ヨハネ14:15-21、復活後第5主日(典礼色―白―)2008・04・27
使徒言行録17:22-34、ペトロの手紙一3:8-17
ヨハネによる福音書14:15~21
「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」
説教「父と子と助け主なる神」(ヨハネ14:15~21)
私たちは、昇天主日を除けば、本日が復活後主日の最後の主日を迎えています。そして、先週と本日の福音は、ヨハネ福音書14章の告別説教から選ばれています。これらの記事は復活の出来事そのものではありませんが、復活と大きく関わる主イエスの約束であり、この復活節に是非読まれるべき個所として、敢えてルーテル教会の復活節の個所として選ばれているのでしょう。
告別説教は、13:33で「子たちよ」と弟子たちに呼びかけられて、始まっています。世の中の親と子はいずれは、別離の時を迎えます。しかし、弟子たちと別れる主イエスは、私はあなたがたを決してみなしご、孤児のままにはしておかないと本日の個所のちょうど
中心部分で約束されるのであります。
さて、今日の記事は、「私を愛する者は私の教えを、掟を守る」とはじまり、終わりは逆に「私の掟を守る者は、私を愛する者である」という言葉となっています。
私の掟、教えとは、まず私たち弟子が互いに愛し合うことであります。私たちは、一番身近な家庭でもなかなか愛し合うことが出来ないのであります。しかし、それを実行することが、主イエスを愛することであり、父なる神を愛することでもあるのであります。
主は、「私を愛する者は、私の掟、教えを守る、大事にするであろう」と、本日の記事におけるお言葉を語り始められます。そして、本日の個所は14:15-17と14:18-21に大まかに二つの部分に分けることが出来るでしょう。
主は、前半で、最初の先ほどの言葉の後に、「私も、御父に要求して、父は別の弁護者をあなたがたに与えるであろう」と約束されます。この弁護者とは、パラクレートスという言葉であります。そばに呼ばれた者、あるいはそばに立って呼ぶ者という意味で、別のというのは主イエスご自身も弁護者・パラクレートスであるからであります。
しかし、ここでは、すぐ後に言い換えられているように、真理の霊、すなわち、聖霊のことであります。パラクレートスという言葉には、助け手、慰め主、励ます方、教え諭す方というようないろいろな意味が含まれています。この世界はそれを受け取ることが出来ない、なぜなら、それを見ようとはしないし、認識しようともしないからであると言われます。この世界とは、紀元後90年代のヨハネ福音書が書かれたころのユダヤ人たちを主に指しています。弟子たちはそれを認識し、それ、真理の霊は弟子たちのところにとどまり、弟子たちのうちにそれはあるであろうと言われます。
後半の14:18-21では、本日の個所のちょうど真ん中に位置する言葉として、「私は、あなた方をみなしごにはしておかない、またあなた方の下にやって来る」と言われています。「世界は今しばらくすると、私を見なくなるがあなた方は私を見る、そして私は生き、あなた方も生きるであろう」と言われます。
主イエスは、十字架の後、弟子たちのもとに復活して姿を現わしました。そして、天の父のもとに帰り、そこから聖霊を送られるのであります。主は「かの日において」あなた方は、分かるだろう、私が父におり、あなた方は私のうちにおり、私もあなた方においていることをと、おっしゃいました。復活という出来事と父のもとからの聖霊降臨は、ヨハネ福音書においては同時化されているのであります。
そして、一番最後の言葉として、「私は私を愛するものに私を現わす、すなわち啓示する」と言われています。私たちは、この現代世界にあって決して孤独ではありません。父と子と助け主なる神が、私たち弟子たちが相互に愛し合うときに、そして、主イエスこそ、神の子キリストであるという信仰にとどまるときに、常に私たちと共にいてくださいます。アーメン。
使徒言行録17:22-34、ペトロの手紙一3:8-17
ヨハネによる福音書14:15~21
「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」
説教「父と子と助け主なる神」(ヨハネ14:15~21)
私たちは、昇天主日を除けば、本日が復活後主日の最後の主日を迎えています。そして、先週と本日の福音は、ヨハネ福音書14章の告別説教から選ばれています。これらの記事は復活の出来事そのものではありませんが、復活と大きく関わる主イエスの約束であり、この復活節に是非読まれるべき個所として、敢えてルーテル教会の復活節の個所として選ばれているのでしょう。
告別説教は、13:33で「子たちよ」と弟子たちに呼びかけられて、始まっています。世の中の親と子はいずれは、別離の時を迎えます。しかし、弟子たちと別れる主イエスは、私はあなたがたを決してみなしご、孤児のままにはしておかないと本日の個所のちょうど
中心部分で約束されるのであります。
さて、今日の記事は、「私を愛する者は私の教えを、掟を守る」とはじまり、終わりは逆に「私の掟を守る者は、私を愛する者である」という言葉となっています。
私の掟、教えとは、まず私たち弟子が互いに愛し合うことであります。私たちは、一番身近な家庭でもなかなか愛し合うことが出来ないのであります。しかし、それを実行することが、主イエスを愛することであり、父なる神を愛することでもあるのであります。
主は、「私を愛する者は、私の掟、教えを守る、大事にするであろう」と、本日の記事におけるお言葉を語り始められます。そして、本日の個所は14:15-17と14:18-21に大まかに二つの部分に分けることが出来るでしょう。
