津田沼教会 牧師のメッセージ
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「この世界で富をどう用いるか」(ルカ16:19~31)
ルカ16:19-31、聖霊降臨後第18主日(典礼色―緑―)
アモス書6:1-7、テモテへの手紙一6:2C-19

ルカによる福音書16:19~31
 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水で浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から行き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」



 説教「この世界で富をどう用いるか」(ルカ16:19~31)
 先週の「不正な管理人」の譬えルカ16:1-13、それには主イエスの言葉集のようなものも含まれていましたが、それに続いて、本日与えられている福音はルカ16:19-31であります。この譬えも、先週の福音個所に続いて、この世の富、財貨、金を、私たちはどのように用いるべきかを説いている譬えであります。
 もう一度、本日の譬えの概要を、思い起こしてみましょう。本日の譬えも、先週の譬えと同じように「ある金持ち、裕福な人がいた」と始まっていますが、これは、すぐ前の方の文に出てきますように、金に執着するファリサイ派の者たちが、「不正な管理人の譬え」を聞いて、あざ笑ったのに対して語られたものと見ることができます。
 さて、この金持ちは、紫の衣や下着に着る白い亜麻布の衣を着飾って、毎日贅沢に遊び暮らしていたのであります。一方、ラザロという名の、それは、エリアザルという名の略称でありましたが、「神は助ける」という意味の名の物乞いがいて、彼は金持ちの大きな門構え、あるい柱廊のようなところで、体中腫れ物に覆われながら、横たわっていたのであります。
 ところで、主イエスのなさったと多くの譬えの中で、その登場人物に名前が付いているのは、このラザロだけであります。金持ちの方はどんな名だったか記されていません。ラザロは、この名の記されてはいない金持ちの食卓から落ちる物ででも、腹を満たしたいと渇望していましたが、思い通りにはいかず、それどころか、うろついていた犬どももやって来ては、彼のできものの傷口をなめていたのを払いのける力も残っていなかったのであります。
 金持ちの生活とは対照的な、そういう悲惨な有様でありました。そして、起こったことには、その物乞いラザロは死んで、天使たちによって、あのイスラエルの信仰の父アブラハムの胸元へと運び移されたのであります。新共同訳聖書では、「宴席にいるアブラハムのそばに」連れて行かれたと訳されています。
 そして、いつしか、その金持ちも死んで、おそらく、きらびやかに丁重に埋葬されたのであります。
 ところが、金持ちの方は、陰府で気がつくと苦しみの中にあり、炎の中で目覚めるのであります。彼は眼をもたげると、はるかかなたに、アブラハムと宴席にあってそばにいるラザロを見たのでありました。
 彼は思わず、苦しさの余り、大声で、父アブラハムよ、私を憐れんでください。私はこの炎の中で苦しみもがいています。ですから、ラザロを送って、その指の先を水でぬらし、私の口を冷やさせてくださいと言うのであります。
 しかし、アブラハムは答えます。子よ、あなたな命の時に、あなたの良いものどもを受けたし、ラザロは悪いものどもを受けた。そして今はそれが逆転しているのだ。それらのことすべてに加えて、私たちとあなたたちの間には大きな淵、隔たり、溝があって、あなたたちのうちの望む者たちがそちらから横切ってくることもできないし、私たちのこちら側からも、人々は渡ってはいけないのだと言うのです。
 ところで、この対話中、ラザロは一言も発言していません。彼はアブラハムのもとで、一切をゆだねて、憩っているのでありましょう。
 金持ちの方は、自分が助からないと見るや、今度は、自分の家にいた物乞いを使って次善策をこうじようとします。それならば、私には父の家に5人の兄弟がいるので、そこにラザロを送って、わたしが味わっているこの苦しみに合うことがないように警告させてやってくださいと言います。これは「力強く証しする」というように他の新約聖書の個所では訳されもしている強い言葉です。
 しかし、アブラハムはその願いにも応じずに、彼らはモーセと預言者たちを持っている、すなわち、旧約聖書が与えられているではないかと応じるのであります。しかし、金持ちは、いいえ、もしも、死人の中からだれかが彼らのもとに進んでいったなら、彼らは悔い改めるでしょうと、繰り返し願います。
 しかし、アブラハムは、もし彼らがモーセにも預言者たちにも聞こうとしないのなら、もし、だれかが起き上がったとして、生き返ったとしても、彼らは聞き入れはしない、納得させられはしないと金持ちの願いに応じることはなかったのであります。
 主イエスは、富自体が、金持ちであること自体が罪であり、悪であるとは言われません。その用い方が問われてくるのであります。私たちにとっては、金が有り余って、本日の金持ちのような生活ができる人はほとんど例外でありましょう。それどころか、東京のような都会では、特に若い人たちは職を手にし、あるいは家のローンを返していったり、やりくりするのもどんなに大変かと思います。
 しかし、私たちにそれなりに与えられている富をいかに用いるか、その用い方によって、陰府、すなわち、当時の人々が死後行く世界と考えられていた中で、その地獄に行くことになるのか、あるいは、アブラハムの胸元で宴席に着くパラダイスに行くことになるのかの分かれ目になると主は、主としてファリサイ派たちに警告なさったのであります。
 確かに、ここに言われている通り、ファリサイ派たちは、主イエスが死者の中から復活しても主を信じることはしませんでした。主イエスは、しかし、使徒信条にあるように、ご自分も死んで陰府にくだられたのであります。そしてそこでも、説教をなさったと考えられます。主イエスを信じて、主イエスと共に命を生きるように、今では、すべての人が招かれているのであります。私たちはその招きに応じて、この世界で与えられている財貨を神の国に与るために生かし、隣人への奉仕や愛のためにも持ちいる者とさせていただきたいものであります。アーメン。
 人知では到底測り知ることのできない平安が、キリスト・イエスにあってあなた方を守るように。


