津田沼教会 牧師のメッセージ
「主に信頼し、平安を得よ」(マタイ3:1〜12)内海望牧師
マタイ3:1-12、2007・12・09、待降節第2主日(典礼色―紫―)
イザヤ書11:1-10、ローマの信徒への手紙15:4-13

マタイによる福音書3:1〜12
 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。
 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
 『主の道を整え、
  その道筋をまっすぐにせよ。』」
 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」



説教「主に信頼し、平安を得よ」(マタイ3:1〜12)内海望牧師

 先週より教会は待降節(アドベント)に入りました。聖壇の色は四旬節(受難節)と同じ紫に変わりました。これは、教会は「クリスマス」と「十字架」を同一の線上で考えて来たということを示します。すなわち、救い主イエスさまがこの世界に来られたという出来事は、取りも直さずイエスさまが十字架の苦しみと死を目指して地上の生を始められたということを示すのです。
 従って、私たちはクリスマスを単なる「イエスさまの誕生パーティ」とするわけにはいかないのです。イエスさまは、ご自身の命をも犠牲にして私たちを救おうという決意を持ってこの世に来られたのです。救い主が来られたのですから、確かにクリスマスは喜びの時です。しかし、救い主の歩みは十字架への道であったのです。バッハは忠実なルーテル教会員として「マタイ受難曲」と「クリスマス・オラトリオ」のテーマ曲に同じものを選びました。十字架の下でクリスマスを迎えたのです。
 その意味では、アドベントの過ごし方は、四旬節と同様、「悔い改めつつ待つ」という姿勢ではないでしょうか。「紫」という色は、「悔い改め」を示す色でもあるのです。

 実際、今日与えられた福音書の日課は、「天の国は近づいた。悔い改めよ。」と荒野で叫ぶバプテスマのヨハネの「悔い改めを迫る説教」で始まっています。ヨハネは激しい言葉で悔い改めを人々に迫ります。「蝮の子らよ。・・・悔い改めに相応しい実を結べ。」「斧は既に木の根元に置かれている。」という切迫感に満ちた呼びかけの言葉は、私たちに戦慄を覚えさせます。神さまの怒りの激しさを感じさせます。しかも、その厳しいみ言葉がファリサイ派やサドカイ派の人々に向けられていることに注意して下さい。「神を知らない人」と軽蔑されている人々でなく、立派な信徒に向かって投げかけられている言葉なのです。事実、ファリサイ派の人々、サドカイ派の人々は、出自も、信仰生活においても、人格的にも立派な人々でした。実際、彼らは「我々の父はアブラハムだ」と言って自分たちが家柄も行いも優れていることを誇っていました。
 問題は、彼らが自分たちの行いに永遠の救いへの保証を見ている点にあります。行いとは「週2回の断食あるいは10分の1の献金等々」です。しかし、人間の表面ではなく、心の奥を御覧になる神さまの前では、人間の表面的な行いなど何の保証にもなりません。山上の説教でイエスさまが正しく見抜かれたように、どんな敬虔な人でも、その心には罪深い思いが渦巻いているのです。神さまの審判は峻厳であり、誰も安全地帯を持つことは出来ません。
 もっと悪いのは、自分を誇ることが他者への批判、軽蔑へとつながっている点にあります。実は、このような生き方は、単にファリサイ派、サドカイ派にとどまらず、すべての人間に共通の弱点なのです。「自分を高くし、人を裁く」という罪は、アダム以来の人間の「原罪」なのです。
 従って、「悔い改め」は先ず敬虔な人々から、教会から始まるべきなのです。「今こそ、神の家から裁きが始まるのです。」とペトロは語ります(ペトロ一4:12)。他の人々を「彼らは罪人だ」と言って指差すのでなく、私たちこそヨハネの言葉によって悔い改めに導かれるべきです。その意味で、教会はアドベントを何よりも先ず「罪の告白」と「悔い改め」から始めるべきだと言うのです。
 ヨハネが今日の説教で、「火」という言葉を3回も用いています。10節でヨハネは「よい実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」と恐ろしい裁きについて語ります。「火」は「すべてを焼き尽くす」ものであり、世界審判のしるしです。罪人にとっては、まことに恐るべき裁きです。これはヨハネの用いる「火」の意味です。
 しかし、11節を御覧下さい。ここでヨハネは、イエスさまの「火」について預言し、「イエスさまは、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」と語っています。
 自己の力では決して洗い清めることが出来ないのが私たちの罪です。それは、「罪があなたがたに染みついている。」(エレ2:22)「ユダの罪は心の板に、祭壇の角に鉄のペンで書きつけられ、ダイヤモンドのたがねで刻み込まれている」(エレ17:1)としか表現できないほど私たちの身に着いてしまっているのです。ですから詩編の中で、あの勇猛で、同時に敬虔なダビデ王すら「私を洗って下さい。雪のように白くなるように。」と祈り続ける他ないのです。これは、まさに今ここにいる私たちの共通の祈りではないでしょうか。
 このように考えて来ると、恐ろしい裁きを意味する「焼き尽くす火」は、まさに恵みの火となるのです。イエスさまは、いわば、「私の外側から」古い私を焼き尽くし、滅ぼし、新しい自己、新しいいのちを与えて下さる方なのです。私たち人間が出来ない心の「洗い清め」をイエスさまが行って下さるのです。裁きの前に立つことは、私たちにとって恐るべき痛みですが、同時に新しく生きる出発点になるのです。
 ヨハネの時から、救いの時、イエスさまの時への転換がこの箇所に記されているのです!いよいよ「天の国は近づいた」のです。
 ですから、クリスマスは「誕生パーティ」ではありませんが、やはり「大きな喜び、本当の喜びの時」なのです。決して憂鬱な時ではありません。イエスさまによって確立された「救いの約束」は、決して取り去られることがありません。私たちは、このイエスさまの救いに信頼して、平安のうちに穏やかな心をもって歩むことが出来るのです。
 「私が最後の目を閉じる時に、もしも『今日・・・あなたがたのために救い主がお生まれになった』というこの大いなる光がなかったならば、私の目に映るのは全くの闇の世界でしょう。すべてのものが私を離れ去っても、救い主が助けて下さるでしょう。」とルターはクリスマスの喜びを語っています。
 私たちも、主イエスの十字架の血によって、心を洗われ、新しいいのちに生きていきましょう。 


2007/12/09(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)