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津田沼教会 牧師のメッセージ
「奥義としての三位一体の神」(マタイ28:16~20)
マタイ28:16-20、2008・05・18、三位一体主日(典礼色―白―)
イザヤ書6:1-8、コリントの信徒への手紙13:11-13

マタイによる福音書28:16~20
 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」


説教「奥義としての三位一体の神」(マタイ28:16~20)

私たちの教会暦では、復活祭と復活節が過ぎ、昇天主日が過ぎ、また先週は、聖霊降臨祭が過ぎました。そして、これからは、聖霊降臨後の季節に入り、主イエスの語られたお言葉と、なさったみ業を学んでいく教会暦は緑の時期が一年の教会暦の後半にやって来ているわけでありますが、本日、聖霊降臨後の第1主日は、ご覧のとおり、白の色を用いて、三位一体主日という特別な主日となっています。
 私たちは、毎週の礼拝、式文でも、「父と子と聖霊のみ名によって」と始め、派遣も、祝福の言葉として、父と子と聖霊のみ名によってと結んで、アーメン三唱をして1週間の生活へと戻っていくのであります。その三位一体の神について考える本日、マタイ福音書の終わりの部分、28:16~20が選ばれているのはなぜかを考えながら、しばらくご一緒に考えたいと思います。
 この部分の28:19、20は、今年の津田沼教会の主題聖句でもあります。家族など身近なところから伝道を始めていこうという標語を掲げてもいるわけですが、実際には決して思うように、身近な人々を教会に招くことは非常に難しいことを、私たちは身にしみて感じているわけであります。
 本日の部分はなぜ、三位一体主日にふさわしい個所とされているのでありましょうか。三位一体の神というのは、私たちは、いつも、口にして当然のことのように思っているわけですが、人に説明することはなかなか、難しいものであります。どこで、聞いたのか定かではないのですが、三位一体の神の説明として、たとえば、水はH2Oであって、固体であれ、液体であれ、あるいは気体であっても本質は同じものであるといった説明を聞いた覚えがあります。しかし、やはり、父と子と聖霊という三位一体の神というのは、私たちの理性や科学的常識では、理解することができないキリスト教の奥義であります。私たちが毎週のように、聖餐式のない礼拝で用いている使徒信条について、マルチン・ルターは小教理第問答書というあの小さな書物の中で、1条の父なる神の部分は、「創造について」と表題をつけ、第2条の主イエス・キリストについての部分には、「罪のゆるしについて」とつけ、第3条の聖霊についての部分の解説には、「きよめについて」というふうに見出しをつけ、要約して言っています。「父、み子、み霊」の働きをそういうふうに表題をつけています。しかし、この三一の神は、一体であって、それらの間に優劣の関係があるわけではなく、本質は同じであると言われます。位格は三つあるが、本性は同じであるというのでありますが、そう説明されても、理屈ではどうもよく私には分かりません。
 本日のマタイの記事、マタイの最後の記事でありますが、この部分は、マタイ福音書の頂点、すべての部分の要約と言われる個所であります。本日の福音のこの短い記事をもう一度、思い起こしてみましょう。それは、こういうものであります。
 「で、11人は、ガリラヤへと、そして、主が指定されていた山へと進んでいった」と本日の部分は始まります。そして、約束されていたとおり、復活の主を見たとき、彼らはひれ伏します。しかし、「疑う者たちもいた」とあります。これは、「一方で、彼らは疑った」とも訳せるのですが、11人の弟子たちのうちのある者たちは疑ったと、私たちの聖書のように訳すこともでき、その方が文脈からも自然でしょう。すると、主はこう語りつつ、しゃべられます。「すべての権威は、私に与えられている、天においても、地上でも。それゆえ、あなた方は、出て行ってすべての民を弟子としなさい」と。この「すべての民」と訳されているのは、「すべての諸国民」と訳すことができ、ユダヤ人も異邦人も世界中のすべての国民を弟子としなさいと復活の主は言われた考えることができます。アブラハムが、生まれ故郷のカルデヤのウルの辺りから出て行ったとき、主なる神が彼を祝福して、「あなたはすべての民の祝福の基になる」と約束されましたが、その約束がアブラハムの子でもある復活の主イエスによって、派遣される弟子たちを通して実現されていくことになるのであります。そして、さらに、主は言われます。「あなた方は、御父とみ子と聖霊の名へと、すなわち、三一の神のその名において、洗礼を授けつつ」と。復活の主は、私に、天においても、地上においても一切の権威、統治権、支配権を父なる神によって与えられていると言われるのであります。
 そして、さらに言われます。「あなた方は、私があなたたちに、命じておいたことを彼らがすべて守るように教えながら」と。命じておいたことというのは、主イエスの公生涯におけるあらゆる言葉であり、また、なさったあらゆる働きをも含みます。
 そして、最後にこう言われます。「見よ、私は、この世界の、あるいは、この時代の終わりまですべての日々をあなた方と共にいると約束されるのであります。そしてこの約束の言葉で、マタイ福音書は完結しているのでる」と。
 本日の復活の主との11弟子たちの出会い、そしてその主の語られた宣教の委託の命令と、いつも、すなわち、「すべての日々を」あなた方と共にいるという約束の言葉は、ダニエル書7章の14、15節を思い起こさせます。日のような老いたる者が、いわば、父なる神であり、人の子のような者が、み子イエスであり、また、天使が助け、人の子にすべての権威が与えられ、すべての民がその前にひれ伏すとそこには既に記されているのであります。   
さて、本日の復活の主は、今も私たちと共におられ、あらゆる権威、統治権、支配権を父なる神によって与えられ、聖霊が今も働いて、私たちを宣教へと派遣してくださっています。昨日、新聞を読んでいましたら、アンケートで調べたところ、今の日本の20代、30代の若者たちのうち、なんと19パーセントでしたか、20パーセントくらいでしたか、それらの人たちが本気で自殺を考えたことがあるというショッキングな記事が目に入りました。この世界は一見平和な日本でも、こんなに病んでいる世界であります。
私たち、洗礼に与っている主の弟子である私たちは、自分たちも傷ついている者であるかもしれませんが、この世界の中へと出て行って、すべての民に、また、あらゆる老若男女に、主イエスが命じたことを守るように、聖書の言葉を守るように、教えていく役割を復活の主イエスから委託されているのであります。
なかなか、信仰に行動が伴わない、力の足りない私たちではありますが、主は私たちのすべての日々に、順調なときも、そうでないときも、聖霊を通して、私たちと共にいると約束されているのですから、私たちは、もう一度新たに、主のご委託に答える者とされていきたいと思います。父なる神が私たちを創造してくださり、み子を通して、私たちの罪を赦してくださり、聖霊を通して、私たちの毎日の生活をきよめてくださいます。三一の神が、私たちの生涯のすべての日々、共にいて下さいます。祈りましょう。
 天の父なる神さま。
 人知を超えたご計画によって、あなたは、私たちを通して、全人類を祝福してくださっています。聖書の言葉をできる限り毎日ひたすら読み、また、祈り、そして、あなたの立てられた教会に規則正しく集まり、キリストにつながっていく者とならせてください。欠けたところの多い、弱い私たちですが、すべての人に三一の神を知らせていく器とならせてください。キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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2008/05/18(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)