津田沼教会 牧師のメッセージ
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「終りの日までの試練と忍耐」(ルカ21:5~19)
ルカ21:5-19、2007・11・25、聖霊降臨後最終主日(典礼色―緑―)
イザヤ書52:1-6、コリントの信徒への手紙一15:54-58

ルカによる福音書21:5~19
 ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」
 そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」


説教「終末の日までの試練と忍耐」(ルカ1:5~19)
 
この一年間、私たちは教会暦の最後の本日の主日まで、主としてルカによる福音書を味わいながら歩んできました。本日のルカの記事をもって、三年サイクルのC年、主としてルカ福音書による一年間は終わり、次週からはアドベントを迎え、A年として、マタイによる福音書に戻ります。B年はいうまでもなく、マルコによる福音書であります。
さて、教会暦の一年の最終主日、聖霊降臨後最終主日にはA年、B年、C年いずれであれ、いつも終末を覚える個所が選ばれています。
 本日の個所はルカ21:5-19であります。その記事についてご一緒にしばらく考えてみたいと思います。
 本日の記事は、黙示的な終末にかかわることを、主イエスが語られる記事であります。その文脈を見ますと、21:5-7の導入があり、そして、主イエスの言葉が、21:8-11の偽メシアの出現や騒乱・異変、21:12-19の教会への迫害、そして、21:20―24のエルサレムの廃墟化、そして21:25-36の破局的出来事と主イエスの説諭・命令という構成になっています。
 主イエスの弟子たちは、終わりの日が近いのではないか、それなのにどうしてそれが遅れているのかと戸惑っていました。また、ルカが福音書を書いた時代、おそらく紀元後90年頃には弟子たちは終りの日が近づいていると待っていましたし、主イエスの再臨が既に起こったと考える者たちもありました。それに対して、エルサレムにおける彼の生涯の最期の1週間に言われた主イエスの言葉をここにルカはまとめているのであります。
 本日の記事に即して、もう一度、本日の記事の流れを思い起こしてみましょう。群衆のうちのある人々が、エルサレム神殿の見事な石や飾られている奉納物に見とれていると、主イエスは言います。それらの石が倒し落とされて、石の上に石が一つも残されない日々が来るであろうと。その神殿は、事実紀元後70年にローマ帝国によって壊滅され、一部の石と壁面をのぞいて跡形もない廃墟とされたのであります。大きな、横縦、350メートルと450メートルほどもあった神殿の本体が壊滅されるのであります。それは、終わりの日のしるしとして、主イエスは予期されているのであります。
 人々は先生、それらの出来事の起こる前にどんなしるしが起こりますかと主イエスに質問しました。主イエスは言われました。あなた方は、戦争や騒乱のうわさを聞くだろう、そして、私の名において偽メシアが現れて、私がそれであるとか、時が近づいたというが彼らの後についていってはならない、それらのことは起こることになっているが、終わりのときではないからであると言われました。現代でも時々、私はメシア、キリストの再来であるとうそぶく偽キリストが現れ、多くの人々が今も迷わされています。
さて、主は更に、彼ら群衆に向かって、そのとき語っておられました。民は民に、国は国に対して立ち上がるであろう、そして大地震が起こり、場所によっては飢餓や疫病がなり、天からは恐ろしい兆しやしるしがなろう。しかしそれらのことの前に、あるいは重なって、人々はあなた方に手をかけ、獄や会堂へと引っ張って行き、それは私の名のゆえにそうされるのである。しかしあなた方に、私が口と知恵、あるいは神のみ霊、聖霊を授けるので、前もって弁明し防御しようとしないがよいと言われます。
私の名のためにあなた方はすべての人から憎まれるものとなろう。しかし、あなた方の頭の髪の毛の一本も失われないであろう。あなた方は、忍耐によって、不屈に精神において、あなた方の魂を獲得しなさいと、言われたのであります。
本日の主イエスの言葉は、エルサレムの崩壊後、2000年近くたった今も真理であります。私たちは、主イエスの十字架のときから再臨のときまでが教会のときであり、私たちはこの世界にあってしばしば誘惑に陥りますが、それに屈従するのではなく、忍耐によって、キリストの復活による永遠の命を約束されているのですから、目覚めて、自分の生涯の終わりの日まで、本日の主の言葉に信頼して、たとえ死んでもなくならない魂・命を勝ち取りつつ、新たな1週間を歩みたいものであります。
 望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン。 




