津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
『人間をとる漁師に」(マタイ4:18~25)
マタイ4:18-25、2008・01・27、顕現節第4主日(典礼色―緑―)
イザヤ書43:10-13、コリントの信徒への手紙一1:26-31

マタイによる福音書4:18~25
 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。

 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。



説教「人間をとる漁師に」(マタイ4:18~25)
 
本日の福音、マタイ4:18-25は、最初の弟子たちの召命、4:18-22と、主イエスの働きの要約4:23-25の二つの部分に分かれます。後半の部分においては、主イエスはガリラヤ中を歩き回っておられたが、彼らの会堂で教え、み国の福音を説教し、あらゆる病気と患いを癒しておられたことが出てきます。私たちにとっては、苦しみに縛られている者、悪霊に所有された者、癲癇、中風・麻痺した者が癒されるということをここで聞くことができることは、本当に有難いことであります。
私たちはだれしもが、病いから癒されたいと願うものであります。病気から何とかしてなおりたいと思うものです。
さて、しかしながら、マタイは、癒されることよりも、また、み国の福音を宣べ伝えることよりも、まず何よりも先に、彼らの諸会堂で教えられている主イエスを最初に記しているのであります。み言葉に聞くことこそが第1に重要であり、み言葉に聞く者たちこそ、真に癒される者であることを示しているのではないでしょうか。主イエスの教え、またそれに聞くことこそ、第一であり、それから、み国の福音の宣教、そして、癒しの働きが主イエスのなされる働きとして挙げられているのであります。
 さて、本日は、津田沼教会の総会も控えていますので、これから、前半の最初の弟子たちの召命について、中心に考えたいと思います。マタイは、ここではマルコ福音書の同じ個所に殆ど従っています。ルカやヨハネ福音書では、主イエスは、前もって、ペトロやアンデレ、あるいは、ヨハネやヤコブとも、弟子となる前にかなりの接触があったように記されています。しかし、マルコに従うマタイでは、前回の主イエスの始めての説教、「悔い改めなさい。天の国が近づいたから」という宣言をも、本日出て来る最初の弟子たちはその聴衆ですらなかったかのようです。
ガリラヤの海沿いを主は歩いておられた時、網を打っているペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレを御覧になった。そして「私について来なさい。あなた方を人間をとる漁師にしよう」と言われた。するとすぐに、彼らは網を後に残して従った。また、進んでいくと、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが父とその舟の中で網の手入れをしているのを御覧になった。そして、彼らを呼んだ。すると彼らは直ちに、舟と父とを後に残して彼に従った、と記されているのであります。
私たちの経験からすれば、ルカやヨハネが示すように、主イエスの弟子となる前に、私たちはいろいろと宗教を遍歴し、いろいろな人との接触や苦しい目に遭ったりして、その挙句にようやく主イエスを自分で選んでその弟子となったようにも思われます。しかし、よく突き詰めて考えるならば、やはり、マタイがマルコと同じく記しているように、主イエスのほうが先に私たちに目をかけてくださり、そして、私について来なさいと人生のある時点で突発的に声をかけ、招いてくださったのであります。それは、主イエスの弟子たちを迫害していた聖パウロが、突発的にダマスコ途上で主イエスに天から声をかけられ、異邦人のための使徒とされたのと同じようなものであります。
「私について来なさい。あなた方を人間を取る漁師にしよう」と主は言われました。網を海に広くひろげて沢山の魚を取る漁師のように、私たちは人間男女を広く、主キリストへと、すなどる漁師へとあるとき、ある機会に思いがけず招かれた者であります。だからといって、私たちは、いままでの職業や所有を捨て去る必要はありません。ただ、私たちは、それまでの生き方を変え、あるいは世界観、ものの見方をかえなければなりません。主イエスの弟子として、今度は人々を主イエスへと、福音へとたぐりよせる漁師とされているものであります。私たちはしばしば、そのことを忘れて、以前の罪の状態へと陥りがちなものでありますが、主イエスによって召されたその日のことを思いこして、人間をとるよき漁師として、原点に立ち返って、常に歩みたいものであります。アーメン。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
スポンサーサイト
2008/01/27(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「暗闇に属する者に光が」(マタイ4:12~17)
マタイ4:12-17、2008・01・20、顕現節第3主日(典礼色―緑―)
アモス書3:1-8、コリントの信徒への手紙一1:10-17

