津田沼教会 牧師のメッセージ
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「愛する息子の派遣」(ルカ20:9~19)
イザヤ書43:16-28、フィリピの信徒への手紙3:5-11

ルカによる福音書20:9―19
 イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。イエスは彼らを見つめて言われた。
 『家を建てる者の捨てた石、
 これが隅の親石となった。』
その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。


「愛する息子の派遣」(ルカ20:9~19)
 
本日の福音は、ルカ20:9-19であります。いわゆる「悪い農夫たちの譬え話」と言われているものであります。ここでは既に、主イエスは、十字架におつきになるために、エルサレムの神殿の境内に入っておられます。主は迫りくる十字架の死を凝視しながら、この譬えを、民衆に向かって語り始められるのであります。
ある人がいて、ぶどう園を作ります。そしてそれを農夫たちに貸して長い時間旅に出るのであります。ぶどう園、それは、しばしば、旧約聖書ではイスラエルを表わすのであり、ここでも、そうであります。本日のイザヤ書の朗読の中に「わたし、このわたしは、自分自身のために、あなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする。」(イザヤ43:25)とありました。神の民イスラエルは、神が預言者たちを旧約聖書の時代を通して、送り続けたにもかかわらず、背きの罪を犯し続けてきたのであります。そして、主イエスはそのイスラエルの反逆の歴史をこの譬えでも語っておられるのであります。
さて、時が来たので、すなわち収穫の時期が来たので、その人は、収穫の実を一定量、彼ら農夫が与えるようにと、一人の僕を送ったのであります。ところが彼らは、そのしもべを袋叩きにして、空手で追い返すのであります。二番目の僕を送ると、今度は、侮辱して袋叩きにし追い返します。三番目に送った僕には、傷を負わせて放り出すのであります。段々と農夫たちの仕打ちはひどくなるばかりであります。
そこで、この人は考えました。私はどうしようか、私の愛する息子を送ろう。あれなら、彼らは敬ってくれるであろう。そして彼を送ると、農夫たちは、あれは跡取りだ、あれを殺せば、相続財産はわれわれのものになるといって、彼を外に連れ出して殺したのであります。
以前に、九州学院で3年ほど聖書科の授業を時間講師で教えたことがありました。ある高校生に、授業でこのたとえ話の感想を書かせましたら、しもべでも、この農夫たちはひどい目にあわされているのに、自分の愛する息子を送ればどうなるかはわかるはずだ。この人はおろかな人だし、この譬えはばかげていると言った感想を書いている生徒がいました。なるほど、表面的にはそうです。私たちの聖書の神は、辛抱強く、憐れみに満ち、あらゆる手立てを尽くしてイスラエルを、そして今なお私たちを、神の国に生きるにふさわしい実を結ぶようにと預言者たちを通して、また、現在では聖書、特に主イエスの言葉を中心としながらみ心に沿った生き方へと立ち帰るように絶えず招き続けられる神であります。
 さて、主イエスはこのとき、この人、すなわち最後には神はご自身でやってきて、彼らを滅ぼし、そのぶどう畑をほかの農夫たちに与えるであろうと言われるのであります。聞いている者たちが、そんなことがあってはなりませんと言うと、主は言われます。それでは、―詩編の中にある言葉ですがー「家造りらが捨てた石が隅の親石になった」という言葉はどうなるのかと問われ、その石がその上に落ちたならばそのすべての人は粉みじんに砕かれ、また人がその石の上に落ちたならば、石は彼を籾殻のように吹き払うであろうと言われました。
主イエスの言葉を聞く人は、それを受け入れるか拒むかのいずれかしかないのであります。中立ということはなく、主イエスによって多くの人々が倒れるか、また起き上がるかのいずれかなのであります(ルカ2:34)。律法学者や祭司長たちは、主イエスに手をくだそうとしていたが、民衆を恐れた、彼らは自分たちのことについて主イエスが言われていたことがわかったからであると本日の個所は結ばれています。
受難節のこのとき、私たちは、この主の十字架への道行きをおぼえつつ、今一度、自分は主の救いか、それとも裁きか、いずれに値する生き方をしているかを問い直したいものであります。アーメン。
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2007/03/25(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「立ち帰る者を喜ぶ神」(ルカ15:11~32)
ルカ15:11-32、2007・03・18、四旬節第4主日(典礼色ー紫―)
イザヤ書12:1-6、コリントの信徒への手紙一5:1-8

