津田沼教会 牧師のメッセージ
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『神との真の関係」(ルカ13:22~30)
ルカ13:22-30、2007・08・26、聖霊降臨後第13主日(典礼色―緑―)
イザヤ書66:18-23、ヘブライ人への手紙12:18-29

ルカによる福音書13:22~30
 イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」という人がいた。イエスは一同に言われた。「世界戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし、主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」



説教「神との真の関係」(ルカ13:22~30)
 
ルカによる福音書は、エルサレム神殿でのザカリアに天使が現れるという記事で始まり、最後も、エルサレム神殿に復活の主に出会った弟子たちがオリーブ山から帰ってきて、絶えず神をほめたたえていたという記事で終わっています。ある日本のルカによる福音書の注解書は、「旅空を歩むイエス」というサブタイトルを付けて、書かれているように、ルカ福音書は特にその9:51以下、エルサレムへの十字架の道を主が目指す旅として、記事がまとめられています。それは、エルサレムでの十字架への旅であり、また、そこから復活して最後は、天へと旅立つ主イエスの姿を描いています。
 本日の個所もそのエルサレムに向かう途上で起こった出来事として記されています。それが、具体的にいつ、どこの場所で起こり、あるいは、その質問をした人が弟子であったのか、群衆であったのか、それとも、ファリサイ派であったのか、律法学者であったのか、そのような背景は何も詳しく記されていません。
しばらく本日のルカ13:22-30の記事について、今一度思い起こしてみましょう。
 主イエスは、町々や村々に沿って、教えながら、また、エルサレムへと旅をしながら、歩いていっておられました。そのとき、ある人が、「主よ、救われる人は少ないのでしょうか」と主に言いました。これは、現在分詞ですので「今救われている人は少ないのでしょうか」とも訳することができます。いずれにしても、その質問には主イエスは直接にはお答えにならず、こう言われます。「あなた方は狭い戸口から入るように努めなさい。」日本語からは読み取れませんが、これも、狭い戸口から入るように、あらゆる神経を集中させなさい、あるいは別の新約聖書の中では「よき戦い戦い抜け」とか、「勝ち取れ」とか訳されていて非常に強い意味の言葉であります。そして「なぜならば、私は言っておくが、大勢がそこに入ろうと求めるが、それはできないであろうからである」と言われます。そして、「そこから、家の主人が立ち上がり、戸口を閉め、外にあなた方は立ち、あなた方はこう言いながら、戸をたたき始めよう。『主よ、私たちに空けてください』と。しかし、彼はこう語りつつ言うであろう。『私はあなた方がどこからの者なのか知らない。』そのときあなた方は言い始めるであろう。『私たちはあなたの前で食べましたし、飲みましたし、あなたは、私たちの通りでお教えになったのです』と。そしてしかし、彼はあなた方にこう語りながら言うであろう。『あなた方がどこからの者なのか、私は知らない。私からあなた方不義を働くすべての者は離れ去れ』」と。ここで不義とは、道徳的な間違いとか悪いことという意味ではなくて、神との真の関係を持たないでいるすべての状態を指しています。主イエスを信じること、そして、神を信じることとは決して容易なことではありません。主は続けて言われます。「そこでは、泣き叫びと歯軋りがあるであろう、そのときには、あなた方は、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者が神の国において食事の席についているのを、一方、あなた方は、外に投げ出されているのを見出すであろう。そして東から西から、北から南から人々はやって来るであろう、そして神の国で食事のために横になっているであろう。そして、見よ、終わりになるであろう最初の者たちがあり、最初になるであろう終わりの者たちがいる」と主は語られるのであります。本日の旧約聖書イザヤ書66章にもありましたように、終わりの日には、異邦人にも救いの福音が伝えられ、人々は主のもとに、世界中から集まるのであります。
私たちは、今自分は救われているかどうか、あるいは死後救いに予定されているのかどうかなど、それ自体に頭を悩ますのではなく、主イエスが言われる「その狭い戸口から」、そこから入るためには競争の激しい神の国という家の中での食卓に着けるように今この日々を全力を尽くすべきであります。時として、私たちは疲れ果て、また気力もうせて、神の国、神の支配を求めることが難しいときもあるでしょう。主は、しかし、その私たちの弱さもよくご存知です。主が言われるように、今終わりである者たちが先の者たちになっていることもあるし、その逆もおこります。私たちは絶えず人々にも福音をのべ伝えつつ、自分が落伍者となり、終りの日には後の者となっているということが起こらないように今という大切な日々を気をゆるませずに精一杯歩みましょう。
天の父なる神さま。
私たちはしばしば油断し、あなたのみ言葉から離れ易く、絶えず神経をみ言葉へと集中させることがなかなかできないものです。あなたは、その私たちの弱さをよくご存知です。しかし、狭い戸口から入り、ついには救いの神の家での食卓に与れるように励ましてください。そのような中で、すべての隣人にあなたの救いの喜びを告げ広める者とならせてください。キリストによって祈ります。アーメン。
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2007/08/26(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神の真実に生きる」(ルカ12:49~53)内海望牧師
ルカ12:49-53、2007・08・19、聖霊降臨後第12主日(典礼色―緑―)
エレミヤ書23:23-29、ヘブライ人への手紙12:1-13