マタイによる福音書4:12~17
 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
「ゼブルンの地とナフタリの地、
 湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、
   異邦人のガリラヤ、
 暗闇に住む民は大きな光を見、
 死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。



説教「暗闇に座す者に光が」(マタイ4:12~17)

本日のマタイ4:12-17は、4:12-13と4:14-16および4:17の3つの部分に分けられます。まず、4:12-13は、洗礼者ヨハネが渡されたと主が耳にされたとき、主はガリラヤへと引っ込まれた。そして、ナザレを後にして、やって来た後、ゼブルンとナフタリの地、海沿いの地、カファルナウムに住居を取られたということであります。新共同訳は「退かれた」とありますが、これは、主は、ヘロデ・アンチパスを恐れて、難を逃れたのか、あるいは、そこを新たな挑戦の場とされたのか。ガリラヤもヘロデ・アンチパスの管轄内であって、そこへ行けば、危険がなくなるわけではなかったでありましょうが、主は時の来るまで自重され、当面は何を逃れたというほうが可能性が高いのではないかと思います。
ナザレは、身内や知人たちがいる故郷でありますが、そこは、主イエスが宣教を始める場としては不適当であると主はお考えになったのでありましょう。主は、カファルナウムに宣教の拠点を置かれました。それは、ゼブルンとナフタリの地、海沿いの地と説明されています。それは、マタイ福音書記者が、後に続く旧約聖書、イザヤ書の引用につなげるためでありました。カファルナウムという町、あるいは村は、旧約聖書には出てきません。当時、1万人くらいの人口であっただろうと考える人もいます。また、ガリラヤとは、周辺あるいは辺境を意味する地名であります。当時のユダヤ人たちは、ガリラヤから預言者やましてやメシヤが現れるとは考えられなかったようであります。
しかし、それに対して、マタイ記者は、ガリラヤこそ、メシアが現れるべき地であることを旧約聖書を引用して説得しようとするのであります。それは、預言者イザヤを通して言われていた言葉が実現するためであると、4:14から引用定式文を加えていきます。そして、その文を次のように記しています。「ゼブルンの地、ナフタリの地、海沿いの道、ヨルダン川の向こう側、異邦人のガリラヤ。暗闇において座する民は、大いなる光を見た。死の陰の地に座する者たちに、彼らに曙の光が昇った。」これは、イザヤ書8章の終りの節と9章の1節から導いたものであります。イザヤ書では、この通りには出てこず、「先には、ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの地、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける」となっています。旧約聖書の言葉をてがかりにして、それをイエスの出来事に合うように必要なところだけをマタイの記者は選び取っているかのようです。そして「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」とイザヤ書9:1は続いています。
主イエスの時代、どの程度異邦人が、ガリラヤの地に流入していたかは確かには分かりません。しかし、南のユダのエルサレムを中心とする人々は、軽蔑して「異邦人のガリラヤ」と呼んでいました。その周辺・辺境であった地方から、主イエスはメシアとして登場なさったのであります。闇に座する民であった異邦人、それから2000年近くを隔てた現在の私たちもそうでありましたが、そのような暗闇の中にうずくまっていた者たちに主イエスは光の中を歩む方として、光そのものとして現れたのであります。そして、そのときから、主は神の使者としての音信を告げ知らせ、また、こう語ることを始められたのであります。「あなた方は悔い改めなさい。なぜならば、天の国が近づいたから。」悔い改めるというのは、メタノイアという言葉から来ている動詞で、文字通りには、心の向きを変えるという意味ですが、神の民として神との契約に立ち帰るということであります。そして、なぜならば、天の国が時間的にもうそこまで来ている、神のご支配が迫っている、あるいは、主イエスにおいて神の主権が既に現在しているからだと言われるのであります。これは、洗礼者ヨハネの最初の説教と同じであります。旧約の時代から新約の時代に移り、主イエスにおいて旧約が実現したのであります。
私たちは、暗闇の中に座り込んでいた者ではないでしょうか。いや、今なおしばしば暗闇の中に座り込んでしまう弱いものではないでしょうか。しかし、主イエスにおいて、大いなる光を見、神のご支配を見出した者ではないでしょうか。当時の人々の思いを超えて、主イエスは異邦人のガリラヤ、海沿いの地、混沌と暗闇の中に座していた私たちの中にメシアとして現れてくださいました。私たちは、本日の特祷にありますように、父がみ子を通して多くの人々に信仰を与えられたように、信仰の賜物をもって人々に喜びを伝える器とさせていただきたいものであります。
 祈りましょう。
天の父なる神さま。人々の思いを超えて、主イエスは、ガリラヤの地、辺境の地でメシアとしての働きを始められました。また、異邦人、闇の中に座す民であった私たちの現実のただ中に光としてお出でくださいました。私たちが闇の中に座り込んでしまうことをやめ、主イエスとともに光の中を歩み、人々にその喜びを告げ知らせる者として下さい。キリストによって、アーメン。
わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。


