津田沼教会 牧師のメッセージ
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「罪を赦す務め」(ヨハネ20:19~23)
ヨハネ20:19-23、2008・03・30、復活後第1主日(典礼色―白―)
使徒言行録2:22-32、ペトロの手紙1:3-9

ヨハネによる福音書20:19~23
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」





説教「罪を赦す務め」(ヨハネ20:19~23)

 私たちは、週ごとに、事情の許す限り、主日礼拝へと集まってきます。それは、ちょうど、本日の文の弟子たちが恐らくユダを除いた11人が集まっており、また、次週の日課では、正式にトマスも一緒になって8日目に11人が集まっていたと考えられるように、私たちもこの時の復活の主によって集められるのであり、聖礼典のもとに、すなわち、洗礼ばんのもとに、そして、聖餐式へと集められているのであります。今日の弟子たちは、ユダヤ人たちを恐れてと書かれていますが、これは、ヨハネ福音書記者が付け加えたものかもしれません。この福音書記者の時代には、ユダヤ人たちのキリスト者、教会に対する迫害が激しかったと考えられ、その時代のユダヤ人たちがここに遡って記されて登場しているのかもしれません。しかし、いずれにしろ、おそらく、11人の弟子たちは、主の復活の日、日曜日の夕方、戸を閉じきって、ひそかに集まっていたのであります。これは、その同じ日に、ペトロや主の愛された弟子が墓に出向いたこととは、独立した伝承であったように思われます。彼らは、失意と罪責感のうちに集まっていたのであります。そこに、主が、やって来られ、戸はいずれも固く錠がかけられていたにもかかわらず、弟子たちの真ん中へ立たれます。高いところから見下ろすのでもなく、同じ地に立って、弟子たちの失望や悲しみと同じ位置に立たれて、その真ん中に立って言われるのであります。「平和があなた方に」と。これは、シャロームという言葉ですが、ここでは単なる出会ったときの挨拶の言葉ではなく、彼らが心の底から健康な魂を取り戻し、明るい希望と幸福を持つことが出来るようにとの主の慰めと励ましの言葉かけであります。主は、両手を見せ、また、槍で突かれたわき腹をお見せになります。弟子たちは、それを見て喜んだとあります。主イエスと離別してもたらされていた悲しみは、復活の主との再会によって喜びに変えられるとの告別説教での主の約束が現実のものとなったのであります。「平和があなたがたに。」シャローム・レヘンと主は恐らく、主はヘブライ語で再び祝福されました。そして、息をかけて、「聖霊を受けなさい」と言われ、「父が私を送ったように、私もあなた方を送る」と言われました。弟子たちは、創世記でアダムが土から神によって息を吹き込まれて生きる者となったように、ここで聖霊を受け、まったく新しい人間に作り変えられたのであります。そして、最後に言われます。「あなた方が赦す誰かの罪はその彼らに赦されている。あなた方が赦さない誰かの罪は、赦されていない。すなわち、あなた方が握っている誰かの罪は、それらは握られたままである。」そのように、復活の主は言われるのであります。私たちは、他人の罪には敏感なものであります。そして、自分の罪には鈍感なものであります。しかし、私たちの罪は、主イエスを裏切った弟子たちの罪はもちろん、どんな罪も主イエスによって赦され、私たちは、主イエスから遣わされる弟子として、誰かの罪をも赦し、あるいは、誰かの罪を赦さない、すなわち握ることまで、任せられているのであります。それは、好き嫌いでそうするというものではなくて、復活の主イエスによって変えられ、新しく創造された・新たな人間としてその権威がゆだねられているのであります。たとえば、私たちが握るべき罪とは、戦争のようなことでありましょう。しかし、特に私たちは、自分の罪が赦された者として、誰かの罪を、隣人や家族の罪をも赦す務めが与えられているのであります。本日、私たちは復活の主に、教会の礼拝に集まって出会うことにより、この場からその赦しの任務へと人間社会に派遣されていくのです。アーメン。
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2008/03/30(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主ご復活の朝」(ヨハネ20:1~18)
ヨハネ20:1-18、2008・03・23、復活祭(典礼色―白-)
使徒言行録10:39-43、コロサイの信徒への手紙3:1-4

ヨハネによる福音書20:1~18
 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。
 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。


説教「主ご復活の朝」(ヨハネ20:1~18)
  