主は、前半で、最初の先ほどの言葉の後に、「私も、御父に要求して、父は別の弁護者をあなたがたに与えるであろう」と約束されます。この弁護者とは、パラクレートスという言葉であります。そばに呼ばれた者、あるいはそばに立って呼ぶ者という意味で、別のというのは主イエスご自身も弁護者・パラクレートスであるからであります。
しかし、ここでは、すぐ後に言い換えられているように、真理の霊、すなわち、聖霊のことであります。パラクレートスという言葉には、助け手、慰め主、励ます方、教え諭す方というようないろいろな意味が含まれています。この世界はそれを受け取ることが出来ない、なぜなら、それを見ようとはしないし、認識しようともしないからであると言われます。この世界とは、紀元後90年代のヨハネ福音書が書かれたころのユダヤ人たちを主に指しています。弟子たちはそれを認識し、それ、真理の霊は弟子たちのところにとどまり、弟子たちのうちにそれはあるであろうと言われます。
後半の14:18-21では、本日の個所のちょうど真ん中に位置する言葉として、「私は、あなた方をみなしごにはしておかない、またあなた方の下にやって来る」と言われています。「世界は今しばらくすると、私を見なくなるがあなた方は私を見る、そして私は生き、あなた方も生きるであろう」と言われます。
主イエスは、十字架の後、弟子たちのもとに復活して姿を現わしました。そして、天の父のもとに帰り、そこから聖霊を送られるのであります。主は「かの日において」あなた方は、分かるだろう、私が父におり、あなた方は私のうちにおり、私もあなた方においていることをと、おっしゃいました。復活という出来事と父のもとからの聖霊降臨は、ヨハネ福音書においては同時化されているのであります。
そして、一番最後の言葉として、「私は私を愛するものに私を現わす、すなわち啓示する」と言われています。私たちは、この現代世界にあって決して孤独ではありません。父と子と助け主なる神が、私たち弟子たちが相互に愛し合うときに、そして、主イエスこそ、神の子キリストであるという信仰にとどまるときに、常に私たちと共にいてくださいます。アーメン。
スポンサーサイト
2008/04/27(日) 10:30:01| 未分類|
トラックバック(-)
コメント(-)
ヨハネ14:1-14、2008・04・20、復活後第4主日(典礼色―白―)
使徒言行録17:1-15、ペトロの手紙2:4-10
ヨハネによる福音書14:1~14
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示し下さい』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
説教「私は場所を用意しに行く」(ヨハネ14:1~14)
私たちは、教会暦では、今しばらく復活節を祝います。しかし、先週の個所、そして、本日、さらに、来週の主日まで、主イエスのご復活そのものとは、異なる記事が、ヨハネ福音書を通して与えられています。先週は良い羊飼いのたとえであり、また、次週は本日の記事と同じくその続きの個所、すなわち告別説教といわれている中から福音が選ばれています。
しかし、これらは、主の復活と、あるいは、その前の主の十字架における死と深く関わっているのであります。今日の福音の個所は、ヨハネ14:1~14であり、告別説教の始まりに当たります。本日の記事に即して、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
主は、最後の晩餐の席で、本日の記事を語っているのであります。
「あなたがたは、心を騒がせるな」と、主は切り出されています。この後、弟子たちは、主が捕らえられ、羊飼いを失った羊どものような体験をするわけですから、この言葉が前もって弟子たちに発せられたのは、ごく当然なことでありました。しかし、この時の弟子たちに限らず、2000年近くを隔てた現在の私たちにも、同じように主は言われているのであります。
私たちは、明日のことを思い煩う生活を繰り返しながら、今も生きています。1週間、1週間が、心を騒がしがちな、コップの中の水がかきまぜられるような、一喜一憂する生活を送っています。その点では、この告別の講話を聞いていた弟子たちと同じような体験を繰り返しているのであります。しかし、主は、十字架の死によって、弟子たちと引き離される前に、本日の慰めに満ちた、励まされる言葉を、約束をしてくれているのであります。すなわち主は、心を騒がせるなと警告した後、「神を信じ、また、私を信じなさい」と言われます。そして、「私の父の家には多くの住まいがある。私はそうでなければ、あなた方のために場所を用意しに行くと言っただろうか、私はそれを準備して再びあなた方のもとにやって来る」と言われるのであります。父なる神の家に、あなた方の場所を用意しに行くといわれました。このような言葉を言った人はこの歴史上他にいないでありましょう。この世界の罪の世界から霊が解き放たれて、天上の世界へと脱出するというようなことを言った者、すなわちグノーシス主義の人々は初代教会のころにも異端としていました。しかし、主は、地上に残される私たちのもとにまた戻って来て、この世界の中に私たちがいるままで、罪から私たちを守ってあげようと約束されるのであります。そして次に、「あなた方は私がどこに行くか、その道を知っている」と言われました。すると、あの主のご復活の時にも悲観的だったトマスは「、主よ、あなたがどこに行かれるのかどうして分かるでしょうか」と問い返します。主は、「私こそ、道であり、真理であり、命である。私を通ってこそ人は真理と永遠の命へと救われるのである」と言われます。