津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主イエスの出発による聖霊の到来」(ヨハネ16:4b~11)
ヨハネ16:4b-11、2007・05・27、聖霊降臨祭(典礼色―赤―)
創世記11:1-9、使徒言行録2:1-21
 
ヨハネによる福音書16:4b~21
 「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。今わたしは、わたしがお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこに行くのか』と尋ねない。むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。しかし、実を言うと、わたしが去っていくのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。



説教「主イエスの出発と聖霊の到来」(ヨハネ16:4b~11)

 本日はペンテコステの主日を迎えています。クリスマス、そして、復活祭(イースター)と共に、この聖霊降臨祭は、キリスト教の三大祝日になっています。今日の聖書の朗読は、旧約聖書は、創世記のバベルの塔の出来事が読まれ、人々が神のようになろうとして天にまで届くほどの高い塔を建て始めたので、彼らの言葉を混乱させて、お互いに言葉が通じ合わなくされたことが読まれました。また、使徒言行録からは、主の復活から50日目に五旬祭の時に赤い舌のような形をした聖霊が祈っていた弟子たちのそれぞれの頭の上にくだり、地中海世界から戻っていたユダヤ人たちに、それぞれの生まれ故郷の言葉で弟子たちが神の言葉を預言し、また、ペトロが大胆に神の救いの実現を、旧約聖書から説教する場面が読まれました。そして、本日の福音は、ヨハネ16:4b-11が与えられています。この教会が誕生したといわれる祝いの日に、この福音が与えられている意味についてご一緒にしばらく考えてみましょう。
 主は、それらのことをあなた方に言わなかったのは、あなた方とずっと共にいたからであると本日のお言葉を始めています。主イエスが共にいてくださる間は、弟子たちは、何も心配する必要はありませんでした。しかし、主イエスが出発するという時が間近に迫っています。主は言われます。私は、私を送ってくださった方のもとへ出て行こうとしているのにあなた方はだれも「どこに行かれるのですか」と問う者もなく、かえって、悲しみがあなた方の心を満たしている。しかし、私が去っていくのは、あなた方の益になる、なぜならば、私が去っていかない限り、弁護者、パラクレートスと言いますが、その方は来ないからである。私が進んでいくなら、私は、彼をあなた方に向かって送ろう、と言われるのであります。パラクレートスというのは、そばで呼ぶというパラクレオーから来ている言葉で、弁護士やあるいは検察官というような意味もあり、法廷で代わって代弁する者といった意味もありますが、もっと親しい存在として、親切な助け手、慰め主、助け主と訳されることもあります。イエスが父のもとへ返ると、自分に代わって主イエスの言葉と働きを延長する方として来られる聖霊のことであり、それは、教会を通して、教会のメンバーを通して働かれるのであります。