皆さん、主のご復活、おめでとうございます。私たちは、主の十字架への道行きを思い起こしながら、主日以外の40日間を四旬節として過ごしてきました。そして、ようやく本日、主イエスのご復活の朝を迎えているのであります。
 今朝、与えられている福音は、ヨハネ福音書20:1-18であります。これは、マグダラのマリアが墓に行き、石が持ち上げられているのを見て、弟子たちに伝え、ペトロと主が愛されたもう一人の弟子がその墓に確かめに行くという前半の20:1-10と、再び墓に戻ったマグダラのマリアに復活された主ご自身が姿を現わすという20:11-18の後半部分から成り立っています。その出来事について、ご一緒に、しばらく考えてみたいと思います。
 今日の出来事は、もう一度、振り返ってみると、こういうものでありました。
安息日からの第一日目、すなわち、日曜日、週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは、墓に行きます。ここでは、マグダラのマリアだけが行ったかのように書かれています。そして、どの福音書の復活の出来事において登場するのは、このマグダラのマリアであります。それだけ、主イエスを失った彼女の痛みと悲しみは、他の人以上に大きかったのであります。
 ところが、その墓、主の遺体を収められた場所に行ってみますと、その入り口を封印していた大きな石は、持ち上げられてあり、墓は開いて、空であるのを見出したのであります。マリアは、走り出して、弟子たちのところに帰り、私たちの主を、彼らが取り去りました。私たちは、彼がどこに置かれたのか分かりませんと報告したのであります。すると、ペトロともう一人の主イエスが愛しておられた弟子が走り出します。そして二人は共に駆け出したのでありますが、もう一人の弟子のほうが先になり、墓までやって来ます。彼は中を覗き込み、亜麻布が見えましたが、中には入りませんでした。そして、ペトロが送れてやって来ます。
 彼は中に入り、遺体に巻かれてあった亜麻布とまた別のところに頭を覆っていた覆い・ナプキンのようなものが丸めてある・あるいは折りたたんであるのを見ます。それから、もう一人の弟子も入って、それを見て信じたのであります。彼らは、なぜならば、彼は死人どもから起き上がることになっているという聖書をまだ知らなかったのであるとあります。そして彼らは自分たちのほうへと立ち去ったのであります。
 その後、マグダラのマリアも、もう一度やって来て、墓のそばで泣いていました。そして、ふと、中を覗き込むと、遺体のあったと思われる足のほうと、頭のほうにまばゆい姿の二人の天使が座っているのを見るのであります。天使たちは、女よ、なぜ泣いているのか、誰を捜しているのかと問います。マリアは主を彼らが持ち去りました。そして彼らがどこに置いたのか私には分からないのですと言います。そして、ふと振り返ると、主イエスが立っておられました。
 マリアは、園丁だと思って、ご主人、あなたが彼を持ち去ったのなら、置いた場所を教えてください。私が持ち去りますと答えます。すると主は、マリアと呼びかけます。生前と同じ声で呼びかけられました。その時、マリアは、ラボニ、先生と返事をします。すると主は、私に触ってはならない。私はまだ、父に向かって上ってはいないからだと答えます。そして言われます。私の兄弟たちのところへ行って、伝えなさい。私の父、そしてあなた方の父のもとに、私の神、あなた方の神のもとへ私は上ると。マリアは弟子たちのところへやって来ていいます。私は主を見ました、そして、それらのことを彼が彼女に言ったことを伝えたのであります。
 主イエスは、父のもとから来られ、父のもとへと上られます。そこに、私たちの永遠の住まいを用意するためであります。
 私たちは、四旬節の間にも、言葉と行いと思いによって多くの罪を犯しました。しかし、私たちは、十字架の主によってその罪をあがなわれ、そして、主のご復活によって、闇から光の状態へと移されているのであります。私たちは、イースターのこの新しい朝において希望の光の中へと移されているのであります。そのことを憶えて、この喜びを人々にも証しするものとされているのであります。アーメン。







「主イエスが来られる」(マタイ21:1~11)内海望牧師
マタイ21:1-11、2008・03・16、枝の主日
ゼカリヤ書9:9-10、フィリピの信徒への手紙2:6-11

マタイによる福音書21:1~11
一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「シオンの娘に告げよ。
『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、
 柔和な方で、ろばに乗り、
 荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。
 「ダビデの子にホサナ。
  主の名によって来られる方に、祝福があるように。
  いと高きところにホサナ。」
 イエスがエルサレムに入られると、都中のものが、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。