それからあの好意的に描かれ、5000人の給食では「200デナリオン分のパンがあっても皆が満腹するためには全く足りないでしょう」と答えた、計算のよく出来るフィリポも、「主よ、父を見させてください、そうすれば私たちは満足します」と、新たに対話が進んでいきます。主は、「フィリポよ、こんなに長く一緒に歩んできたのに、あなたは父が分からないのか。私において、父はおり、父において私はいる、私をみているものは父をも見ているのだ」と言われます。そして、「私へと信じるものは、私と同じ業をし、私以上の大きな業をするであろう」と、言われます。私たちが、神の救いに与り、また、主と同じように、あるいはもっと豊かに、多くの人々をキリストによる救いに導くことが出来ると約束されるのであります。そして、「私の名においてあなた方が要求し、祈るならば、私がそれを行い、かなえるであろう、そして、父なる神は私によって栄光をお受けになる」と言われるのであります。私たちは、主が父のもとに出発し、父の家に永遠の住まいをもうけて、私たちの最終の住処を定め、また、戻ってきて、あなた方の願いをかなえ、私たちが主の名において要求することは何であれ、主がなしてくださり、祈りを聞いてくださると約束されているのです。私たちの日常の不安や闇や葛藤を超えて、主が永遠の平安を与えてくださいます。アーメン。
使徒言行録17:1-15、ペトロの手紙2:4-10
ヨハネによる福音書14:1~14
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示し下さい』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
説教「私は場所を用意しに行く」(ヨハネ14:1~14)
私たちは、教会暦では、今しばらく復活節を祝います。しかし、先週の個所、そして、本日、さらに、来週の主日まで、主イエスのご復活そのものとは、異なる記事が、ヨハネ福音書を通して与えられています。先週は良い羊飼いのたとえであり、また、次週は本日の記事と同じくその続きの個所、すなわち告別説教といわれている中から福音が選ばれています。
しかし、これらは、主の復活と、あるいは、その前の主の十字架における死と深く関わっているのであります。今日の福音の個所は、ヨハネ14:1~14であり、告別説教の始まりに当たります。本日の記事に即して、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
主は、最後の晩餐の席で、本日の記事を語っているのであります。
「あなたがたは、心を騒がせるな」と、主は切り出されています。この後、弟子たちは、主が捕らえられ、羊飼いを失った羊どものような体験をするわけですから、この言葉が前もって弟子たちに発せられたのは、ごく当然なことでありました。しかし、この時の弟子たちに限らず、2000年近くを隔てた現在の私たちにも、同じように主は言われているのであります。
私たちは、明日のことを思い煩う生活を繰り返しながら、今も生きています。1週間、1週間が、心を騒がしがちな、コップの中の水がかきまぜられるような、一喜一憂する生活を送っています。その点では、この告別の講話を聞いていた弟子たちと同じような体験を繰り返しているのであります。しかし、主は、十字架の死によって、弟子たちと引き離される前に、本日の慰めに満ちた、励まされる言葉を、約束をしてくれているのであります。すなわち主は、心を騒がせるなと警告した後、「神を信じ、また、私を信じなさい」と言われます。そして、「私の父の家には多くの住まいがある。私はそうでなければ、あなた方のために場所を用意しに行くと言っただろうか、私はそれを準備して再びあなた方のもとにやって来る」と言われるのであります。父なる神の家に、あなた方の場所を用意しに行くといわれました。このような言葉を言った人はこの歴史上他にいないでありましょう。この世界の罪の世界から霊が解き放たれて、天上の世界へと脱出するというようなことを言った者、すなわちグノーシス主義の人々は初代教会のころにも異端としていました。しかし、主は、地上に残される私たちのもとにまた戻って来て、この世界の中に私たちがいるままで、罪から私たちを守ってあげようと約束されるのであります。そして次に、「あなた方は私がどこに行くか、その道を知っている」と言われました。すると、あの主のご復活の時にも悲観的だったトマスは「、主よ、あなたがどこに行かれるのかどうして分かるでしょうか」と問い返します。主は、「私こそ、道であり、真理であり、命である。私を通ってこそ人は真理と永遠の命へと救われるのである」と言われます。それからあの好意的に描かれ、5000人の給食では「200デナリオン分のパンがあっても皆が満腹するためには全く足りないでしょう」と答えた、計算のよく出来るフィリポも、「主よ、父を見させてください、そうすれば私たちは満足します」と、新たに対話が進んでいきます。主は、「フィリポよ、こんなに長く一緒に歩んできたのに、あなたは父が分からないのか。私において、父はおり、父において私はいる、私をみているものは父をも見ているのだ」と言われます。そして、「私へと信じるものは、私と同じ業をし、私以上の大きな業をするであろう」と、言われます。私たちが、神の救いに与り、また、主と同じように、あるいはもっと豊かに、多くの人々をキリストによる救いに導くことが出来ると約束されるのであります。そして、「私の名においてあなた方が要求し、祈るならば、私がそれを行い、かなえるであろう、そして、父なる神は私によって栄光をお受けになる」と言われるのであります。私たちは、主が父のもとに出発し、父の家に永遠の住まいをもうけて、私たちの最終の住処を定め、また、戻ってきて、あなた方の願いをかなえ、私たちが主の名において要求することは何であれ、主がなしてくださり、祈りを聞いてくださると約束されているのです。私たちの日常の不安や闇や葛藤を超えて、主が永遠の平安を与えてくださいます。アーメン。