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2007/09/30(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「抜け目のない賢いふるまい」(ルカ16:1~13)
ルカ16:1-13、2007・09・23、聖霊降臨後第17主日(典礼色―緑―)
コヘレトの言葉8:10-17、テモテへの手紙一2:1-7

ルカによる福音書16:1~13
 イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけには行かない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分の家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値のあるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは神と富とに仕えることはできない。」


説教「抜け目のない賢いふるまい」(ルカ16:1~13)

 本日から、福音はルカ16章に入っていきます。今週の16:1-13、次週の16:19-31はどちらもこの現実の世界で富を、どう用いるかということに関わっています。本日の福音からしばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 本日の記事は、16:1-8前段と、8後段から9節、10節から12節、そして最後の13節と4つの部分に分けて考えることができます。最初は、いわゆる不正な管理人、口語訳聖書では家令とも訳されていましたが、その譬えそのものであり、それにいくつかの主イエスの語られた言葉が付け加えられたものと考えられます。それらの順序に従って、もう一度今日のみ言葉を思い起こしてみましょう。
 主イエスは、彼の弟子たちに対しても譬えを語られます。先週の譬えは、主イエスが罪人たちと親しくするのを妬むファリサイ派など敵対者に対しての譬えでありました。主は自分は失われた者たちを取り返すために来たのだといって、いなくなった羊を捜す羊飼いやなくしたドラケメ銀貨を捜し出す女の譬えをしたのでした。
 それに対して今日の譬えに対しては、すぐ後でファリサイ派たちがこの譬えや言葉を聞いてあざ笑ったとも出てきますが、主として、彼の弟子たち、ですから、私たちに向けて語られているものです。
主イエスは言われます。ある金持ちがいて、彼には管理人がいたが、その管理人が彼の持ち物、財産をないがしろにしているという告発が、この主人にもたらされました。ガリラヤ地方の不在地主がこの主人であったかもしれません。この主人は、この告発、非難を聞いて管理人を呼び出し、言います。お前について私が耳にしていることは、何事だ。お前は今から財産管理の計算書を出しなさい、もうお前に管理人の仕事をさせておくわけには行かないと。
 この管理人は、主人の財産の何かを流用したり、無駄遣いしたのですが、それが何だったのか詳しい内容は書かれていません。