説教「主イエスが来られる」(マタイ21:1~11)内海望牧師
 
 今日の説教題を御覧になると、クリスマスの説教題のように感じられる方も多いことでしょう。当然です。何故なら、待降節(アドベント)の第一主日に読まれる聖書の箇所が必ず「枝の主日」あるいは「受難主日」と呼ばれる受難週の始まりの時にも読まれるので似たような題になるのです。また、教会の典礼色(聖壇の色)もアドベントも「王の尊厳」「悔い改め」を表す紫で、同じです。
 これは、教会が長い歴史を通して「アドベント」と「受難」を同じ意味内容で捉えて来たことを示します。「主が来られる=アドベント」ということは「主の受難と十字架=贖いの死」への道を歩まれるという出来事なのです。また、これこそ福音の中心であることを教会は告白して来たのです。このことを念頭に置いて、共にみ言葉に耳を傾けましょう。
 イエスさまはいよいよ十字架に向かってまっすぐに歩んでおられます。この(受難)週の金曜日には十字架につけられるのです。
 今日の聖書の箇所は、「イエスさまのエルサレム入城」と題されることが多い個所です。確かに、5節には旧約時代に約束された「王の入城」の預言の言葉が用いられています(ゼカリヤ9:9)。しかし、イエスさまは「王の入城」という言葉に相応しく、白馬にまたがり、威風辺りを払うというような姿ではありませんでした。荷物を運搬すること、重荷を負うことが役目の柔和な子ろばに乗って、エルサレムの門をくぐられたのです。およそ王としては似つかわしくない姿でした。
 この姿は、近隣の国々を威圧するような王さまを期待していた人々の心は裏切ったかも知れませんが、私たち信仰者にとっては、まさに福音の到来でした。イエスさまは私たち人間の罪を負うために来られた方であったのです。イエスさまは「迎えられた」のではありません。あくまでもイエスさまが自ら進んで十字架への道を歩み、私たちの許に来られた方なのです。
 ルターも「来られた方」という点を強調して以下のように語っています。「主は来られます。あなたが主を求めるのではなく、主があなたをお求めになるのです。あなたが主を見出すのではなく、主があなたを見出して下さるのです」と。
 イエスさまは「柔和で、私たちの重荷を負う方」として来られました。「子ろばに乗って」ということは、神の子であり、真の王である方が、すべてを捨てて「貧しく、無価値な者」として来られたということを意味します。そして罪の故に「御顔を避けようとする」私たちを求め、見出し、私たちを罪と死から救おうとされたからです。
 十字架は極悪人に課せられる刑罰です。イエスさまは私たちが受けるべき罰を担って下さるお方なのです。
 また、イエスさまは十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と神さまに向かって叫ばれた方です。人々からだけでなく、神さまからも見捨てられたと思う苦しみの中に生きる人間の苦しみを共有して下さる方なのです。ですから、私たちの苦しみ、痛み、生きる辛さを思いやることができるお方なのです。

 また、イエスさまは、「汚れた人々」として軽蔑され、疎外されていた「重い皮膚病にかかった人々」に触れて、いやされました。また、「12年間も出血に苦しむ女性」が服の房に触れることを気になさらなかったばかりか、いやされたことを共に喜んで下さる方でした。私たち人間の最も苦しい状況にまで下ってこられた方なのです。しかも、単に「来られた」のでなく、手を差し伸べるだけでなく、「触れて、共に苦しんで下さる方」なのです。イエスさまが寄り添って下さるので、私たちは決して孤独になりません。

 イエスさまは私たちのためにすべてを捧げて下さった方です。教会では「主イエスの奉献」という言葉が長く用いられて来ました。これは、神さまのひとり子であるイエスさまが私たちのためにすべてを、命さえも捧げて下さったという意味です。「善い業」とは、あれこれの個々の業でなく、隣人のためにすべてを捧げることであることをイエスさまによって知らされたのです。この出来事から初めて人間の隣人への愛が生まれ、人間の「奉献」(献金)が生まれてきたのです。式文の歴史がそれを示します。

