津田沼教会 牧師のメッセージ
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「渇きをいやすメシア」(ヨハネ4:5~26)
ヨハネ4:5-26、2008・02・24、四旬節第3主日(典礼色―紫―)
出エジプト記17:1-7、ローマの信徒への手紙4:17b‐25

ヨハネによる福音書4:5~26
 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝する者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」



説教「渇きをいやすメシア」(ヨハネ4:5~26)
   
本日、レントの第3主日に与えられています福音は、ヨハネ福音書4:5-26、あるいは、5:42であります。本日から、枝の主日を除いて、復活節までの間、ヨハネ福音書が主として読まれます。四旬節、受難節、あるいはレントと呼ばれるこの時期に、この個所が与えられている意味について、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 主イエスは、ファリサイ派の人たちが、自分がヨハネよりも多くの弟子たちをつくり、弟子たちが洗礼を施していることを耳にしたことを知ると、ユダヤを去って、ガリラヤに向かわれます。そのとき、サマリアを通らねばならなかったと、本日の個所のすぐ前に書かれています。これは、当然そうすることになっていたとも訳すことのできる言葉で、このときサマリアを通っていくことが神のご計画であったことを表しています。
 そして、シカルという町の近くにやって来られ、ヤコブの井戸のそばに、あるいは、上に、主は、旅の疲れから、座っておられました。主イエスも私たちと同じように肉体的に疲労困憊される時があるのであります。
さて、私が聖地旅行に行ったときにも、ここがヤコブの井戸だという場所にバスをとめて立ち寄ったことをかすかに覚えています。今でも30メートルほどもある深い井戸だということでした。
 さて、そこにちょうど、第6時、すなわち正午ころ、暑い盛りであったでしょうか、人気のない時を見計らってかのように、サマリアの女の人が水をくみにやって来るのであります。その時、主は、彼女に語りかけます。直訳しますと、「私に飲むことを与えてください。」すると、その女の人は、答えます。「ユダヤ人のあなたが、どうして、サマリアの女である私に飲むことを与えてくださいと頼むのですか。」それはユダヤ人はサマリア人とは交際していなかったからであるとあります。サマリア人は、アッシリア帝国によって国が滅ぼされ、植民してきた外国人と混血して出来上がっていた人々で、ユダヤ人たちからは、異国の神々をも信じる者として正当なユダヤ教ではないと軽蔑されていたのであります。しかも、古代の世界でそのサマリアの女性に語りかけるというのは通常ではないことでありました。
 主は言われます。「あなたが、神の賜物・贈り物を知っており、あなたに語っている者がだれであるか、知っていたならば、あなたは自分から求め、彼は生きた水・命の水をあなたに与えたことであろうに」と。女の人は言います。「主よ、この井戸は深いし、あなたはくむ物を持っていません。どうやってその水を与えるというのですか。また、私たちの父祖ヤコブよりも偉いのですか」
 主は、「この井戸から飲む者は、また、渇くであろう。しかし、私が与える水から飲む者は、再び渇かず、その人において泉となり、水がほとばしり出るであろう」と言われました。すると、女は、「主よ、私が再び渇かず、ここにくみに来なくていいようにその水を与えてください」と言います。この女の人の渇きとは、彼女の抱えていた罪のことでありました。主はそれをご存じであり、「あなたは行ってあなたの夫を連れてきなさい」と言われます。彼女は、「私には夫はいません」と答えます。主は言われました。「あなたは見事に答えた。あなたには五人の夫がいたが、今一緒にいるのは夫ではない。」女は「主よ、私はあなたを預言者だと見ます」と答えます。私たちは多くの渇きを持っています。しかし、私たちの抱えている渇き・罪は、主イエスの生きた水、すなわちみ言葉によってしか、完全にいやされ、自由の身となることはできないのであります。
 それから、彼女は、礼拝の場所の問題へと対話を移していきます。「私たちは、この山、ゲリジム山で礼拝していますが、あなた方は礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています。」主は言われます、「私を信じなさい、この山でもエルサレムでもなく、あなた方が父を礼拝するであろうときが来る。あなた方は知らない方を礼拝しているが、私たちは知っている方を礼拝している。救いはユダヤ人から来るからである。ところで、時が来ており、今がそうである、すなわち、真実の礼拝をする者たちが霊と真実において礼拝するであろう時が来ている。神は霊であるから、霊と真実において礼拝する者を求めておられる。」もはやある場所や人種に限られる礼拝ではなく、世界中至るところで霊と真実において父を礼拝することが主イエスのご到来において実現するのであります。それが教会であります。
 さて、それに対して、女の人は答えます。「私は、キリストと呼ばれるメシアがお出でになることは知っています。その方がすべてのことを知らせてくださるでしょう。」主は、「私である、あなたに語っている者である」とご自分がメシアであることを本日のサマリアの女にははっきりと啓示なさるのであります。
 本日のテキストは最初に言いましたように、4:5-42まで長く選ぶことも認められています。そしてそのほうがより深く理解することができるでしょう。そして、このサマリアの女の人とは、福音書記者ヨハネの時代のサマリアの教会を暗示していたと考えることもできます。そして、どの教会も、霊と真実において父を礼拝することにおいては分け隔てはなく、またユダヤ人も、サマリア人も、ギリシャ人もなく、同等であることを教えているのかもしれません。現代の教会においても多くの教派に分かれています。しかしそこに和解と一致の道を主御自身が差し示しておられると受けとめることもできるでありましょう。
 祈ります。
 天の父なる神さま。
 私たちは、日々、多くの渇き・罪を覚えます。しかし、あなたのみ子の生きた水により、そのお言葉によって再び渇くことのない者、罪を克服することができる者とされています。私たちも毎日の試練の中で、祈りつつ聖書を読む日々を過ごさせて下さい。そして、日常の中でこそ、み子が私たちを罪から贖う唯一のメシアであることを証しする生活をさせてください。キリストによって祈ります。アーメン。
私たちの神はご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。
  