ルカによる福音書12:49~53
 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
 父は子と、子は父と、
 母は娘と、娘は母と、
 しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、
 対立して分かれる。」

 
  説教「神の真実に生きる」(ルカ12:49~53)内海望牧師
 ルカ12:49-53。私たちはこの箇所でのイエスさまの口調の激しさに驚きます。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」とおっしゃるのです。私たちのイエスさまに対するイメージが壊されてしまう感じがします。
 しかし、聖書の伝えるイエスさまの姿は「小羊を懐に抱き、杖を手に持つ優しい姿」のみではありません。もしそのようなイメージだけがイエスさまの姿として私たちの心に定着し、そのため今日の聖書のイエスさまに違和感を感じているとすれば、それは、私たちが「私たちにとって願わしいイエスさま」を勝手に思い描いているのであって、イエスさまを自分に都合よく作り変えてしまっていることになるのです。恐ろしい冒涜です。そこで、今日は、虚心にイエスさまの言葉と向かい合いたいと思います。
 イエスさまは、人間の犯した罪に対して、「もし、右の目があなたを躓かせるなら、えぐりだして捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれないほうがましである。」とおっしゃる方です。律法の一点、一画もおろそかにされないで、私たちの罪を抉り出す方なのです。また、祈りの家である神殿を商売の家にしている人々には縄で鞭を作り、両替人の台や鳩を売る者の腰掛を倒し、追い出される激しい方でもあるのです。聖書の神さまは真実と義なる方なのです。イエスさまもそうです。
 今日の日課でエレミヤは、「わたしはただ近くにいる神なのか、と主は言われる。わたしは遠くからの神ではないのか。・・・わたしは、わが名によって偽りを預言する預言者たちが、『わたしは夢を見た、夢を見た』と言うのを聞いた。」と言っています。預言者は人々に喜ばれる、口当たりの良い夢のような言葉で偽りを語り、偽りの神を示すと言う意味です。実際、偽預言者は、「おとめなるわが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに『平和、平和』と言う」(8:11)とエレミヤは嘆きます。
 エレミヤは神さまの真実をもって民の罪を弾劾し、悔い改めを迫るのに、偽預言者は、「心配しないでいいよ。神さまは何でも見逃して下さる愛の方だ。」と「安し、安し」と手軽に治療しようとするのです。これは、病原体が体の奥底にまで侵入し、内部から身体を蝕んでいる時、メスを深く身体に入れ、病原体を抉り出すことしか治療法がない病人に、「大丈夫、大丈夫」と表面に絆創膏を貼って済ませるようなものなのです。病人にすれば痛い思いをするよりは、メスより絆創膏が好ましいにきまっています。
 ところが、エレミヤは断固として、神さまの真実の言葉を語ります。彼は、「神さまの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか」と言い切るのです。イエスさまが、『・・・火を投ずるために来た』とおっしゃった言葉と同じです。
 エレミヤが真実を語るので、民の敵意を買い、見捨てられました。人々に笑いものにされ、暗殺におびえる日々でした。エレミヤは神さまの真実に対して真実に従おうとした時、彼は全くの孤独に落とされてしまったのです。神さまの真実と人間の間で苦しんだのがエレミヤでした。
