津田沼教会 牧師のメッセージ
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「私たちはだれに仕えるのか」(ヨシュア記24:14~24)
ヨシュア記24:14-24、2007・10・28、宗教改革主日(典礼色―赤―)
コリントの信徒への手紙1:10-18、マタイによる福音書5:1-6

ヨシュア記24:14~24
 「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」
 民は答えた。
 「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。わたしたちの神、主は、わたしたちとわたしたちの先祖を、奴隷にされていたエジプトの国から導き上り、わたしたちの目の前で数々の大きな奇跡を行い、わたしたちの行く先々で、またわたしたちが通って来たすべての民の中で、わたしたちを守ってくださった方です。主はまた、この土地に住んでいたアモリ人をはじめ、すべての民をわたしたちのために追い払ってくださいました。わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です。」
 ヨシュアはしかし、民に言った。
 「あなたたちは主に仕えることができないであろう。この方は聖なる神であり、熱情の神であって、あなたたちの背きと罪をお赦しにならないからである。もし、あなたたちが主を捨てて外国の神々に仕えるなら、あなたたちを幸せにした後でも、一転して災いをくだし、あなたたちを滅ぼし尽くされる。」
 民がヨシュアに、「いいえ、わたしたちは主を礼拝します」と言うと、ヨシュアは民に言った。
 「あなたたちが主を選び、主に仕えるということの証人はあなたたち自身である。」
 彼らが、「そのとおり、わたしたちが証人です」と答えると、「それではあなたたちのもとにある外国の神々を取り除き、イスラエルの神、主に心を傾けなさい」と勧めた。
 民はヨシュアに答えた。
 「わたしたちの神、主にわたしたちは仕え、その声に聞き従います。」



説教「私たちはだれに仕えるのか」(ヨシュア記24:14~24)

