津田沼教会 牧師のメッセージ
「今は見える」(ヨハネ9:13〜25)
ヨハネ9:13−25、2008・03・02、四旬節第4主日(典礼色―紫―)
イザヤ書42:14−21、エフェソの信徒への手紙5:8−14

ヨハネによる福音書9:13〜25
 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。
 それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。
 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」



説教「今は見える」(ヨハネ9:13〜25)

先週は、ヨハネ4章から、サマリアの女と主イエスの対話が福音として与えられていました。今週は、ヨハネ9:13−25がルーテル教会のA年のントの第4主日に与えられています。また、来週は、ヨハネ11:17-53のラザロの復活に関わる長い記事が与えられています。
今は、四旬節・受難節で主のみ苦しみをおぼえる時でありますが、これらの記事をこの時期に読むということは、せめて、主日だけは、福音、すなわち、良き知らせを聞いて、十字架への主の道行きを覚える時期にあっても、励ましを受けるということなのでありましょうか。
 本日の記事は、人々が彼を、以前、盲人であった人をファリサイ派の人々の所に連れてくることから始まっています。そして、かのイエスが土をこねて、彼の両目を開けたのは、安息日のことであったとあります。改めて、ファリサイ派どもは、彼に質問します。どうやって、あなたは見えるようになったのか。彼は言います、その人は泥を私の両目の上に置かれたのです。そして私は洗いました、すると、私は見えるようになったのです。
さて、この人は生まれつきの盲人でありました。主は9章の最初の部分で、彼が盲人で生まれたわけは、彼を通して神の業が現れるためであると言われています。ファリサイ派の間で、一方ではイエスは、安息日を守らないで、泥をこね、死に関わるような重大なときはではなかったにも関わらず、このような治療行為をしているから、神から来た者ではないといい、またもう一方のファリサイ派は、罪ある人がどうしてこのようなしるしを行えるだろうかといい、彼らの間に裂け目、対立、ジレンマがあったと記しています。
それで、困惑した彼らは、今度はついに、彼の両親を呼び出して、問い詰めます。あの者はあなた方の息子で、盲人に生まれついたというのか、それがなぜ、今見えるようになったのか。両親は、答えます。あれが、私どもの息子で、盲人に生まれついたということは知っています。しかし、どうして、今見えるようになったのかは分かりません。もうあれは、十分な年かさをつんでいますから、あれに直接聞いてください。あれが、自分でしゃべるでしょう。
当時、法的には13歳以上で証言能力があると認められていました。再び、彼を質問し、イエスを何者だというのかと彼らが聞きますと、その盲人は「彼は預言者です」と答えます。最初は、「あの人」に過ぎなかったイエスが、今度はイエスは預言者ですと答えています。この盲人であった人は、次第次第に、主イエスについての洞察を深めて行きます。反対に、会堂追放されることを恐れていた両親は、主イエスがいかなるお方であるかを知ることなく、終わっています。この本日の福音の記事は、古い時代、洗礼教育にふさわしい個所として用いられたといいます。
私たちも、最初は、主イエスがどういうお方であるか、最初に出会い、ぶつかったとき、何も分からない者でありました。偉大な四聖人の一人に過ぎなかった存在であったでしょう。しかし、今では私たちは、洗礼を受けて、主イエスこそ、私たちの罪を担い、赦しと癒しを与える唯一のお方だと、本日に至るまでそれぞれの信仰生活を通して次第次第に目を開かれていったのであります。この盲人であった人は、本日の最後の部分で、私は、その人が罪ある人かどうか、知りません。ただ知っているのは、今は見えるということですと答えました。私たちは、皆、人間である以上罪人でありますが、その罪が次第次第に自覚され、主イエスによって、自分が実はその罪に対しても盲目であったことを知らされ、そして、主イエスこそ、それから解き放ち、私たちを永遠の命へと導くこの世の光であること、そして、このお方をそれと信じるか否かで見える者となるか、見えない者にとどまるかに二つに分けられる、そのような裁きもここにはあることを見極めたいものであります。この四旬節が深まるときに、自分の罪に気づき、主によって真実が見える者に深められたいと願う者であります。アーメン。

2008/03/02(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)