津田沼教会 牧師のメッセージ
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「あなたがたは地の塩、世の光である」(マタイ5:13~16)内海望牧師
マタイ5:13-16、2008・05・25、聖霊降臨後第2主日(典礼色―緑―)
イザや書58:1-10、コリントの信徒への手紙一2:1-5

マタイによる福音書5:13~36
 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に味気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」


説教「あなたがたは地の塩、世の光です」(マタイ5:13~16)内海望牧師
 今日の日課は驚くべき言葉で始まっています。ここでイエスさまは、「あなたがたは地の塩である。世の光である。」と断言していらっしゃるのです。私たちは、「地の塩になれ。世の光になれ。」と命じられていると読んではいないでしょうか。そうではないのです。「である」とはっきり断言されているのです。
 「あなた方は地の塩、世の光である。」と言われても、私たちは戸惑うばかりでしょう。私たちは決してそのように呼ばれるには相応しくないことを知っているからです。私たちは、「そうなりたい」と思っても、結局は自分のことばかり考える人間だからです。人前では何とかごまかせても、神さまの前で自らを正直に省みるならば、「地の塩」「世の光」どころか、「思いと、言葉と、行いによって、御前に罪を犯しました」と率直に懺悔する以外にない生活を送っているのです。
 そのような私たちであることをご存じなのに、どうして「あなたがたは地の塩である。世の光である」とイエスさまはおっしゃるのでしょうか。
 聖書には似たような言葉があります。エフェソ5:8には、パウロの言葉として「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて光となっています。光の子として歩みなさい。」と語られています。ここでも「あなたがたは、光となっています。」とはっきり断言されているのです。
 このように断言される秘密は、「主に結ばれて」という言葉にあります。私たちは暗い罪の世界に生きていたが、主であるイエスさまに結び付けられることによって光の世界に生きるものとなったのだ、という意味です。
 実は、私たちは、ここにイエスさまの驚くべき愛の決意を読み取ることが出来るのです。
 イエスさまは、「君たちを罪の中に滅びるままにしては置かない!」「君たちを罪と死の中に置き去りにはしない!」という決意をもってこの世に来られたのです。(実は旧約時代から神さまは愛の心をもって人間を見て下さっています。「怒りの神」も「愛の神」なのです。「イスラエルよ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。エゼキエル18:31.32」。イエスさまはこの神さまの御心を行ってくださった方です。
 そして、罪と死の力に捕えられ、暗闇の中を生きてきた私たちを、ご自分の側にしっかりと引きつけてくださったのです。私たちが努力(修業)して、イエスさまに近づき、結び付いたということではありません。イエスさまが来られて、私を御元に引き寄せて下さったのです。
 イエスさまの十字架の苦しみと死は、神さまと悪魔との白兵戦である、と語った人がいます。その通りです。イエスさまは、十字架と死を通して、私たちの救いのために、「罪と死の力」と天下分け目の戦いを戦って下さったのです。そして復活の勝利を収め、私たちを悪魔の力から奪い返してくださったのです。このようにして「罪と死の囚われ人であった私たち」はイエスさまに結び付けられ、再び光の子として、光の下に生きる者とされたのです。
 ですから、「あなた方は地の塩、世の光である」というイエスさまの御言葉は勝利の宣言と言えないでしょうか。
 私たちは、このイエスさまの愛に対してただ感謝するのみです。
 ルターは、このイエスさまの十字架と苦しみと死という出来事について「キリスト・イエスが世の罪を担って死にたもうた。これを知って悪魔もまた震えおののくであろう。」と語っています。この出来事は、この世界を暗闇から光に変える出来事です。世界の状況を一変させるような出来事だったのです。悪魔が震えおののくような。
 したがって、この出来事を、人間の側から見れば、それは「私たちは喜びの余り震える」としか言えないような出来事であったのです。
 私たちは、「イエス・キリストの十字架の愛」という言葉に馴れ過ぎて、恐れおののくような感動を覚えず、気軽に使ってはいないでしょうか。私たちはいつの間にか、この「イエスさまの十字架の愛」を矮小化してしまっているのです。
 逆から言えば、私たちは「罪」を小さくしてしまっているのです。イエスさまの十字架の死がなくても解決できる簡単な事柄にしてしまったのです。しかし、実は私たちは「死すべき罪人」であったのです。それは、こすっても、洗っても落ちない汚れのようなものです。人間の努力ではどうすることもできないほど私たちは罪にそまっているのです。そのためにはどうしても神さまのひとり子の犠牲という高価な代償が必要であったのです。イエスさまがご自分の血によって洗い清めて下さったのです。これより高価な犠牲はありません。それほど私たちの罪は深く心を支配していたのです。
 しかし、このイエスさまの十字架の死によって、私たちは確かに罪と死の世界から救われました。
 このことを正しく理解した悪魔が、何よりも先ず自分の滅びを自覚して震えおののいたのです。私たちは喜びに震えるのです。
 日常生活を振り返ってみれば、私たちは未だに日々罪を犯す罪人です。ルターは「原罪は鬚のように日々新しく生まれて来る」と語りました。しかし、イエスさまにしっかりと結びつけられた「罪赦された罪人」なのです。決して罪の奴隷ではありません。「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせて下さる」と詩篇記者は歌いました。確かに、私たちは暗闇の世界から「光の世界」へと移されたのです。たとえ、私たちが罪を小さくし、イエスさまの愛を縮小するような者であっても、確かにイエスさまは私たちを御許に引き寄せ、赦しを与えられたのです。
 この大きな恵みを信じるとき、私たちはじっとしておられなくなります。器としての私はあくまでも罪人ですが、ここにイエスさまは並はずれて偉大な宝、十字架の愛を収めて下さったのです。私たちの輝きでなく、このイエス・キリストの恵みによって私たちは「地の塩」「世の光」なのです。このキリストの光を覆うのでなく山の上に置くことが大切なのです。
 ルターは、「信仰とは、神の恵みに対する、生きた大胆な信頼であり、そのために千度死んでもよいと思うような信頼である。・・・信仰とは真に生きた勤勉な活動的なものであって、絶え間なしに良いことをなさないではおられないものである(なさないことは不可能)」と語っています。
 自分の善行や罪にではなく、イエスさまの愛の大きさに目を留めましょう。そこから必ず私たちは隣人へ向かっての生き生きとした愛の心がおこってくることを経験するでしょう。「世の光」であり「地の塩」であるイエス・キリストを運ぶ器としての喜びが生まれてくるのです。