本日は宗教改革主日であります。ルターが1517年の10月31日、すなわち、全聖徒の日である11月1日の前日に95ヶ条の提題をヴィッテンベルクの城教会の門扉に掲げた日を覚え、その時から本格的に宗教改革が始まることになったことを記念して特に世界中のプロテスタントの多くの教会で、本日この礼拝が守られているのであります。
 今日は、いつものように福音書の日課から、ではなくて、旧約聖書の日課、ヨシュア記の24:14-24の部分について、宗教改革を思い起こしながら、しばらくご一緒に瞑想してみたいと思います。
 今日のヨシュア記の部分は、ヨシュア記の最後に近い部分であり、ヨシュアが年老いて、この地上を去る前に、イスラエルの民やその指導者たちに向かって語った言葉、また、この民の応答の言葉からなっています。
ヨシュアはその民に向かって言いました。「あなた方は主を畏れ、真心と真実とにおいて主に従いなさい。あなた方は、川の向こうで、また、エジプトであなた方の父祖が仕えたように外国の神々に仕えてはならない」とまず語るのであります。
私たちの信仰はどうでありましょうか。私たちは、幸いにして、聖書の神、そして、主イエスと彼を遣わされた父なる神、それは本日のイスラエルの聖なる神、主でもありますが、その方を信じている者であります。しかし、昔も今も何と多くの外国の神々、異教の神、すなわち私たちを造られた方でもなく、また、罪から、あるいはエジプトの奴隷の状態から贖いだしたのでもない神、あるいはそれに準じるものに取り囲まれていることでしょうか。
ルターは、「あなたがその心を置き、傾けるものが、たとえば、金銭や財産や快楽のようなものであっても、それがあなたの神になりかわるのである」というふうに言っています。   
しかし、ここで、ヨシュアは、今一度民に向かって、「多くの神々に囲まれ、主なるイスラエルの神から離れていった父祖たちにならうのなら、ならうがいい」と促します。また、「今や自分たちの住んでいるカナンの地の先住民であったアモリ人の神や川の向こう、それはユーフラテスの向こうの神々などでもあったでしょうが、それらに従いたいならば、従うがよい、ただし、私と私の家は主に従います」と明言します。
ヨシュアは自分と自分の家族は出エジプトを導かれた主なる神を一族で守ると宣言するのです。私たちの信仰は、一人で家に閉じこもって、聖書を読むようなものではなく、民として教会に出席し、さらにはできれば家族全体で、仕えるのが旧約聖書の時代以来、本来の聖書の民であります。
さて、本日のこの日課には、「仕える」、あるいは「礼拝する」という言葉が繰り返し出てきますが、それは働く、耕す、あるいはだれかの奴隷になるといった意味を持ったアーバドという言葉です。私たちは神のために働き、耕し、そのしもべとなるのであります。礼拝とは神が私たちに仕えてくださるというものでありますが、それに対して私たちもそれに答えて神さまに仕える、礼拝するという一面もあるものです。そして、私たちは神に仕える、すなわち、神の奴隷となり、仕えるか、あるいは、サタン、まことの神ならざるものの奴隷になるかそのいずれかしかないのであります。あれか、これかであります。ルターは、「私たちは、キリストが私たちの御者になるか、サタンが私たちの御者になるか、そのいずれかしかでない馬車のようなものである」と言いました。
さて、ヨシュアに対して、民は「私たちは主に仕えます、主なる私たちの神こそ、私たちをエジプトの地から携え上られた方であり、多くの国民の中を通っていくのを見張られ、守られた方だからです」と言います。
しかし、ヨシュアは「あなた方は主に仕えることはできないだろう、主は聖なる方であり、熱情の神、妬み深い神であるからあなた方の背きの罪ととがとを赦されないであろうから」と言います。聖書の神は、まず聖なる方であり、私たちが思いと心と霊とを尽くして自分を純一の心でもって全精力をかけて愛することをお求めになる方であり、民がご自分を捨て、離れて他の神を礼拝するのを妬まれる神であります。
ある人が、キリスト教の神について求道をしているときに、ふと「この神さまは本当に愛されることを喜ぶ神さまなのやね」と感慨深く言われたのを思い出します。
さて、しかし、民は再びはっきりと「私たちは主を見捨てず、離れず、主に従います」と断言します。ヨシュアは、「それではあなた方が、そのことの証人である」と言い、民も「私たちがその証人です」と答えます。主なる神は、祝福か呪いかそのいずれかを必ずもたらされる神であります。私たちも、もう一度この時の民のように、私たちの信仰を点検したいと思います。
確かに私たちは、すぐに主なる神から離れ易い存在ですが、この時の民は主につき従うことを約束しました。私たちも、私たちの主なる神に絶えず固着して、また、その神の贖いを完成した独り子である主イエスの言葉に日々従いながら、本日の民と同じように、他の違った神ではないお方、まことの主なる神のために、礼拝ごとのこれからの1週間を働き、耕し、そしてまた主日に集まって礼拝し、仕えるしもべとされていきましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。



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2007/10/28(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「今を生きる力としての祈り」(ルカ18:1~8)宇野正徳牧師
ルカ18:1-8、2007・10・21、聖霊降臨後第21主日(典礼色―緑―)
創世記32:23-31、テモテへの手紙3:14-4:5

ルカによる福音書18:1~8
 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判してやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない』」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」