 そして、主は、彼パラクレートスはこの世界をあばく、明るみに出すと言われるのであります。何についてかといえば、罪について、義について、裁きについて指摘し、暴露するというのであります。そしてその内容についてこう言われます。罪についてとは、彼らが私へと信じないことである、あるいは、これは、彼らが私へと信じないからであるとも訳せます。罪とは何か悪いことをするとかいうことではなくて、主イエスを信じないでいること、その拒否、不信仰そのものが罪なのであります。これは、イエスの当時のユダヤ人が信じなかったことのみでなく、今も信じないでいる人々について、イエスへの不信仰こそが罪であると言われるのであります。それから、主は続けられます。義についてとは、私が父のもとに出て行き、あなたたちがもはや私を見ないことである、あるいは見ないからであるとも訳せます。主イエスは死に至るまで、十字架の死に至るまで父のご意志に最後まで従順でありました、そして、弟子たちはもはや、主が死に、天に上げられて、見なくなるのでありますが、このことによって、神の義が、あるいは主イエスの正しさが実現するのであります。そして、さらに最後に言われます。裁きについてとは、まさにこの世界の長、支配者、すなわちサタンが既に裁かれていることであり、あるいは裁かれているからであると言われるのであります。弁護者、聖霊は、このような働きを、教会を通して今も、主イエスに代わってなされているのであります。
 私たちは、この弁護者について知らされています。ですから、悲しみが、私たちが主イエスを見ないことによって、私たちの心を満たすのではなく、どんな困難な時にあっても、困窮の時にあっても、それにうちひしがれることなく、弁護者によって励まされ、力づけられて、使徒たちと同じように私たちも、主イエスのお言葉とお働きとを宣べ伝えることができるのであります。私たちの身の回りにおられる日本人の多くの方々は、主イエスのことを救い主だということを知らされていません。習志野の市民の方々について言えば、昨日は市役所で、健康診断を受けてきましたが、市役所の職員の方々も、市民の方々もたいていは良心的であり、聖書の神さまを知らなくても、み心に適った生活をすればそれでもいいのではないかとも思いました。しかし、私たちの出会うあらゆる人々に、この神の救いの計画を知らせ、二度と来ない人生を、主イエスと共に、また、神と共に、また教会を通して、今も働いている弁護者、聖霊とともに歩む人生のすばらしさを、共々に、すべての人たちに伝えたいものであります。なぜならば、神から離れた、神を信仰しないこの世界はやはりそのままでは、罪に満ちているからであります。祈りましょう。
 父なる神さま。
 本日は、ペンテコステの礼拝を与えられ、有難うございます。今日は、主イエスが約束された弁護者が弟子たちに与えられ、教会が出発した日を覚えています。聖霊が今も力強く働いて、私たちの教会を導いてくださっています。人々を主イエスの言葉と働きへと招くことができるようにこの津田沼教会をも顧みてください。特に私たちの家族と友人たちを導いてください。この祝いの日を感謝し、聖霊が共におられる聖餐をも祝福してください。キリストによって祈ります。