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2008/05/25(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「奥義としての三位一体の神」(マタイ28:16~20)
マタイ28:16-20、2008・05・18、三位一体主日(典礼色―白―)
イザヤ書6:1-8、コリントの信徒への手紙13:11-13

マタイによる福音書28:16~20
 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」


説教「奥義としての三位一体の神」(マタイ28:16~20)

私たちの教会暦では、復活祭と復活節が過ぎ、昇天主日が過ぎ、また先週は、聖霊降臨祭が過ぎました。そして、これからは、聖霊降臨後の季節に入り、主イエスの語られたお言葉と、なさったみ業を学んでいく教会暦は緑の時期が一年の教会暦の後半にやって来ているわけでありますが、本日、聖霊降臨後の第1主日は、ご覧のとおり、白の色を用いて、三位一体主日という特別な主日となっています。
 私たちは、毎週の礼拝、式文でも、「父と子と聖霊のみ名によって」と始め、派遣も、祝福の言葉として、父と子と聖霊のみ名によってと結んで、アーメン三唱をして1週間の生活へと戻っていくのであります。その三位一体の神について考える本日、マタイ福音書の終わりの部分、28:16~20が選ばれているのはなぜかを考えながら、しばらくご一緒に考えたいと思います。
 この部分の28:19、20は、今年の津田沼教会の主題聖句でもあります。家族など身近なところから伝道を始めていこうという標語を掲げてもいるわけですが、実際には決して思うように、身近な人々を教会に招くことは非常に難しいことを、私たちは身にしみて感じているわけであります。
 本日の部分はなぜ、三位一体主日にふさわしい個所とされているのでありましょうか。三位一体の神というのは、私たちは、いつも、口にして当然のことのように思っているわけですが、人に説明することはなかなか、難しいものであります。どこで、聞いたのか定かではないのですが、三位一体の神の説明として、たとえば、水はH2Oであって、固体であれ、液体であれ、あるいは気体であっても本質は同じものであるといった説明を聞いた覚えがあります。しかし、やはり、父と子と聖霊という三位一体の神というのは、私たちの理性や科学的常識では、理解することができないキリスト教の奥義であります。私たちが毎週のように、聖餐式のない礼拝で用いている使徒信条について、マルチン・ルターは小教理第問答書というあの小さな書物の中で、1条の父なる神の部分は、「創造について」と表題をつけ、第2条の主イエス・キリストについての部分には、「罪のゆるしについて」とつけ、第3条の聖霊についての部分の解説には、「きよめについて」というふうに見出しをつけ、要約して言っています。「父、み子、み霊」の働きをそういうふうに表題をつけています。しかし、この三一の神は、一体であって、それらの間に優劣の関係があるわけではなく、本質は同じであると言われます。位格は三つあるが、本性は同じであるというのでありますが、そう説明されても、理屈ではどうもよく私には分かりません。
 本日のマタイの記事、マタイの最後の記事でありますが、この部分は、マタイ福音書の頂点、すべての部分の要約と言われる個所であります。本日の福音のこの短い記事をもう一度、思い起こしてみましょう。それは、こういうものであります。