2008/04/20(日) 10:30:01| 未分類|
トラックバック(-)
コメント(-)
ヨハネ10:1-16、2008・04・13、復活後第3主日(典礼色―白―)
使徒言行録6:1-10、ペトロの手紙一2:19-25
ヨハネによる福音書10:1~16
「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。―狼は羊を奪い、また追い散らす。―彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かねばならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
説教「捨てて生かす命」(ヨハネ10:1~16)中川俊介牧師
現代社会にはますます傷が広がってきています。子供のころの心理的な傷が癒されずにそのまま残って、家庭内暴力、アルコールや薬物依存症、鬱病、人格障害になってきています。学校で課題を提出させたら、「先生、遅くなってすみません」と出した手に、リストカットの筋が10本以上ミミズばれみたいになっていた。普段は明るい子なのになと不思議に思った。この世で、教会が地の塩、世の光として働く大きな必要性が生まれている社会です。
今日の箇所には、羊飼いのことがたくさん出ていますね。私たちの社会に、世の中をよくするために、資金とか設備とか制度も必要ですが、それを機能させる人材がなくては、何も達成できませんね。羊飼いが必要です。
私の知っているある教会は、数億円の資金で、教会堂を建設。しかし、礼拝出席は10数名、建物はあっても、羊飼いが羊飼いとして機能していないのではないでしょうか。
これは、決して現代の問題に限られているわけではない。
エゼキエル書34章8節以下、羊の群れは傷ついても、羊飼いは自分のことしか考えていない。自分を養うことが、第一目標、過去の社会でもそんなことがあったのですね。
ですけどね、ヨハネの福音書は、7章あたりから、ユダヤ人指導者の不信仰の問題を扱っています。ですから、羊が逃げ去ってしまう。10章5節の偽りの羊飼いは、ファリサイ派などのユダヤ人指導者層に向けられたものです。責任を持っている者がその責任を果たしておらず、自分のことしか考えていない。
つい先日も、高齢者の医療負担がますます増えていることに関して、テレビで、ある政治学者が話していました。原因のひとつは、政治家にある。とくに、政権政党の自民党では、二世政治家が50パーセントを越えている。するとどうなのか。世の中を少しでもよくしようとしているのではなく、親から受け継いだ票田を守るために政治をやっている。イエスさまの言葉によれば、盗人や強盗、盗んだり、屠ったり、滅ぼす。そういう種類の人たちが指導者にいる。本当に困りますね。
聖書の教えのとおり、二千年前のユダヤ指導者も、現代の日本の指導者層も同じです。民の傷はいえることがない。
ただ自分の傷がいえない者は、人を助けることもできない。罪が残っては、自分が生きていくのに精一杯だから、教会には大きな使命がある。希望があるが、まず、私たち自身が癒される場所です。イエスさまが偉大な羊飼いだから、不可能はありません。そう信じ、傷つき命を失いかけている私たちが新しく命を得ることができるのです。私が来たのは、羊が豊かに命を受けるためだと約束してくださっている。罪の赦しと新生を固く信じていきましょう。信じるだけでいいのです。
さて、ここで、命という言葉が2種類出てきます。ひとつは、ギリシャ語でゾウエイ、超自然的生命、それにプシュケー、地上の生命体。福音書本文を見ますと、10章10節以下で、羊が受けるのは、ゾーエイ、イエスさまが捨てるのはちゃんとプシュケーになっています。つまり、十字架の死は、地上の生命体の死にすぎないということですね。本当の羊飼いでない者は、危険な状況では逃げてしまう。本当の羊飼いは、命を捨てる。プシュケーを捨てて、羊の中にゾーエイが生まれる。迫害や困難に負けないゾーエイを生むために、イエスさまの十字架があった。私たちは、この捨てた命の故に生かされていると言えましょう。
生かされるというのは、素晴らしいことです。
私は、飼う者がないように、荒れ果てた米沢藩を復興させた上杉鷹山の話が好きです。彼は人々の心を癒し、産業を復活させ、莫大な借金を返済しました。ある面で、よい羊飼いだったなと思います。愛ですね。上杉鷹山は命まで捨てはしませんでしたけど、よい羊飼いのような人がいれば、困難な状況も変わるはずです。
イエスさまは、イスラエルの特定の場所の羊だけでなく、全世界の羊を求めて救ってくださる。私たちをも求めて命を与えてくださる。
捨てることによって生かされる。これは絶対真理です。握っていては生きない。
私たちのプシュケーはどうでしょうか。いつまでも健康でいたい。病気はしたくない。もちろんです。でも、十字架は負いたくない。握って離したくないと、実は、失ってしまいます。
イエスさまは、手放して神から与えていただくことを教えた。自分のやり方に固執しないことです。御心を求めることです。捨てることです。自分を捨てることです。自分の常識とかプライドとか恐れとか楽をしたい気持ちを捨てることです。十字架上でイエスさまは、父よ、私の霊をみ手にゆだねますと叫んで、プシュケーを捨てられましたね。
勿論、私たちは十字架にかけられてはいません。しかし、み手にゆだねますという捨て方は大切です。聖書の中に出てくる百人隊長がいます。彼はイエスさまに一言おっしゃってください、その通りにします、と言いました。