2008/01/20(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神の子の洗礼」(マタイ3:13~17)
マタイ3:13-17、2008・01・13、主の洗礼日(典礼色―白―)
イザヤ書42:1-7、使徒言行録10:34-38

マタイによる福音書3:13~17
 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。



説教「神の子の洗礼」(マタイ3:13~17)

本日は顕現節の第2主日でありますが、それを特に、本日は主の洗礼日として、祝うのであります。教会暦の用いる色は、先週に引き続いて、神を表す白であります。
本日の福音、マタイ3:13-17から、しばらくご一緒に考えてみましょう。
 洗礼者ヨハネが悔い改めの洗礼を授け、悔い改めの説教をしておりましたころ、そのとき、主イエスは、ガリラヤからヨルダン川のヨハネに向かってやって来ます。それは、彼によって洗礼を受けるためでありました。
他の福音書とは違って、マタイでは、洗礼者ヨハネは、主イエスが洗礼を受けようとなさるのを何とか避けようとして主に、「あなたが私から洗礼をお受けになるのですか。私こそあなたから洗礼を受ける必要を持っていますのに。あなたが私のほうへとやって来られるのですか」と言って、止めさせようとします。
それに対して、主は「今はこのままにさせてほしい。すべての正しいこと、義が満たされるのは私たちにとってふさわしいことだから」と答え、彼にそのまま洗礼を受けさせたと書かれています。旧約聖書の中にあるあらゆる神の法令を成就することが私たちにはふさわしいからだと言われるのです。洗礼を受けるというのは、神の義にかなっているのです。そして、罪なきお方イエスが私たちと同じ罪ある人間の罪の深みにまで下りてこられ、主もご自分のほうから、洗礼を受けると言われるのであります。
 主は、水から直ちに上って来られると、見よ、神の霊が鳩のように、くだってくるのを、そして自分の方へとやって来るのを御覧になります。鳩は、詩編の中に、イスラエルの民を表すものとして表現されています。新しいイスラエルの民が、主イエスご自身の洗礼において誕生するのであります。新しく教会が生まれることが予表されているのであります。そして、見よ、幾層もの天が開かれ、声が聞こえます。「これは、私の息子、愛する者、この者を私は大いに喜んでいる。」
 この天からの声は、天地創造のときに、創世記の初めに書かれているように、霊が地の面をただよっていたというときにも聞かれたと伝えられています。「声の娘」、あるいは、「娘の声」とも言われる声がこだまするように聞かれたのであります。
マタイによれば、神の声が天から、マルコよりも、より客観的に、「これは、私の息子、愛する者、この者を私は大いに喜ぶ」と聞かれたのであります。これは、詩編の2:7の言葉と、イザヤ書42:1の言葉を一緒にしたものであります。詩編2編はメシアの即位に関わる詩編とされており、その7節は、「お前は私の子、今日私はお前を生んだ」とあり、主イエスが神の子であり、またメシア王であることが啓示されたのであります。
一方、イザヤ書の42編1節は、「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎えるものを。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。」とあります。主の僕とは、もともとは、イスラエルの民をさしている言葉と見ることができます。しかし、それは、十字架につけられる苦難の僕としてお出でになるイエスを指していると取ることもできます。この方は、決して傷ついた葦を折ることなく、消えかかっている灯心を消すこともない方であります。弱い私たちを見捨てられることはなさらない、そのような救い主としてお出でになられたことが示されているのであります。
このように、主の洗礼の時のこれらの天からの言葉は、主イエスが、メシア王として、神の子であり、かつ愛される独り子であり、さらにそれは苦難のしもべ、受難のキリストであることを示しています。
神の子が洗礼をお受けになり、その時にこれらの言葉が聞かれました。山上での変貌の時にも同じ言葉が聞かれます。私たちは、本日の特祷にもありましたように、新しいイスラエルの民として、すべての神の法令を満たした方主イエスと同じ洗礼を受けている者として、それぞれ皆、多くの不安や困難を抱えていますが、本日の洗礼を受けられた主イエスに従って、一年の歩みを支えられながら進んでいきたいと思います。アーメン。