 彼は考えました。どうしようか。私は穴を掘る力仕事はできないし、物乞いするのは恥ずかしい。ああ分かった、私がこの事務仕事をやめさせられたときに、人々が私を迎え入れてくれるようにすればよいのだと。そして彼は負債者を一人ずつ、呼んで、最初の者に、あなたは、どれだけ、借りがあるのかといいますと、オリーブ油100バトスといいます。管理人は、ここにあなたの証文がある。今で言えば約束手形のようなものがあるということでしょうか。あなたは座って急いでそれを50と書きなさいと言うのです。そして、次の者にも同じように聞くと、小麦100コロスですというので、それならあなたは、ここを80コロスと書き換えなさいというのです。1バトスは約23リットル、1コロスは、約230リットルと言われています。相当膨大な負債です。ところが主人は、この抜け目のない賢い管理人のふるまいをほめたというのです。ここまでが、不正な管理人それ自体の譬えです。それは、あるいは利息分を差し引いてやっただけのことだったのかもしれません。
 主イエスは、言われます。この世の子らは、その仲間、その世代に対して、光の子ら、すなわちキリストの弟子たちよりも賢い、鋭敏であると評されるのであります。それに続いて主は、不正な富、マモンを使ってでも友達を作りなさい、そうすれば、それがなくなったとき、すなわち富、マモン、金が切れた時、あるいは、天に召されるときでしょうか、あなたがたを彼らが、天使たちでしょうか、あるいは貧しい人たちでしょうか、いずれにしても、そのように生きた私たちを、永遠の住まいへと迎え入れてくれると言われます。
 3つ目は、主イエスの語った言葉がここに加えられたものです。非常な小事に忠実な者は大事にも忠実であり、ごく小さな事に信頼の置けない者は大事にも信頼が置けない。それだから、不正なマモンについて、あなたがたが忠実な者たちにならなかったならば、だれがその真によいものを、真の富をまかせるだろうかと言われます。そしてさらにもし、他人の財産において、あなた方が忠実でなかったならば、あなた方に属するもの、真に私たちに属するべきもの、それは何でしょうか、私たちの救いに関わる事柄かもしれません。それを、だれがあなた方に与えようか、あるいは神が私たちにゆだねられようかと言われるのです。
 私たちは、主イエスのご到来によって、主に従うか、それとも従わないで裁きを招くか、その終末的な危機にさらされ、あるいは危急の決断に迫られています。
 そして主は、最後に締めくくりの言葉を語られています。だれも一家の召し使い、しもべは、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎み、一方を愛し、一方に献身し、あるいは一方を軽んじるからである。あなたがたは、神と富、マモンに従うことはできないと言われます。
 富、マモンは、人格的に考えられており、それは、私たちを完全にその誘惑に導き、不正、不正直に至らせるものと考えられています。神に従うなら、私たちは、あらゆる束縛から解放されて、自由な者の喜びへと変えられます。
 私たちは、富に支配されるのではなく、しかし、この世の子らの賢く抜け目のないふるまいを見て、主イエスと向かい合う時、光の子として、この世の子らに負けないように、より鋭い思慮分別を持ってふるまうことが求められています。天の住まいに入れるために、施しをしたり、確かな振舞いをして、永遠のみ国へと迎え入れられるように目覚めて歩みたいものであります。
 わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
 


「あなたは失われていませんか」(ルカ15:1~10)
ルカ15:1-10、2007・09・16、聖霊降臨後第16主日(典礼色―緑―)
出エジプト記32:7-14、テモテへの手紙一1:12-17

ルカによる福音書15:1~10
 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」



説教「あなたは失われていませんか」(ルカ15:1~10)