 イエスさまは、子ろばに乗ってエルサレムに入城されます。群衆は「ホサナ」と叫んでお迎えします。この人々が、やがてイエスさまを「十字架につけよ」と叫び始めます。これが人間の姿です。私たちは自分の都合で人を愛したり、裏切ったりします。いざという時は自分を守るために親友も裏切るのが人間の悲しい姿です。イエスさまは私たちの許に「来られる」方なのです。
 山上で、輝く栄光の中で、モーセとエリヤと語り合う喜びを捨て、「山を降って」汚れた霊によって苦しみもだえる子どもを癒されるイエスさまを思い出して下さい。
 聖書にはいろいろな奇跡物語があります。そのような個々の奇跡を信じるか信じないかということより、神さまのひとり子がその身分を捨てて、私たちの世界に来られた、私たちのために命を捨てて下さったという真の奇跡を大胆に信じましょう。「私なんか救いに値しない」などと言ってはなりません。ここに福音のすべてがあるのです。包み隠さず、大胆に罪人である自分を告白し、悔い改めましょう。その時、私たちは赦される喜びを経験できます。「赦される喜び」にまさる喜びはありません。
 私たちは聖餐式のおり、「設定の辞」の前で「サンクツウス」を歌います。これは今日の日課で「ホサナ」と叫ぶ群衆の賛歌そのままです。教会は2000年の間、「来られる方を称えよ」と賛美の歌を歌い続けて来たのです。
 私たちは、聖餐式で、このエルサレムに入城されるイエスさま(過去)、そして、今目の前にあるパンとぶどう酒を通してイエスさまの来臨を経験し(現在)、そして終わりの時に再び来られるイエスさま(未来)を信じて「サンクツウス」を歌うのです。
 このように、イエスさまは過去、現在、未来を通して、わたしたちの許に来られ、私たちと共に喜び、苦しみ、痛みを分かち合って下さるのです。そればかりではありません。イエスさまは、その十字架の血によって私たちすべての罪を赦し、死と罪とから救い出し、永遠の命を与えて下さるのです。
 これからの一週間、他ならぬこの私のところにまで来られて、私のためにすべてを捧げて下さったイエスさまに感謝を捧げる時として過ごしましょう。そして、「罪赦された罪人」「新しい命を与えられた者」としてイースターを共に喜び迎えましょう。
2008/03/16(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主イエスが与える命」(ヨハネ11:17~53)
ヨハネ11:17-53、2008・03・09、四旬節第5主日(典礼色―紫―)
エゼキエル書33:10-16、ローマの信徒への手紙5:1-5

ヨハネによる福音書11:17~53
 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終りの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村に入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、ここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。




説教「主イエスが与える命」(ヨハネ11:17~53)

