津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「聖家族のエジプトへの避難」(マタイ2:13~23)
マタイ2:13-23、2007・12・30、降誕後主日(典礼色―白―)
イザヤ書63:7-9、ガラテヤの信徒への手紙4:4-7

マタイによる福音書2:13~23
 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
 
 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
 「ラマで声が聞こえた。
  激しく嘆き悲しむ声だ。
  ラケルは子供たちのことで泣き、
  慰めてもらおうともしない、
  子供たちがもういないから。」
 
ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。


説教「聖家族のエジプトへの避難」(マタイ2:13~23)

 本日のマタイ2:13-23は三つの部分から成っています。それは、聖家族のエジプトへの避難、2:13-15と、ヘロデ大王による嬰児虐殺2:16-18、そして、聖家族のイスラエルへの帰還2:19-23であります。もう一度、本日の出来事について順をおって、思い起こしてみましょう。
 本日の記述のすぐ前は、東方の占星術の学者たち、マギたちが、夢でヘロデのところへ、戻るなとのお告げを受けてそれぞれの国へと帰ってしまいます。主イエスがすぐ生まれたばかりの赤ん坊であったとか、年齢のこととか、そういう事情は記されていません。ただ、占星術の学者たちが帰った後、ヨセフは夢で天使の啓示を受けます。起きて、息子とその母を連れてエジプトへと逃れなさいと警告を受けるのです。父ヨセフは、ルカでは、違いますが、マタイでは積極的な働きをしています。ヨセフは起きてすぐ、その子とその母親を連れてエジプトに逃れます。これは、エジプトから私がその子を呼び出したとある旧約聖書が実現するためであったとマタイは記しています。その当時、ヘロデ大王の暴虐振りから考えると十分に起こりえた事実であります。エジプトから私の子イスラエルを呼び戻したと出エジプト記などにあるのを、マタイは救い主イエスをエジプトから呼び戻したことの預言成就の出来事として解釈しているのであります。
それから、2番目の出来事は、ヘロデ大王による何の罪もない男の子たちの虐殺であります。どうして、このようなことが許されるのでしょうか。どうして、独り子のその後の使命の為にとはいえ、なぜこのような不条理な出来事が起こらねばならなかったのでしょうか。マタイは、エレミヤ書の言葉を引用し、ラマで泣く声、大いなる悲嘆があった。ラケル、ヤコブの妻は、その子らのために泣き、人から慰められようとはしなかった。彼女の子らがもういないからであると引用しています。しかし、その引用されているエレミヤ書では、すぐその後に喜びが語られているのです。その子らが、バビロン捕囚から戻ってくると希望と喜びが約束されているのです。しかし、ベツレヘムとその近辺一体の母親たちの嘆きはどうなるのでしょうか。み子によるその後の働きを保護するために、その男の子たちの命が代償とされたのであります。私たちはそのような大きな犠牲の上に主イエスによる救いに与っているのであります。
さて、イエスがどれくらいエジプトに滞在したのかは書かれていません。ヘロデ大王は紀元前4年に死んでいますから、戻ってくるのはそれ以後のこととなります。こうして、3つ目の出来事は、再び、夢で天使が現れ、起きて、イスラエルに帰れ、その子の命を狙っていた者たちは死んでしまったからだというものでした。ヨセフは、天使のお告げに常に従順に従い、子と母親の安全を守り、イスラエルの地に帰ってくるのであります。
それは、モーセがエジプトの力からかなり長く離れて暮らし、妻や子を連れてエジプトに戻っていった旧約聖書の出来事をマタイは頭においているからであります。ヨセフは反対にそのエジプトからイスラエルの地へと戻っていきます。これによって、わが子をエジプトから呼び戻したと言う旧約の預言が実現したとマタイは言いたいのであります。実際には、出エジプトの出来事は、イスラエルの子らを約束の地イスラエルに、旧約では呼び戻したのでありますが、マタイは、救い主イエスをエジプトから呼び戻したという預言が実現したものだと言っています。ヨセフはイスラエルの地に戻ってきますが、ユダの地は、ヘロデの子アルケラオが支配していて暴圧的な王でありましたので、ベツレヘムに戻ることなどは恐れました。それで夢でお告げがあったので、それに従い、ガリラヤのナザレへと退いたのであります。そしてこれも、彼はナザレ人(ナザライオス)と呼ばれるとの旧約が実現したと書いています。しかしそのような直接のその通りの言葉は旧約聖書にはありません。それは、サムソンのようなナジル人を意味したかもしれませんし、若枝が生え出るというイザヤ書に出てくる似た発音の言葉が考えられているのかもしれません。このようにして、幼子イエスは、神の守りのうちに、育てられていきます。救い主の誕生においては、本日の福音書に書かれているような大きな犠牲が必要だったのであります。
 今は、クリスマスの喜びの時でありますが、その喜びの裏には、何人もの罪のない男の子たちの命とそれを奪われた母親たちの悲しみがあったことを私たちも深く受け止め、この救いの重さを忘れずに歩みたいものであります。アーメン。