  本日の福音の記事は、ルカ15:1-10です。本日の記事も、どこで、いつ、ということは定かではありません。しかし、9:51以下に含まれていますから、主イエスのエルサレムへの旅の途上の出来事として位置づけられています。
さて、本日の記事は、「徴税人や罪人たちが彼、すなわち主イエスに聞くために近づいて来ていた」というふうに、始まっています。そして、ルカ15章は、「失われた者の回復」というテーマで、3つの譬えが出てきます。そのうちの第1と第2の譬えが本日の部分であります。本日の説教題を私は「あなたは失われていませんか」というふうに付けておきました。しかしむしろ、この1週間を振り返ってみますとき、「私は失われていました」と告白しなければなりません。神さまから離れて、暗い闇の中へ陥ってしまった1週間でした。 
しかし、主イエスは、このような私に向かっても、悔い改めを促し、新しく心を神に向けて、今日も説教を語るようにと励ましてくださいます。私のためにも十字架に向かわれながら、主イエスは本日の譬えもお語りになられているのであります。
 さて、主イエスが罪人たちを歓迎し、食事を共にしていることに、ファリサイ派や律法学者たちは、つぶやきます。そこで、主は、彼らに向かってこう語りながら以下の譬えを言われたのであります。「あなたがたのうち、羊を100匹持っている人がおり、そのうちの1匹が失われたなら、99匹を草原に残して、その1匹を見出すまで進んでいかないだろうか。そして、それを見出したなら、自分の肩に担い、喜びながら、自分の家へと戻って来て、友達や隣人たちを呼び寄せ、『共に喜んでください、失っていた羊を見出しましたから』と彼らに語るだろう。あなたがたに言うが、天において、そのような喜びが、悔い改めを必要としない99人の正しい者よりも心を神に向ける一人の罪人の上にあるであろう。」 
主は、医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。私が来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を悔い改めへと招くためであると言われます。
 この羊の譬えでは、羊は、二つめの譬えとは違って自分から迷い出たということでありましょう。迷い出る羊の譬えは、マタイには並行記事がありますが、そこでは、主イエスのどんな小さな弟子をも躓かさないようにという脈絡で書かれていますが、ルカの記事では、ファリサイ派たちが罪人を受け入れ、もてなす主に対して、不平を言ったことに対して、一人の罪人が悔い改めることが、神にとってはどんなに大きな喜びであるかを教えようとしています。古代の教父アンブロシウスは、野原に残していった99匹とは、天使たちのことであり、1匹とは、人間そのもののことを指していると考えました。私たちは、皆神の前に立つとき、失われているものではないでありましょうか。多くの日本人の方々は、主イエスを知らずしても、結構、人間らしく幸福に生きているようにも見えます。しかし、私は、十字架にかかった主イエスなしには、決してまともな生き方ができないことを感じさせられます。それにしても、幾たびも主イエスから離れて、迷える羊となる牧師としては恥ずかしい我が身であることを悲しく思います。しかし、このような私をも諦めず、見出すまで進んで来てくださる主イエス、そして父なる神に感謝いたします。
 さて、主はさらに言われます。「あるいは、10ドラクメ銀貨を持っている女が、1ドラクメを失ったなら、彼女は、ともし火をつけ、家をはいて、それを見出すまで求めるのではないか。そして、彼女が見出したなら、彼女は女友達や女の隣人たちを呼び寄せ、『私と一緒に喜んでください。なくしていた1ドラクメを見出しましたから』と言わないだろうか。このように、私はあなた方に言うが、悔い改めた一人の罪人の上に、神の天使たちの前で喜びが成る」と。これは、第1の譬えが男であったのに対して、女の人があげられており、あるいはそれは、教会を表しているのかもしれません。そして、教会の内側で、私たちの責任で失ってしまった者を回復する喜びが表現されているとも考えることができます。
 いずれの譬えにおいても、一人の悔い改める罪人の上には、神のために働く人たちのみならず、神御自身の大きな喜びがあり、それは、一人でとどめておくことのできるものではなく、パーティに周りの人々を招いて喜ぶというようなあふれ出る喜びであると主イエスは宣言なさいます。私たち罪人が、悔い改めて絶えず父なる神に、また、羊の大牧者である主イエスの下に立ち返ることが、何よりも神の喜びであるという福音を私たちは、本日聞かされているのであります。この福音を伝えるために、私たちは、今一度新たに、立ち上がり、この礼拝堂から遣わされていきましょう。
 祈りましょう。
 天の父なる神さま。
 あなたは、私たちの弱さをよくご存知です。しかし、悔い改めてあなたに立ち帰るとき、あなたは私たちを無条件で喜び迎えてくださいます。どうかこれから始まる秋の伝道の季節を、主にある平安のうちに1週間、1週間歩ませてください。聖書の言葉を、日々、味わいながら、地に足をつけて、自分になしうる範囲のことを精一杯なさせてください。あなたは、私たちを決して諦めない方です。そのあなたの肩に担われながら進むことができますように。キリストによって祈ります。アーメン。