望みの神が信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。



2008/01/13(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「罪の世界へのみ子の誕生」(マタイ2:1~12)
マタイ2:1-12、2008・01・06、顕現主日(典礼色ー白―)
イザヤ書60:1-6、エフェソの信徒への手紙3:1-12

マタイによる福音書2:1~12
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
 『ユダの地、ベツレヘムよ、
  お前はユダの指導者たちの中で
  決していちばん小さいものではない。
  お前から指導者が現れ、
  わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。



説教「罪の世界へのみ子の誕生」(マタイ2:1~12)

本日は、顕現主日であります。毎年、一年の始めに、そして、教会暦の上ではクリスマスの期節の終わる翌日に、私たちは、本日与えられているマタイ2:1-12を読むのであります。これは、「東方からの3人の博士の来訪」として、一般には知られている物語あるいは出来事であります。非常に不思議な物語であり、はたしてどこまでが歴史的事実であったのかはよく分かりません。
 しかし、当時は、メシアあるいは世界を救うような指導者・偉人の誕生が待たれていた時代であり、そのような時には、彗星が現れたり、惑星が交合するといった現象なしに、偉大な王や人物が生まれることのほうが信じがたいと思われていた時代であります。皇帝アウグスツウスが生まれたときや、あるいは、聖書ではアブラハムが生まれたときに、そのような星の前触れがあったと伝えられています。
 本日の出来事を、単なる占星術的な伝説とみる者から、歴史的にあったこととして、紀元前4年から9年の間に起こった天文学的な計算をする人まで、本日の記事については、大きな開きがあります。しばらく本日の記事について思い起こしながら、ご一緒に考えてみたいと思います。
 本日の記事は、このように始まっています。「イエスがユダヤのベツレヘムにおいてお生まれになったとき、すなわち、ヘロデ王の日々において、見よ、東方から占星術の学者たちが到来した、こう語りながら。ユダヤ人の王にお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、彼を拝みに来たのです」と。そのとき、ヘロデ王は不安に思った、これはぎょっとし、うろたえたという強い言葉であります。そして、そして彼と共に全エルサレムもというのであります。ヘロデ王や全エルサレムは、罪にまみれたこの現実の世界を表していると見ることができます。救い主として生まれた主イエスに、今も世界は抵抗し、なかなか受け入れようとはしないのであります。
さて、このヘロデ王は、民の祭司長や律法学者など旧約聖書に詳しい最高法院の指導者たちを呼び集めて、メシアがどこで生まれることになっているのかを詳しく調べます。彼らは答えます。「ユダのベツレヘムです。なぜなら、預言者を通してこう書かれているからです。『ユダのベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で最も小さいものでは決してない。お前から私の民イスラエルを牧するものが出てこようから』」と。これは、ミカ書とサムエル記上の言葉をつないだものです。しかも、ミカ書では、ユダのベツレヘムよ、お前は、ユダの中でいと小さき者となっていますが、マタイは少し変えて用いています。旧約聖書を主イエスの光から解釈して、旧約の実現をここに見ているのであります。
