津田沼教会 牧師のメッセージ
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「死を滅ぼす生命の主」(ルカ7:11~17)
ルカ7:11-17、2007・06・24、聖霊降臨後第4主日(典礼色ー緑―)
列王記上17:17-24、ガラテヤの信徒への手紙1:11-24

ルカによる福音書7:11~17
 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。

説教「死を滅ぼす生命の主」(ルカ7:11~17)
 本日、聖霊降臨後第4主日に与えられました福音書の個所は、先週に続くルカ7:11-17であります。カファルナウムでの先週の百人隊長の信仰についての記事から、本日の出来事は、その後しばらくして、起こったことには、主イエスはナインと呼ばれる町へと進まれた、そして彼の弟子たちも、そしてまた、大勢の群衆もそうしたのであります。すると、ちょうど町の門、一個所であったかもしれませんそこに、あるやもめの一人息子が死んで、運ばれつつあり、やもめが喪主として先頭になって、遺体が続き、町の大勢の者が、泣き女なども一緒でしたでしょう、主イエスの一行と向かい合って次第に迫ってくるのであります。主イエスは、そのやもめの上に、はらわたがうずき、言われるのであります。「もう泣かなくともよい」と。
私たちは、他人の死と遺族の悲しみに対して、主イエスのように、同じ立場に立って、はらわたがうずき、共感するということは、ほとんど不可能のように思います。このやもめと同じところにまで降りて来て、その窮境を本人と同じ思いで憐れむということは、残念ながらできないのであります。この「憐れに思う」という言葉は、主イエスとそのなさった譬え話における人物、たとえば、よきサマリヤ人の譬えや放蕩息子の父親などのような場合においてのみ用いられる、内臓が痛むという意味から来ている言葉であります。いわば、神にのみ用いられている言葉と言えましょう。
 さて、主は、近づいて行かれ、棺に触れられ、―この棺は、遺体を運ぶ担架のようなものであったでしょう、―すると、運んでいる者たちも当然止まったのであります。そして、「若者よ、私はあなたに言う、起き上がりなさい」と一言、命じられるのであります。死んだ人が生き返る出来事は、今日の第一朗読の列王記上17章にも出てきます。エリヤは、やもめの一人息子が死んだ時、その子のうえに身を三度重ねるようにして、主なる神に、この子を命へと戻してくださいと祈ると、その子は生き返ったのであります。しかし、主は、明瞭に一言、「若者よ、あなたに言う、起きなさい」と命じただけで、その息子は起き上がり、ものを言い始め、主は彼を彼女にお与えになった、お返しになったのであります。
 私たちは、死者が生き返るということは、ありえないと知っています。しかし、4つの福音書はすべて、死者の生き返りについて、記しています。このナインの息子と、ヤイロの娘と、ラザロの死からの起き上がりであります。これは、私たちが信じている復活ということとは異なる蘇生、生き返りであります。
死んだ者が生き返るということはありえない。しかし、福音書はいずれもそのことが起こったことを伝えているのであります。そして、それに対する反応はどうであったかというと、これに直面したすべての者たち、弟子たち、ついてきた群衆、ナインの町からの群衆、すべての者を、恐れが捕らえたというのであります。そして、この出来事に出会った人々は、神の栄光をたたえて、言うのであります。「大預言者が我々のうちに起こされた」また「神はその民を訪れた」と。そして、彼についてのこの言葉、この話は、全ユダヤとその周辺地方全体において出て行ったというのであります。
私たちは、悲しいことでありますが、死をいつかは迎えねばなりません。本日の若者もその後、いつかまた、年老いて、あるいは病気などで死を迎えたことでありましょう。しかし、主は、死という私たちを悲しみのとりこにするものを滅ぼして、私たちをその束縛から既にこの時から、解き放ってくださっているのであります。
そして、このことの意味は、肉体的には生きていても私たちをしばしばがんじがらめにする罪の闇からも既に解き放ってくださっており、その神の力、主イエスの力によって私たちは新しい命を生きることを可能にされているのであります。そのことを覚えつつ、私たちは、私たちに与えられている二度と来ないこの地上の生命を、日ごとに犯す罪を大胆に悔い改めつつ、本日の命の主イエスと共に幸いに歩みたいものであります。アーメン。望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。
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2007/06/24(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「ただ、お言葉をください」(ルカ7:1~10)
ルカ7:1-10、2007・06・17、聖霊降臨後第3主日(典礼色―緑―)
列王記上8:41-43、ガラテヤの信徒への手紙1:1-10