スポンサーサイト
2007/12/30(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「わが救い主を喜ぶ」(ルカ1:46~55)
ルカ1:46-55、2007・12・23、待降節第4主日(典礼色―紫―)
サムエル記上2:1-10、ローマの信徒への手紙2:17-29

ルカによる福音書1:46~55
 そこで、マリアは言った。
「わたしの魂は主をあがめ、
 わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
 身分の低い、この主のはしためにも
    目を留めてくださったからです。
 今から後、いつの世の人も
    わたしを幸いな者と言うでしょう、
 力ある方が、
    わたしに偉大なことをなさいましたから。
 その御名は尊く、
 その憐れみは代々に限りなく、
 主を畏れる者に及びます。
 主はその腕で力を振るい、
 思い上がる者を打ち散らし、
 権力ある者をその座から引き降ろし、
 身分の低い者を高く上げ、
 飢えた人を良い物で満たし、
 富める者を空腹のまま追い返されます。
 その僕イスラエルを受け入れて、
 憐れみをお忘れになりません、
 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
 アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」



説教「わが救い主を喜ぶ」(ルカ1:46~55)

本日は待降節第4主日となり、本日与えられている福音は、ルカ1:46-55であります。エリサベトをユダの山里に訪ね、エリサベトは高らかにマリアをほめたたえたのであります。それに対して、マリアは、ただただ神をほめたたえるのであります。このマグニフィカートとも呼ばれる賛歌は、エリサベトが歌ったのではないかとする学者や後代の写本もあります。
しかし、これは、神の母となるマリアにしか歌えない内容であります。マリアはむしろ信仰を告白しているのであります。「私の魂は主をあがめる。私の霊は救い主である神を喜んだ、あるいは、喜びたたえる、とまず、言います。」私がではなく、私自身の中心において、主を拡大する、救い主を喜ぶというのであります。神は、神の母となる娘をエルサレムに住むカヤパやアンナスのような最高法院の大祭司の娘から選ぶことも出来たはずであります。しかし、神は、ナザレに住む田舎娘のマリアを顧みたもうたのであります。
マリアは、主のはしためを顧みてくださったことを感謝しているのであります。普通なら、選ばれた自分を自慢しても良いところですが、マリアはただただ、神が自分を選ばれたその顧みを感謝し、神にのみ栄光を帰しているのであります。そして、なぜなら、今から後の世代は私を幸いなもの、祝福されたものと呼ぶでしょうからと言います。
そして、次第に自分についてなされたことから、イスラエルの民に対して、神のなさったみわざをほめたたえていくのであります。
自分の善行や功績を一切誇ることをせず、ただ、神が低き自分を通して、新しい時代を創り始められたことを感謝するのであります。
 そして神は、「力であり、聖であり、憐れみの方であること」を、マリアは自分が神を喜ぶ理由としているのであります。神を恐れる人に、すなわち敬虔な人に神は世々にわたって憐れみを忘れられないのであります。力ある方がそのような歴史の中で私に大きなことどもをなさったとマリアは宣言します。
 それから、イスラエルの神が自分の民にこれまでになさった力あるみわざをほめたたえるのであります。彼は彼の腕において力あるわざをなさった。イスラエルの民を主は出エジプトなどを通して救われました。そして、神は、心の思いすなわち企ての傲慢な者、自慢する者を追い散らされます。神は歴史の中で登場する支配者を、神のみ心にかなわなければ、その王座どもから引き降ろされるのであります。そして、イスラエルの最初の王、サウルに代えてダビデのように低い者を引き上げることがおできになるのであります。
そして、飢えた者たちをあらゆるよきもので満たし、富んでいる者たちをむなしい手で、空腹のままに追い払われます。そして、神はご自分のしもべイスラエルを助けました。憐れみを忘れることなく、ちょうど、彼らの父祖たちに約束されたように、アブラハムとその子孫に対して憐れみを思い起こされるのであります。
 クリスマスを迎えようとしています今日、私たちもまた、マリアのように、自分の業績や善行を誇ることなく、ただ、神の顧みのみをほめたたえ、神を畏れて、その憐れみを受けることが出来るように、主イエスによってもたらされる新しい救いの時代を新たに生きていきましょう。アーメン。
2007/12/23(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「すべての罪を贖われる主」(マタイ1:18~23)
マタイ1:18-23、2007・12・16、待降節第3主日(典礼色―紫―)
イザヤ書7:10-14、ローマの信徒への手紙1:1-7