 

  
 
  


 
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2008/02/24(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「苦難と奉仕の道」(マタイ20:17~28)
マタイ20:17-28、2008・02・17、四旬節第2主日(典礼色―紫―)
創世記12:1-8、ローマの信徒への手紙4:1-12

マタイによる福音書20:17~28
 イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」

 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何か望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」




説教「苦難と奉仕の道」(マタイ20:17~28)

 四旬節の第2主日である本日、与えられている個所は、マタイ20:17-28であります。この四旬節の時期は、古くから、洗礼準備の期間として守られる習慣がありました。それは、洗礼を受けようとしている洗礼志願者だけでなく、既に洗礼を受けている私たちも、自分が洗礼を受けた時のことを思い起こす時でもありましょう。
 さて、本日のテキストは、そのような四旬節に、主の十字架への道行きを私たちも思い起こし、今一度辿ってみるのに、ふさわしい個所であります。新共同訳聖書の本日の個所は、明瞭に二つの部分に分けています。すなわち、マタイ20:17-19と20-28であります。
前段は、第3回目の受難予告であります。主イエスが、マタイ福音書の中で最後に置いている受難予告であります。これは、もちろん、マルコによる福音書の同じ記事、並行個所をもとにして、マタイがそれに付加したり、省略しているのであります。マルコは、この最後の受難予告の時、「弟子たちは、驚き、恐れた」と記していますが、マタイはそれを省いています。また、マタイでは、主が「十字架につけられる」と明記していますが、マルコではただ「彼らは彼を殺すであろう」とだけ書かれています。
 もう一度、この場面を思い起こして見ましょう。主は、エルサレムへと上って行くとき、12人だけを、別のところに連れて行ってから言われます。おそらく、ガリラヤからの祭りに赴く巡礼者たちが大勢、エルサレムに向かっていたことでしょう。主は彼らに言われます。「見よ、私たちはエルサレムへと上っていく。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されるであろう。彼らは彼に死を宣告し、異邦人たちに引き渡し、異邦人たちは、彼を嘲り、鞭打ち、十字架につけるであろう。そして、彼は三日目に起き上がらされるであろう。」
 エルサレムが近づくにつれて、受難予告の内容もより明確になってきます。マタイは、主イエスが、ユダヤ人の私刑、リンチのような仕方で殺されるのではなく、十字架刑という正式なローマの裁判に従っての公の死刑で殺されることを主に語らせています。そして、彼は三日目に起き上がらされようと。そこまで、現実に主イエスが語りえたかどうかは別としても、ホセア書6章の「三日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる」(2節)という表現が想起されて用いられているのかもしれません。しかし、いずれにしても、弟子たちは、主イエスに起きようとしていた受難の真相について、その時点ではまったく理解してはいなかったのであります。
 そして、この最後の受難予告に続いて、本日の記事の後半の出来事20:20-28が記されています。マルコでは、ゼベダイの子らが直接、イエスに向かって要求していますが、マタイは、12弟子であるヤコブとヨハネの信用を害することを避けるためか、この二人の母が、その時やって来て、ひれ伏し、何かを要求したとあります。主は、「あなたは私に何をしてほしいと望んでいるのか」と聞かれます。すると、その母は、「あなたのみ国において私の息子たちの一人をあなたの右に一人をあなたの左に座ることになろうと言ってください」と頼んでいるのであります。キリストの国、すなわち、教会において指導的な地位を求める競争がマタイがこの福音書を書いた当時あったことでしょう。母親はわが子のためには何でもするというよくある事例をマタイは用いて、12使徒としての尊厳を失わないように配慮した結果かもしれません。