ルカによる福音書7:1~10
 イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。



説教「ただ、お言葉をください」(ルカ7:1~10)

聖霊降臨後の季節となり、教会暦で用いられる色が緑となる時期を迎えています。先週の福音書の個所でありました平地の説教の終りの部分を終えて、本日はルカ7:1-10が与えられています。そして次週はそれに続く7:11-17の部分となっています。本日の記事は、危篤の状態になっている百人隊長のある部下にかかわる出来事でありますし、次週は、あるやもめの一人息子の死にかかわる出来事であります。偶然かもしれませんが、死という人間にとって避けることのできない出来事として、二つの記事はここにまとめられているのかもしれません。本日の福音の出来事についてしばらくご一緒に考えてみたいと思います。
主は、平地での説教を、先週の福音の記事として読まれましたところまで語られたのであります。そして、彼のすべての言葉を民衆の耳へと満たした後に、カファルナウムへとやって来られたのであります。ここに一人の百人隊長がいて、彼にとっては尊い部下、兵士である奴隷がいましたが、この部下は重い病気でまさに死にかかっていました。この百人隊長は、異邦人であり、ヘロデ・アンティパスの傭兵として、警備や関税の仕事にかかわっていた軍人であったかもしれません。彼は、主イエスがやって来られたことを聞くと、ユダヤ人の長老たち、民間の指導者たちを主イエスのもとに送って、この部下を、やって来て救ってくださいと嘆願するのであります。長老たちはこう言います。「この人は、あなたがやって行かれるだけの価値のある人です。なぜなら、私たちのこの民に好意を示し、彼自ら私たちに会堂を建ててくれたからです」と。百人隊長は、新約聖書ではいずれも好意的に描かれています。同じくルカの第2巻の著作である使徒言行録に出てくる初めてペトロたちから洗礼を受けることになるコルネリウスという神を畏れる百人隊長と本日出てくる百人隊長は、ルカの頭の中では重なり合って考えられているようであります。この百人隊長も、ユダヤ人の神を畏れる敬虔な人物で、ユダヤ教に改宗する一歩手前の人物であったとも考えることができます。主イエスは、彼らと共に百人隊長の家に向かって出て行かれます。ところが、その家から既に遠くないところまで、主イエスが来ておられたときに、彼は、今度は自分の友人たちを遣わしてこう言わせるのであります。「主よ、ご自身をお煩わせになりませんように。むしろ、言葉でもって言ってください。そして、私のしもべをして癒さしめよ。なぜならば、私も権威の下に置かれている人間ですが、兵士たちを持っており、一人に『お前は進め』というと彼は進み、また一人に、『お前はやって来い』というと彼は来ます。また、部下に『これこれをせよ』というと彼はそうするからです。」
 主は彼に驚かれ、「言っておくが、私はこのイスラエルの中でもこれほどの信仰を見たことがない」と言われたのであります。そして、やって来た者たちが引き返すと、その部下が健康な状態になっているのを見出したというのであります。
この百人隊長は、「自分のような上官の権威の下にある人間でも、自分の権威の下にある者には、自分の言葉によって、部下を思うように動かすことができる。ましてや、人間のいかなる権威の下にもない主イエスであれば、遠く離れていても、そのお言葉で私の危篤にある愛する部下を救うことがおできになる」と信じ、また、「自分は、異邦人として、主イエスを自分の家の中にお招きするのにはふさわしくない」と謙遜に考えたのであります。
ルカは、特に異邦人であったが、キリスト教徒になった人々に向けてその福音書を、また、使徒言行録を書いています。それは、ユダヤ人以外の今の大多数のキリスト者に向けて、書かかれているのであります。私たちはその生前の主イエスと、直接にお会いすることはもはやできません。しかし、主イエスの語られたお言葉を、本日の百人隊長のように、自らを低くして、固い信仰を持って信じることはできるのであります。2000年ほども前の主イエスのお言葉を、私たちは、今も救いと癒す力があるお言葉として受け取ることができるのであります。そして、主イエスなきあとの使徒たちも、パウロをはじめ、手紙という形で聖霊の導きによりながら、神の「言葉」を伝えることによって、救い主イエスの使信と福音を地の果てまで伝えたのであります。私たちは、主イエスに直に会わなくても、主イエスの言葉を通して、主を見ないで信じることができるのであります。そして、主イエスのお言葉は、死と闇と罪とに、打ち勝つことができる力を備えており、遠く時間的にも、地理的にも離れた私たちを今も救い、癒すことができるのであります。私たちも、本日の百人隊長と共に、「主よ、ただお言葉をください」と求め、救いと癒しと平安を与えられる道を歩んでいきたいものであります。祈りましょう。
父なる神さま。私たちは、しばしば、罪に陥りますが、あなたのお言葉によって立ち直らせてください。そして、元気に平安のうちに、これからの1週間をみ子のお言葉をいただいて、それぞれを歩ませてください。キリストによって。
人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2007/06/17(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「キリストという基礎の上に」(ルカ6:37~49)
ルカ6:37-49、聖霊降臨後第2主日(典礼色―緑―)
エレミヤ書7:1-7、コリントの信徒への手紙一15:12-20