マタイ1:18~23
 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
 その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。


「すべての罪を贖われる主」(マタイ1:18~23)

 主イエスのご降誕を待ち備えるアドベントの第3主日に、マタイ1:18-23の処女懐胎の記事が与えられていることは、まことにふさわしいことであります。
 本日の記事を今一度思い起こしてみましょう。主イエスの誕生の次第はこうであったと、本日の記事は始まっています。この「誕生の次第」とは、主イエスの「起源は」こうであったとも訳せます。1:1のイエス・キリストの「系図」という言葉も同じ言葉であります。
 さて、ヨセフと婚約をしていたマリアが聖霊によって身ごもっていることが、二人が結婚し一緒になる前に明らかとなったのであります。本来なら、これは、律法の重大な違反であり、マリアは姦淫したものとして、石打ちの刑に当たるものでありました。ヨセフは律法を守る正しい人であったので、公のさらしものにすることを欲せず、ひそかに、うちうちで、彼女を離縁しようとしたのであります。ところが、彼があれこれ思案し、思い戸惑っているときに、主の使者が夢に現れて、ダビデの子ヨセフよ、恐れずに彼女を妻として受け入れよ、彼女の妊娠は聖霊によるものだからだとのみ告げを受けたのであります。
 マタイ福音書においてはヨセフは、能動的に、神の命令に従うのであります。それに対しルカ福音書では、マリアは受動的にふるまうのであります。マタイでは、ヨセフは、神の命令に従順に、しかも積極的に動くのであります。マタイは、私たちが神の命令に、口先だけではなく、行動によって従うようにと教えるのであります。口先だけで「主よ、主よ」という者が天の国に入るのではなく、神の命令に従順に従い、行う者がみ国へと入れられるのであります。
 さて、ヨセフは起きて、その通りにし、言われた通りに名前をイエスと名づけるのであります。これは、旧約聖書に出てくるヨシュアという名前と同じで、「主は救い」という意味であります。そして、マタイは、イザヤ7:14を引用して、乙女が身ごもって男の子を生むという預言が実現するためであったと言い、インマヌエル、訳せば、神がわれわれと共にいるという預言が実現したと言うのであります。
ヌンの子ヨシュアは、モーセの出エジプトのとき、彼の後継者として周りの敵からイスラエルの民を守って、約束の地へと導きました。
 それに対して、イエスは、ダビデの家につながる者として、ヨセフの子として生まれ、、彼の民をそのすべての罪からあがなうメシア、救い主となられるのであります。
 神が超自然的な奇跡的な受胎という方法をとって救い主を、私たちに与えられるのであります。そして、そのようにして生まれる主イエスは、人間ヨセフの子であると共に、神の子であるのであります。
 私たちは、このようにして、人の欲によらず、神の直接的な介入によってお生まれになる主イエスを信じるのであります。伝説によれば、モーセも処女懐胎によって生まれたとも言われますが、主イエスは、モーセを上回る救い主として乙女マリアから生まれたのであります。そして、私たちは、次週12月23日(日)を待降節第4主日をクリスマス主日としても祝い、翌日12月24日(月)の夜にクリスマスイブに主イエスの誕生を祝うのであります。私たちのすべての罪の贖い主を心から待ち望みたいものであります。アーメン。

2007/12/16(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主に信頼し、平安を得よ」(マタイ3:1~12)内海望牧師
マタイ3:1-12、2007・12・09、待降節第2主日(典礼色―紫―)
イザヤ書11:1-10、ローマの信徒への手紙15:4-13