ルカによる福音書15:11~32
 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べることにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴をはじめた。
 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」



説教「立ち帰る者を喜ぶ神」(ルカ15:11~32)
 四旬節第4主日に与えられている福音は、ルカ福音書15:11-32であります。いわゆる放蕩息子の譬え話として有名な物語であります。
ある人に二人の息子があった。そして、弟のほうは、自分に与えられることになっている財産を分けてくれるように父に頼んだのであります。その当時、父の生前にこのように財産分与をする慣習があったかどうかははっきりしていませんが、この父は、二人の息子に、おそらく、兄に三分の二、弟に三分の一を分けてやったのであります。弟は、多くの日を重ねないうちに、それを集めて、金に換えて、遠くの地方に去ったのであります。そして、不身持に暮らしてその財産を撒き散らしたのであります。そしてちょうどそのときに強力な飢饉がおこり、彼は食するにも事欠き始めたのであります。そして、彼は進んでいき、ある町の人に雇ってもらい、彼は豚を飼わせるために畑に送り、この弟は、豚が食べるイナゴマメの鞘からでも満腹したいと思ったが、誰も彼にそうしてくれようとはしなかったのであります。
彼はその時、我に返って、言うのであります。私の父の家では、雇い人たちがパンを十分に得ている。私も父のもとへ帰って言おう。「お父さん、私はあなたに対しても、天に対しても、すなわち、神に対しても罪を犯しました。私はあなたの息子と呼ばれるにはもはやふさわしくありません。あなたの雇い人の一人のようにしてください」と。そして彼はすぐに立ち上がって進んでいったのであります。ところが、彼の父は、まだ遠く離れていたのに、彼を見出し、おなかがうずくような思いに駆られて、走り出し、彼の首を抱いて、接吻し、連れて帰って、家の奴隷たちに言うのであります。この子に、最上の長い服を着せ、手には指輪、王様が印章のついたものをもっているそのようなものを入れてやり、履物を足には履かせてやりなさい。そして、超えた子牛を連れてきて屠りなさい。「弟は、お父さん私はあなたに対しても、天に対しても罪を犯しました。もはやあなたの息子と呼ばれる資格はありません」と語りましたが、父はその先を言わせず、雇い人以上の受け入れ方をして、祝ったのであります。
私たちの天の父は、そして主イエスご自身も、このように、私たちが心から悔い改めて、みもとに立ち返るのを喜ばれるのであります。私もこの弟のような体験をして、洗礼を受けました。人生のどん底に陥ったとき、主イエスが私のもとに来なさいと優しく立っておられたのであります。いろいろな価値観に囲まれていたとき、その体験を通して、主イエスしかないと気づかされたのでありました。
 さて、それに対して、兄は、畑に出ていて仕事をし、ようやくそれを終えて、戻ってきたのでありますが、その音楽と踊りのざわめきを耳にして何事かと思い、僕を呼び出して聴くのであります。僕は、「あなたの弟さんが無事に戻ってきたと言うので、子牛をほふり、祝宴を始めているのです」と答えます。兄は怒って入ろうとはせず父が家から出てきてなだめようとしますが、受け入れません。そして、自分はあなたの命令を一度も破ったことはなく、しかし、一度だって、友達と宴会をするために子ヤギさえ、あなたは与えてくれたことはありませんでしたと言います。父は、「子よ、私のものはみなあなたのものだ。しかし、あなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに、見出された。祝い喜ぶのは当然ではないか」兄にも優しく答えたのであります。父の愛、そして、主イエスの愛は、すべての人に注がれています。
父は、弟にも、兄にも同じように愛に満ち、そして、罪を犯しても悔い改めた者には同じように恵み深いのです。この後、兄がどうなり、弟がどうなったかは、記されていません。しかし、すべての人に赦しを与え、愛しておられるのが天の父であります。
 本日の父において表されている、罪の赦しを与える神と主イエスにつながって、一生を送っていきたいものであります。
 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。







2007/03/18(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主イエスの身を切る愛」(ルカ13:1~9)内海望牧師
ルカ13:1-9、2007・03・11、四旬節第3主日(典礼色―紫―)
出エジプト記3:1-15、コリントの信徒への手紙一10:1-13