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2007/11/25(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主の憐れみを待ち望む」(ルカ20:27~40)内海望牧師
ルカ20:27-40、2007・11・18、聖霊降臨後第25主日(典礼色―緑―)
マラキ書3:19-20、ユダの手紙17-25

ルカによる福音書20:27~40
 さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。



説教「主の憐れみを待ち望みつつ」(ルカ20:27~40)内海望牧師

ここでサドカイ派の人々の質問と、イエスさまの答の間には大きなずれがあります。どこに問題があるのでしょうか。
 それは、サドカイ派の人々が「復活のいのち」ということを自分の知識、経験の延長上に置いて問いを発しているからです。言い換えるなら、「自分の尺度、物指し」で神さまのご計画を推測しようとしているのです。神さまが人知を遥かに越えた愛のみ心で「復活のいのち」を私たちのために用意してくださっているというのに、それを自分の理解出来る範囲に小さい存在にしてしまうのです。反対に、私たちはあまりにも人間の知恵を過大評価しているのです。「キリストを矮小化するなかれ」植村正久の説教題。
 
この点に関してルターの大変興味深い手紙があります。一人の女性が「予定説」に苦しんでいました。自分が永遠のいのちへと選ばれた人間なのか、棄てられてしまうのかという不安です。このような不安は、私たちの心の奥底にもあります。
この不安の中にある女性に対して、ルターは「あなたのように苦しむのは、神さまの尊厳を探ろうとする空しい試みであり、神さまの隠された摂理を奪い去ろうとするものなのだ」と女性いの思い煩い、不安を越権行為であると厳しく戒めます。
私たちにとっては、私たちのために十字架につけられ、復活のいのちを約束して下さったイエスさまがいらっしゃる、これで充分ではないかとルターは言うのです。イエスさまの愛に信頼し、すべてを委ね、あなたの不安は全部捨ててしまいなさいと励ますのです。
ペトロ一5:7(p434)には「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからである」とあります。「いて」という言葉の意味は、ある瞬間だけ心にかけて下さる、ということでなく「生涯に渉ってずっと」ということです。このことを信じ、神さまを信頼し、全てを委ねることが信仰だとルターはいうのです。ルターは、この女性に対して、厳しく戒めることによって、かえって神さまを信頼する者の喜び、慰めを与えたのです。
このように考えると、サドカイ派の人々が、自分の理解で復活を論じ、イエスさまを試みる質問を行うのは、神さまの御業を人間の理解の範囲に矮小化することであり、何よりも神さまの尊厳を冒涜することになるのです。

イエスさまは、「神は死んだ者の神でなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」とおっしゃいます。これは、「神さまは、生きている者と、死んだ者との主である」という意味です。私たちは毎週「使徒信条」によって信仰の告白を行っています。そこにはイエスさまは、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し」と明瞭に書かれています。つまり、イエスさまは「陰府の世界」(死者の世界)にまで下って福音を伝え、復活された方なのです。イエスさまは、私たちの生死何れの時も、「私たちと共に」いて下さる方なのです。パウロも、「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」(ローマ14:9.P.294)と語っています。そこには死はなく、復活のいのちのみがあるのです。これが、「あらゆる思い煩いを、このイエス・キリストの十字架に示されている神さまの愛にお任せしなさい」という言葉の内容です。
しかも、イエスさまは、十字架の苦しみと死を経験された方として、私たちのあらゆる痛みに共感され、苦しみを思いやることが出来る方なのです。まさに、「私たちのことを、心にかけていて下さる方なのです。

今日の第二の日課に素晴らしい言葉があります。「しかし、愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。神の愛によって自分を守り、永遠の命へと導いてくださる、私たちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい」(ユダ20-21.P.451)。