望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン。

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2007/05/27(日) 19:26:10| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主の祝福が全世界に」(ルカ24:44~53)内海望牧師
ルカ24:44-53、2007・05・20、昇天主日
使徒言行録1:1-11、エフェソの信徒への手紙1:15-23

ルカによる福音書24:44~53
 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。



 説教「主の祝福が全世界に」(ルカ24:44~53)内海望牧師

 今日は昇天主日です。復活されたイエスさまは弟子たちの間に現れ、ご自分が復活し、生きておられることをお示しになられました。そして、40日目に天に上げられたのです。そのことを記念する主日です。
 それにしても、今日の福音書は読むたびに心暖まる箇所です。イエスさまは「手を上げて祝福された。そして祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」とルカはイエスさまの昇天の姿を描いています。一瞬一瞬ごとにイエスさまによって祝福される空間が広がり、ついには全世界を祝福が覆うのです。しかも、「祝福しながら」という現在形が示すように祝福は一度限りでなく、今も全世界に降り注がれているのです。もはやこの世界に暗い影はありません。全世界がイエスさまの祝福の下にあるのです。新しい創造と言ってもよいでしょう。神さまの愛から除外される異邦人という概念はなくなりました。従って、私たちも(東方の異邦人?)この祝福に与っているのです。
 シメオンはみどり児イエスをしっかりと腕に抱き、「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす光だ」と歌っています(ヌンク ディミティス ルカ2章)。
 それにしても、イエスさまは弟子たちから離れてしまったのに、何故弟子たちは喜んでいるのでしょうか。それは、復活のイエスさまの昇天によって、天と地が再びしっかりと結び合わされたことを確信したからです。弟子たちは、イエスさまが祝福しながら天に上げられる姿を見て、この世界が見捨てられた世界ではなく祝福された世界として再びよみがえったことを知り、喜んでいるのです。これが昇天主日の喜びです。弟子たちは「大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神さまを讃美していた」と聖書は語ります。
 しかし、このように私たち人間が新しく祝福を受けて喜ぶことが出来るのは、イエスさまの十字架の死という痛ましい出来事が必要であったことを忘れてはいけません。
 私たちは、毎週きまって「思いと、言葉と行いによって罪を犯しました」と告白せざるを得ない人間です。このままの姿では決して祝福に与ることは出来ません。滅ぶべき私なのです。
 倫理的想像力という言葉があります(大江健三郎)。現代社会は想像力を欠いています。まして、倫理的な想像力など誰も気に留めないかのようです。私たちは私たちの「思いと、言葉と、行い」をこの倫理的想像力のもとでしっかりと見据える必要があります。その時、私たちの告白は本物になるのです。
 神さまは、人間の罪を決して見過ごしにはなさいません。一点一画もおろそかになさいません。私たちは、神さまの前では首うなだれるしかないのです。
 ところが、「正義の神」は同時に、「愛の神」であり、何とか私たちを滅びから救い出したいと願っていらっしゃいました。そして、こともあろうに「ひとり子イエスさま」をこの世に遣わして下さったのです。愛の非常手段と呼ぶことが出来るでしょう。イエスさまは神と等しい身分を捨て、私たち罪人に寄り添ってくださいました。そして、僕として、私たちを「下から支えて」下さったのです。
 「下から」とはどういうことでしょうか。
 イエスさまは十字架上で、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか」という叫び(あるいは祈り)を神さまに向かってぶつけられました。この叫びは、「すべての望みを奪い取られた者の叫び」であり、どん底に落ちた者の悲痛な祈りです。私たちにもこのような苦い経験があります。イエスさまは同じ祈りあるいは叫びを経験した方として、私たちを「上から手を伸ばして」ではなく、一緒に泥まみれになりながら「下から」支えて下さったのです。それがこの祈りに凝縮しています。
 十字架上のイエスさまのみ言葉で忘れ得ない祈りがもう一つあります。それは、「父よ、彼らをお赦し下さい」という祈りです。イエスさまは、私たちと共に泥まみれになりながら、この執り成しの祈りを祈り続けてくださいました。この祈りによって、私たち罪人は赦され、新しい祝福を受ける者とされたのです。ヨハネ福音書によると、イエスさまの十字架の苦しみと祈りと死によってイエスさまによる救いの業は「成し遂げられた」(19章30節)のです。イエスさまの苦しみと死と復活によって、この世界は洗い清められ、罪赦された世界として新しい命を与えられたのです。
 私たちは、かくも「高価な恵み」によって救われたのです。私たちが罪赦され、永遠の命を与えられたのは、イエスさまの苦難と死によってであるということを心に刻み込んでおきたいと思います。
 さて、弟子たちは、このイエスさまの死と復活、昇天の出来事を通して再び立ち上がることが出来ました。イエスさまは、弟子たちをこの出来事の承認として用いようとされます。イエスさまは、弱い私たちに聖霊によって力を与えてくださるのです(使徒言行録1章8節)。
 弟子たちは、ペンテコステの朝、この聖霊の力に励まされて大胆に語り始めました。私をも恐れず、イエスさまの十字架と復活によってこの世界に再び祝福が与えられたことを伝えました。このことによって、世界に再び希望がもたらされました。このようにして、教会は世界の希望となったのです。私たちも聖霊の力をかりて、福音の証人として新しく生きましょう。

2007/05/20(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「天の父のもとへの出発と約束」(ヨハネ14:23~29)
ヨハネ14:23-29、2007・05・13、復活後第5主日(典礼色―白―)
使徒言行録14:8-18、ヨハネの黙示録21:22-27

ヨハネによる福音書14:23~29
 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。


 説教「天の父のもとへの出発と約束」(ヨハネ14:23~29)