ルカによる福音書6:37~49
 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。
そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」

 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」

 「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」


説教「キリストという基礎の上に」(ルカ6:37~49)
先週までで、聖霊降臨祭と三位一体主日が終わって、本日から聖霊降臨後の季節に入り、再び、ルカ福音書が中心になって読まれていきます。今朝、与えられています福音の個所は、ルカ6:37-49であります。平地での説教の終りの部分であります。主イエスの言葉を聞いて、それを行う人と、聞くだけで行わない人との譬えが、結びの部分となっています。
私たちは、この礼拝に集まるほとんどの方は既に洗礼をお受けになったキリスト者でありますけれども、主イエスの言葉を常に完全に守ることのできる人は、いないのであります。私たちは、しばしば、倒れそうになり、否、実際倒れることもありますが、主イエスの言葉に何とかして生涯従っていこうと洗礼を受けた者であります。本日与えられましたその私たちが守るべき主イエスのお言葉を、もう一度思い起こしてみましょう。
主は、言われます。「あなた方は裁いてはならない、そうすれば、裁かれることはないであろう。あなた方は、人に有罪性を見出すな、そうすれば、あなたがたも自分たちの有罪性を見出されないであろう。あなた方は赦しなさい、そうすればあなた方も赦されるであろう。あなた方は与えなさい、そうすれば、あなた方は与えられるであろう。押し下げられ、揺れている、また、あふれている良い秤で、人々はあなた方の懐に入れてくれるであろう。なぜならば、あなた方の量る秤で、あなた方も量り返されるであろうから」と。裁きや報復は、神の専権事項であるからであります。
それから、主は続けて、譬えを言われます。「盲人が盲人を案内することができるであろうか。二人とも穴に落ち込むのではないか。弟子は先生以上の者ではない。しかし、訓練し、備えが十分にできれば、弟子も師のようになれるであろう」と言われるのであります。私たちは、キリストと同じような欠点のない、過ちのない者にはなれませんが、キリストに似たような者にはなれると、主イエスは言われます。絶えず、私たちの身の回りや、仕事や、日常生活を整えていくことにより、改善し、自己を改革し、変革していくことはできると主は約束してくださっています。
それから、「自分の目に、梁がひっかかっているのに、兄弟の目にあるおが屑、あるいは、小さなごみを取らせてくださいということができるのか」と主は問われます。まず、自分の目にある梁、丸太を取り出せ、そうすれば、よく見えるようになって、兄弟の目のごみをも取ることができるようになろうと言われます。他人の欠点や落ち度は気がつきやすいものです。しかし、自分の中にある欠点や瑕疵をまず、自己改革し、取り除いていくように努力することが先になされねばなりません。