 福音書に帰ります。イエスさまは、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」とおっしゃいました。これは、エレミヤが神さまの真実をもって民に対した姿と同じです。火はこの地の罪を焼き尽くす恐ろしい神さまの怒りなのです。神様の言葉は「岩を打ち砕く槌のように」激しく人間に迫るものなのです。私たちは、神さまの真実の前では、打ち砕かれる岩なのです。神さまの裁きを侮ってはいけません。イエスさまも、「平和だ、平和だ」と偽りの中に生きている私たちに神さまの真実をもって迫って来られるのです。恐るべき神の裁き!
 しかし、イエスさまのみ言葉は、エレミヤと違い、ここで終わりません。確かにイエスさまは、「焼き尽くす火」を、この世に投じられたのです。しかし、すぐ後に、「しかし、私には受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」とおっしゃっています。これは「飲むべき(苦い杯)」を指します。
 これは、イエスさまの十字架の苦しみと死です。イエスさまはご自分の十字架と死によって、神さまの岩を打ち砕く槌を人間に代わって受け留めようとされているのです。「人の子は、仕えられるためでなく仕えるために、また多くの人を身代金として自分の命を献げるために来たのである。」とイエスさまはおっしゃるのです。「どんなに苦しむことか。」というイエスさまの言葉は「ゲッセマネの祈り」であり、「十字架上の祈り」です。神さまの真実の前には、打ち砕かれ、滅ぼされるほかはない私たちです。しかし、イエスさまの真実の愛は、私たちのために十字架上で執り成しの祈りを続けられる姿に現されます。
 イエスさまの投ずる火はメスなのです。私たちを何とか死に到る病から救おうとする癒しのためのメスです。ここに到って、私たちは、自分たちの罪の深さ、病状の重さに気付くのです。もはや絆創膏を貼って済ませるわけにはいきません。
 今や、神様の真実によって、心の奥底まで打ち砕かれ、悔い改める時です。その時、死すべき私をイエスさまの十字架によって癒され、イエスさまの真実の愛に復活する新しい私を見出すでしょう。新しいいのちが、確かな足取りが与えられます。「罪に死んで、キリストの愛に甦ること」こそ、イエスさまが命をかけて私たちに行って下さったことなのです。大胆に神さまの真実に打ち砕かれ、もっと大胆にイエスさまの十字架の愛に信頼しましょう。
 「いまさら新しく生きるなど、とても」とためらわないで下さい。イエスさまが、「さあ、新しく生きよう!」と呼びかけて下さっているのです。この恵を信じて立ち上がりましょう。そして、共々神さまの真実に生きる爽やかさ、喜びを経験しましょう。 
2007/08/19(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神の前に豊かな人生」(ルカ12:13~21)原拓也牧師
ルカ12:13-21、2007・08・12、聖霊降臨後第11主日礼拝(典礼色―緑―)
コヘレトの言葉2:18-26、コロサイの信徒への手紙3:5-17

ルカによる福音書12:13~21
 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってはどうすることもできないからである。」それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」




  説教「神の前に豊かな人生」(ルカ12:31~21)原拓也牧師(元西日本福音ルーテル教会牧師)