説教「今を生きる力としての祈り」(ルカ18:1~8)宇野正徳牧師
 
1. 祈りの教え
 ルカ18章の「やもめと裁判官のたとえ」を通し「今を生きる力としての祈り』についてご一緒に考えてみたいと思います。
 簡単にこのたとえを振り返ってみたいと思います。
 ある町に、神を畏れず、人を人とも思わない裁判官がいました。独善的で人の意見を聞かない、その時の気分次第で裁定を下す、自分の裁きは最高だと自任している、大変に厄介で扱いにくい裁判官でした。
 その裁判官の心といいますか人間性やその良心を目覚めさせた人がいたのです。名もなく力もないひとりのやもめです。「神を畏れず、人を人とも思わない裁判官」と「名もなく力もないやもめ」との好対照な出会い。その裁判官の心を動かしたのは何だったのでしょうか。
 やもめは自らの訴訟に関わる問題を裁判官のところに持ち込んだのですが、裁判官ははじめからその訴えを取り上げる気はなく門前払いをしたのです。しかし、このやもめは、その不当な扱いにもへこたれずに自分の訴えが取り上げられるまではと訴え続けたのです。普通でしたら、このような問題ある裁判官であれば、何を訴えてもまともに聞いてはもらえないと最初から諦めてしまうものですが、このやもめは違いました。追い返されても追い返されても執拗に食い下がったのです。
 その度重なる執拗な訴えに、はじめは黙殺していた裁判官も、ついには根負けし、やもめの訴えを聞くことにしたのです。
 曰く、「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう」・・この裁判官の気持ちを動かしたのは、あきらめずに何度も何度も裁判官のところに足を運び、根気よく訴え続けたやもめの執念でした。
 主イエスはこのたとえを通して「祈ることの大切さ」を教えられたのです。
 「祈り」は、本来は、神への信頼と従順(神に聞き従うこと)に基づいて行うものですから、祈りが聞かれるか、聞かれないかにかかわらず祈り続けるものですが、わたしたちはせっかちに早急の答を求める、その求める答がなかなかに返ってこない、返ってきても求めるものとは違う答であると、祈りそのものに疑問を持つのです。祈りにどれほどの効用や効果があるのかと。
 主イエスは、弟子たちに「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」と教えられましたが、その言葉の裏には、弟子たちの祈りに対する弱気や迷いが見え隠れしていたからではないでしょうか。はじめての働きが思うように進まない、困難さにぶつかり迷う、良い成果があがらない、そういうことへの不安と焦り。つい意気消沈し、落ち込む。その様子を見た主イエスが、「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」と教えられたのではないでしょうか。祈りは、父なる神への信頼と従順に基づくものですから、意気消沈し、落ち込むことは、神への信頼を欠くことにもなるのです。
 やもめのように、自分の願いが聞かれなくても、叶えられるまで願い続ける・・
 一回、二回の願いで諦めるのではなく・・何度も願う・・・それが祈りであるというのです。祈りに対する期待薄や諦めの早さは禁物です。

2. 人を生かす祈り
 主イエスは祈りの人でした。どのようなときにも、父なる神への祈りを欠かすことはありませんでした。
 その祈る主イエスの姿勢をマルコは、こんなふうに描いています。
「朝早くまだ暗いうちに、主イエスは起きて、人里離れたところへ出て行き、そこで祈っておられた」(マルコ1:35)。この記事は、おそらくここだけではなく、主イエスの日常のお姿であったと思われます。いつどこにいても、どのようなときも主イエスは、「朝早くまだ暗いうちに、主イエスは起きて、人里離れたところへ出て行き、そこで祈っておられた」。弟子たちは主イエスのこのような祈りに支えられていたのです。