それから、主は譬えを続けられます。「なぜならば、良い木が無価値な実をもたらすことはないし、悪い木が、良い実をもたらすこともないからである」と言われます。「バラからいちじくは採れないし、茨からぶどうをもぎとることもない」と言われ、私たちがどういう人間であるかはその実、その行いから窺い知ることができると言われます。
そして、結びに入り、「主よ、主よと言って、どうして私の言うことを行わないのか」と、言われます。私たち、全キリスト者に向けて、主は今も同じように問われているのです。そして、「私のところに来て、聞いて、行う人はどんな人に似ているかを見せよう」と言われます。「それは、地面を掘り、深く進んで、岩の上に基礎を置いた人に似ていると言われます。洪水が起きて、川が起こり、その家に襲い掛かったが、その家はよく建てられていることのゆえに、川もその家を揺るがすことができなかった」というのであります。
また、続けて言われます。「私のところに来てただ聞くだけで、私の言葉を行わない人は次の人に似ている。その人は土の上に基礎もなしに家を建てた。そして、川が起こって襲いかかると、たちまち、一緒になって重なり倒れた。そしてその破壊、崩壊は大きかったのである」というのです。
私たちは、終りの日に神さまの前に立たされる時、主イエスの言葉にどこまでも従い、とどまり続けたか、それとも、主のお言葉を行うことを軽んじて守らなかったかが問われるのであります。主のお言葉にとどまり続けることが、たとえ、時には倒れることがあっても、すぐに立ち返って、従っていくことが、求められています。毎日の生活の中で、主のお言葉を思い起こし、和解を心がけ、人を裁かず、主にすべてをゆだねて歩む生涯をここから、ご一緒に歩んでいきましょう。
一言祈ります。
天の父なる神様。
私たちは、聖霊降臨後の季節を迎えました。ルカによる福音書と共に、これからの教会暦の後半を歩むことができる幸いを感謝します。他人の落ち度や欠点はすぐに目に付きやすく、自分の問題点の改革を後回しにして、隣人を批判することに目が向きがちですが、み子の言われる言葉を守り、行うことは、まことの幸いであり、永遠の命に向かう道です。どうか、私たちを和解させ、共々にまずは自分自身の生活を改革していく道を歩ませてください。そして、病気や試練、困難を一人一人が乗り越えて、あなたと向かい合って、ついにはあなたを仰ぎ見る日を来たらせてください。キリストによって祈ります。
平和と信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。
アーメン。

2007/06/10(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「聖霊が導く教会」(ヨハネ16:12~15)
ヨハネ16:12-15、2007・06・03、三位一体主日(典礼色―白―聖餐式あり)
イザヤ書6:1-8、ローマの信徒への手紙8:1-13

ヨハネによる福音書16:12~15
 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」



説教「聖霊が導く教会」(ヨハネ16:12~15)