  本日の出来事の発端は、ルカ12:13-14節に出てきますが、民事や政治についての判断や助言を、宗教指導者に求めることは当時は普通のことでありましたが、この出来事はイエスがある人々の間では、宗教指導者と認められていたことを示しています。
  ルカ福音書12:15節以下は貪欲に関する教えであります。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。・・・人の命は財産によってはどうすることもできない。」ここで、「命」と訳されているのは、英語では普通「life」と訳される言葉です。「貪欲は偶像礼拝に他ならない」(コロサイ3:5節)。藤木正三氏は言われます。「獲得の喜びと生命の喜びとは別であることに注意しよう。獲得の中で生命はむしろ不完全燃焼をかこっているのではないか。燃焼とは本来他に仕えることである。」
  さて、主イエスのなさった譬え話(ルカ12:16-19節)に移りましょう。この金持ちの人となりと生き方を見てみましょう。ところで、まず、言えますことは、神は怠け者の畑に豊かな作物をお与えになることはないのであります(箴言6:9-11、19:15)。しかし、この金持ちは怠惰な生き方をしてはいなかったし、浪費家でもなかったでありましょう。12:18から見ますなら、生活設計ができる人でありましょう。また、宗教的にも几帳面な生き方をしていたかもしれません。
  では、この人の根本的な過ち、すなわち、神から「愚か者」と言われた理由は何でありましょうか。それは、原文を見ると「私の穀物」「私の財産」(18節)、あるいは「自分に言ってやる」(19節)「自分のために」(21節)というところにあるのであります。彼の関心は「自分に(だけ)」向けられていたのであります。
  さらに、彼は金品と霊魂とを同じレベルで、等価的に考えたのであります。ところで、19-20節で、普通「霊、霊魂、魂」と訳される言葉が、そのような形では訳されていません。19節を原文で見ると、「私の魂に向かって言おう」ですが、新共同訳では「自分に言ってやる」となっており、「魂よ」は「さあ」と訳されています。新共同訳だとここの教えの真意が十分には伝わりません。しかし、ここに、この人の生き方が聖書の教えと大きく異なっていることが分かるのです。
  ルカ12:20節は、警告の言葉であります。この教えを聞いて、この出来事の発端となった「調停の依頼人はどしたか?」、聖書には何も書かれていません。聖書が何も書いていないということは、この依頼者がどうしたか?ではなく、あなたがこの教えを聞いてどうするかが、神さまから問いかけられているのであります。すなわち、ここで語られているのは単なる「譬え話」ではなく、あなたへの問いかけであり、期待なのであります。
  それでは、次にどう生きるのかを、本日の使徒書の朗読、コロサイの3:5-17から聞いてみましょう。「だから」という言葉で始まる今日の日課は、3:1-4を受けています。「あなたたちは、キリストの命の中にあって、『今』を生かされている(1-4節)。「だから・・・」「上にあるものを求めて生きよ」というのが原則です。
  3:5-17節は、具体的な生活の場でのあり方であり、5-11節はその消極的な面であり、12-17節は積極的な面です。
  最後に、神の前に豊かな人生の三要件について考えてみましょう。第一は、信仰すなわちキリストに生かされることによって、私たちは、「自己中心、自我」解放され、上にあるものを求めて生きるものとされます。第二に、愛の奉仕すなわち、「自分」から解放されたときに、初めて私たちは「他者」に関心を向ける者となります。ルターはこう言います。「信仰から、主における愛と喜びが流れ出て、愛から隣人に仕えようとする快活で喜ばしく自由な精神が流れ出る。」第三に、神の時を弁えて生きるということであります(コヘレト3:1-8)。私たちは時間と空間の中に生かされています。故に、「今、ここで、このこと(この人)に、何をなすべきか」を弁えて生きる知恵が必要とされるのであります。たとえば、受難を前にした主イエスにナルドの香油を注いだ女(マルコ14章3-9節)のことを思い出してください。
  しかし、私たちの現実の在りようはどうでありましょうか。「私たちは皆、しばしば過ちを犯す」(ヤコブ3:2)ものであります。それゆえに、私たちは、救い主を必要とし、イエス・キリストを告白しながら生かされてゆくのであります。
  