 さて、それから、ヘロデは、占星術の学者たち、マギたちを呼んで、星が輝き始めた時を正確に確かめます。それから、彼らを送り出して、言うのであります。「あなたたちは、進んでいって、その子のことを詳しく調べてくれ、そして見つけたら、私に報告してくれ。私も、その子を拝みに行きたいから。」
 彼らはその言葉を聞き流しながら、彼らが進んでいくとしばらく見えなくなっていた主の星が彼らを主イエスのおられる家の真上まで導き、そこで止まります。彼らは非常に大きな喜びを喜んだと、原文には書いてあります。何がそれほど彼らを喜ばせたのでしょうか。家に入ると、彼らは、その子と彼の母マリアを見出し、ひれ伏して拝みます。そして、彼らの宝の箱から、あるいは懐から贈り物、金と乳香と没薬を捧げ、差し出したのであります。それから、ヘロデのところに戻るなと夢で警告を受けたので、別の道を通って彼らの地方へと引きこもったというのであります。
 東方から来た者たちを「占星術の学者」と新共同訳は訳していますが、これは、マギ、マゴスという言葉であります。そして、異説によれば、マジシャン、魔術師ではなかったのかとも言われます。そこで彼らは彼らの商売道具であった自らの宝どもを差し出して、真の救い主に出会い、信じてそれまでの生活を悔い改めて帰っていったということにもなりうるのであります。
 しかし、いずれにしましても、主イエスがお生まれになったのは、罪にまみれたこの世界のただ中に生まれたのであります。そして、その時、世界はうろたえ、信じ帰依するどころか、混乱し揺すぶられたのであります。その時の現実の罪にまみれた世界は今も同じであります。私たちの罪の世界に、主イエスはお生まれになるのであります。しかし、私たちは、本日のマギたちと同じように、新しい生活へと変えられて、この主、真の王、ユダヤ人の王であると共に異邦人の王、すべての人類の王であるお方に、信じ従いながら、この一年間を歩んでまいりたいものであります。
 祈りましょう。
天の父なる神さま。新しい一年の教会の歩みが始まりました。私たちは、2000年ほど前に主イエスが誕生した時と同じように、罪と闇の世界に悩まされ、光をなかなか見出せないでいます。
しかし、あなたが送られたみ子の生誕によって、道は新たに備えられました。その道を、この一年しっかりと歩ませてください。身近な家族に、また、今年めぐり合うすべての人に、救い主イエスを指し示すことが出来るような歩みを私たち一人一人になさせてください。キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

わたしたちの神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなた方に必要なものをすべて満たしてくださいます。







2008/01/06(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神の忍耐ー悔い改めへの新しい一年をー」(ルカ13:6~9)
ルカ13:6-9、2008・01・01、新年礼拝(典礼色―赤―聖餐式)
エレミヤ書24:1-7、ペトロの手紙一1:22-25

ルカによる福音書13:6~9
 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」


説教「神の忍耐―悔い改めへの新いい年をー」(ルカ13:6-9)