人生を歩み通すのは、決して容易いことではありません。思いがけないことが起こります。喜びの時、失意の時、涙が涸れない時、様々です。しかし、どのような時にも、このサドカイ派たちのように、神さまの心を探るようなことを考えず、ただ「私たちのことを心にかけて下さるイエスさまが共にいて下さるという信頼を持ってキリストの憐れみを待ち望みつつ生きることこそ肝要です。その時、不安は消え去り、私たちの心には希望が与えられます。このように、「主の憐れみを待ち望みつつ生きること」が出来るのは信仰者の喜びであり特権です。
この喜び、希望を分かち合う群れこそが教会なのです。そのような群れとして歩みましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。
キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。









2007/11/18(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神から預けられている人生」(ルカ19:11~27)
ルカ19:11-27、2007・11・11、聖霊降臨後第24主日(典礼色―緑―)
歴代史上29:10-13、テサロニケの信徒への手紙二2:13-3:5

ルカによる福音書19:11~27
 人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付でそれを受け取れたのに。』そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』僕たちが、『御主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。』」


説教「神から預けられている人生」(ルカ19:11~27)
 
本日を含めて、ルカ福音書を中心に読んできました教会暦C年も残すところ3回となりました。本日の個所は、ルカ福音書19:11-27であります。私は説教題を「神から預けられている人生」と付けておきましたが、本日の記事は、主イエスの弟子であるということは何を意味するかということと共に、「拒まれた王であるキリスト」という二つの主題が含まれています。マタイによる福音書25章にあるタラントンの譬えを、私たちはすぐに、本日の個所を読むとき、思い起こすのですが、本日の福音書の記事には主イエスが、特にユダヤ人の指導者たちによって拒まれるというもう一つのテーマが入っているのであり、そこを見逃しては、本日の福音の意味を正しく理解することはできないのであります。今日の記事をしばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 本日の話は、まだ、あるいはエリコにおられる間に、弟子だけではなく人々に向かって語ったものであります。主イエスは、エルサレムに近づいておられ、人々が、神の国がすぐにも見えるようになりつつあると考えていたのであります。待たれていた神の国が目に見える形で今にも現れると人々は期待していたのであります。
それでイエスが人々がエリコにあったザアカイの家で救いについてなど主イエスに耳を傾けていたときに、それに加えて本日の譬えを語られたのであります。それは、こういうものでありました。
ある高貴な生まれの人が遠い地方に王位を得て戻ってくるために、旅に出て行こうとするとき、10人の奴隷、しもべを呼び出して彼らに一人に1ムナずつ渡してそれで、商売をするように、貿易、銀行業のようなことや商品交換などをして稼ぐようにまかせて、言いつけて、出発したのであります。ところが、彼の国民たち、臣民たちは、彼を憎んでいたので、大使、使節をあとから送って「我々はその者を我々の王にいただきたくない」と意思を伝えたのであります。
これは、アルケラオがローマに王位を得ようとして赴いたときに、同じような史実があったと言われています。ある記録では50人ほどの使節を後から送って彼に王の位を与えることに対して反対したということであります。主イエスは、人々の知っているその出来事を使ってこの譬えをなさっているのかもしれません。しかし、ともかくも、王位を得て、その人は王となって帰ってきました。そして、自分が渡していた1ムナずつでどのように稼いだかを知ろうと10人を呼び出しました。すると、第1の者は、1ムナで、10ムナを、第2の者は5ムナをそれぞれ稼いだと申告するのです。主人は、よくやった、あなた方はよい僕だ、小さな事にあなた方は忠実であったから、あなた方には10の町、あるいは5の町を治めさせようと言います。私たちは、自分たちに与えられているそれぞれの小さな務めに精一杯忠実であることが主から求められており、それぞれの人生に預けられているムナを運用してできる限りのことをすれば十分なのであります。
さて、ところが、さらに別の者は、ご主人様、このハンカチ、布の中にあなたの1ムナをしまっておきました。あなたは、厳しい方で置かないところからも取り上げ、蒔かないところからも刈り取る方だと知っていたからですと主人に申し出て抗弁します。
主人は、悪い僕だ。それなら、銀行に預けておくべきであったと言い、そばの者たちにこの1ムナを10ムナ持っている者に与えよといいます。彼らがもう既にあの僕は10ムナ持っていますと答えると、言っておくが持っている者はみなさらに与えられ、持たない者は持っているものまで取り上げられると言うのです。そして、王となった主人は、私が王となることを望まなかった敵どもを、私の前で切り殺せというのです。私たちは、主がいつ再び来られるのかを知りません。しかし、主は必ず来られ、私たちの功罪に応じて、報いか罰かで応じられるのであります。
私たちは、愛の神であると共に裁きの神でもある主を忘れることなく、しかしなお、主の報い、報酬は大きいことを信じて、主の恵みを仰ぎ望みながら1週間を歩みたいものであります。
 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、キリスト・イエスにあって、あなた方を守るように。アーメン。