2007/08/12(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「世界平和ーお互いを大事に思う心から」(ヨハネ15:9~12)
ヨハネ15:9-12、2007・08・05、平和の主日
ミカ書4:1-5、エフェソの信徒への手紙2:13-18

ヨハネによる福音書15:9~12
 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」

ミカ書4:1~5
 終りの日に
 主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
 どの峰よりも高くそびえる。
 もろもろの民は大河のようにそこに向かい
 多くの国々が来て言う。
 「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
 主はわたしたちに道を示される。
 わたしたちはその道を歩もう」と。
 主の教えはシオンから
 御言葉はエルサレムから出る。
 主は多くの民の争いを裁き
 はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。
 彼らは剣を打ち直して鋤とし
 槍を打ち直して鎌とする。
 国は国に向かって剣を上げず
 もはや戦うことを学ばない。

 人はそれぞれ自分のぶどうの木の下
 いちじくの木の下に座り
 脅かすものは何もないと
 万軍の主の口が語られた。
 どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。
 我々は、とこしえに
 我らの神、主の御名によって歩む。

エフェソの信徒への手紙2:13~18
しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血において近い者となったのです。
 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。



説教「世界平和―お互いを大事に思う心から」(ヨハネ15:9~12)
 本日は、JELCでは平和の主日とされています。これは、言うまでもなく、1945年8月6日と8月9日に、広島と長崎に原爆が落とされ、何万という人が瞬時になくなり、そして8月15日に日本が全面降伏し敗戦を迎え、第二次世界大戦が終わったことを、思い起こし、平和を祈願する日として、一年に一度置かれているものです。世界では今も戦争はなくなったわけではなく、多くの地域、世界のあちこちで戦火は絶えず、紛争が続き、尊い人命が奪われていることを思い起こさねばなりません。
さて、この平和の主日に与えられている聖書の個所は、先ほどお読みいただき、また、福音は私が読みましたように、ミカ書4:1-5、エフェソの信徒への手紙2:13-18、そしてヨハネ福音書の15:9-12であります。
ミカ書4:1-5の記事は、イザヤ書の2章の始めにも同じような記事が出てきますが、これらは同じ伝承を受け継いだものと考えられます。ミカ書4:1-5では、すぐ前の3章まで、イスラエルがバビロン捕囚に遭う悲惨な出来事を前提に、イスラエルに対する神の審判が記されていますが、4章に入ってからのの記事は、終わりの日々において、終末のときに起こる出来事を約束として、イスラエルの人たちを慰めるために書かれたものであります。終わりのときに、神自らが平和をもたらすというのであります。主なる神は諸国民を裁き、諸国民は、エルサレムへとやって来る。そして、シオンの山は、もろもろの山よりも高く上がり、国は国に向かって戦うことを学ばなくなる。そして、剣を引き伸ばして、鋤とし、槍を打ち伸ばして、鎌とする。有名な言葉で、国連本部にも記されている言葉であります。諸国民はシオンに向かって、また、エルサレムにおいてやって来る。諸国民はその神を拝みながら歩むが、私たちイスラエルの民は、永遠に主なる神を礼拝しつつ歩むというのであります。