つまり、右と言えば右、左と言えば左、神という権威に心から従い、自分を捨てた生き方なのです。そんなことをしていたら、プシュケーは失ってしまうかもしれない。しかし、永遠の生命であるゾーエイは捨てることによって与えられる恵みなのです。失うようだけれども、本当は得るのです。従って、イエス・キリストの十字架の救いを信じる者は、命を受け、豊かに受けることが保証されています。
羊飼いの話は、しかし本当は牧者の話なのです。牧者といえば、現代の言葉では牧師です。まず牧師が命を捨てる覚悟がなくては羊である信徒は命を得られないでしょう。現代の教会はこの点を考えなくてはいけません。
ただ、昔も群れを養わない牧者とか司祭の問題はあった。クリソストムという人がいました。彼は立派なクリスチャンで人々から祭司になるように懇願された。しかし、とても自分にはできないと辞退し、「祭司道」という本を書いた。その中にこう言っている。「祭司はキリストと同じ像を持ち、迫害に耐え、自分は神の供え物となり、多くの人のために命を捨てる者でなければならぬ。到底自分のごとき者ができる務めではない。」まさに今日のヨハネの福音書です。しかし、のちに彼は熱心に頼まれてやむをえず、祭司となり、社会の不正と戦い、最後は迫害によって殉教しました。
彼は、祭司になって、プシュケーは捨てたが、ゾーエイである永遠の命は与えられたのだと思います。そこで、皆さんにもお願いがあります。ルーテル教会では万人祭司が共通の教えになっていますね。ですから、皆さんも本当はクリソストムなのです。祭司です。私は既に祭司ですから、皆さんにもお願いしたい。皆さんもまた、羊飼いなのです。その自覚をさらにはっきり持ってほしい。その仕事は命を捨てることです。この殺伐とした傷ついた社会を癒す羊飼い、それが皆さんです。私も津田沼では皆さんに支えられ、命を与えられました。八王子でも同じです。とくに素晴らしい信徒が中から二名来てくれた。彼らは牧師に命を与えてくれる羊飼いです。羊飼いがいるときに、どんな荒れた社会も必ず癒されます。エゼキエル書の言葉は、願望でも理想でもありません。預言です。34節以下を読みましょう。これは、皆さんご自身に対する預言です。キリストが命を捨て、自分の思いを捨て、神の思いに従った。私たちも自分の思いはあります。しかし、それを手放しましょう。愛において手放しましょう。本当は死は捨てないことです。捨てることによって、命が豊かにあふれる。そう預言されている。今日のペトロの手紙にも「あなたがたが召されたのはこのためです」とありました。
失われたものをたずね求めましょう。傷ついたものを包みましょう。弱ったものを強くしましょう。現代の社会、現代の教会は皆さんを必要としています。いや、神ご自身が地の塩、世の光としての皆さんを必要としています。その道は必ず命に至るでしょう。祝福です。
使徒言行録6:1-10、ペトロの手紙一2:19-25
ヨハネによる福音書10:1~16
「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。―狼は羊を奪い、また追い散らす。―彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かねばならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
説教「捨てて生かす命」(ヨハネ10:1~16)中川俊介牧師
現代社会にはますます傷が広がってきています。子供のころの心理的な傷が癒されずにそのまま残って、家庭内暴力、アルコールや薬物依存症、鬱病、人格障害になってきています。学校で課題を提出させたら、「先生、遅くなってすみません」と出した手に、リストカットの筋が10本以上ミミズばれみたいになっていた。普段は明るい子なのになと不思議に思った。この世で、教会が地の塩、世の光として働く大きな必要性が生まれている社会です。
今日の箇所には、羊飼いのことがたくさん出ていますね。私たちの社会に、世の中をよくするために、資金とか設備とか制度も必要ですが、それを機能させる人材がなくては、何も達成できませんね。羊飼いが必要です。
私の知っているある教会は、数億円の資金で、教会堂を建設。しかし、礼拝出席は10数名、建物はあっても、羊飼いが羊飼いとして機能していないのではないでしょうか。
これは、決して現代の問題に限られているわけではない。
エゼキエル書34章8節以下、羊の群れは傷ついても、羊飼いは自分のことしか考えていない。自分を養うことが、第一目標、過去の社会でもそんなことがあったのですね。
ですけどね、ヨハネの福音書は、7章あたりから、ユダヤ人指導者の不信仰の問題を扱っています。ですから、羊が逃げ去ってしまう。10章5節の偽りの羊飼いは、ファリサイ派などのユダヤ人指導者層に向けられたものです。責任を持っている者がその責任を果たしておらず、自分のことしか考えていない。
つい先日も、高齢者の医療負担がますます増えていることに関して、テレビで、ある政治学者が話していました。原因のひとつは、政治家にある。とくに、政権政党の自民党では、二世政治家が50パーセントを越えている。するとどうなのか。世の中を少しでもよくしようとしているのではなく、親から受け継いだ票田を守るために政治をやっている。イエスさまの言葉によれば、盗人や強盗、盗んだり、屠ったり、滅ぼす。そういう種類の人たちが指導者にいる。本当に困りますね。
聖書の教えのとおり、二千年前のユダヤ指導者も、現代の日本の指導者層も同じです。民の傷はいえることがない。
