津田沼教会 牧師のメッセージ
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「慈悲を行う者は命を得る」(ルカ10:25~37)
ルカ10:25-37、2007・07・22、聖霊降臨後第8主日(典礼色―緑―)
申命記30:1-14、コロサイの信徒への手紙1:1-14

ルカによる福音書10:25~37
 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリヤ人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」


説教「慈悲を行う人は命を得る」(ルカ10:25~37)

 本日、与えられている福音の記事は、キリストのなさった譬え話の中でもあまりにも有名な「よきサマリア人の譬え」と言われる記事であります。本日の記事は、主イエスが、ルカ9:51以後でありますから、主が既にエルサレムに顔を向け、十字架にかかり、天に上げられることを自覚して、エルサレムに向かっての旅の途上において、起こった出来事であり、また、なさった譬えであります。
 本日の記事は、ルカ10:25-29と30-37に分けられます。「そして、見よ、ある律法の専門家が立ち上がって、主イエスに質問した。『私は何をしたら、永遠の命を受け継ぐでしょうか』」との出だしで、本日の記事は始まっています。何か大きな業績をあげたり、華々しい行いをすれば、それで、永遠の命、メシアの神の国を受け継ぎ、得ることができるかのように彼は考えていたのであります。
 それに対して、主は言われます。「何と律法に書いてあるか。あなたはそれをどのようなものとして読んでいるのか。」彼は答えます。「あなたの主なる神を、あなたのすべての心から、あなたのすべての魂において、あなたのすべての力において、あなたのすべての思い、理解力によってあなたは愛せよと。これは、申命記の「聞け、イスラエルよ」で始まる有名な言葉で、律法ノモスの専門家ノミコスにとっては自明なことでありました。そして彼は「それと、あなたの隣人を自分自身のように愛せよ」と加えたのであります。レビ記19:18にある言葉です。主は、あなたは正しく答えた。それを行えと命じられたのであります。
 ところが、この人は、自分の立場を擁護しようと思って、「そして(では)、私の隣人とは誰ですか」と問い返したのであります。主がよき教師としてどのように答えられるか、さらに食らいついてきたのであります。そして、それへの応答として、主はあまりにも有名な「よきサマリヤ人の譬え」を語られるのであります。この譬えをめぐっては、実はこれは史実ではなかったかと考える人もいます。と言いますのも、主は、他の箇所で、祭司やレビ人を悪く言っていることがないこと、また、そのような事件が、近世にいたってもしばしば起こった場所であるからであり、また、主イエスはこのあと、ベタニアの村に入られますから、こらはそのような事実があり、それを主が持ち出して話されたというふうなこともありえたことでありましょう。主は、律法(ノモス)の専門家(ノミコス)の質問に応じてこの物語を語られたのであります。
エルサレムから、エリコの平原まで900メートルほどくだりますし、距離としては30キロメートルほどもあります。蜂の巣状の岩肌や、ほら穴がある峡谷であります。そしてある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、追いはぎどもの手に落ちたのであります。   
この人はもちろん、衣服をはぎ取られたりするのに抵抗しましたが、それに対して殴打を加えられ、追いはぎたちは、半死人の彼を残して立ち去ったのであります。
祭司が時を同じくして下って来つつありました。エリコの町がヘブロンのように、いわゆる祭司の町であったかどうかは確かではありません。さて、この祭司は彼に気づくと、自分も襲われると思ったのか、あるいは、自分も追いはぎと誤解されると思ったのか関わりを持つことを避けて、反対側を通って行きます。
同じように、続いてレビ人も彼の方にやって来て、近づいて事情がもっとよくわかったのに、更に冷酷にもそのままにして反対側を過ぎ去ります。
 ところが、おそらく、サマリア方面からエルサレムへ旅行中であったであろうサマリヤ人は、彼の方にやって来て、非常に憐れみ、はらわたが痛むのであります。そして、近づいて、包帯を当てて、やったのであります。オリーブ油とぶどう酒を注いでとありますが、当時は家庭の薬剤として使われ、それらを混ぜて軟膏のようにして使った場合もあるとも言われています。そしてその被害にあった人をロバに乗せ、宿屋にまで運んで行って手厚く世話したのであります。
そして翌日、出かける前に、宿屋の主人に2デナリオン、今で言えば2万円くらいを渡して、なお余計にかかったら、わたしの帰りがけに、自分の責任として払いましょうと伝えて出て行ったのであります。この三人のうちで誰が彼の隣人になったとあなたには思われるかと尋ねられると、もちろん、この律法の専門家は、慈悲を行った人、彼を助けた人だと思いますと答えます。そして主は、あなたも行って同じようにしなさいと言われるのであります。これは、現在形の命令形で書かれていまして、一生繰り返し繰り返しそのように行いなさいということであります。
 私たちは、この記事を読むとき、三浦綾子氏の「塩狩峠」の主人公や自分の命を落として他人を救った人等の事件をすぐ思い起こしがちなのでありますが、大事なことは、普段に私たちが与えられている日常の中で、辛苦に苦しんでいる人に慈悲を行い、助けることであります。そして実はその生き方を、最後は私たちの罪のための十字架の死ではありましたが、生涯、日常の中で実践し続けたのは、この出来事を語っておられる主イエス御自身であります。
私たちは、どうしても自己中止の生き方になりがちで、人の痛みを十分に理解できない弱い者でありますが、繰り返し今日の記事、出来事を思い起こし、助けを必要としている人の近い存在に生涯なっていきたいものであります。
人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。