2008年の新しい年を迎えました。本日は、主の命名日でもありますが、新年礼拝として、ルカ13:6-9の福音を選ばせていただきました。この個所が、どうして、新年を迎えるに当たって選ばれているのか、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
ルカ13:1-9が一つのまとまりの部分として、日課として選ばれるのが普通であります。時のしるしを見分けよ、そして、敵と訴訟の途上にある者は、速やかにその敵対者と和解するが良いといった勧めを13章のすぐ前では、主イエスはなさっているのであります。
そして、それに続けて、二つの出来事が主イエスに知らされます。それは、エルサレムで、ガリラヤ人の血をいけにえの血とピラトが混ぜた、すなわち故意に虐殺したという知らせであり、また同じく、エルサレムで不慮の事故により、シロアムの塔が倒れて、18人の者が犠牲となったことを、主は取り上げて、あなたがたは、彼らがより罪深かったために、そんな目にあったと思うのか。言っておくが、あなた方も悔い改めなければ、同じように滅びると繰り返されたのであります。
それに続けて、本日の個所となるのであります。で、彼は、まさにこの譬えを語っておられた、と本日の部分は始まっています。すなわち、そのいちじくの木を、植えられたその木を、ある人がそのぶどう園において持っていた。彼は、それにおいて実を見出そうとやって来たが、見出さなかったのであります。彼は、そのぶどう園の園丁に言います。見よ、私は3年の間、それにおいて実を探しにやって来たがそれを見出さなかった。なにゆえに、それはまた、その地を浪費しているのか、その地を消耗させ、あるいは無駄にさせているのか。それをあなたは、伐採せよと言ったのであります。それに答えて、園丁は語るのであります。この園丁である方、すなわちこの譬えを語っておられる主イエスご自身が、現在もなお主なる神に向かって、同じようにとりなしの言葉を語っておられるのであります。すなわち、御主人、あるいは主よ、この年もそれをそのままにしておいてください。私がその周りを掘り起こして、堆肥を投じてみましょうから、と。そして、一方、それが実を結べば結構なことです。さもなければ、あなたが、それを伐採するでしょう、と。イエスご自身が伐採しましょうとは言われず、父なる神よ、あなたが伐採してくださいと言うのであります。
さて、このいちじくの木は、本来は、ぶどうの木やオリーブの木と同じく、ユダヤ国民を表しているものでしょう。しかし、私たち、裁きの前に立つすべての人間、罪ある人間一般を指していると考えることが出来るでしょう。よく考えるならば、故意に他人によって虐殺されたガリラヤ人や不慮の事故で命を落としたエルサレム人に比べて、このいちじくの木は、3年もの間、土地をふさいで不毛であり、非生産的であり、悔い改めの実を結ぶことを先延ばししている怠惰な者であり、より有罪な者を表しているとも考えられます。
しかし、この園丁、すなわち、主イエスは、この不毛のいちじくの木の原因を調べ、擁護し、肥やしをやってみますので、もう一年待ってくださいと主人である神の前に弁護士のように今もとりなしてくださっているのであります。そして、主人である神は、辛抱強く、憐れみ深く、園丁の言葉を受け入れて、私たちが生活を改革し、主イエスの言葉に従って新たな歩みをするのを待っていて下さるのであります。父なる神は忍耐して、私たちが実を結ぶことを待ってくださっています。しかし、悔い改めの実を結ばない者は、洗礼者ヨハネが宣言したように既にその斧がその木の下に置かれているのであります。
 私たちは、このような中で、自分の持っている弱さや改善点や課題をよく知っている者であります。
この一年を、主イエスの仲立ちによりながら、心から悔い改めて、生活においてそれに相応しい実を結ぶ一人一人でありたいと願うものであります。祈りましょう。
天の父なる神さま。
過ぐる一年をあなたの憐れみのうちに、無事過ごせましたことを感謝いたします。新しいこの年も、いつ、私たちの地上の命が取り上げられるか、私たちは何も知りませんが、この地上に与えられている命をあなたの御用のために用い、罪から解かれて、悔い改めにふさわしい実を結ぶことが出来ますように。み子は、私たちを擁護し、私たちの生活がみ心に沿うものに変えられるように今年も、あなたの前でとりなしていてくださいます。どうか、この一年の津田沼教会に連なるお一人お一人の歩みが祝福され、豊かに実を結ぶ者となりますように。み子、キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

私たちの内に働く御力によって、私たちが求めたり、思ったりするすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。




2008/01/01(火) 11:00:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。