ただ自分の傷がいえない者は、人を助けることもできない。罪が残っては、自分が生きていくのに精一杯だから、教会には大きな使命がある。希望があるが、まず、私たち自身が癒される場所です。イエスさまが偉大な羊飼いだから、不可能はありません。そう信じ、傷つき命を失いかけている私たちが新しく命を得ることができるのです。私が来たのは、羊が豊かに命を受けるためだと約束してくださっている。罪の赦しと新生を固く信じていきましょう。信じるだけでいいのです。
さて、ここで、命という言葉が2種類出てきます。ひとつは、ギリシャ語でゾウエイ、超自然的生命、それにプシュケー、地上の生命体。福音書本文を見ますと、10章10節以下で、羊が受けるのは、ゾーエイ、イエスさまが捨てるのはちゃんとプシュケーになっています。つまり、十字架の死は、地上の生命体の死にすぎないということですね。本当の羊飼いでない者は、危険な状況では逃げてしまう。本当の羊飼いは、命を捨てる。プシュケーを捨てて、羊の中にゾーエイが生まれる。迫害や困難に負けないゾーエイを生むために、イエスさまの十字架があった。私たちは、この捨てた命の故に生かされていると言えましょう。
生かされるというのは、素晴らしいことです。
私は、飼う者がないように、荒れ果てた米沢藩を復興させた上杉鷹山の話が好きです。彼は人々の心を癒し、産業を復活させ、莫大な借金を返済しました。ある面で、よい羊飼いだったなと思います。愛ですね。上杉鷹山は命まで捨てはしませんでしたけど、よい羊飼いのような人がいれば、困難な状況も変わるはずです。
イエスさまは、イスラエルの特定の場所の羊だけでなく、全世界の羊を求めて救ってくださる。私たちをも求めて命を与えてくださる。
捨てることによって生かされる。これは絶対真理です。握っていては生きない。
私たちのプシュケーはどうでしょうか。いつまでも健康でいたい。病気はしたくない。もちろんです。でも、十字架は負いたくない。握って離したくないと、実は、失ってしまいます。
イエスさまは、手放して神から与えていただくことを教えた。自分のやり方に固執しないことです。御心を求めることです。捨てることです。自分を捨てることです。自分の常識とかプライドとか恐れとか楽をしたい気持ちを捨てることです。十字架上でイエスさまは、父よ、私の霊をみ手にゆだねますと叫んで、プシュケーを捨てられましたね。
勿論、私たちは十字架にかけられてはいません。しかし、み手にゆだねますという捨て方は大切です。聖書の中に出てくる百人隊長がいます。彼はイエスさまに一言おっしゃってください、その通りにします、と言いました。
つまり、右と言えば右、左と言えば左、神という権威に心から従い、自分を捨てた生き方なのです。そんなことをしていたら、プシュケーは失ってしまうかもしれない。しかし、永遠の生命であるゾーエイは捨てることによって与えられる恵みなのです。失うようだけれども、本当は得るのです。従って、イエス・キリストの十字架の救いを信じる者は、命を受け、豊かに受けることが保証されています。
羊飼いの話は、しかし本当は牧者の話なのです。牧者といえば、現代の言葉では牧師です。まず牧師が命を捨てる覚悟がなくては羊である信徒は命を得られないでしょう。現代の教会はこの点を考えなくてはいけません。
ただ、昔も群れを養わない牧者とか司祭の問題はあった。クリソストムという人がいました。彼は立派なクリスチャンで人々から祭司になるように懇願された。しかし、とても自分にはできないと辞退し、「祭司道」という本を書いた。その中にこう言っている。「祭司はキリストと同じ像を持ち、迫害に耐え、自分は神の供え物となり、多くの人のために命を捨てる者でなければならぬ。到底自分のごとき者ができる務めではない。」まさに今日のヨハネの福音書です。しかし、のちに彼は熱心に頼まれてやむをえず、祭司となり、社会の不正と戦い、最後は迫害によって殉教しました。
彼は、祭司になって、プシュケーは捨てたが、ゾーエイである永遠の命は与えられたのだと思います。そこで、皆さんにもお願いがあります。ルーテル教会では万人祭司が共通の教えになっていますね。ですから、皆さんも本当はクリソストムなのです。祭司です。私は既に祭司ですから、皆さんにもお願いしたい。皆さんもまた、羊飼いなのです。その自覚をさらにはっきり持ってほしい。その仕事は命を捨てることです。この殺伐とした傷ついた社会を癒す羊飼い、それが皆さんです。私も津田沼では皆さんに支えられ、命を与えられました。八王子でも同じです。とくに素晴らしい信徒が中から二名来てくれた。彼らは牧師に命を与えてくれる羊飼いです。羊飼いがいるときに、どんな荒れた社会も必ず癒されます。エゼキエル書の言葉は、願望でも理想でもありません。預言です。34節以下を読みましょう。これは、皆さんご自身に対する預言です。キリストが命を捨て、自分の思いを捨て、神の思いに従った。私たちも自分の思いはあります。しかし、それを手放しましょう。愛において手放しましょう。本当は死は捨てないことです。捨てることによって、命が豊かにあふれる。そう預言されている。今日のペトロの手紙にも「あなたがたが召されたのはこのためです」とありました。
失われたものをたずね求めましょう。傷ついたものを包みましょう。弱ったものを強くしましょう。現代の社会、現代の教会は皆さんを必要としています。いや、神ご自身が地の塩、世の光としての皆さんを必要としています。その道は必ず命に至るでしょう。祝福です。
2008/04/13(日) 10:30:00| 未分類|
トラックバック(-)
コメント(-)
ヨハネ20:24-29、2008・04・06、復活後第2主日(典礼色―白―聖餐式)
使徒言行録2:36-47、ペトロの手紙一1:17-21
ヨハネ20:24~29