マタイによる福音書3:1~12
 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。
 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
 『主の道を整え、
  その道筋をまっすぐにせよ。』」
 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」



説教「主に信頼し、平安を得よ」(マタイ3:1~12)内海望牧師

 先週より教会は待降節(アドベント)に入りました。聖壇の色は四旬節(受難節)と同じ紫に変わりました。これは、教会は「クリスマス」と「十字架」を同一の線上で考えて来たということを示します。すなわち、救い主イエスさまがこの世界に来られたという出来事は、取りも直さずイエスさまが十字架の苦しみと死を目指して地上の生を始められたということを示すのです。
 従って、私たちはクリスマスを単なる「イエスさまの誕生パーティ」とするわけにはいかないのです。イエスさまは、ご自身の命をも犠牲にして私たちを救おうという決意を持ってこの世に来られたのです。救い主が来られたのですから、確かにクリスマスは喜びの時です。しかし、救い主の歩みは十字架への道であったのです。バッハは忠実なルーテル教会員として「マタイ受難曲」と「クリスマス・オラトリオ」のテーマ曲に同じものを選びました。十字架の下でクリスマスを迎えたのです。
 その意味では、アドベントの過ごし方は、四旬節と同様、「悔い改めつつ待つ」という姿勢ではないでしょうか。「紫」という色は、「悔い改め」を示す色でもあるのです。

 実際、今日与えられた福音書の日課は、「天の国は近づいた。悔い改めよ。」と荒野で叫ぶバプテスマのヨハネの「悔い改めを迫る説教」で始まっています。ヨハネは激しい言葉で悔い改めを人々に迫ります。「蝮の子らよ。・・・悔い改めに相応しい実を結べ。」「斧は既に木の根元に置かれている。」という切迫感に満ちた呼びかけの言葉は、私たちに戦慄を覚えさせます。神さまの怒りの激しさを感じさせます。しかも、その厳しいみ言葉がファリサイ派やサドカイ派の人々に向けられていることに注意して下さい。「神を知らない人」と軽蔑されている人々でなく、立派な信徒に向かって投げかけられている言葉なのです。事実、ファリサイ派の人々、サドカイ派の人々は、出自も、信仰生活においても、人格的にも立派な人々でした。実際、彼らは「我々の父はアブラハムだ」と言って自分たちが家柄も行いも優れていることを誇っていました。
 問題は、彼らが自分たちの行いに永遠の救いへの保証を見ている点にあります。行いとは「週2回の断食あるいは10分の1の献金等々」です。しかし、人間の表面ではなく、心の奥を御覧になる神さまの前では、人間の表面的な行いなど何の保証にもなりません。山上の説教でイエスさまが正しく見抜かれたように、どんな敬虔な人でも、その心には罪深い思いが渦巻いているのです。神さまの審判は峻厳であり、誰も安全地帯を持つことは出来ません。
 もっと悪いのは、自分を誇ることが他者への批判、軽蔑へとつながっている点にあります。実は、このような生き方は、単にファリサイ派、サドカイ派にとどまらず、すべての人間に共通の弱点なのです。「自分を高くし、人を裁く」という罪は、アダム以来の人間の「原罪」なのです。
 従って、「悔い改め」は先ず敬虔な人々から、教会から始まるべきなのです。「今こそ、神の家から裁きが始まるのです。」とペトロは語ります(ペトロ一4:12)。他の人々を「彼らは罪人だ」と言って指差すのでなく、私たちこそヨハネの言葉によって悔い改めに導かれるべきです。その意味で、教会はアドベントを何よりも先ず「罪の告白」と「悔い改め」から始めるべきだと言うのです。
 ヨハネが今日の説教で、「火」という言葉を3回も用いています。10節でヨハネは「よい実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」と恐ろしい裁きについて語ります。「火」は「すべてを焼き尽くす」ものであり、世界審判のしるしです。罪人にとっては、まことに恐るべき裁きです。これはヨハネの用いる「火」の意味です。
 しかし、11節を御覧下さい。ここでヨハネは、イエスさまの「火」について預言し、「イエスさまは、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」と語っています。
 自己の力では決して洗い清めることが出来ないのが私たちの罪です。それは、「罪があなたがたに染みついている。」(エレ2:22)「ユダの罪は心の板に、祭壇の角に鉄のペンで書きつけられ、ダイヤモンドのたがねで刻み込まれている」(エレ17:1)としか表現できないほど私たちの身に着いてしまっているのです。ですから詩編の中で、あの勇猛で、同時に敬虔なダビデ王すら「私を洗って下さい。雪のように白くなるように。」と祈り続ける他ないのです。これは、まさに今ここにいる私たちの共通の祈りではないでしょうか。
 このように考えて来ると、恐ろしい裁きを意味する「焼き尽くす火」は、まさに恵みの火となるのです。イエスさまは、いわば、「私の外側から」古い私を焼き尽くし、滅ぼし、新しい自己、新しいいのちを与えて下さる方なのです。私たち人間が出来ない心の「洗い清め」をイエスさまが行って下さるのです。裁きの前に立つことは、私たちにとって恐るべき痛みですが、同時に新しく生きる出発点になるのです。
 ヨハネの時から、救いの時、イエスさまの時への転換がこの箇所に記されているのです!いよいよ「天の国は近づいた」のです。
 ですから、クリスマスは「誕生パーティ」ではありませんが、やはり「大きな喜び、本当の喜びの時」なのです。決して憂鬱な時ではありません。イエスさまによって確立された「救いの約束」は、決して取り去られることがありません。私たちは、このイエスさまの救いに信頼して、平安のうちに穏やかな心をもって歩むことが出来るのです。
 「私が最後の目を閉じる時に、もしも『今日・・・あなたがたのために救い主がお生まれになった』というこの大いなる光がなかったならば、私の目に映るのは全くの闇の世界でしょう。すべてのものが私を離れ去っても、救い主が助けて下さるでしょう。」とルターはクリスマスの喜びを語っています。
 私たちも、主イエスの十字架の血によって、心を洗われ、新しいいのちに生きていきましょう。 