  また主イエスは弟子たちにこう教えられました。
「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門を叩きなさい。そうすれば開かれる」(マタイ7:7)。
「ごんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が、地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」(マタイ18:19)。
 そしてその祈りの集大成として「主の祈り」があります。
「天にまします我らの父よ、み名を崇めさせたまえ。み国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ・・・」と、これほど凝縮した祈りはないと言えます。
 この「主の祈り」について鈴木正久牧師は、こう語っています。
「もしあなたの教えがなかったら、わたしたちは祈りえず、苦しみのない日には無自覚に時を過ごし、悩みがおそってくる日にはただうめき、また呪うしかしえないでしょう。そしてわたしたちの生活は亡びてゆきます。主よ、日々に、あらゆる時に、あなたの祈りを祈る恵みをお与えください」(「主よ、み国を」から)
 「もしあなたの教えがなかったら」と、わたしたちキリスト者にとって主の祈りがどのような意味を持つかを先ず説き明かしています。
 「苦しみのない日には」、つまり毎日が、満たされ恵まれた生活を送っているときには、神すら忘れ、祈りは自分には無関係であるような顔をし、手に負えない問題や悩み、「苦しみが起こる」と、うめき声を挙げ、神の助けを求め、期待する答が返ってこないと神を呪
う、それが私どもの祈りです。ルターが「主の祈り」は祈りの中でも最大の殉教者であると言ったことは、決してオーバーな表現ではないと言えます。
 祈りが生活の中でどのように生かされていたか。その事例として、元国連事務総長のダグ・ハマーショルド氏のことを紹介したいと思います。
 少し古いお話しで恐縮ですが、昨今、この方の名を知っている人がいるのかどうか、国連の事務総長という思い責任と多忙を極めた職務の中で同氏は、非常に「デボーショナルな人であった」と言われています。「デボーショナルは人」とは霊的で敬虔な人、祈りの人であったということです。(古屋安雄著「プロテスタント病と現代」)
 ハマーショルド氏は。、1953年から1961年まで国連事務総長の要職にありました。1950年代といえば第二次世界大戦の直後でもあり、世界はまだ混乱し、その収束に向け国連が動いていました。植民地支配からの脱却、それに伴う独立運動の激化が各地で起こっていました。中近東ではイスラエルとアラブ諸国の対決の危機、東ヨーロッパでは共産主義体制からの独立を願うハンガリーに対するソ連の武力介入、アフリカではベルギーによるコンゴへの軍事介入等々、そういう紛争が絶え間なく起こり、その収拾と調停で国連事務総長は世界を飛び回っていました。
 その矢先、1961年に、国連事務総長は、アフリカのコンゴで飛行機事故に遭い亡くなられたのです。その死は、世界の人々から惜しまれ多くの悲しみを誘いました。
 ハマーショルド氏の死後、多くの遺産が整理されましたが、その中から氏が長年書き綴った日記帳が発見され、そこにハマーショルド氏の人柄や人間としての生き方、その裏付けとなる信仰観や祈りの言葉が書かれていたのです。
 これらの日記を通して知ったことは、氏は何よりも「祈りの人」であったということです。世界中を飛び回り各地で紛争の調停に当たるという思い責任と義務を果たしていた事務総長が、「祈りの人」であったということは、改めて人々に深い感銘を与えました。普通の人にはなかなかに真似のできないことです。今日は、忙しいから、疲れていると、つい祈りを怠りがちですが・・
 氏の愛読書は、聖書以外にトマス・ア・ケンピスの「キリストにならいて」がありました。この本をいつもカバンの中に入れ、愛読していたようです。そしてその日記には、いつも人々がどのようにして世界の平和を祈っていたかが明かされています。この日記は、後に、日本でも出版されました。「道しるべ」という本です。
 「この人生において到達しうる、最善の、またもっともすばらしいことがらは、おまえは黙っていて、御業を行い、かつみことばを語ってくださるように、神にお任せすることである。すでに御身はわたしをしっかりとお捉えになったのです」。
 「理解するー心の静けさをつうじて、
  行動するー心の静けさから出発して
  勝ちとるー心の静けさのうちに」
 世界でもっとも思い責任と多忙を極めた人が、「祈り」を(デボーショナルな時間)をきちんと確保されていたことは教えられます。
 主イエスが「気を落とさずに絶えず祈りなさい」と教えられたことにつながるおはなしです。

2007/10/21(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「功績でなく応答としての信仰」(ルカ17:11~19)
ルカ17:11-19、2007・10・14、聖霊降臨後第20主日(典礼色―緑―)
列王記下5:1-14、テモテへの手紙二2:8-13

ルカによる福音書17:11~19
 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは思い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」


説教「功績でなく応答としての信仰」(ルカ17:11~19)
 