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
説教「見ないで信じる人は幸い」(ヨハネ20:24~29)
復活節のこの喜ばしいときに、本日与えられている福音はヨハネ20:24-29のトマス物語であります。トマスは、主の復活をそう簡単には信じない、疑い深く、ある意味では頑なであり、安易に信じることはためらう現代人の我々に良く似た性格の人物であったようであります。ディドモと呼ばれるトマスと紹介されていますが、これは、双子であったことを指しているのかもしれませんが、二重性という意味を持っているのかもしれません。トマスは、主が危険なベタニアに戻ってラザロを再び死から起き上がらせようというときに、「私たちも主と共に行って死のうではないか」と少しとんちんかんな発言をしていますし、主イエスが「私は、道であり、真理であり、命である」と言われたときに、そう言われる少し前の部分で、「先生の言われる道とはどんな道なのか、私には分かりません」と答えています。理解するのが少し鈍く、遅い面があるが、いったん納得すればどこまでも意志を貫いていくといったような性格の二重性があったのではないかとも想像されます。
本日の場面は、主が復活なさった日から8日後であり、1週間後の日曜日であります。そして、最初の主の復活の日には、トマスは、ほかの12弟子たち、既にユダはいませんから、正確には、10人と共にいなかったと本日の記事では説明されています。
この週の始めの日も彼らは家の中におり、彼らはそれ以前のことではありますが、トマスに、私たちは主を見たと言いますが、トマスはこう答えるのであります。「私はあの方の両手の釘跡を見て、その中に私の指を入れて見なければ、また、あの方のわき腹に私の手を入れてみなければ、決して信じないだろう」と。実際に自分の目で確かめ、証拠をつかまなければ、あなた方の証言だけでは私は信じることはできないとトマスは言うのであります。現代の科学文明の発達した私たちと同じような懐疑的で合理的な考え方をする人でありました。
さて、この最初の主の復活顕現から1週間後の主の日に、彼らは、家の戸にはみな鍵をかけて同じように集まっていたのであります。すると、1回目と同じように、主はやって来られます。そして、平和があなた方にあるようにと、前回と同じようにみなの真ん中に立たれて弟子たちを祝福されたのであります。そして、トマスに言われます。「あなたの指を、私の手の釘跡に入れなさい。また、あなたの手を私のわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と。トマスの言っていたとおりに、主はご自分の肉体をお見せになり、トマスの願っていたとおりにするようにと示されたのであります。トマスは、もはやそれ以上疑うことはできませんでした。そして、おそらく、主の体に触れることはしないで、「私の主、私の神よ」と復活の主への信仰を告白したのであります。
主は言われます。「あなたは見たので信じたのか。幸いな者たち、すなわち祝福されている者たちとは、見なかったが、しかし信じた者たちである。」また、ここでは前半の疑問文は、「トマスよ、あなたは見たので信じたのである」とも読むことができます。こうして、本日の記事は、見ないで信じた者たちへの祝福の言葉で終わっています。そして、主イエスとの弟子たちのお別れの場面は出てきません。それは、復活の主と弟子たち、すなわち、私たちとの交わりは、今後永遠に途絶えることがないものだからであります。私たちは、復活の主を肉体を持って見る事は、現在主が父なる神のもとにあげられている以上、不可能であります。しかし、弟子たちの証言や主のお言葉を通して、私たちは、彼らと全く同様に、いや、主が言われるように、見ないで信じた者として、より以上に祝福された、主との永遠の交わりを持つことができるのであります。
確かに、現代の私たちの社会は病んでいます。恐ろしい事件がたびたびこのところも起こっています。また、文明の利器は、インターネットなど、本当に便利になりましたが、それも悪用されて用いられれば、私たちは誘惑に陥ったり、真理の道をはずしてしまうことが、容易に起こります。2000年の歴史を通して私たちを決して裏切ることのない真理のお方は、私たちにとって十字架の釘跡と槍でわき腹を刺された、しかし、その死という絶望から復活された本日の主お一人であります。
本日は、幸いなことに、この復活の主と交わる聖餐に、この後、与ります。そして、私たちは、聖餐式のない主日においても、本日、トマスと弟子たちに姿を現しになった主との永遠の交わりに毎週の礼拝において招かれていることを常に思い起こしつつ、私たちのそれぞれ与えられた生涯へと週ごとに力を与えられて派遣されていきたいと思います。
祈りましょう。
天の父なる神さま。
私たちは、主がトマスに現れてくださった出来事を通して、また、その主のお言葉を通して、より深い信仰へと招かれています。私たちの疑いやためらいや弱さをあなたはよくご存じです。主のお言葉を信じ、また、弟子たちの証言を信じて、堅く信仰に立って歩む者とならせてください。私たちがなすべきこと、また、できることをなしていく勇気をお与えください。人間はやがてはどんなに活発であった人でも、みな衰え行く存在でありますが、日々、み言葉に従って歩み、体は朽ち行くとも、信仰はますます盛んになるような生き方に、あなたが導いてください。み子、キリストによって祈ります。アーメン。
わたしたちの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。
使徒言行録2:36-47、ペトロの手紙一1:17-21
ヨハネ20:24~29