 

2007/11/11(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主の平和!」(ヨハネ16:25~33)
ヨハネ16:25-33、2007・11・04、全聖徒主日(典礼色―白―聖餐式)
ヨナ書2:1-10、コリントの信徒への手紙一15:50-58

ヨハネによる福音書16:25~33
「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」弟子たちは言った。「今は、はっきりお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」



説教「主の平和!」(ヨハネ16:25~33)

 本日は全聖徒主日であります。聖徒というと聖人君子といった普通の人とは異なる特別な人のように思いますが、全聖徒主日という場合の聖徒とは決してそうではありません。自分が弱い人間であり、罪を犯しやすいことに気づき、主イエスと彼を送られた父なる神により頼むしかないと悟って聖書に、そして教会に導かれたすべての人々が聖徒なのであります。私たちは、本日の特別な日を先に召されたすべての主イエスへとより頼んだ方々を思い起こし、同時に残された有限なるこの地上の人生をより充実して、み心にかなった過ごし方をするために、ご遺族の方を始め、ここに皆で一堂に会しているのであります。    
今日の召された方々を覚えるに際しては、津田沼教会では、残念ながら、洗礼にまでいかなかった方や、信徒の御両親などいろいろな事情のある方も含まれています。しかしただ、一点、主イエスを求めた方々であるという点では同じであります。
 そして、ここに集められています私たちも、主イエスと父なる神、そして、助け主なる聖霊により頼むことを、もう一度新たにしたいと思うのであります。今日の福音書はヨハネ16:25-33であります。主イエスが弟子たちと分かれようとしているときに語った言葉であります。今までは、たとえ、ここでは、秘密の言葉、あるいは、暗喩、暗い言葉というふうな意味の言葉が遣われていますが、その「たとえ」という表現で主イエスは弟子たちに、そしてまた、群衆にも教えてきたのでありますが、この告別の説教の最後のときに、主は「はっきりと」、「率直に」、あるいは「公然と」語られるというのであります。
 そして、今からは、私があなた方のために、父に代わって願ってあげようとは言わない。あなた方が私の名において、何でも父に願いなさい。父があなた方を愛しておられ、私が父から、神から出てきて、この世界にやって来て、そして今、再び父のもとに進んでいこうとしているのである。そして、あなた方はそのことを信じたのであると言われます。弟子たちは、あなたは今では、なんでも「はっきりと」語られ、誰もあなたに何も問い訪ねる必要をあなたは持っていないと答えます。
しかし、主は、あなた方は今分かったというのか。しかし、あなた方はみな自分の家にちりじりになって帰り、私を一人残すときが来よう、いやもう、来ていると言われます。しかし、私は一人ではなく、父が共におられる。これらのことを、語っておくのはあなた方が私において平和を持つためであるといわれます。主の平和を得るために、主は私たちに前もってこれらの言葉を語られるのであります。この世では苦しみ、艱難があると主は見抜いておられます。しかし、主はあなた方は元気を出しなさい。私は既にこの世界の悩み、苦しみに勝利している、それらを既に克服していると言われるのであります。
 私たちは、主によって既に完全な平和を与えられています。それを誰も奪い去ることはできません。この地上での死も私たちに主が与えてくださる平和をなくすことはできません。本日思い起こしている先に召された一人一人とともに、私たちもこの主の与えてくださる平和、平安をおぼえたいと思います。皆さん一人一人の上に主の十字架と復活によって与えられたこの平和がこれからも豊かにありますように。アーメン。

2007/11/04(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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