次に、エフェソ2:13-18は、キリストが平和の主であり、双方の隔ての中垣、敵意という壁を主キリストが取り壊し、十字架の血と死によって、お互いを和解させ、一致に向かわせた。それで、神に向かって私たちは、一つの霊において近づくことができるようになったというのであります。神と人間との間の隔たりでありましょうか、それともユダヤ人と異邦人との隔たりでありましょうか。あるいはそれは、さらにあらゆる異なる人間間の隔たりを、主の十字架の死がその間の敵意を殺して、なくしてくださったということであります。
そして、本日の福音、ヨハネ15:9-12は、主イエスがぶどうの木にご自身を譬えられた告別説教の中の一節であります。父が私を愛されたように、私はあなた方を愛した。あなた方も、私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさいと主は勧められます。私たちが教会において、この共同体において、弟子として、また兄弟としてお互いに大事にし合うようにという新しい掟、命令であります。それは、イエスの喜びが私たちにあり、私たちが喜びにあふれるようになるためであると言われます。まず、教会の中にいます私たち主の弟子であるもの同士が、相違点はあっても和解しあい、愛し合っていくときに、平和が実現して行きます。平和とは、ヘブライ語でシャローム、ギリシャ語でアイレーネーでありますが、それはいずれも混沌カオスの反対であり、平和な時代という時間的な問題ではなく、関係を問われる問題であります。そしてそれは、福音記者ヨハネによれば、私たち主の弟子の間で、主イエスの私たちに対する測り知れない愛を同じように実現するときに、平和が、喜びが、そしてまったき救いが実現するのであります。
いわば教会から世界平和が始まると本日のヨハネ福音書の記事は約束してくれているのであります。世界は、旧約聖書、新約聖書が考えも及ばなかったであろう原子力爆弾、あるいは水素爆弾を発明し、使用してしまうとことまで、来てしまいました。しかし、根本的には、私たちの心の中、あるいは身内や身近なところから始まるう憎しみや争いから、戦争は始まるのであります。経済格差や、南北問題など解決しなければならない世界規模の問題も差し迫っています。平和憲法を守り、国連の強化や、世界連邦の運動のようなことも必要でありましょう。しかし、それらの根本には、私たちは、本日の福音が語るように、主イエスが愛された教会である私たちの兄弟間でまずその愛をお互いに実現して行くことから、真の平和である調和、救い、最終的な平和が生まれるのであります。
父なる神さま。
私たちの津田沼教会において主イエスが示してくださった愛を実現していくことができますように。そして、各人の家庭で、また、身近な兄弟相互の交わりにおいて真の平和を達成して行くことができますように。これから、聖餐に与りますが、罪の赦しと和解のために備えられたこの恵みと救いの手段を感謝して受けさせ、隣に立つ兄弟の罪の赦しのためにも祈ることができますように。キリストによって、アーメン。
平和と信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。