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2007/07/22(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「キリスト者の自由」(ガラテヤ5:1~6)鈴木浩牧師
ガラテヤ5:2-26、2007・07・15、特別礼拝

ガラテヤ5:1~6
 この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷のくびきに二度とつながれてはなりません。

ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。
 


 説教「キリスト者の自由」(ガラテヤ5:1~6)鈴木浩牧師(日本ルーテル神学校教授)

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが皆さんの上に豊かにありますように、アーメン。

1517年10月31日のことと伝えられていますが、アウグスティヌス会という修道会に属していた修道層で、大学で旧約聖書学の教授をしていたマルティン・ルターが、教会の扉にいわゆる「95ヶ条の提題」と呼ばれるビラを貼り出しました。そのようなビラを貼り出すというのは特別なことではなかったようで、何か議論をしようとする時には、当時の人はそうしていたようです。ちょうど、中国の「壁新聞」のようなものだったと考えればいいかもしれません。
このビラがきっかけとなって、宗教改革が始まりましたので、それ以来「95ヶ条の提題」が掲示された10月31日が、「宗教改革記念日」として記念されてきました。おそらく、世界各地の教会で、当日、宗教改革を記念する礼拝が守られていることだろうと思います。
ルター自身はこの「95ヶ条の提題」を貼り出してからずいぶんと時が経っても、実は、「教会の改革」をしようというような気持ちは少しもありませんでした。彼の関心はもともと非常に個人的な問題で、一言で言えば「自分の救いの確かさ」ということにありました。どうしたら、自分は救われているという確信を持てるのか、というのが彼の意識を占めていたことでした。ルターはですから、自分が貼り出したビラが、瞬く間にヨーロッパ中に知れ渡ったことに非常に驚き、戸惑いました。しかし、もともとそんな気はなかったのに、ルターの問題意識、つまり、「救いの確かさの問題」に多くの人が共感を寄せたのは、実は大勢の人が、ルターほど自覚的ではなかったかもしれませんが、同じような気持ちを抱いていたのでしょう。
中世後期、つまり、ルターの宗教改革に先立つ数世紀という時代の世相を一言で言えば、「宗教的不安の時代」と呼ぶことができるでしょう。現代もしばしば「不安の時代」と呼ばれていますが、現代人の持つ不安は、中世後期の人が持っていた不安とは、はっきり質が違います。今の時代は、何か得体の知れない、実態の不明な、はっきりと定義するのが難しい不安が特徴ですが、中世後期の人々が抱いていた不安は、もっとはっきりとしたものでした。それは、自分がすくわれるかどうか、という不安でした。自分の吸う杭に関する不安、それが、当時の人々が抱いていた根本的な不安でした。
中世はしばしば「暗黒時代」とも呼ばれますが、その実体に即して言えば、中世はそれ以上に「信仰の時代」であったと言った方がいいでしょう。皮肉な見方をする人ならば、「信仰の時代」というよりも「迷信の時代」と言った方がいいと思うかもしれません。しかし、「救い」が人々の究極的な関心であった、ということは言えます。しかし、この場合には「救い」とは死んでから「天国に入る」という意味でした。この世での生活は、ですから、極端な言い方をすれば、そのための準備の生活のようなものでした。
決定的なのは、「死の瞬間」でした。ここで、天国に行くか、それとも地獄に堕ちるかが決まったのです。中世の終わり頃、隠れたベストセラーとでも呼ぶべき本が現れ、たくさんの読者を獲得しました。本と言うよりも「絵本」と言った方がいいのですが、どの本にも同じ表題が付いていました。「アルス・モリエンディ」という名前です。直訳すれば「死ぬための技術」、つまり、「どのようにして死ぬのか」というのがその意味です。名前からして気持ちのいい本ではありませんが、挿し絵は、まさに死のうとしている人の腕をキリストとサタンが綱引きのようにして引っ張り合っています。キリストが勝てば、その人は死んでから天国に行きますが、サタンが勝てば、地獄に行かねばならないということになります。「アルス・モリエンディ」という本は、この死の床でのキリストとサタンの綱引きで、キリストに勝ってもらうためにはどうしたらいいのかを教える本でした。