先週の主イエスの語られた言葉集に続く本日のルカ17:11-19は、ある奇跡の出来事であると共に、主の宣言を含む物語であります。本日の出来事をもう一度思い起こしてみましょう。
主イエスは、エルサレムに向かって、サマリアとガリラヤの真ん中を通って進んでおられました。そして、彼がある村へと入って行かれると、10人の重い皮膚病の者たちがやって来て、遠くに立ち、こう言って声を持ち上げるのであります。「イエス先生、私たちを憐れんでください。」彼らは施しを求めていたのでしょうか、それとも病気の癒しを求めたのでしょうか。
主イエスは、彼らを見て言われます。「あなたたちは、行って自分の体を祭司に見せなさい。」彼らは、その言葉に対して、シリアの将軍ナアマンとは違って、すぐに従順に従い出て行くのであります。
 そして、その途中で彼らは清められるのであります。それを見た一人の男は、大声で神をあがめながら、引き返すのであります。そして、主の足元にひれ伏し、感謝したのであります。その男はサマリア人でありました。聖餐式は感謝とも呼ばれますが、その言葉の動詞形のものがこの「感謝した」で使われています。
 主は、「癒されたのは10人ではなかったのか。他の9人はどこに。この外国人以外に、神に栄光を与えるために戻ってきたものは見出されないのか」と言われました。
 そして、主は彼に言われました。「起き上がって進んでいきなさい。あなたの信仰があなたを救った」と。
 私たちの信仰は、私たち自身の力、功績によるものではなく、神とその代理人イエスの恵み・ご好意によるものであります。そして、その恵みを受けたときに、感謝して応答するのが本当の信仰のあり様であります。私たち自身の努力によるのではないというのは、私たちが自分の力におごり頼んで、神さまからの贈り物によることを見失わないためでありましょう。神さまからのご好意に対して私たちが応答するというのが聖書の教える信仰であります。
 さて、10人のうちの一人の男、サマリア人であった人は、自分の体が癒されたのを見て、回心しました。サマリア人たちは、主イエスのエルサレム行きを喜ばず、自国を通ることを拒んだ人たちでした。しかし、そのような異邦人とも言える私たちも救いからもれることはないのであります。
 そして、本日のサマリア人は、信仰の目を開かれて、主イエスの下に感謝するために引き返し、回心したのであります。
 私たちも、このサマリア人と同じであります。いかなる功績にもより頼まず、受けた恵みへの応答として、主イエスのもとに集まったもの同士であります。
 毎週、主日が与えられています。その主日の礼拝からすべては始まるのであります。1週間の間には、信者の家族であっても、言葉と行いと思いによって多くの罪を犯します。
 しかし、その罪を告白し、主イエスと父なる神に感謝し、応答して主のもとに集まってくるのが毎週の主日の礼拝の意味であり、聖餐すなわち感謝の意味であります。新しい1週間が、この場から与えられて行きます。1週間、疲れや病に倒れ、あるいは失敗の連続であったとしても、毎週この場から新たに力を与えられ、新しく回心して進んでいくことができるのであります。「立ち上がりなさい。あなたの信仰があなたを救った」と、主は今日もかつて異邦人であった私たちを力づけ、新しい1週間への旅路へと送り出してくださるのであります。

人知では到底測り知ることのできない平安が、キリスト・イエスにあって、あなた方と共にあるように。アーメン。


2007/10/14(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「ゆるすという奇跡」(ルカ17:1~10)
ルカ17:1-10、2007・10・07、聖霊降臨後第19主日(典礼色―緑―聖餐礼拝)
ハバクク書2:1-4、テモテへの手紙二1:3-14
ルカ17:1~10
 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」


説教「ゆるすという奇跡」(ルカ17:1~10)
  