2007/12/09(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「あなたのところに来られる王」(マタイ21:1~12)
マタイ21:1-11、2007・12・02、待降節第1主日(典礼色―紫―)
イザヤ書2:1-5、ローマの信徒への手紙13:11-14

マタイ21:1~11
 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「シオンの娘に告げよ。
『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、
柔和な方で、ろばに乗り、
荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ダビデの子にホサナ。
 主の名によって来られる方に、祝福があるように。
 いと高きところにホサナ。」
 イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。



「あなたの所に来られる王」(マタイ21:1~11)
 本日から、新しい教会暦の一年に、すなわち、待降節、アドベントに入ります。アドベントとは、アドベンチャーなどの言葉にもつながる言葉で、ラテン語で「到来」を意味します。それは、第1の到来である2000年ほど前に生まれた主の降誕祭に備えると共に、今年もまた待つ再臨の主、再来の主の到来に待ち備える時でもあります。
さて、私たちは、本日から、今までのC年の福音であったルカ福音書に代わって、3年サイクルのA年に戻り、新しくマタイを中心の福音書として読んでいきます。もちろん、教会暦の多様な歩みに応じて、時々ヨハネ福音書やルカ福音書を用いるなど例外はありますが、基本的にはマタイが毎週の日曜日に読まれるのです。
さて、待降節第1主日にルーテル教会の暦においては常に定まっている個所は、主イエスのエルサレム入城の記事であります。本日のマタイ21:1-11から、しばらくご一緒に、福音に耳を傾けてみましょう。本日の直前の記事は、盲人の二人がダビデの子よ、私たちを憐れんでくださいというエリコからエルサレムに向かう時に起こった出来事が記されています。そして、本日の福音の記事にも「ダビデの子にホサナ」、これは、ダビデの子、すなわち、王であるお方、事実としてはソロモンがダビデ王の地位を受け継いだのでありますが、ここでは「ユダヤ人のまことの王」であるお方がたたえられるように群衆が喝采の声をあげたというものであります。
もう一度、本日の記事を思い起こしてみましょう。一行がエルサレムに近づいたとき、そしてベトファゲへと、オリーブ山へと彼らがやって来たときに、主は、向こうの村、多分ベトファゲへと二人の弟子を次のように、言って送り出すのであります。向こうの村へ行きなさい。そうすると、あなた方は、つながれている雌ろばとその子ろばを見出すであろう。
マタイでは、召し出しを受けるろばは親子の2頭なのであります。これはなぜでありましょうか。ゼカリヤ書9:9には雌ろばの子に乗ってとありますが、マタイはなぜその両方を連れてきたと記しているのでしょうか。
さて、主イエスは、あなたがたは、それらを私のところに、ほどいて、連れてきなさい、と言われます。もし誰かが何か言ったら、現分を見ますと「それらの主が必要を持っている」と言いなさいと記されているのです。「それらの主」とは、昔アダム、人類のはじめの人アダムが神に祝福されて、あらゆる生き物を治めよと言われて治めていたように、新しいアダムとして来られた主イエスご自身が自ら「彼らの主である私が必要を持っている」と言われるのであります。そして主は、そうあなた方が答えれば、「彼は彼らを送ってくれるであろう」と保証して赴かせるのであります。昔イエスの時代には、王の徴用に応じて、あちらでは、民衆はろば等をかりだされることがしばしばあったのです。マタイは、他の福音書記者たちとは違って、親子のろばを連れて来させます。それはなぜでしょうか。