それに対して、主イエスは、二人に向かって、言われます。「あなた方は自分たちが何を願っているのか分かっていない。あなた方は、私が飲もうとしている杯を飲むことができるか」と質問されます。彼らは、「できます」と答えます。この杯を飲むというのは、旧約聖書の言い方で、ここでは裁きとか罰を意味します。主は、ご自分の身に神の裁きとか罰をあえて、引き受けられるのであります。そして主は、一方で、あなた方は私の杯を飲むことになろうが、他方、私の右左に座らせることは、私に与えられておらず、父によって備えられている者たちに許されることなのだと言われます。事実としては、ヤコブは、使徒言行録を見ると(12:2)、ヘロデ・アグリッパ王によって、剣にかけられることになります。ヨハネについては殉教の死を遂げたという確かな証拠は残っていません。しかし、いずれにしても、弟子たちは、厳しい試練を経なければならないことは主の言葉によって確かであります。
 さて、このことを耳にした残りの10人は、二人の兄弟のことで腹を立てます。そのとき、主イエスは、彼らを呼び集めて言われるのであります。「異邦人の間では、支配者たちは人々の上に主人となっている、そして、大きい者たち・偉い者たちが、人々の上に圧制を強いている。しかし、あなた方の間では、大きくなりたい者、偉くなりたい者は、すべての人の奉仕者・ディアコノスになるであろうし、第一になりたい者は、すべての人の奴隷・
しもべになるであろう。ちょうど、人の子・私が来たのがディアコニアを受けるためではなく、ディアコニアをするためであり、多くの者たちの身代金としてこの命を与えるためであるのと同じように」、と教えられたのであります。
 人の子は、十字架につけられ、そして、多くの人々の、すなわち、これはすべての人々のという意味ですが、その身代金、誘拐されたものを解放するための代価、ご自分の民を罪の囚われの身から救い、自由にするために、ご自分の命を差し出されるのであります。その結果、私たちは罪の奴隷から解き放たれたのであります。主イエスは、イザヤ書53章にあるように、苦難の僕として来られ、それは「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら背負った。・・・彼は自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられた・・。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった」(53:11、12)とあるとおりであります。
 私たちも、主イエスの十字架に従う時、多くの苦難と試練に出会わざるをえないと、主は警告しておられます。そして、主イエス御自身がそうであったように、仕えられるためではなく、仕えるために、私たちは、洗礼を受け、新しい人生の出発をしたはずであります。そして、実は、厳しい試練と苦難の中にあって人々に仕える道こそ、真の喜びの道であり、新しい命と生きがいの道であります。祈りましょう。
 父なる神さま。
 私たちは、人から、あるいは家族から仕えられることを望み、また、権威や権力をもって人々のなかで中心であろうと願い、また、同僚の中にあっては、抜け駆けの功名を得ようとしがちな、弱い存在です。しかし、主イエスの弟子として、主ご自身が私たちに代わって罰と裁きを引き受けてくださいましたように、私たちも、自分の罪に死んで、すべての人々に喜んで仕える者としてください。この四旬節、慎ましやかな心で主イエスの十字架への道行きを日々思い起こしつつ過ごさせて下さい。キリストによって祈ります。アーメン。

 



2008/02/17(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神の子の従順」(マタイ4:1~11)
マタイ4:1-11、2008・02・10、四旬節第1主日(典礼色―紫―)
創世記2:15-17、3:1-7、ローマの信徒への手紙3:21-31

