません・・・」と聖書が言うとき、「この方によるならば、人はすべて救われる」という事も言われているのである。
 ルターは「私が神の国に入った時に驚くことが二つある。その一つは、あの人は必ず神の国に入っているだろう、と思っていた人が来ていないことであり、もう一つは、(この)私がここに来たということである」と言っているが、私たちは「救いの礎はイエス・キリストのみである」という信仰によって、救いの確信と神に対する平和を持っている。
                                  アーメン。








2008/06/08(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「天の国に入るために」(マライ5:21~37)
マタイ5:21-37、2005・05・29、聖霊降臨後第2主日、
申命記30:15-20、コリントの信徒への手紙一 2:6-13

マタイ福音書5章21節~37節
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」

 「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」




説教「天の国に入るために」(マタイ5:21~37)
 
先週から、私たちは、聖霊降臨後第2主日以降に入り、緑の色で表されます一年の教会暦の後半を歩み始めています。緑は、ノアの箱舟から放たれた鳩が、陸地を見つけて、オリーブの葉を咥えて帰って来たことに示されているように、神にある希望を表しています。時、折りしも、新緑のまぶしい季節でもあります。
 私たちは、先週から、再びマタイに戻り、主の山上の説教から、先週は、「あなた方は地の塩であり、世の光である」との力強い主の言葉を聞き始めたのであります。そして、本日は、同じ山上の説教からマタイ5:21-37が与えられています。これは、幾つかの主の語られたお言葉を、編集したものでありましょう。
 私たちの常用しています新共同訳聖書は、丁寧に小見出しをつけ、間隔もおいてあって非常に読みやすくなっています。
 本日の言葉も、その幾つかの内容に従って、まず、怒ってはならないと小見出しがついており、さらに、姦淫について、そして、離縁すなわち離婚についてとあり、最後は、誓うことなかれ、という内容として要約されているのであります。それらを、順に追いながら、本日の主のお言葉をご一緒に味わっていきたいと思います。
 まず、怒ってはならないとの主のお言葉であります。あなた方は聞いている、すなわち、昔の人々に、「あなたは、殺してはならない」と言われているのを、と始まります。これは、ギリシャ語の原文では「あなたは、殺さないであろう」と書かれているのでありまして、あなたは、殺すことはないと、神が約束してくださっているとも読めるのであります。
 しかし、そのモーセが授かった十戒の一つに対して、「しかし、私はあなた方に語る、だれでも、その兄弟に対して、怒る者はすべて、法廷に対して責任があるであろう」とまず、主は語り始められるのであります。この「しかし、私は言っておく」と主は語り始められれているのですが、これは、私は旧約の命令を無効にすると言われているということでは決してありません。「デ」という接続詞ですが、これは、日本語の「で」にちょうど当たるものであります。「で、さらに私は旧約の言葉を強め・徹底して言っておこう」と主は言われるのであります。本日の「しかし、私は言っておく」というのはすべて、そういう意味であります。旧約聖書を不要にするために、破棄するために、主はお出でになられたのではありません。旧約を成就し、さらにそれを行き渡らせるために、メシアとして私は来たのであると言われるのです。 主は続けられます。だれでも、その兄弟に対して、「あほう、ぼんくら頭」と言う者は、最高法院に対して責任を持つであろう、また、その兄弟に対して、「愚か者」と言うものは、火のゲーナへと、火の地獄へと責任を問われようとその神の前における責任は激しくなる怒りのその言葉に応じて高められるのであります。私たちは、兄弟に、とありますから、特に、教会において、兄弟姉妹であるはずなのに、侮辱されたり、誤解されたりするときに、相手をなかなか赦せないのであります。しかし、神の前で、兄弟を怒るときには、人を殺すのと同じように、いや、それ以上に責任は重いと、主は赦しを促されるのであります。 次の、祭壇の前で、ある兄弟が自分に対して何か持っているのを思い起こしたなら、ささげ物をおいて、まず、その兄弟のところに行って、和解をしてから、ささげものをするように、主は言われます。また、あなたの裁判での敵対者、あなたを訴えるものと、共に道にある者は、まずはとにかく、彼に好感をもたれるようにあれと、忠告なさいます。これらは、相手が逆に私たちに対して怒っているときにどうすべきかということでありましょう。 そして、相手と仲直りしていないと、あなたは、裁判官に渡され、その補佐に渡され、獄へと投じられて、最後の1カドランス、2レプトン、200円くらいでありましょうか、その最後のものまで払い戻さないと、そこから出られないだろうといわれるのであります。 
さて、次は、姦淫についてであります。「あなたは姦淫しないだろう、姦淫してはいけない」といわれている。で、さらに、私は言おう、人妻に向かって性欲を向けて見る者は、既にその心の中で姦淫を犯したのであると言われます。性欲それ自体がよくないとか、禁欲せよということではありません。さらに、主は言われます。あなたの右の目があなたを罪に陥れるなら、それをえぐりなさい、そして、投じなさい。体の一部が失われても、体全体が失われないほうがあなたにどんなに有益なことか。また、あなたの右、力のあるほうの手があなたを罪に陥らせるのなら、それを切って投じなさい、あなたの体の一部が失われても、あなたの体全体がゲーナへと、地獄へと行かないほうがあなたにはるかに益であると言われるのです。他人の家庭をふみにじり、秩序をこわすことが問題なのであります。 さらに、離縁について、離婚について言われます。「あなたは、妻を離婚するときには、離婚証明書を相手に与えなさい」とあなた方は聞いている。
で、さらに、その言葉に対して、私は言っておこう、「不法な結婚でもないのに」、これは、「不貞という理由もなしに」離婚してはならないとも読めます。ゆえなく、離婚することは認められない。なぜならば、神は人を男と女とにおつくりになった。それゆえ、人は父母を離れて、妻と一体となるという言葉がまったき成就を持つためであります。
 最後に、主は「あなたは誓いを破ってはならない、偽り誓ってはならない」と昔の人に言われたことをあなた方は聞いているが、で、さらに私は、あなたがたに一切誓うなと言っておくといわれます。 天をさして誓うな、地において誓うな、そこは、神の王座であり、神の足置き台であるから。また、エルサレムへと、エルサレムに向いて誓うな、さらに、あなたの頭において誓うな、あなた方は髪の毛1本をも白くも黒くもすることはすることは出来ないからだと言われます。そして、あなた方の言葉は、「はい」に対して「はい」、「いいえ」に対して「いいえ」であれ、それら以上に出ることは悪から、あるいは、サタンから出てくるのであると言われます。これは、法廷での宣誓や、大統領就任式における宣誓のようなものまで、否定するということではもちろんありません。私たちの言葉とふるまい、一つ一つが誠実になされるなら、あえて、仰々しくむやみに誓う必要性もなくなると主イエスは知っておられるからであります。
私たちは、本日主によって挙げられている旧約の命令や勧告の言葉を、主イエスのお言葉を通して、さらに、究極的な・徹底したものにすることが出来るのであります。
祈りましょう。天の父なる神さま。私たちを旧約の義にまさる義へと主イエスのお言葉を通して深めさせてください。私たちは、弱く、罪に陥りやすいものでありますが、み子の十字架を通してのお言葉によって、今日からまた新しい生き方を出来ますように。キリストによって祈ります。アーメン。
2008/06/01(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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