 
 
 



2007/09/16(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主イエスと共に」(ルカ14:25~33)伊藤早奈牧師
ルカ14:25-33、2007・09・09、聖霊降臨後第15主日(典礼色―緑―)特別礼拝

 ルカによる福音書14:25~33
 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍してくる敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てなければ、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」



 説教「主イエスと共に」(ルカ14:25~33)伊藤早奈牧師
 
お祈りいたします。天の神さま、今朝もこのように、私たち一人一人が神さま、あなたに新しい朝の目覚めを与えられ、そして、あなたに招いていただき、礼拝を共に守ることができますことを心から感謝いたします。今朝は、あなたの福音の自由な翼により、この津田沼教会のお一人お一人とあなたからのみ言葉を通して、出会うことができますことを重ねて感謝いたします。私たちはそれぞれの心にある方々と共にこの礼拝を守ります。これから語られますあなたからのみ言葉を、この語る者を通して、ここにおられるお一人お一人へと神さま、あなたがお語りください。この僕のすべてをあなたへお委ねします。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によってみ前にお捧げいたします。アーメン。
 
お早うございます。今、お祈りさせていただいた通り、神さまからいただいた福音による自由な翼が与えられなければ、私はこの津田沼教会のお一人お一人とこのようにして出会うことはなかったと思います。本当に神さまに感謝しています。
 出会いはすべて神さまから与えられます。神さまから与えられる出会いは永遠です。今日、み言葉を通して与えられるこの出会いが神さまによって永遠とされることに感謝したいと思います。
 今朝、与えられました福音書の箇所の中のルカ14:27において、主イエスは、主イエスについて来た群衆、一人一人に言われます。
 14:27「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」と。
 十分の十字架とは何のことでしょう。背負うとはどういうことなのか。主イエスの弟子になるのは誰なのでしょうか。
 主イエスが生きられた遠い遠い昔に、選ばれた人たちだけに語られた言葉としてではなく、今、現在を生きる私たち一人一人に与えられるみ言葉として、私自身の証しを交えながら、み言葉からご一緒に聴いていきたいと思います。
 よく、何かの業を身に付けたい人が、親方のところへ「弟子にしてください」と門を叩く。というふうな様子をテレビのドラマやドキュメンタリーで観ることがあります。主イエスの弟子になることは何かの業を身に付けたいからなるわけではありません。
 そのように、私たちが選ぶのではなく、もう既に私たち一人一人が主イエスによって選ばれているのです。それは、「生きる命」としてなのです。
 「命」は一人一人同じように与えられています。しかし、「どう生きるか」は一人一人に委ねられているのです。
 主イエスに従って生きることを選ぶのは、あなた自身なのです。
 主イエスの背負われた十字架は、主イエスが生きておられた時代、最も重い刑とされていました。
 十字架は当時、罪の象徴であり、反逆者への見せしめであり、最も辛く、苦しい刑の一つだったのです。主イエスは、その十字架を誰かに強制されて背負わされたのではなく、背負われたのです。
 悲しみも人々からの裏切りや中傷からも逃げることなく、ご自分の歩まれる道として、十字架を背負いながら一歩一歩踏みしめて歩まれました。