マタイによる福音書4:1~11
 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。
 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の端に立たせて、言った。
 「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
  『神があなたのために天使たちに命じると、
  あなたの足が石に打ち当たることのないように、
  天使たちは手であなたを支える』
 と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。
 『あなたの神である主を拝み、
ただ主に仕えよ』
と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。




説教「神の子の従順」(マタイ4:1~11)
 
先週の水曜日、「聖書を学び祈る会」に代えて午前、午後と2月6日に灰を額につける式の礼拝を持ちました。その日から、日曜日を除く40日間が四旬節であり、受難節とも呼ばれます。そして、今年の復活祭は3月23日(日)に当たっております。
さて、私たちは、この四旬節の第1主日にマタイ4:1-11を与えられています。
 この個所を読みますとき、私は、亀井勝一郎という作家・評論家であった人の言葉を思い起こします。それは、このときの耶蘇は、まだ、権威が足りない、悪魔の誘惑・試みに対して、ただ聖書にこう書かれてあると繰り返すばかりだからであるというのです。
 しかし、確かに、神の子が宣教を始める前に、その準備段階として、悪魔の誘惑と戦ったのだから、慎重を期してやむをえなかったのだとも取れますが、ここでの主イエスは、神の子としての父なる神への徹底した服従・従順であったのではないでしょうか。本日の福音の記事をしばらくご一緒に考えて見ましょう。
 本日の記事の構成は、明瞭であります。まず始めに、霊が主イエスを荒れ野へと導き上ります。主イエスが洗礼のときにこの霊、聖霊はくだり、これは、私の子、愛する者、私の心に適う者と天から神の声がしたときに、くだったその同じ霊が、主を悪魔の誘惑にあわせるために荒れ野に導き上ります。そして、第1の誘惑は、40日40夜の断食の後に来ます。悪魔は、そのときに空腹を感じた主に、石どもをパンに変えたらどうだというのです。主は、「人はパンだけで生きる者ではない、神の口から出るあらゆる言葉によって生きる者だ」と書かれてあると申命記の中から、聖書の言葉を用いて、悪魔に対抗します。
ところで、40日40夜の後の誘惑・試練は、イスラエルの民の荒れ野での40年の体験を考えているものであります。イスラエルの民は、神へのまったき信頼、心からの従順を示すことが出来ませんでした。イスラエルの民も主イエスと同じように、神によって私のこと呼ばれ、神の子と呼ばれた存在でした。主イエスは、第一の誘惑に対して、申命記の言葉を引用して石をパンに変える奇跡を拒みました。
私たちは、聖書の言葉あるいは、主なる神のみ心に従って歩むことによって、真の命を生きることができるのです。
 次に第2の誘惑は、悪魔、ディアボロス、誘惑するもの、サタン、それらはいずれも同じものですが、今度は、悪魔は聖なる都の神殿の尖端に主イエスを置いて、言うのです。神の子であるからには、そこから飛び降りたらどうだ、なぜなら、こう書かれている。「彼はその天使たちに命じてあなたの足が地に打ち付けることがないように手でもって受け取ってくれる」と。
主イエスは、こうも書かれている。「あなたの主なる神を試してはならない」とやはり申命記の言葉でもって対抗します。主イエスの道は十字架の道でありました。これみよがしに、高い所から飛び降りて見せる見世物のような奇跡をおこなうことではないのです。
 さて、最後の第3の誘惑は、主を非常に高い山に連れて行き、世界の王国のすべてとその栄光・「まばゆいもの」を見せて、もしあなたがひれ伏し、私を拝むなら、これらすべてをあなたにあげようというものでした。これは、神ならざる悪魔を偶像礼拝するようにという最後の露骨な誘惑でした。
 主イエスは、「サタンよ、退け、『主のみを拝み、主のみに仕えよ』と書いてある」とやはり申命記の言葉から選んで、これに打ち勝ちました。そして、最後の節では、その時、悪魔は離れる、そして、天使たちが近づいてきて、彼に仕えていたと結ばれています。
 主イエスは、私たちが、主イエスとまったく同じような誘惑を受けることはないとしても、私たちが、サタンの誘惑に打ち勝つことが出来るために、神の言葉にまったく従順になることによって、悪魔に対抗する手本を示してくださっているということも言えるでしょう。私たちが、3つの典型に見られる誘惑に打ち勝つためには、神の言葉とそのご意志に従って歩むこと、すなわち聖書と祈りにおいて歩むこと以外には安全な道はないのであります。そして、この40日の四旬節を十字架の道に従う主イエスに従って、私たちも苦難と奉仕、人々に仕える生き方を選び取って歩みたいものであります。アーメン。
2008/02/10(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「心の断食をせよ」(マタイ6:1~6、16~21)
マタイ6:1-6、(16-21)、2008・02・06、灰の水曜日
ヨエル書2:12-18、コリントの信徒への手紙二5:20-6:2