当時の人々の状態は、ちょうど、その一生が受験勉強のようなものでした。死ぬときが、一回限りの受験のようなもので、滑り止めも、やり直しもきかないのです。受験生が受験が終わるまで、不安であるように、当時の人々は、自分の救いに確信が持てないまま、不安のままに、死に直面したのです。フランスの有名な聖人にジャンヌダルクという少女がいました。1431年に異端者として処刑されます。本当の理由は他にあったのだと思うのですが、異端者として処刑された正式の理由は、教会の教えに逆らって、人間はこの世で自分の救いの確かさを持つことができると信じたからだ、ということになっています。ジャンヌダルクを裁いたパリ大学神学部教授会の判決は、こうなっています。「この女は、既に栄光にあずかっているかのように、自分がパラダイスに受け入れられたという確信を持っていると語る時に、罪を犯している。なぜなら、この地上の旅路では、自分が栄光にふさわしいのか、それとも刑罰にふさわしいのかは、どんな巡礼者にも分からないからである。それは、全能なる審判者だけが判断することである」。つまり、救いの確信を持つということは、罪を犯すことだと言うのです。当時の教会の教えによれば、自分の救いについて確信を持つことができず、不安なままの一生を生きて行かねばならないのです。
宗教改革者ルターもそのような世界に生まれ、そのような世界に生きたのです。他の人と少し違っていたのは、彼が類稀な良心的な人間であったこと、自分の心を決して偽ることのできない人だったことでした。あるいは、それは彼の場合、少し病的なほどだったかもしれません。そのルターが、自分の救いに不安を持ったのですから、たまったものではありません。他の人が、その不安を騙しだまし、なんとかごまかしながら生きていた時に、彼はその不安に真正面から向き合ったのです。
当然のことですが、彼は非常に大きな精神的危機に陥ります。その危機を乗り越えようとして、父親と激しい対立を起こしてでも、ルターは修道院に入ってしまいます。多分、自分の深刻な危機を克服するのは、修道院しかないと思ったのでしょう。しかし、修道院に入ったら、その不安から逃れられると思っていたのに、不幸なことに、その不安はいっそう募るようになります。危機を克服しようとしたのに、逆に危機は深まったのです。どちらを向いても、乗り越えられない壁だらけなのです。ルターは追い詰められていきます。
ルターはしかし修道院で祈っていればいい、というわけにはいきませんでした。大学で聖書を教えるのが、彼の務めでしたから、神の救いに確信が持てず、むしろ、神の裁きに怯えながら、聖書を教えるという離れ業をしなければなりませんでした。精神的には非常に苦しい日が続きます。
しかし、結局、そういう苦闘の中で聖書を教えていたことが、ルターの突破口になりました。彼は聖書と直接取り組みましたから、教会の教えと聖書の食い違いにも徐々に気付いていきます。特に救いの確かさについて、教会は人間にはどんな信仰深い人にも、それは与えられることがないと教えていましたが、聖書はしかし、違うことを語っていました。
イエスは、自分と一緒に十字架に就けられた人に向かって、「あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいる」と断定されていました。長血を患っていた女性に、イエスは「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と語っておられました。ザアカイに向かっては、「きょう、この家に救いが訪れた」と語っておられました。使徒パウロは、「見よ、今が恵みの時、今が救いの時」と書いています。
何か遠い先のことではなく、「今」が救いの時だと聖書は語っているのです。イエスは更に、「わたしはよみがえりであり、いのちである。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は、決して死なない」とさえ言われていました。