 「で、11人は、ガリラヤへと、そして、主が指定されていた山へと進んでいった」と本日の部分は始まります。そして、約束されていたとおり、復活の主を見たとき、彼らはひれ伏します。しかし、「疑う者たちもいた」とあります。これは、「一方で、彼らは疑った」とも訳せるのですが、11人の弟子たちのうちのある者たちは疑ったと、私たちの聖書のように訳すこともでき、その方が文脈からも自然でしょう。すると、主はこう語りつつ、しゃべられます。「すべての権威は、私に与えられている、天においても、地上でも。それゆえ、あなた方は、出て行ってすべての民を弟子としなさい」と。この「すべての民」と訳されているのは、「すべての諸国民」と訳すことができ、ユダヤ人も異邦人も世界中のすべての国民を弟子としなさいと復活の主は言われた考えることができます。アブラハムが、生まれ故郷のカルデヤのウルの辺りから出て行ったとき、主なる神が彼を祝福して、「あなたはすべての民の祝福の基になる」と約束されましたが、その約束がアブラハムの子でもある復活の主イエスによって、派遣される弟子たちを通して実現されていくことになるのであります。そして、さらに、主は言われます。「あなた方は、御父とみ子と聖霊の名へと、すなわち、三一の神のその名において、洗礼を授けつつ」と。復活の主は、私に、天においても、地上においても一切の権威、統治権、支配権を父なる神によって与えられていると言われるのであります。
 そして、さらに言われます。「あなた方は、私があなたたちに、命じておいたことを彼らがすべて守るように教えながら」と。命じておいたことというのは、主イエスの公生涯におけるあらゆる言葉であり、また、なさったあらゆる働きをも含みます。
 そして、最後にこう言われます。「見よ、私は、この世界の、あるいは、この時代の終わりまですべての日々をあなた方と共にいると約束されるのであります。そしてこの約束の言葉で、マタイ福音書は完結しているのでる」と。
 本日の復活の主との11弟子たちの出会い、そしてその主の語られた宣教の委託の命令と、いつも、すなわち、「すべての日々を」あなた方と共にいるという約束の言葉は、ダニエル書7章の14、15節を思い起こさせます。日のような老いたる者が、いわば、父なる神であり、人の子のような者が、み子イエスであり、また、天使が助け、人の子にすべての権威が与えられ、すべての民がその前にひれ伏すとそこには既に記されているのであります。   
さて、本日の復活の主は、今も私たちと共におられ、あらゆる権威、統治権、支配権を父なる神によって与えられ、聖霊が今も働いて、私たちを宣教へと派遣してくださっています。昨日、新聞を読んでいましたら、アンケートで調べたところ、今の日本の20代、30代の若者たちのうち、なんと19パーセントでしたか、20パーセントくらいでしたか、それらの人たちが本気で自殺を考えたことがあるというショッキングな記事が目に入りました。この世界は一見平和な日本でも、こんなに病んでいる世界であります。
私たち、洗礼に与っている主の弟子である私たちは、自分たちも傷ついている者であるかもしれませんが、この世界の中へと出て行って、すべての民に、また、あらゆる老若男女に、主イエスが命じたことを守るように、聖書の言葉を守るように、教えていく役割を復活の主イエスから委託されているのであります。
なかなか、信仰に行動が伴わない、力の足りない私たちではありますが、主は私たちのすべての日々に、順調なときも、そうでないときも、聖霊を通して、私たちと共にいると約束されているのですから、私たちは、もう一度新たに、主のご委託に答える者とされていきたいと思います。父なる神が私たちを創造してくださり、み子を通して、私たちの罪を赦してくださり、聖霊を通して、私たちの毎日の生活をきよめてくださいます。三一の神が、私たちの生涯のすべての日々、共にいて下さいます。祈りましょう。
 天の父なる神さま。
 人知を超えたご計画によって、あなたは、私たちを通して、全人類を祝福してくださっています。聖書の言葉をできる限り毎日ひたすら読み、また、祈り、そして、あなたの立てられた教会に規則正しく集まり、キリストにつながっていく者とならせてください。欠けたところの多い、弱い私たちですが、すべての人に三一の神を知らせていく器とならせてください。キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