 本日は四旬節第5主日を迎えました。もう来週は枝の主日で、今日から2週間後で、復活祭を迎えることになります。そして、このレントの第5主日の今年A年の福音の日課は、ヨハネ11:17-53という非常に長い記事が与えられています。この時期にこの個所が読まれるのは、どういう意味があるのか、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 言うまでもなく、四旬節とは、主イエスが十字架につかれるその道行きを思い起こすべき時であります。そして、本日の記事は、ラザロが死から起き上がるというしるし、すなわち、通常の自然なコースとは矛盾する出来事が中心となっています。一度死んだ人間が再びこの世界の命へと起き上がるということは考えられないことでありますが、聖書はそのような出来事をいくつか記しているのであります。それは、私たちが、外見的には生きていても、精神的・霊的には死んでいるような経験もしますが、そのような現実に対して真の命に死からよびさまされ、神のみ心にかなった生き方をするというようなことも指し示すものではありましょう。
先週のヨハネ9章の記事において、生まれつき目の見えなかった人が、主イエスによって見えるようにされ、次第次第に主イエスこそが、預言者であり、信じゆだねるべき人の子であり、そして罪という闇から救い出すこの世界のまことの光であることが、分かり、見えるようにされていったように、本日の出来事も、主イエスへの信仰によって、たとえ肉体的には死んでも、彼へと信じゆだねることを通して、永遠に滅びることのない命を私たちが生きることが出来るようにされることを教えているのであります。
 主イエスは、ラザロが重い病気であったとき、ベタニアに直行せず、ラザロは死んでしまいます。そして、弟子たちを連れて、ベタニアに向かいます。そして、ある地点まで来たとき、主は、ラザロが死んでもう四日も墓の中で横たわっているのを知らされます。そして、おそらくラザロの姉であったでありましょうか、マルタを呼びに行かせます。マルタは、イエスのもとへと出て行きますが、マリアは、家の中で座っています。大勢のユダヤ人が、3キロ弱離れたエルサレムから、二人の姉妹を慰めにやって来ていました。そして、マルタは、主にあったとき、言います。主よ、あなたがもしここにおられたなら、ラザロは死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神に願うことは何でも神はあなたにお与えになることは今でも知っています、と。すると、主は言われます。彼は起き上がるであろう。マルタは、答えます。終わりの日における起き上がりの時、復活のときに、彼は起き上がることは信じています。
それに対して、主は言われます。私は復活であり、命である。私へと信じる者は、たとえ死んでも、生きるであろう。私へと生き、信じる者は、永遠へと決して死なない。このことをあなたは信じるかと。マルタは言います、はい、主よ、私は信じました、あなたがこの世界にお出でになられたメシアであり、神の子であることを、と。
 私たちは、死の前には、すべてが空しいと感じています。けれども、主イエスは、復活であり、命である。私へと信じて生きるものはすべて、永遠に滅びないと約束してくださるのであります。たとえ、肉体は滅んでも、主イエスによって与えられる命は滅びることはないと言われるのであります。
 さて、マリアは、家に帰り、マリアに、主がおいでになっており、呼んでおられますというと、マリアは立ち上がり、急いで出て行きます。それを見たユダヤ人たちは、マリアは、墓に泣きに出て行くのだろうと、後を追います。マリアも、イエスの足元に跪いて「主よ、あなたがここにおられたら、ラザロは死ななかったでしょうに」とマルタと同じ言葉を語ります。主は、涙を流したとあります。そして、ユダヤ人たちは、彼は何とラザロを愛していたことかと言い、盲人の目を開けた彼も、ラザロが死なないようにすることは出来なかったのかと言い合います。
主は霊において憤られ、動揺されます。それは、迫っているご自分の十字架上の死に対する心騒ぎであったと共に、周りにいたユダヤ人たちの不信仰に対しての憤りであり、叱責を含んだものであったでしょう。主は、彼をどこに置いたのかと尋ねます。彼らは、来てご覧くださいといいます。そして、墓穴をふさいでいた石を取り上げるように言います。マルタはもう四日たちますから臭いますというと、主はあなたは信じるなら神の栄光を見るだろうと言っておいたではないかと言われ、そして、目を上にもたげ、父なる神にこう祈ります。父よ、あなたに感謝します、あなたは何でも私に耳を傾けてくださいます。このように言うのは、周りにいる者たちが、私があなたのもとから遣わされたことを信じるようになるためです、と。 そして、ラザロ、出てきなさいと主は大声をあげます。すると、ラザロは、足や手を布で巻かれたまま、起き上がり、顔はおおいをしたまま、出てきます。主は、彼に行かせなさいと彼らに命じます。
 そして、主のなさったしるしどもを見たユダヤ人たちの多くは彼へと信じゆだねます。しかし、あるものたちは、ファリサイ派どもや祭司長たちのところに行って伝えます。するとそのユダヤ教の指導者たちは、最高法院を召集して、彼がこんな多くのしるしどもをしているからにはどうしたものかと言います。彼をこのままにしておくと、この場所・神殿も、この国民も取り去るだろうと言い合います。
その時、まさにこの年の大祭司カイアファ、―彼は実際には長年大祭司の地位にあったのですが、―彼が、神の道具として、預言して言います。一人の人が国民全体のかわりに死ぬほうがあなた方によいことをあなた方は知らないと。それは、ただその国民、その民のみならず、世界に散っている神の子たちが一つに集められることになるとも預言して言ったのであると記されています。これは、ユダヤ人だけでなく、異邦人の中からも主を信じるに至る民が起こされ、一つの新しい民とされること、教会が生まれることを知らず知らずして、カイファは語っていたのであります。そしてこの日から、最高法院の者たちは、主イエスを殺そうと決議したのであります。本日のラザロの死からの起き上がりが、主イエスの十字架上でのすべての神の子たちのための死、キリストを信じる民全体の罪の償いとしての主イエスの死をもたらすことになったのであります。
しかし、本日の出来事を通して、私たちは死という闇を主イエスが打ち破り、永遠に朽ちない命を生きることが可能になったことを信じることができます。私たちは、今もそれぞれが闇・死に打ちのめされるような困難な経験をしますが、それを上回る命の道が主によって既に備えられているのであります。このことを想起しながら、この1週間を過ごしていきたいものです。アーメン。
2008/03/09(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「今は見える」(ヨハネ9:13~25)
ヨハネ9:13-25、2008・03・02、四旬節第4主日(典礼色―紫―)
イザヤ書42:14-21、エフェソの信徒への手紙5:8-14