教会の教えという「色眼鏡」を外して、聖書に直接向き合うと、そこには、イエスの力に満ちた救いの言葉があったのです。ローマ書でパウロはこう書いていました。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただ、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」。
それまで、聞いていた教会の教えでは、あたかも「キリストの贖いの業」がないかのように、「罪人を無償で義とする」神の恵みがないかのように、キリストの十字架が「罪を贖う供え物」でないかのように、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」というパウロの言葉の前半だけを唱えているかのようでした。
聖書の言葉、とりわけ、イエス御自身の言葉は、イエスの十字架による罪人の救いをはっきりと告げていました。自分が神の目から見れば罪人であるという事実は、動かすことができない事実としてありました。しかし、それ以上に、イエス・キリストの十字架の救いの出来事も、動かすことのできない事実だったのです。救いの確かさとは、ですから、イエス・キリストの十字架の出来事の確かさなのです。
イエスは「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と語っておられます。十字架の出来事も、決して揺れ動くことはないのです。自分がどれだけゆれ動いても、イエスの言葉は揺れ動くことはないし、イエスの言葉も揺れ動くことはないのです。
自分の救いに確信が持てず、不安でおののいていたときのルターは、自分の中ばかり覗き込んでいました。そこに見えたのは、神の裁きのもとに立っている自分の姿でした。ルターはしかし、それが最大の過ちであることに気が付くのです。そうではなく、自分のために十字架にかかっているイエスを見なければならないことに、ルターははっきりと目覚めます。そして、そこに自分の救いがかかっていること、そこに自分の救いの確かさを見たのです。そして、今までの自分は、あたかもあのイエスの十字架がなかったかのように、長血の女性に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われたイエスの言葉がないかのように、そして、もっと言えば、イエスのよみがえりがなかったかのようにして、神の溢れるばかりの恵みがないかのようにして、不安におののいていたことに気付くのです。
イエスの十字架が自分の救いの確かな徴であることを悟ったルターは、あの不安から自由になりました。あの不安から自由になると、世の中がすっかり変わって見えて来ます。すべてがそれまでとは違って見えてきます。神の裁きのもとに立っていた世界が、神の恵みに包まれている世界として見えてきたのです。
「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです」とパウロは語っています。そして、「だから」とパウロは続けます、「だから、しっかりしなさい。奴隷のくびきに二度とつながれてはなりません」。また、15節には「兄弟たち、あなた方は、自由を得るために召し出されたのです」ともあります。
1520年、ルターは『キリスト者の自由』と題した小さな書物を出版します。ラテン語版もドイツ語版もありました。ドイツ語版は、ラテン語を理解しない一般民衆のために書かれたものです。今日では「自由」は人間の基本的な権利として当然のことと思われているのですが、人間の『次湯』を真正面から取り上げて論じた書物は、それまでありませんでした。少なくとも一般民衆の手に届くところにはありませんでした。ルターは、「キリスト者であることは自由であることだ」と語っています。しかし、その「自由」は、
自分の好き勝手なことができる、という意味ではありません。「自由」とは、罪や悪魔の虜になっている状態からの解放です。別な言い方をすれば、「神の像にならって創造された」人間の本来の姿を回復する、ということになります。
そうなった時に初めて、人間は「自らすすんで人に仕える」ことができるようになります。
 この『キリスト者の自由』の書き出しは次のようになっています。
 キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服さない。
 キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、だれにでも服する。