2008/05/18(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神の啓示の宣言」(使徒言行録2:1~21)
使徒言行録2:1-21、2008・05・11、聖霊降臨祭(典礼色―赤―聖餐式あり)
ヨエル書3:1-5、ヨハネによる福音書7:37-39

使徒言行録2:1~21
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉で話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。
「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
『神は言われる。
 終わりの時に、
 わたしの霊をすべての人に注ぐ。
 すると、あなたたちの息子と娘は預言し、
 若者は幻を見、老人は夢を見る。
 わたしの僕やはしためにも、
 そのときには、わたしの霊を注ぐ。
 すると、彼らは預言する。
 上では、天に不思議な業を、
 下では、地に徴を示そう。
血と火と立ちこめる煙が、それだ。
主の偉大な輝かしい日が来る前に、
太陽は暗くなり、
月は血のように赤くなる。
主の名を呼び求める者は皆、救われる。』



説教「神の啓示の宣言」(使徒言行録2:1~21)

 本日は、聖霊降臨祭すなわち、ペンテコステであります。本日の聖書個所、使徒言行録の中では、ペンテコステという50を意味する言葉は、五旬祭と訳されています。ユダヤ人の今でも祝っている三大祭りは、この五旬祭と過ぎ越しの祭りと、仮庵の祭り(仮小屋・スコトの祭り)であります。そして、ユダヤ教の三大祭りから、いわば、借用して、キリスト教の三大祭は、復活祭と降誕祭とそして、本日の聖霊降臨祭すなわち、ペンテコステであります。しかし、残念ながら、ペンテコステは、少なくとも日本では、降誕祭や復活祭に比べて、十分に祝われていない憾みがあります。ユダヤ人の三大祭はその意義については時代によって変遷しますが、いずれについても、やがて共通して言えるようになったことは、出エジプトを記念し、それを思い起こす祭りになったことであります。
 そして、キリスト教会はユダヤ教の三大祭にならって、主イエスの復活、主のご降誕、そして、本日の約束されていた聖霊の降臨の三つを祝うようになったのであります。
 本日は、聖霊降臨の出来事について、ご一緒に考えるために、使徒言行録2:1-21を取り上げてみたいと思います。本日のこの個所は、2:1-13と2:14-21に大きく分けることができます。それぞれの内容をもう一度思い起こしてみましょう。
 それは、主の昇天の出来事に続いて起こったものでありました。本日の個所の前半は、その出来事そのものを扱っており、後半は、聖霊降臨の出来事の結果、ペトロが、他の11人とともに立って、説教をしたその出だしの一部であります。
 前半の出来事はこういうものでありました。すなわち、五旬祭、ペンテコステ、50日が、過ぎ越しの祭りのある時点から50日経ったときのことであります。一同、120人の弟子たちであったでしょうか、彼らが一つ所に集まっていると、暴風のような物音がします。そして、一人ひとりの上に、赤い火のような舌の形をしたものがとどまったのであります。そして、彼らは、無学なガリラヤ人であったにもかかわらず、地中海を中心とした世界から、この三大祭を祝うために集まっていたユダヤ人が主であったでしょうが、各国の言葉でしゃべり始めていたのであります。
 その物音に、あるいは、弟子たちの語る声に導かれたのか、大勢が集まってきて、弟子たちがそれぞれの離散したユダヤ人などの生まれた国の言葉で神の大いなる業を語っているのを知って、恐れを持ちながら驚き、不思議に思い、あっけにとられていたのであります。そして、エルサレムに滞在していた彼らは言うのであります。私たちは、エルサレムへと、東西南北の諸々の国からやって来ているのに、自分たちの生まれた国の言語で、彼らがしゃべっているのを聞いている。これは一体何を意味するのだろうか、と。