本日は、復活後第5主日であり、今週の5月17日が昇天日であり、次週の5月20日(木)が昇天主日となり、5月27日(日)の聖霊降臨祭の前日までが、残された復活節であります。 私は本日の説教題を「天の父のもとへの出発と約束」とつけておきました。ヨハネ14章から17章までを大きく主イエスのなされた告別説教と見ることができます。本日のヨハネ14:23-29は、その一節であります。この個所のすぐ前の14:22では、イスカリオテではない方のユダ、―おそらくルカ福音書(6:16)のヤコブの子ユダと出てきます人物が質問します。それに対して、主イエスがお答えになるという形式で書かれています。
ヨハネ福音書は、他の福音書に比べて、主イエスとの対話が、ニコデモとの対話に見られるように、たくさん見られます。今日の福音個所もその形にのっとっています。すなわち、このユダは、ご自分のことを、弟子たちにはあらわそうとなさるのに、世にはそうなさらないのはなぜですかと聞くのであります。しかし、本日の福音個所で主が語っておられることは、直接そうする理由を、主がお答えになっているというわけではありません。さて、本日の個所は、最初の14:23-24と残りの14:25-29に分けることができます。前段では、主はこうお語りになります。「私を愛するものは、私の言葉どもを守り、そして、父もその人を愛するであろう。そして、その人のところへ、私と父はそばに行って、一緒にとどまり、その人のもとで共に住むといわれます。私を愛さないものは、私の言葉どもを守らない。あなた方が聞いている言葉は、私のものではなく、私を送ってくださった父の言葉である」と言われます。主イエスは、この世界のすべての人とためにお出でになられましたが、主のことば、父の言葉を愛するかどうか、それに忠実であるかどうかで、救われるか、裁かれるかに人間は二分されるのであります。 
さて、後半は、それらのことばを、あなたがたとともにいるときに、語ったが、別の弁護者、すなわち、父が私の名においてお送りになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が語ったすべてのことをあなた方に思い起こさせるであろうと、主は言われます。  
「弁護者」というのは、以前の聖書では、「慰め主」と訳されていました。「パラクレーシス」という言葉ですが、これは、パラクレオーという「そばに立って呼ぶ・叫ぶ」、すなわち私たちのために励まし、慰めるという意味を含んでいます。あとで、主は、父はご自分より偉大な方だからであると出てきますので、本日の部分は、三位一体論争の一つの論争の争点ともされたことがあります。み子が父と共に天から送られる聖霊についてであります。しかし、父とみ子が共に、聖霊を通して、私たちを教え、主イエスの語った言葉を想起させ、私たちを慰め、励ます働きをなされるのであります。
聖霊を通して、主イエスが天の父へと帰還された後も、いや、天の父へと主が出発なさるがゆえに、その結果、神によってしか与えられない平和をもたらされるのであります。人間が与えることのできない平和を、まったき幸福を聖霊を通して与えられるのであります。主は、死と葬られる前に弟子たちに、復活を通して与えられる聖霊、弁護者、慰め主、励まし手を私たちにも約束され、今も聖霊が私たちに主イエスの言葉を教え、思い起こさせ、世の与えることのできない平和を残され、与えてくださっているのであります。主の死と葬り、復活、昇天の出来事は主の父のもとへの出発であり、この栄光の出来事を通して、私たちにまことの平和を与え、励ますのであります。
人知では到底測り知ることのできない平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2007/05/13(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主のご復活に伴う新しい掟」(ヨハネ13:31~35)
ヨハネ13:31-35、復活後第4主日(典礼色―白―)
使徒言行録13:44-52、ヨハネの黙示録21:1-5