 ルターのように、キリストの恵による救いにあずかる人は、まさにこのような人になるべく召されているのです。「あなた方は、自由を得るために召し出されたのです」とパウロが語っているとおりです。 
2007/07/15(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「救い主を証しする道とは?」(ルカ9:18~26)
ルカ9:18-26、2007・07・08、聖霊降臨後第6主日(典礼色―緑―)
ゼカリヤ書12:7-10、ガラテヤの信徒への手紙3:23-29

ルカによる福音書9:18~26
 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」

 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。」



説教「救い主を証しする道とは?」(ルカ9:18~26)

本日の福音ルカ9:18-26は、質問の部分18-19節と信仰告白の部分、20-22節と、訓戒の部分、23-26節に分けられます。
 ルカは、マルコでは間にはさまっている多くの出来事を飛ばして、5000人の給食の記事の後にいきなり、本日の出来事、み言葉を記しています。それは、そんなに大きな奇跡を行われる方が、どんな方であり、どんな救い主であるかを、ルカは伝えたかったのだと思います。
 主イエスは、病気や悪霊や自然を支配するお方でありますが、それ以上に、人間の本性といいますか、人間の本質の秩序そのものをただそうとして来られた救い主であります。
 人々は、私のことを何と言っているかと、祈りの後に、弟子たちに尋ねる出来事が起こります。フィリポ・カイザリアでのことであったかどうかは、ルカは記しません。その場所や、時間を越えて、今もなお、「私はなにものであるか」と私たちに問われている方、それが、主イエスであります。人々は、ヨハネだとか、終わりの時に来るエリヤとか、昔の預言者だといっていると弟子たちは報告します。
 しかし、それでは、あなた方にとって、私は何なのかと、問われたのであり、今も問われているのであります。「神のメシア」ですと、ペトロは、正しい見方を示しました。私たちの罪をになう救い主であります。けれども、主イエスは、そのことをだれにも話してはならないと答えられたのであります。それは、政治的な救世主だと人々が誤解するからであります。今ではどうでしょうか。やはり、今も、私たちは、軽々しく主イエスをメシアだ、救う主だというべきではないのであります。魔法を使って、私たちを一気に幸せにするお方ではないのであります。それどころか、主はご自分がどんなメシアかを告白なさいます。人の子は、最高法院によって無価値と宣言され、多くの苦しみを受け、殺され、三日目に復活させられることになっている。そして、主のご受難のときペトロが三度も主を知らないといい、裏切ることになることも、既に神の摂理、配剤の中にありました。イザヤ書53章にあるように苦しむ僕として、主イエスはおいでになられた方であったのであります。
 主は、最後に、弟子たちを訓戒して言われます。私に従って来たい者は、自己を否定し、日々、自分の十字架をになって、私についてきなさいといわれるのであります。私たちは、自分の人間としては自然な、野心とか利害とか自己中心の利己的な愛から、それを否定して、主のように、私たちも各人の十字架を負わねばならないといわれるのです。それは、罪に死んで、復活の主と共に生きるためであります。
 たとえ、全世界を得ても、自分を滅ぼしたり、失わされては、何にもならないのであります。主イエスのために、命を、利己的な命を捨てる者は、永遠の命を主から受けるのであります。そして、主イエス御自身とその言葉を恥じる者は、終りの日に主が父と天使たちと共に栄光においてこられるとき、人の子、主イエスもその者を恥じるといわれます。私たちは、自己中心であることをなかなかやめることができません。しかし、日々、それに死んで、罪に死んで、主と共に生きることが、最も幸いであり、周りの人々にも、救い主を証しする道となるのであります。私たちは、どこにおいても自分が主人になりたいと望みがちです。しかし、相手に仕えることによって、また、隣人を助けることによって、本当の幸いな道、心の満たされた平安な道を歩むことができるのです。
主イエスのことを恥じず、その言葉を大切にしながら、終わりの時、裁きの日に、主イエスをまっすぐに仰ぎ見る証しの道、苦難の道、しかし、本当は最も平安で幸いな道を今週もこの場から、一週間歩んでいきましょう。
 
父なる神様、今朝もあなたのお言葉、主イエスのお言葉を聞く幸いを与えられ、有難うございます。どうか、しっかりと立って、主を証しする道を今週も新たに歩ませてください。キリストによって祈ります。

私たちの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。
 
2007/07/08(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「罪赦された者の応答」(ルカ7:36~50)
ルカ7:36-50、2007・07・01、聖霊降臨後第5主日(典礼色―緑―聖餐式あり)
サムエル記下11:26-12:13、ガラテヤの信徒への手紙2:11-21

ルカによる福音書7:36~50
 さて、ファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。イエスはお話になった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人は返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。