2007/08/05(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「必要なものはひとつだけ」(ルカ10:38~42)
ルカ10:38-42、2007・07・29、聖霊降臨後第9主日(典礼色―緑―)
創世記18:1-14、コロサイの信徒への手紙1:21-29

ルカによる福音書10:38~42
 一行が歩いていくうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」



説教「必要なものはひとつだけ」(ルカ10:38~42)
 
先週は、「よきサマリア人の譬え話」を中心に学びました。辛苦にあえいでいる人を助け、よき隣人になる、そして、自分自身のように隣人を愛する者になることの難しさを考えさせられる主イエスの譬えでありました。本日の福音の記事は、その譬え話に続くエピソード、出来事であります。ところで、先週の律法の専門家が尋ねた永遠の命を受け継ぐためにどうすればいいですかとの質問に対して、聖書にどう書かれているかに対する答えは、まず第一に、「あなたの心、魂、力、思いのすべてを尽くして、あなたの主なる神を愛しなさい」ということでありました。
 本日のエピソードは、この第一の命令に関わることとして、ここに記されているとも考えることができます。本日の出来事、そして、主の語られたみ言葉をしばらくご一緒に考えてみたいと思います。ルカによれば、主イエスは、よきサマリア人の譬えを語られた後、弟子たちとさらに進んで行かれ、ある村に入られます。そして、マルタという女性が彼を迎え入れます。マルタという名は当時珍しくなく、ベタニアの村の共同墓地からもその名が見られるということであります。女主人とか、婦人とかいう意味の名前であります。
そして彼女には、マリア、ミリアムという名の姉妹がいて、主の足下に座って、ずっと彼の言葉に耳を傾けていたのであります。まだ、食事の準備が整っておらず、主はみ言葉を語っておられたのでありましょう。マリアは、女の弟子として主の足下にずっと座って聞き続けているのであります。それに対して、マルタは、給仕、食事の準備で多くの荷を負いすぎていたと記されています。
本日の第一の朗読、旧約聖書の日課では、アブラハムとサラがそれとは知らないで三人の旅人、天使を家に招き、もてなしをするという美しい物語が読まれました。日本でも戦前、戦後あたりまでは旅人や客人を家に招いて食事を出したり、もてなしをするという習慣が残っていましたが、最近では失われてきたようであります。もてなしをするということ自体はとても良いことであります。けれども、マルタはあまりにも多くの奉仕に忙しすぎたのであります。
マルタはそばに立って、主に言います。「あなたはなんともお思いにならないのですか、マリアは私にだけ奉仕をさせて放っています。彼女に私を手伝うようにおっしゃってください。」主はそれに対して言われました。「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことどもに、心を煩わし、気を散らしている。必要なものはただ一つだけであり、なぜならば、彼女はそのよい方、良い部分、あるいは良い皿、良い分け前を選んだのであり、それは彼女からとりさってはならないのである」と。
 これは、ヨハネによる福音書の11章、12章に出てくるベタニアの姉妹、マルタとマリア、あるいはその兄弟ラザロの物語での姉妹と同一の性格を示しています。ただし、ルカは9章の51節から、エルサレムへの旅のごく初期に起こった出来事として記し、ある村とだけ書いたのでありましょう。
 必要なものは一つであり、なぜならば、マリアは良い方を選んだからだとありますが、この良い方というのは、食事の割り当てられる分とか、あるいは、「主は私に与えられた分」(詩編)と言ったりしますときの大事な表現・言葉であります。主イエスにもてなしをする、そしてその肉体的な必要を満たす奉仕、ディアコニアもなくてはならないことであります。しかし、主イエスは、自ら「私は仕えられるために来たのではなく、仕えるために来たのである」と言われます。そして、主のみ国の言葉に耳を傾けることこそが、欠けてはならない、弟子にとっての唯一つのことであります。それは、マリアから取り上げてはならない、取り去られることはないであろうと、主はやさしくマルタをたしなめられるのであります。
 しかし、日常を振り返ってみますとき、私たちキリスト者の生活は、マルタとマリアの両方の生き方の中で迷いに迷っているというのが、現実ではないでしょうか。み言葉に聞くことに専念して歩みたいと思いますが、それ以外のさまざまなことにも追われて、私たちは忙しく過ごしています。そして、いらいらして心が乱れ、思い煩うことの多いのが現実ではないでしょうか。そして、主はそのことをも、よくご存知であります。私たちの置かれた現実の毎日の生活の中で、少しでもマリアのように主の足下に座り、主の言葉に集中する時を持ちたいと思います。ある人にとってはそれは、毎日一日の初めに、あるいは夜眠る前に、あるいは短い聖書の1章を読むことであるかもしれません。あるいは、クリスチャンの家庭であれば、聖書日課を使ってささやかな家庭礼拝を夕食の前などに持つことであるかもしれませんし、あるいは、仕事に追われて主日礼拝で説教を聞くのが精一杯という方もおられるでしょう。私たちはそれぞれの置かれた状況の中で、マリアの主の言葉に没頭する姿勢に優先順位をおきながら、マルタの人々に対するもてなしやディアコニアにも、心乱れずに喜んで従事する、そのような生活を、絶えず、み言葉に立ち返りながら送っていきたいと願うものであります。そのような意味で、どうしても「必要なものはただひとつ」であることを本日もう一度確かめたいと思います。
祈りましょう。
 天の父なる神さま。
 私たちは、多くのことに手をつけ、気を散らされ、それに振り回されながら生きています。ですが、どうか、それぞれの境遇の中でも、主の言葉を優先して、常にみ言葉と共に平安のうちに日々を送るものとならせてください。キリストによって祈ります。アーメン。
 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。





2007/08/04(土) 11:57:11| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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