 先週は、聖霊降臨祭においては、本日の福音書の朗読のすぐ前のヨハネ16:4b-11が与えられていました。弁護者、パラクレートスがご自分の出発することによって、あなた方のもとに到来し、この世界を、罪について、義について、裁きについてあばくであろうと主イエスは啓示の言葉をお与えになられたのであります。それに続く本日の個所は、今度は、弟子たちの共同体である教会において、すなわち、そのメンバーである私たちのために、パラクレートス、そばで叫ぶという意味の動詞から来た名詞の言葉ですが、その弁護者、すなわち聖霊というものがどのように働かれるかを、主が訣別説教において語られている部分であります。
 1週間の間にも、私たちは様々な経験、心の葛藤、試練や困難にぶつかります。このような中で、しかし、聖霊は私たちを導き、また、1週間後の礼拝へと毎週守られている特に主日礼拝へと私たちをもたらしてくださっているのであります。本日は、聖卓などで用いる典礼色は、先週の聖霊を表す赤から、神を表す白になっています。本日も、先週に引き続いて、三位一体主日という特別な日曜日であります。私たちの礼拝は、父と子と聖霊のみ名によって始まり、また、礼拝の終りも、父と子と聖霊のみ名によって閉じられ、1週間のそれぞれの生活の場へと派遣されていくのでありますが、改めて私たちの信じているその三位一体の神、特に、中では最も分かりにくい聖霊なる神について、本朝は、ご一緒に考えてみましょう。
 弁護者、パラクレートスは、教会の外に対しては、この世界をあばくという働きをするのに対して、私たち、教会の者、信者一人一人に対してはどのような働きを担っておられるのかが、本日の福音の記事で示されているのであります。そのみ言葉について、もう一度、思い起こしてみましょう。主は、先週の福音の言葉に続けて言われます。「なお、多くの語るべきことどもを私は持っているが、あなた方は今はそれに耐えることができない。しかし、その方がやってくるとき、すなわち、真理の霊は、あなたがたをあらゆる真理において導き、案内するであろう」と主は約束されます。聖霊、弁護者は、まことの命の道へと私たちを案内してくださるお方であります。真理の道において、あるいは真理の領域において私たちを導き、あらゆる真理を悟らせるというのであります。それは、道徳的な行為に限らず、教会が、今置かれている状況の中で、進むべき道を真理の霊、聖霊が教えてくれるのであります。「なぜならば、その方、聖霊は、自分からは語らず、聞くであろうすべてのことをそのままに宣言し、やって来ることども、これから起こることどもを、あなたがたに告げ、知らせ、明らかにするであろうから」と言われます。主イエスが、自分からは語らず、すべて父から受けてその通りに語った、また、行われたのと同じであります。聖霊は、主イエスのことを明らかにし、彼がただの良い人とか半神半人のような存在であるというのではなくて、神の独り子であることを教えるのであります。私たちの信じる神は、父なる神であり、同時に子なる神であり、そしてまた、同時に聖霊なる神であるということは、永遠の秘儀、奥義でありましょう。私たちの理性ではどうしても分からないことであります。
さて、聖霊は「これから、起こること、やって来る事どもをあなたがたに告げる」とはどういうことでありましょうか。それは、主イエスが十字架に死に、復活するというその時、起きようとしていた出来事をさすのにとどまらず、現在の私たち、教会に起ころうとしている状況に対しても、聖霊は、私たちに明らかにしてくれるであろうということまでも含む言葉であります。
 そして、「その方は、私に栄光を与えるであろう、なぜならば、その方は、私から受け取ってあなた方に告げる、知らせるからである」と、言われ、父が持っているすべてのものどもは、私のものどもであり、それゆえに、私はその方は私のものを受けてあなた方に告げるであろうからと言ったのである、とおっしゃられるのであります。
 ニケア信条で私たちは今日も、「主であって、いのちを与える聖霊を私は信じます。聖霊は父と子から出て、父と子と共に礼拝され、あがめられます」と信仰告白します。聖霊は教会を通して、私たちを通して働かれ、今もなお、私たちを、あらゆる真理の道において、また真理の領域において、案内し、導いてくださっています。
 知恵文学の知恵や、詩編において、神の霊が、まことの命へと、豊かな幸福へと私たちを導くといった表現が出てきますが、真理の霊は、三位一体の神の1位格であります。主イエスがそのことを明らかにし、啓示してくださいました。聖霊があれから、2000年近くたった今も、あらゆる真理において導いてくださっていることを、思い起こしながら、この場所から新たな1週間の歩みへと励まされて出て行きましょう。
祈ります。
 この1週間も、わが身を振り返れば、多くの困難や試練のときがありました。しかし、あなたは、教会を通して、私たち一人ひとりを聖霊によってあらゆる真理の道へと歩ませてくださっています。私たちに日々正しい歩むべき道を告げてくれるのは、真理のみ霊を他にしてありません。あたう限り聖書を開きつつ、どのような困難な時にも、逆に順調な時にも真理の道を歩ませてください。キリストによって祈ります。

私たちのうちに働く御力によって、私たちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのできる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって栄光が世々限りなくありますように。アーメン。
2007/06/03(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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