私たちは、ルカ9:51以降、エルサレムに十字架に付くことを覚悟してお進みになるその旅の過程で語られた主の譬えやお言葉をこのところ、主日ごとに聞かされてきています。本日のルカ17:1-10もそのお言葉の1節であります。その前後の脈絡はよく分かりません。ただ本日の言葉も主イエスが、ご自分の十字架をかけて語られた重いお言葉であることは確かであります。今日の福音の個所についてしばらくご一緒に考えてみたいと思います。  
本日の個所は、4つの主の語られた言葉からなっています。直接的には、それらの言葉は相互に関連はなく、主がいろいろな折に、弟子たち、使徒たちに語られた言葉を、ルカがここにまとめたか、あるいは、このような言葉集が既にあったのをルカが受け継ぎ、手を加えて現在の形にしたもののようであります。
 まず、最初の言葉は、17:1-3Aの部分であります。主イエスは弟子たちに向かって語られたとあります。躓きが来ないようにすることは不可能である。しかし、その人を通してそれが来るその人は災いである、と主はまず言われます。この躓きと訳されている言葉のもとの言葉、原語は、英語のスキャンダルになる言葉であります。英語でスキャンダルというと醜聞とか悪いうわさというような意味でありますが、ここでは、主イエスを、また、父なる神を信じていた人を棄教させるように誘惑すること、あるいはそのように罠にかけることを意味しています。そして主は、このような小さな者の一人を背教の罪に陥らせるよりも、そのような者は、首下、喉に、ろばでこなすような大きな石臼をかけて、海に投げ込まれた方が好都合であると、厳しい言葉を私たち信者に対して、そういうことにならないように注意するように、まず促されるのであります。
 次に、17:3Bから4は、罪の赦しの問題であります。一人の人が悔い改め、生活を改革することを、神さまが、だれよりも喜ばれるのでありますが、ここでは、兄弟同士の関係、信者同士の関係を主は言われるのであります。もし、あなたの兄弟が罪を犯すなら、彼に真剣に警告しなさいと主は教えられます。兄弟の罪を見てそれを放任し、黙認するというのではないのであります。レビ記19:17にも「同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない」とあります。どうしても、相手方の非を見ると厳しく叱責する傾向が私たちにはありますが、ここでは主はやさしく丁寧に相手の罪を悟らせるということをしなさいと言われるのであります。もし、相手が聞き入れたら、私たちは兄弟を得ることになるのであります。主はさらに、あなたの兄弟が、信仰仲間が一日に7回あなたに対して罪を犯しても7回あなたの下に帰ってきて「私はやり替えます」と言うなら、彼を赦してやりなさいと言います。
 次は、17:5-6であります。使徒たちが主に向かって言うのです。「信仰を私たちに増させてください」と。これは、前文との直接のつながりは考えにくいんのですが、兄弟が私たちに犯した罪を完全に赦すことは、私たちには不可能に近い。それで、それができるような信仰を与えてくださいと主に願ったとは考えられないでしょうか。「赦すという奇跡」を可能にするために、信仰を増させてくださいと主イエスに迫ったとも考えられます。主はそれに対して、もしも、からし種一粒ほどの信仰があなた方にあるなら、この桑の木に、―これはより大きないちじく桑、あのザアカイが上ったいちじく桑であったかもしれませんがー、それに「お前は根を引き抜かれて、海に植えられよと言えばそのとおりになるであろうと、主は答えられたのであります。桑の木も、より高い力には服するであろう、そして信仰とは量ではなくて質の問題であると主は言われるのであります。
 そして、4番目に、17:7-10の譬えというか、類似のものをあげて、私たちキリスト者の主のしもべとしての義務を示されるのであります。
 あなた方のうちに、召し使い、あるいは奴隷を一人持っている人がいたとして、彼が畑仕事をし、あるいは、羊の世話をして、家へと戻ってきたとき、「お前はすぐにやって来て食事へと横になりなさい」という人がいるだろか。そうではなくて、「お前は私の食べる物を用意し、帯を締めて、私が飲み食いする間、給仕をしなさい、それらのあと、お前は飲み食いするがいい」と言うであろう。そして、彼が命じられたことをしたからといって主人は彼に感謝をするだろうか。それゆえ、あなたがたも、あなた方に命じられたことをすべてやったとき、私たちは取るに足りない、あるいは無益な、不束な僕にすぎません。当然そうなすべきことを、私たちはやったのに過ぎませんと言いなさい、と主は教えられたのであります。
 私たちは、どんなにキリストの僕としての務めを果たしたとしても、十分すぎることはありません。兄弟を躓かせないこと、兄弟の罪を指摘し、悔い改め、生活の改革に導くこと、また、悔い改めた兄弟を赦すこと、またそれをも可能にする信仰を持つことも、私たちの当然の義務であり、それによって決して自慢したり、思い上がることのできるものではありません。私たちは、信者同士、兄弟としての義務を果たしながら、主のみ前に、小さなしもべとして仕えていく道を、むしろ私たちの光栄の道として与えられているのであります。
祈ります。
父なる神さま。
 私たちは、兄弟の特に自分への罪あるふるまいを赦すことができるでしょうか。あなたのみ子の十字架による以外にそれは不可能です。しもべとしての道を歩まれた主のお言葉によるほかに赦すという奇跡は起こりません。日々、み子のお言葉によって、キリストのしもべとして仕える平安の道を歩ませてください。キリストのみ名によって、アーメン。

私たちの神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなた方に必要なものをすべて満たしてくださいます。




2007/10/07(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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