説教「罪赦された者の応答」(ルカ7:36~50)
 ルカ福音書は、特に罪人の悔い改めが強調され、また社会的に弱い者や貧しい人に福音が告げられるといった特徴が目立つ福音書であります。そして今日の個所は特にそのようなルカらしい内容をもった部分であります。本日の記事は、ルカだけが詳しく記している出来事や譬えを含んでいる記事であります。他の福音書にも、本日のルカの記事とよく似た出来事はありますが、本日のルカの記事は、ルカが独特な場合として記したものと考える方がふさわしいと思います。
 あるファリサイ派の人が、主イエスと食事を共にしたいと招いたので、主イエスはその人の家に入り食卓のまわりに、―あるいは長椅子があったかもしれませんー、当時の習慣に倣ってそこに体を横にして待っておられたようであります。「そして、見よ」と元の文では続いています、主イエスがその家に食事に招かれたことを聞いたその町のある罪深い女性、多分売春婦であったでありましょう、その女性が入ってきて、泣きながら涙を流し、主イエスの足をぬらし、今度は自分の長い頭の髪の毛で、足をふき、足に接吻をし、そして石膏の壺に入った香油を塗り始めたのであります。
 そのファリサイ派の人は、この人が預言者なら、この女が誰で、どんな種類の者か分かるはずだと心の中でつぶやいたのであります。主イエスはそれに気づき、言われます。「シモン、あなたに言いたいことがある。」シモンは答えます。「先生、おっしゃってください。」
 それで主は言われます。「ある金貸しがいて、一人の借り方は500デナリオン、―500万円くらいでしょうかー、そして、もうひとりの借り方は50デナリオン借りがあったが、返せなかったので、貸主は二人とも免除してやった。どちらがより多く、彼を愛するであろうか」と。シモンは、「より多く免除してもらった方だと思います」と答えます。もちろん、主イエスは「あなたは正しく判断した」と言われました。そして、シモンと罪深い女について語られるのであります。「あなたは、私が家に入ったとき、足を洗う水を私に与えなかったが、この女の人は、涙で私の足をぬらし、頭の髪の毛でふいてくれた。あなたは私にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は、私の足に香油をぬってくれた。あなたは私に歓迎の接吻をしてくれなかったが、この人は私の足に接吻してやめようとはしなかった。」そして、主イエスは、元の文を見ますと、こう言われるのであります。「この人の多くの罪は赦されている、その結果、彼女はより多く愛したのである。少なく赦された者は少なく愛するものだ」と。この部分は、以前の口語訳聖書では、「彼女は多く愛したので、その多くの罪は赦されているのである」というふうな訳になっていました。しかし、文脈からも、聖書、とくに新約聖書の考え方からも、新共同訳聖書の方がふさわしいのであります。
そして、さらに主は女の人に向かって「あなたの罪は赦された」と宣言します。同席していた食卓仲間の者たちは、罪をも赦すこの人は何者なのだろうと考えました。しかし、主は「あなたの信仰があなたを救った。平安へと出て行きなさい」と言って送り出されたのであります。
 この本日の記事を読みますときに、私は、私自身の洗礼に至った出来事を思い起こします。確かに、多くの罪が赦されることから、私たちの新しい生涯は始まるのであります。そして、そのことへの感謝が生まれ、主イエスを愛するという、罪赦されたことへの応答の生活が始まるのであります。しかし、私たちは、残念ながら、信仰生活に入れられましても、1週間の間にも、罪を繰り返して生きざるを得ない弱い面を持っています。
そこで、本日の主日の祈りにありましたように、罪に陥った時に、そこから立ち返るように、主に祈り求めるしかないのであります。聖餐式が本日は与えられています。主イエス・キリストの体とその尊い血によって、私たちの罪は赦されるのであります。ルターは、「大胆に罪を犯せ、しかし、それ以上に大胆に悔い改めよ」と言いました。私たちはその機会を主日ごとに与えられているのであります。
 既に、主によって私たちのどのような罪も赦されているのであります。そしてそれに応える形で、私たちは、愛と感謝の生き方を与えられ、神と人とを愛する生き方へと変えられているのであります。確かにそれぞれの1週間の間にも、しばしば、挫折し、罪を犯し、倒れる者ではありますが、そのつど、大胆に悔い改め、希望を失わず、立ち直らされて歩む者でありたいと思います。
 天の父なる神さま。
 この過ぎ去りました1週間にも、さまざまなことがありました。弱り果て、絶望したこともあります。しかし、あなたは、私たちのすべてをご存知で、罪を赦してくださり、私たちは、毎週、み言葉を与えられて立ち上がり、平安のうちに、あなたの見守りのうちに再び出て行くことができますことを感謝いたします。どうかこの1週間もあなたが導いてください。キリストによって祈ります。アーメン。
 わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。

 
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