 しかし、彼らの中のある者たちは、あのガリラヤ人たちは、甘い新しいぶどう酒に満たされているのに過ぎないと軽蔑し、あざけりながら、語っていたのであります。
 そのとき、ペトロが、11人と共に立って、堂々と声を張り上げます。同胞であるユダヤ人の皆さん、私はあなた方に知ってもらいたいことがあります。私の言う言葉に耳を傾けてください。今は朝の9時、日の出からの第3時でありますから、この者たちが酔っ払っているということはありません。実は、これらのことは、預言者ヨエルを通して言われていたことなのです、とペトロは、語りだします。それは、本日の第一の朗読で読まれたヨエル書3:1-5にある言葉でありますが、多少の変更が見られます。次のようにペトロは、ヨエル書を引用して言います。
 神はこのように言われる。終わりの日々に、私は私の霊からすべての人・肉に注ぐ。それらの日々に、あなた方の息子たちやあなた方の娘たちは、預言するであろう、と。預言というのは、神の言葉を預かるということですが、ここでは、神の啓示を宣言するということであります。さらに、ヨエル書は続けます。あなた方の若者は幻を見、あなた方の老人たちは、夢を見るであろう。さらには、私のしもべたちや女の僕たちも預言する、すなわち、神の啓示を宣言すると言うのであります。
 そして、上で天においては、太陽が闇へと変質し、月は血に変わる。そして、下では、地上で、血と火と煙の蒸気が見られる。上では、不思議なことどもを、下ではしるしどもを私は与えよう。そして、主を呼び求める者は皆、救われるだろう。
 以上のように、ペトロは、今までとは違って大胆に、そこに集まっていた人々に宣言するのであります。
 終わりの日に、神の霊がすべての人に注がれると旧約聖書で既にはっきりと約束されていた。そして、終わりの日に、主イエスがお出でになられ、私たちの罪のために十字架の死を遂げ、死に打ち勝って復活させられ、天の父の右に座られ、父と子から、聖霊、神の霊が、老若男女、また、あらゆる階級の人々に注がれる。そうすると、それを受けたすべての人は、この神の啓示、主の死と復活と昇天を大胆に宣言するようになると、旧約聖書で神が約束してくださっている。そのことが今実現して、あなた方、あらゆる国から帰ってきたユダヤ人、あるいはさらに、ここに集まっているすべての人々が見ている出来事が起こっているのだと、ペトロは大胆に説教しているのであります。そして、弟子たちは、主、メシアを呼び求める者として、主イエスと同じような不思議なわざや、しるしを行う者にこの出来事を境に変えられていったのであります。
 主の大いなる驚くべき日がやってくる前には、太陽が暗闇に、月が血に変わるであろうと、神の裁きを、ヨエルは預言していますが、しかし、主イエスの名を呼び求める者は皆救われるであろうと、悔い改めと洗礼の必要性を、主の弟子たちは全世界に向かって宣べ伝えていく者に、この日を境に変えられていったのであります。
 そのときから、2000年近く経った現代の私たちも、同じ聖霊を受けて、洗礼に与り、主のみ名による救いを宣べ伝える者とされています。そして、神の啓示、すなわち、主イエスの十字架の死と復活と昇天を通しての神の救いの計画を、人々に大胆に宣言していく者とされているのであります。教会の誕生日とも言われるこのペンテコステの日に私たちはもう一度、この日の出来事に立ち返って、ペトロたちと共に、また、パウロと共に、力強い宣教と証しに身を挺していきたいものであります。
 
天の父なる神さま。どうか、弱い土の器である私たちを、憐れんで、導いてください。私たちが社会での責任を果たしつつ、あなたの宣教の器としてこの場から遣わして下さい。
キリストのみ名によって、アーメン。