ヨハネによる福音書9:13~25
 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。
 それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。
 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」



説教「今は見える」(ヨハネ9:13~25)

先週は、ヨハネ4章から、サマリアの女と主イエスの対話が福音として与えられていました。今週は、ヨハネ9:13-25がルーテル教会のA年のントの第4主日に与えられています。また、来週は、ヨハネ11:17-53のラザロの復活に関わる長い記事が与えられています。
今は、四旬節・受難節で主のみ苦しみをおぼえる時でありますが、これらの記事をこの時期に読むということは、せめて、主日だけは、福音、すなわち、良き知らせを聞いて、十字架への主の道行きを覚える時期にあっても、励ましを受けるということなのでありましょうか。
 本日の記事は、人々が彼を、以前、盲人であった人をファリサイ派の人々の所に連れてくることから始まっています。そして、かのイエスが土をこねて、彼の両目を開けたのは、安息日のことであったとあります。改めて、ファリサイ派どもは、彼に質問します。どうやって、あなたは見えるようになったのか。彼は言います、その人は泥を私の両目の上に置かれたのです。そして私は洗いました、すると、私は見えるようになったのです。
さて、この人は生まれつきの盲人でありました。主は9章の最初の部分で、彼が盲人で生まれたわけは、彼を通して神の業が現れるためであると言われています。ファリサイ派の間で、一方ではイエスは、安息日を守らないで、泥をこね、死に関わるような重大なときはではなかったにも関わらず、このような治療行為をしているから、神から来た者ではないといい、またもう一方のファリサイ派は、罪ある人がどうしてこのようなしるしを行えるだろうかといい、彼らの間に裂け目、対立、ジレンマがあったと記しています。
それで、困惑した彼らは、今度はついに、彼の両親を呼び出して、問い詰めます。あの者はあなた方の息子で、盲人に生まれついたというのか、それがなぜ、今見えるようになったのか。両親は、答えます。あれが、私どもの息子で、盲人に生まれついたということは知っています。しかし、どうして、今見えるようになったのかは分かりません。もうあれは、十分な年かさをつんでいますから、あれに直接聞いてください。あれが、自分でしゃべるでしょう。
当時、法的には13歳以上で証言能力があると認められていました。再び、彼を質問し、イエスを何者だというのかと彼らが聞きますと、その盲人は「彼は預言者です」と答えます。最初は、「あの人」に過ぎなかったイエスが、今度はイエスは預言者ですと答えています。この盲人であった人は、次第次第に、主イエスについての洞察を深めて行きます。反対に、会堂追放されることを恐れていた両親は、主イエスがいかなるお方であるかを知ることなく、終わっています。この本日の福音の記事は、古い時代、洗礼教育にふさわしい個所として用いられたといいます。
私たちも、最初は、主イエスがどういうお方であるか、最初に出会い、ぶつかったとき、何も分からない者でありました。偉大な四聖人の一人に過ぎなかった存在であったでしょう。しかし、今では私たちは、洗礼を受けて、主イエスこそ、私たちの罪を担い、赦しと癒しを与える唯一のお方だと、本日に至るまでそれぞれの信仰生活を通して次第次第に目を開かれていったのであります。この盲人であった人は、本日の最後の部分で、私は、その人が罪ある人かどうか、知りません。ただ知っているのは、今は見えるということですと答えました。私たちは、皆、人間である以上罪人でありますが、その罪が次第次第に自覚され、主イエスによって、自分が実はその罪に対しても盲目であったことを知らされ、そして、主イエスこそ、それから解き放ち、私たちを永遠の命へと導くこの世の光であること、そして、このお方をそれと信じるか否かで見える者となるか、見えない者にとどまるかに二つに分けられる、そのような裁きもここにはあることを見極めたいものであります。この四旬節が深まるときに、自分の罪に気づき、主によって真実が見える者に深められたいと願う者であります。アーメン。

2008/03/02(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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