ヨハネによる福音書13:31~35
 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」



説教「主のご復活に伴う新しい掟」(ヨハネ13:31~35)
復活節ももう後半に入っています。今は、一年でも一番、嬉しい、新しい命を生きる復活の喜びの時でありますが、なかなか、それに体がついていかず、自分自身に対するじれったさも感じる復活節を、私は歩んでいます。ゴールデンウィークが終わりましたが、皆さん、如何お過ごしでしたでしょうか。楽しい家族の団欒のときが持てた方もおられるでしょう。私も少ない身内で集まりまして、その意味では楽しいひと時を与えられました。
さて、今日は、み言葉の歌として、アメリカ人の作曲した讃美歌でしょうか、教会讃美歌104番の調子のいい賛美歌を歌いました。しかし、復活節の喜びの歌としては、どこか体がそれについていけない、自分自身があります。けれども、主の十字架とそのあとのご復活の出来事とは、そのようなあらゆる種類の人間の迷いや、欠陥をも払いのける力があるに違いありません。そのような出来事が既に2000年近く前に起こっているのであります。
 ここのところ、数回、主日に与えられていますヨハネ福音書からしばらくご一緒に、福音を聞いていきたいと思います。
 さて、もとの文、原文では、本日の記事は「彼が出て行くとイエスはお語りになる」と始まっています。もちろん、ユダが主を裏切るために出て行った時のことであります。主は言われます。「今、人の子は栄光を受けた、そして神も、彼において、すなわち、人の子において栄光をお受けになった。もし、神が、彼において、すなわち、彼によって栄光をお受けになったのなら、神も彼に、彼において、すなわち、御自分によって、栄光をお与えになるであろう、そしてすぐに、彼は彼に栄光を与えるであろう」とまず、語られたのであります。人の子とは、もちろん、御自身のことを、指して言っておられるのであります。
 今、主が裏切られ、死に渡され、十字架につけられようとしている。この十字架の死が迫るこのときにおいて、既に、主イエスと神はお互いによって、栄光をお受けになるといわれるのであります。栄光を受けるとは、何を意味しているのか、我々日本人にはわかりにくい表現であります。学者の中にも、これは、この後与えられたであろう聖餐式の設定が意味されていると解釈した人もいます。しかし、ヨハネ福音書記事には、直接には、聖餐の設定辞は出てきませんので、もっと別の意味であろうと思います。栄光とは、主のご復活、さらには、昇天の出来事を待つまでもなく、ユダに裏切られた、そして、逮捕され、十字架に上げられるその出来事において、既に、み子と父なる神は、栄光を相互に受けられるのであります。
 それから、主は続けて、言われます。「子たちよ、いましばらく、私はあなた方とともにいる。あなたがたは、私を捜すであろう。しかし、ユダヤ人たちに言っておいたと同じように、今はあなた方にも言っておく。あなたがたは、私が出て行くところに、来ることはできない」と。子たちよ、という呼びかけは、現在の読者である私たちに向かっても、言われていることであります。私たちは、主の十字架に身代わりになって、主の代わりに、あるいは、主とご一緒にあげられることはできないのであります。この後、ペトロが主についていくと申し出ますが、しかし、主が予告したとおり、主イエスを知らないといって逃げたように、私たちも、主の赴かれる死に同行することはできないのであります。
 そして、最後に、主は言われます。「新しい掟を、私はあなた方に与える、すなわち、私があなたがたを愛したように、あなたがたもお互いに愛し合いなさい。そのことにおいて、すべての人が認識するであろう、すなわち、あなた方が私に対して弟子であることを。もし愛をあなた方がお互いにおいて持つならば」と。
 主イエスが復活させられ、私たちが、新しい命を生きるようになることの具体的な中身とは、お互いに弟子である私たちが、愛を持って生きるようになることであります。そのようにして、キリストと父なる神の相互の愛を、また、キリストが私たちに示された愛を、今度は私たちが、人々にも知らせる器とされているのであります。2000年も前に到来した 主イエスの生命と死とにおいて、私たち人類に新しい時代が始まりました。復活節のこの時期、私たちは、どんな死と罪の闇をも打ち破るその出来事に直面しているのであります。「私が愛したように、あなた方もお互いに愛し合いなさい」。そのような人生を生きている信仰の人に出会うとき、私たちは非常に慰められます。私たちも一歩でもそのような歩みに向かっていく、愛と赦し合いと誠実と信頼に満ちた新しい生活に、ここから派遣されて行きましょう。
望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン。


2007/05/06(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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