それについては、昔モーセが、エジプトに妻と子を連れて奴隷となっていたイスラエルの民のもとに戻っていくとき、ろばどもに乗せて戻ってきたと伝えられていることを思い起こさせます。
主イエスは新しいモーセ、そしてモーセもある意味では王と考えられもしていましたが、ここでは主イエスこそ、モーセにもまさる「ユダヤ人のまことの王として」マタイは考えているのです。
さて、二人の弟子たちは出て行くと主が言われたとおりにして、さっそく親子のろばを連れてきます。そして、二人がろばどもの上に服を敷くと主イエスはその上ににお乗りになる、お座りになるのです。古いエルサレム入城のフレスコ画には、主イエスが、武人のような、またがる乗り方ではなくて、ろばに女乗りになっている絵が描かれているものがあります。主はまことの平和をもたらされる王であるからであります。
ところで、後になると、ろばは愚かな、強情な動物のように考えられる時代もあるのですが、主イエスの時代ではそうではなかったのであります。しばしば、パレスチナの当時の世界では、ろばが王など高貴な人の乗り物として出てくるのです。
さて、マタイは、主が親子のろばにお座りになったのは、旧約の預言者の言葉が成就するためであったと記します。シオンの娘にあなた方は言いなさい。あなたの王があなたのもとにやってこられる。柔和でろばと荷を負うその子ろばに乗って。これは、ゼカリア書9:9からとイザヤ書などをマタイが編集して引用したのであります。柔和なまことの王として、王であるお方が、自ら私たち一人ひとりのもとに、おいでくださるとマタイは旧約の預言の言葉の成就として、本日の出来事を見ているのであります。一時的な支配者、権力者として時がたてば歴史のかなたに消え去る通常の権力者ではなく永遠に私たちをご支配なさる王、しかも柔和な、低い、やがて私たちの罪のために十字架にまでおかかりになる王すなわち、メシア、キリストとして私たち一人一人のもとに来られたのであります。
そして、そのお方は終末のとき、再臨のときにも、私たちを救われると共に一人一人をお裁きになる方としていつの日か来られるのであります。
さて、主のエルサレム入城のこの時、前を行く群衆もあとを行く群衆もこう語りながら叫んでいました。「ダビデの子にホサナ、主のみ名によってこられる方に祝福があるように、いとたかきところで、ホサナ。」
これは、メシアにかかわる詩編と考えられた詩編118編の25節、26節を用いて、マタイが編集している群衆の言葉であります。しかしこの時、全エルサレムの人々はほめたたえるどころか、「これはいったい誰なのか」と混乱し、質問するのみでありました。おそらくガリラヤからの巡礼者たちであったであろう群衆は、「この方こそ、ガリラヤのナザレ出身のかの預言者イエスである」と主イエスが、モーセのような預言者、否モーセを上回る、待たれていた新しい預言者であることを高らかに宣言するのであります。私たちは、このまことの王であり、メシアである方が再び、このときのようにして、来られるのを待ち備えたいものであります。その方は、私たちの罪の多い、弱さをかかえた現実の中に謙遜と柔和をそなえながら、自ら進んで入ってきてくださる方であります。クリスマスを前にして、私たちは、心から、「主の名によって来られるこの方がほめたたえられるように」と、この待降節の期間、心して待ち備えたいものであります。アーメン。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、キリスト・イエスにあってあなた方を守るように。
2007/12/02(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。