2008/05/11(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「天に上げられる」(使徒言行録1:1~11)
使徒言行録1:1-11、昇天主日(典礼色―白―聖餐式あり)
エフェソの信徒への手紙1:15-23、ルカによる福音書24:44-53

使徒言行録1:1~11
 テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。

 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」

 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終えると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」



説教「天に上げられる」(使徒言行録1:1~11)
 
本日は昇天主日であります。主は復活なさり、40日間、弟子たちのもとに現れ、色々とお教えになり、それから、本日の使徒言行録1:1-12を読みますと、ついに天に上げられるのであります。それは、私たち教会が、今や父の右に座しておられる主イエスから、力を受けるためであります。彼らは、父がお定めになった時は、今なのですかと尋ねます。しかし、主は、神の国が実現するのは、父のみがご存知であると答えられます。
 私たちは、約束された聖霊を受けるまで、座して待たなければならないのです。
さて、昨日まで全国教師会を含めると4日間にわたって、ルーテル教会の総会が開かれました。
 高齢化などに伴う、牧師の給与を捻出するのに困難をきたしています。それで、100年のブラジル移民の年に当たる本年の総会で、日本人の牧師をブラジルに派遣することはやめることにしようにしようという提案も執行部・常議員会から出されました。幸いにして、それは否決されましたが、神学校で牧師をこれから増やすように努力するが、神学生が神学校を卒業して按手を受けても、受け入れるだけの財源も持たない状態も出てくるとの心配も出てきました。
 どうすれば、このような現実的な困難を乗り越えることが出来るのでしょうか。私たちは、本日の弟子たちと同じように、地の果てまで、主イエス・キリストの生涯とそのお言葉、み業、その十字架の死とその後の復活についての証人となるだろうと、困惑する弟子たちと同様に、今も、復活の主は語っておられ、天の父の右の座につかれておられるのであります。
 主が昇天して、父なる神の右に座しておられる。昇天によって、悲しい別れが来たのではなく、主が地上のすべての教会とともに、時間と空間を越えて、その再臨の日まで、私たちに力を与え、共にいてくださることになるということが、本日の昇天の出来事の意味であります。
 そして、神の国がいつ完成されるのかは、父のほかに誰も知りません。
 私たちは、その終わりのときまで、緊張しながら、しかし、自由に、罪から解き放たれた者として、主の再臨を待ち望みつつ、主を信じて、日々なすべき働きをなさねばなりません。
 最近、徳善先生のおだしになった「マルチン・ルター、―信仰と生涯―」という本を読んでいます。ルターは、生の中で、死を予期し、死の中で生を生きる・死を克服するような生き方をしなさいと、勧めています。神が共にいてくださる。キリストが、死を克服し、十字架の死から復活して共にいてくださる。だから、聖書の言葉を信じて、要らない心配などに心を奪われないで雄々しく生きなさいと勧めています。その本の最終章、12章の中には、終わり近くに、ルターのデス・マスクの写しが描かれています。
 しっかりした、信仰に生きた人の死に顔であります。
 私たちも、そのような生き方をすることができる。それが、昇天の出来事が約束していることでもあると思います。
ルターを、ドイツのお国柄などを調べるために、ドイツを紹介するハンドブックを買って、めくっていてすぐに目に付いたのは、ルターは一人の「思想家」として、紹介されています。
 しかし、ルターは、聖書を根底から読み込み、戦い、生きていった信仰の人、説教者、牧師なのであります。そして、そのような生き方は、私たち教会に属する者のだれでもが、聖書を信じて生きていくことによって、可能ではないかと思います。
 「あなた方はなぜ、天に昇られた主イエスを仰いで立ちすくんでいるのか。あの方は、あなたたちが昇天して行ったのを見たのと、同じようにしてまた来られる」と、二人の天使は諭しました。そして、弟子たちは、約束を待ち、やがて、聖霊を受けて、地の果てまで、異邦人の中心地ローマにまで、さらには、イスパニアにまでも、この福音の証人として出て行ったのであります。私たちも、彼らと同じように、すべての人に福音をのべ伝える者として、約束されている聖霊を受けて、新たな1週間を歩みだしましょう。アーメン。
2008/05/04(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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