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
説教「見ないで信じる人は幸い」(ヨハネ20:24~29)
復活節のこの喜ばしいときに、本日与えられている福音はヨハネ20:24-29のトマス物語であります。トマスは、主の復活をそう簡単には信じない、疑い深く、ある意味では頑なであり、安易に信じることはためらう現代人の我々に良く似た性格の人物であったようであります。ディドモと呼ばれるトマスと紹介されていますが、これは、双子であったことを指しているのかもしれませんが、二重性という意味を持っているのかもしれません。トマスは、主が危険なベタニアに戻ってラザロを再び死から起き上がらせようというときに、「私たちも主と共に行って死のうではないか」と少しとんちんかんな発言をしていますし、主イエスが「私は、道であり、真理であり、命である」と言われたときに、そう言われる少し前の部分で、「先生の言われる道とはどんな道なのか、私には分かりません」と答えています。理解するのが少し鈍く、遅い面があるが、いったん納得すればどこまでも意志を貫いていくといったような性格の二重性があったのではないかとも想像されます。
本日の場面は、主が復活なさった日から8日後であり、1週間後の日曜日であります。そして、最初の主の復活の日には、トマスは、ほかの12弟子たち、既にユダはいませんから、正確には、10人と共にいなかったと本日の記事では説明されています。
この週の始めの日も彼らは家の中におり、彼らはそれ以前のことではありますが、トマスに、私たちは主を見たと言いますが、トマスはこう答えるのであります。「私はあの方の両手の釘跡を見て、その中に私の指を入れて見なければ、また、あの方のわき腹に私の手を入れてみなければ、決して信じないだろう」と。実際に自分の目で確かめ、証拠をつかまなければ、あなた方の証言だけでは私は信じることはできないとトマスは言うのであります。現代の科学文明の発達した私たちと同じような懐疑的で合理的な考え方をする人でありました。
さて、この最初の主の復活顕現から1週間後の主の日に、彼らは、家の戸にはみな鍵をかけて同じように集まっていたのであります。すると、1回目と同じように、主はやって来られます。そして、平和があなた方にあるようにと、前回と同じようにみなの真ん中に立たれて弟子たちを祝福されたのであります。そして、トマスに言われます。「あなたの指を、私の手の釘跡に入れなさい。また、あなたの手を私のわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と。トマスの言っていたとおりに、主はご自分の肉体をお見せになり、トマスの願っていたとおりにするようにと示されたのであります。トマスは、もはやそれ以上疑うことはできませんでした。そして、おそらく、主の体に触れることはしないで、「私の主、私の神よ」と復活の主への信仰を告白したのであります。
主は言われます。「あなたは見たので信じたのか。幸いな者たち、すなわち祝福されている者たちとは、見なかったが、しかし信じた者たちである。」また、ここでは前半の疑問文は、「トマスよ、あなたは見たので信じたのである」とも読むことができます。こうして、本日の記事は、見ないで信じた者たちへの祝福の言葉で終わっています。そして、主イエスとの弟子たちのお別れの場面は出てきません。それは、復活の主と弟子たち、すなわち、私たちとの交わりは、今後永遠に途絶えることがないものだからであります。私たちは、復活の主を肉体を持って見る事は、現在主が父なる神のもとにあげられている以上、不可能であります。しかし、弟子たちの証言や主のお言葉を通して、私たちは、彼らと全く同様に、いや、主が言われるように、見ないで信じた者として、より以上に祝福された、主との永遠の交わりを持つことができるのであります。
確かに、現代の私たちの社会は病んでいます。恐ろしい事件がたびたびこのところも起こっています。また、文明の利器は、インターネットなど、本当に便利になりましたが、それも悪用されて用いられれば、私たちは誘惑に陥ったり、真理の道をはずしてしまうことが、容易に起こります。2000年の歴史を通して私たちを決して裏切ることのない真理のお方は、私たちにとって十字架の釘跡と槍でわき腹を刺された、しかし、その死という絶望から復活された本日の主お一人であります。
本日は、幸いなことに、この復活の主と交わる聖餐に、この後、与ります。そして、私たちは、聖餐式のない主日においても、本日、トマスと弟子たちに姿を現しになった主との永遠の交わりに毎週の礼拝において招かれていることを常に思い起こしつつ、私たちのそれぞれ与えられた生涯へと週ごとに力を与えられて派遣されていきたいと思います。
祈りましょう。
天の父なる神さま。
私たちは、主がトマスに現れてくださった出来事を通して、また、その主のお言葉を通して、より深い信仰へと招かれています。私たちの疑いやためらいや弱さをあなたはよくご存じです。主のお言葉を信じ、また、弟子たちの証言を信じて、堅く信仰に立って歩む者とならせてください。私たちがなすべきこと、また、できることをなしていく勇気をお与えください。人間はやがてはどんなに活発であった人でも、みな衰え行く存在でありますが、日々、み言葉に従って歩み、体は朽ち行くとも、信仰はますます盛んになるような生き方に、あなたが導いてください。み子、キリストによって祈ります。アーメン。
わたしたちの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。
2008/04/06(日) 10:30:00| 未分類|
トラックバック(-)
コメント(-)
| ホーム |