 しかし、罪や憎しみの象徴であった十字架は、主イエスの復活により、希望へと変えられました。
 主イエスに従って生きるとは、与えられた辛い、苦しい十字架をも希望へと変えられることなのではないでしょうか。
 「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」
 私は、13年前、現在の医学では治すことができないという進行性の難病と診断されました。病名は、脊髄小脳変性症と言います。最近のドラマで、「1リットルの涙」というドラマの主人公の少女と同じ病気です。
 診断当初は、杖も持たずに歩き回っていましたし、字も自由に書けました。言葉も練習しなくても、はっきりとしゃべれたし、今の自分とはまったく状態が違います。
 信仰する病気、そのうち何もできなくなる。「何で?」「私、悪いこと、したかしら?」
そんな思いを持ってから、何年かの時を経て、こんな自分でも神さまに生かされていることを証しできるのならと、神学校の門を叩きました。
 しかし、何年もたつと、私自身は進行する病気を受け入れているつもりでしたし、自分の病気という十字架を背負っているつもりでした。
 十字架は、主イエスと共に背負っていないと、いつのまにか背負わされているものへと変わっていくものであるのだと、思い知らされる出来事が起こりました。
 それは、先月の8月の定期入院中に起こりました。今年4月から、教区付の牧師として働かせていただくようになり、嬉しいことにいろんな教会から依頼されるようになりました。
 ある教会の牧師からも依頼があり、何の不安もなくお受けしました。その教会は二階に礼拝堂がありましたが、4年前、車椅子から降りて手すりと一人の肩を借りて、階段を上ることができていたので、大丈夫だと思っていたのです。
 お受けして何日後だったでしょう、病気が進行性であることを思い出し、まず、近くの病院のリハビリの先生に聞きました。先生の返事は、「多分、無理です。断ったほうがいい」という答えでした。
 入院した病院のリハビリの一人の先生も答えは同じでした。
 先生の意見を理由にお断りしようと思っていたときに、他の一人の先生に、「判断するのは、ご自分で試してからのほうがいいのではないですか?」と言われました。お断りする前に自分で試してから自分で判断することにしました。答えは同じでしたが、答えを出す出し方が違いました。私はいつのまにか先生のせいにして、現実から逃げようとしていたのです。病気という十字架を背負わされたかわいそうな一人の人間として生きようとしていたのではないでしょうか。
 自分の責任で納得したうえ、お断りした結果は、将来の教会建築の希望へと広がりました。
 もう一度、14:27をお読みいたします。
「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」
 自分の十字架を背負うこと、それは今を生かされている自分と向き合うことです。
 それは楽しいことばかりではありません、悲しいこと、苦しいこともたくさんあります。この前、終わってしまったからもう起こらないというものでもありません。それは今を生きているあなたに与えられているからです。
 でも、その一つ一つは、共に生きておられる主イエスが共に担ってくださいます。共に生きておられる主イエスの姿は見えなくても、確かにおられます。
 あなたが心を主に向けて祈るとき、あなたと共におられる主イエスを感じることができるのです。
 主は言われます。「自分の十字架を背負ってついて来る者と私は共にいます。あなたは、私の弟子なのです。」
 祈り)
2007/09/09(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神の前での謙遜」(ルカ14:7~14)
ルカ14:7-14、2007・09・02、聖霊降臨後第14主日(典礼色―緑―)
エレミヤ書9:22-23、ヘブライ人への手紙13:1-8