マタイによる福音書6:1~6、16~21
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」

「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておくう。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

 「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」




説教「心の断食をせよ」(マタイ6:1~6、16~21)
  
今日から主日をのぞく40日間、四旬節、別の言い方では受難節に入りました。聖卓やストールの色も、紫に変わりました。アドベントに入ったときに紫を使ったのは、来るべき王を表すためでしたが、今日から用いる紫は、主キリストが十字架につく前に着せられた紫の衣を表し、また、主イエスが十字架上で流された血の色をも表しています。
 さて、今日は聖灰水曜日として、この後、額にオリーブ油を混ぜて笹の灰で作った墨をつける式を行います。これは、私たちがこれから40日間の間、主イエスの十字架の道行きを思い起こし、私たちの罪のために死なれた主イエスを忘れず、また、私たちが塵から造られた者だから、塵に帰ることを忘れないで、特にこの期間を慎ましやかに送るための式です。
 さて、今日のマタイ福音書6:1-6、16-21は、私たちが四旬節を始めるに当たって相応しい個所であります。主は、あなた方の善行を人に見せるために行わないようにと言われています。善行と訳されているのは、義ということば、正しいことというもとの言葉です。慈悲とか信心とも訳すことができます。主イエスは、あなた方の義がファリサイ派の義よりも勝っていなければ、あなた方は天の国に入ることはできないと言われました。悪いことをする時、たとえば、盗人は、隠れてばれないように盗みをやります。では、主イエスは、良いこともすべて人前から隠れてしなさいと言われるのでしょうか。そうではありません。ただ、人間たちの前で見せるために、見せびらかすために善行を行うのを控えなさいというのです。今日、式次第に書いてある(マタイ6:1~6)のよりも少し長い記事を選ばせていただきましたが、善行としての施し、祈り、断食はそれぞれ人との関係、神との関係、自分との関係とも言えるでしょう。しかし、その場面・場面で、偽善者のように、人々に見せびらかすために、施し、慈善的寄付行為をしたり、祈ったり、断食することを主イエスは戒めておられます。
偽善者とは、ヒポクリテェースといいまして、これは役者、俳優のことであります。俳優さんは、そのあてられた役を一生懸命に演じます。役者さんにも個性はそれぞれありますが、その割り当てられた役を、一旦は自分の性格や個性を脇に置いておいて演じるのであります。主イエスは、当時のファリサイ派の人々のそのような二重人格のようなその偽善を非難したのです。
自分の内側から真心を込めて、施し、祈り、断食することを、そのような神さまに向かっての誠実な態度を、主イエスはお求めになりました。
 断食する時には、偽善者たちのように顔を見苦しくするな・憂鬱そうな顔をするな。むしろ、頭に油を塗り、顔を洗って、人々に断食していることが知られないようにしなさい。そうすれば、天で隠れた場所で見ておられるあなたの父が知り、あなたに返してくださる・報いてくださるであろうと主は言われます。
いつも、人の目を気にするのではなく、私たちの父なる神と真摯に向かい合って、善行を・義を・正しいことを・信心を行うように主は戒められています。そして最後に、地上のさびがつき、イガ虫が食う、あるいは盗人が家の壁に穴を開け盗み出すところにでなく、天に宝を積め、なぜならば、あなた方の宝があるところに、あなた方の心もあるであろうからと言われます。
今からの40日間の週日を私たちは、私たちの父と向かい合って、他人への慈善と神への祈りと自己に対する心の断食を、主イエスの十字架とその後に来るその復活を仰ぎ見ながら、行っていきましょう。四旬節を過ごすのに相応しい慎ましやかな態度で、日々、聖書の言葉に聞きながら、主イエスがなされた40日40夜の断食を思い起こしつつ、私たちも、心の断食をし、心から悔い改める40日間を過ごしていきましょう。
 天の父なる神様。
 雪の中、今年も四旬節を迎え、灰をつける式に与っています。この期間、どうか、心の断食を日々過ごし、慎ましやかな悔い改めと主イエスの十字架を思い起こし、また、その後に来る復活の希望と喜びを忘れないで歩む幸いを与えてください。人の目を気にするのでなく、父なる神に絶えず心を向け・一途にあなたの栄光をのみ求める日々でありますように。キリストによって祈ります。アーメン。