ルカによる福音書14:7~14
 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」




 説教「神の前での謙遜」(ルカ14:7~14)

 私たちは、聖霊降臨後のこの時期を、主イエスの語られた言葉や主イエスのなさったみ業を通して、主日ごとに、主として今年はルカ福音書の記事を中心として聞かされながら、歩んでいます。本日の福音の記事はルカ14:7~14でありますが、これは、食事の席、あるいは、宴会、婚宴に関わる記事であります14:1~24のうちの一部であります。
 食事における交わりというと、平凡な、たいして重要ではないことのように思いがちでありますが、これらの一連の記事は、エルサレムへと十字架を目指す9:51以下の旅の途上で起こったこととして、位置づけられており、その中での間奏曲のようなものではないのであります。食卓の交わりは、聖書では決してどうでもいいようなことではありませんで、本日もこの後、礼拝の中であります聖餐式も、最後の晩餐の席で主イエスによって、与えられたものであり、また、復活の主がエマオの途上で二人に現れてご自分を啓示なさったのも、エマオの家での食事を通してでありました。さらには、使徒言行録においては、ユダヤ人と異邦人とが食事を共にすることを通して教会が広がっていったのであります。しばらく、本日の短い記事について、ご一緒に考えてみたいと思います。
 本日の出来事も、14:1以下にありますあるファリサイ派の議員に招かれた食事における出来事に続いて記されていますので、そこで、引き続いて起こったことと素直に考えてもあながち間違ってはいないと思います。主は、宴会に呼ばれた人々が、食事の名誉の場所、もてなしの主人の近くの席でありましょうか、中央の方の席でありましょうか、それをいかに選び求めているかに気付いて、彼らに向かって譬えを語っておられたのであります。主はこうお語りになります。「あなたが婚宴に呼ばれたなら、最も名誉な場所に横にならないようにしなさい。もし、あなたよりも尊敬されている人がいたら、あなたと彼を呼んだ人はやって来て、あなたに言うだろう。『この人に場所を与えなさい』と。そしてあなたは、恥と共に、終りの場所に席を占め始めるであろう。あなたが呼ばれたときには、あなたは進んでいって終りの場所に横になりなさい。そうすれば、あなたを呼んだ人が来て、『友よ、もっと上にお移り下さい』と。その時、栄光があなたに、すべての一緒に食事の席に横になっているすべての者の前であるであろう。なぜならば、すべて自分を持ち上げる者は、低くされるであろうし、自分を空しくする者は引き上げられるであろうからである」と。当時のユダヤ教の指導者たち、ファリサイ派や律法の専門家たち、聖職者たちはここで見られるように、この世での高い地位や名誉の席を飽くことなく追求していました。しかし、終りの日のメシアの祝宴へと神によって呼ばれるのは、彼らではなく、当時の社会では拒まれていた低い者たち、そして自分を謙遜・謙虚にしている者たちであろうと、主は食事の席に集まっている人々に向かって、警告なさり、目覚めるよう促されたのであります。
 続いて主は、少しだしぬけな感じはしますが、この宴会にご自分を招いてくれた人、もてなしの主人にも言われます。「あなたが宴会、昼食や夕食の会をするときには、あなたの友人たちや兄弟たちや親類たちや金持ちの隣人たちを呼び出さないようにしなさい。すなわち、彼らがあなたを招き返し、お返しが起こることにならないように。そうではなくて、あなたが宴会、レセプションをするときには、貧しい者たちや手足の不自由な者たちや、体の不自由な者たちや目の不自由な者たちを呼びなさい。そうすれば、あなたは、祝福されるであろう、なぜならば、彼らは支払うべく持ち合わせてはいないからであり、なぜならば、正しい者たちが復活するときに、あなたは支払われるであろう、すなわち、報われるであろうからである。」主はそう言われるのであります。
貧しい人たちは経済的に招き返してお返しすることは不可能でありましたし、残りの者たちも、肉体的にそうすることがまず無理であったでありましょう。主イエスは、この後半の勧めにおいても、復活の時に報われるように客を選ぶよう宴会のもてなしをする人に説いておられます。
 私たちは死ねばそれで終りではないのであります。復活の時に、お返しできない者たちを招いた人は、神によってお返しされると主は約束されるのであります。そして、復活は、正しい人にも、悪い人にも起こるのであります。正しい人は報いへと復活させられ、悪い人は罰へと復活させられるのであります。私たちのふるまいには、必ずそれに応じた神からの支払いが、すなわち報いか、罰かが伴うのであります。そして、私たちは、本日の主イエスの言葉を通して、私たちが神の報いの方に、神の報酬へと与る生き方をするうようにと招かれているのであります。
 私は、8月の20日まで、四泊五日で北軽井沢での山荘で、第19回ディアコニアキャンプに、チャップレンとして参加してきました。島田療育センターなどに入所している重度心身障害者の三人の人たちを十人ほどで見守る、体力は消耗するが非常に癒される数日間でありました。実は三人とも武蔵野教会の会員でもあります。彼らは私たち以上に純粋であり、より神に近い存在であると感じさせられました。彼らは周りの人たちによって助けられなければ生きていくことができません。そして、彼らは受けたもてなしを、それと同じ形ではお返しすることはできません。しかし、私たちは、彼らと交わることによって、大きな恵み、慰め、あるいは逆に励ましを与えられるのであります。
 私たちは、本日の主がなさった譬えを、覚えつつ主が約束されている終りの日のメシアの宴会に与るべく、周りの人々に仕える日々の歩みをなしていきたいものだと思います。祈りましょう。
 天の父なる神さま。
 あなたは、私たちに一度しかないこの地上の命を与えられました。この命をあなたの御用のために用いていくことができますように私たちを強めてください。キリストによって祈ります。アーメン。

望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によってあなたがたを望みにあふれさせてくださるように。


2007/09/02(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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