2008/02/06(水) 10:00:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「私たちが聞くべき唯一のお方」(マタイ17:1~9)
マタイ17:1-9、2008・02・03、変容主日(典礼色―白―)
出エジプト記34:29-35、ペトロの手紙二1:16-19

マタイによる福音書17:1~9
 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。


「私たちが聞くべき唯一のお方」(マタイ7:1~9)

 今日は変容主日です。神に直接かかわる出来事ですので、聖卓やストールの色は白となっています。主は6日後に、ペトロたち、3人だけを連れて高い山に上られます。で、彼らの前で、主は神々しい姿に変えられ、顔は輝き、その服は白く光ります。マタイでは、主イエスは新しいモーセとして表され、しかもモーセよりもはるかに偉大なモーセとして示されています。シナイ山での6日後に、7日目にモーセの顔が輝き、神と顔と顔を合わせて、語り合い、その顔の皮膚が光り輝いていた、本日の第1の日課が思い起こされます。
 従って、本日の高い山もシナイ山をマタイは考えていると、見ることができます。ペトロは、モーセとエリヤが自分たちに見られ、主イエスと語り合っているのを見て、主よ、私たちがここにいるのは何とすばらしいことでしょう、私は3つの仮小屋を、お望みなら、作りましょうと言います。その時が少しでも長く続くことをペトロは考えました。しかし天的存在ではあるが、主イエスを、モーセやエリヤと同格のもの・偉大な人間として受け止めたに過ぎなかったのです。
さて、そのようにまだペトロが語っているうちに、輝く雲が現れ、雲の中から、語る声がします。
 それをもとの文でみますと「これは私の息子、愛する者、彼を私は大いに気に入っている。あなたがたは、彼に聞き従え」となります。主イエスは神の子であり(詩編2:8)、メシアであり、また、苦難を背負う主のしもべ(イザヤ書42:1)なのです。これは、洗礼のときに聞こえた天からの声と同じです。
そして、加えられている、あなた方は彼に聞きなさいという言葉は、これから先の主の言葉だけでなく、既に語られた、苦しみ、十字架につくという主の受難予告にも聞き従え・それを受け入れよということであります。
私たちは、この雲からの神の声によって、私たちもまた神の子とされるように、本日の主日の祈りにありましたように招かれているのです。
 地上の生活、日常の生活においては私たちは、多くの主イエス以外の言葉によってかき乱される体験をします。しかし、本日の神の啓示の出来事によって、私たちは主イエスにのみ、信頼し聞き従うように、他のどんな優れた人格にも主イエスと同じ絶対的な信頼は置かないように導かれているのです。
 実際には、本日のような出来事は、普通の常識では考えにくいことです。しかし、この超越的な出来事を通して、私たちは、主イエスが神の独り子であり、苦難の僕であることを知ることが出来るのです。神の声を聞いた後、ペトロたちは恐れ、地面に顔をつけ、倒れ伏していました。しかし、主イエスが自ら近づいてきて、手で触れ、起き上がりなさい、恐れるなと、ひるんでいたいんでいた弟子たちを立ち上がらせてくださいます。彼らが目をあげると、イエスだけが見え、モーセたち、律法と預言者の代表である者たち、また、天に神によって引き上げられたと信じられていた二人は、雲に覆われ、既に見えなくなっていました。モーセもエリヤも、旧約聖書に出て来るどんな偉人も、また、聖パウロのような偉大な人物も、主イエスを私たちに紹介するにすぎない存在なのです。そして、人間はどんなに優れた賢い人でも全面的に信頼することは出来ないことを、私たちは知らされるのです。
主は山を下るとき、人の子が復活するまでは、見たことを誰にも話してはならないと最後の沈黙命令をくだされました。この後、受難・十字架と復活の出来事の後に始めてペトロたちは、この日の出来事の意味を知り、証しする者のとされていったのです。
 ペトロたちは、山での神秘的な体験にとどまることは、許されず、この日常の世界で主をキリストだと証ししなければなりませんでした。私たちもこの混濁する日常の現実の世界でキリスト者として、政治家を選択したり、社会生活・経済生活をしながら生きていかなければならないのであります。アーメン。
2008/02/03(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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