ルカによる福音書13:1~9
 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人がそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」



   説教「主イエスの切実な愛」(ルカ13:1~9)内海望牧師

 世情は騒然としていました。ローマの長官ピラトの兵士がガリラヤの巡礼者を殺し、その血を犠牲の血に混ぜたというおぞましい出来事が起こりました。また、シロアムの町では、塔が倒れて18人もの人々の命が奪われました。今日、私たちがテレビや新聞で見るような心を暗くする出来事は絶えたことがないのです。言い換えれば、人間の世界には、いつも罪と悲しみが満ち溢れているのです。
 私たちは、今日の日課におけるイエスさまの口調の激しさに驚かされます。「決してそうではない。あなた方も悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と二回も繰り返されるのです。私たちは、ここで、イエスさまの息づかいを感じ取ります。イエスさまは激しく怒っていらっしゃるのです。
 イエスさまの口調で分かることは、ピラトの剣が閃いた時、この事件を報告に来た人々が、「あの罪深いガリラヤ人ならば、こんな目にあっても当然だ」という態度を取ったに違いありません。そもそもユダヤ人は、「異邦人(神を知らない)のガリラヤ!」とガリラヤ人を軽蔑していました(マタイ4:15)。それで、この事件を聞き、ここぞと、「天罰だ」とわめき散らすのです。シロアムの事故に関しても同じです。シロアムはエルサレムの南北の丘にある町ですが、エルサレムの中心、つまり神殿の傍に住んでいる者たちから見れば、シロアムの人々は、自分たちより、神さまから遠く離れている者であったのです。そこで、この惨劇を聞いた時、「彼らの罪の結果だ」と言っているのです。
 そのような人々に対して、イエスさまは、厳しく「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」とおっしゃるのです。「人を蔑む前に、先ず悔い改めなさい」と。
 私たちは、このようなイエスさまと人々の会話を、現代の私たちとは無縁な出来事と考えてはいけません。私たちも同じです。私たちは、いつも人々の間違いを探して、自分が神さまであるかのように他者を蔑み、裁くのです。「あんな人間にならなくて良かった」と他人より立派な自分を見て暗い喜びにひたるのです。アダム以来の原罪!
 イエスさまの「皆同じように滅びる」という言葉に注目してください。そこに例外はありません。私たちは、神さまの前では、一人の例外もなく悔い改めを必要としている罪人だとおっしゃるのです。神さまの裁きの下に滅ぼされるべき者なのです。このイエスさまのみ言葉は、私に向けられた言葉なのです。私たちの心を神様の前で深く見つめなおしましょう。そこには、どのような心が見えてくるでしょうか。思い上がった心を打ち砕かれた、悔い改めを必要とする姿ではないでしょうか。ルターはこのことをとことん知った人物でした。思いと言葉と行いによって、私たちは罪を犯す存在です。聖書の読み方も、私をどこに置くのかが問題です。
 ルターは修道士として、課せられた規則を忠実に守りました。同僚の修道士も驚くほどの熱心さを持って。ところが、彼自身は、その時の自分を、次のように描いています。「私は、修道士として定められた規則に従って生きようと非常な努力をし、苦痛を忍んだ。しかし、依然として、私の良心は安心を得ることができなかった。『まだ十分に懺悔していない』と苦しむのでした。」「このような時が続いたならば、私は全く破滅し、その骨は灰に帰したであろう」と。ルターにとって、「悔い改めなければ、皆同じように滅びる」というイエスさまのみ言葉は、まさに自分に向けられた刃であったのです。私たちは、この神さまの厳しさを忘れてはなりません。
 その上で、イエスさまは6節以下のたとえを話し始められるのです。
 ここで園丁が、「ご主人様、今年もこのままにしておいてください」と嘆願している姿に目を向けたいと思います。何とかいちじくの木を守ろうとする園丁の姿に感動します。
 イエスさまは、「自分は失われた者、罪人を救うために来たのだ」と繰り返しおっしゃいます。「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのである(19:10)と自分の使命を明らかにされ、事実、十字架上の苦しい息の下で、「父よ、彼らをお赦しください」と、最後まで自分を殺害する罪人のために祈り続けてくださった方なのです。イエスさまは罪人の敵ではない。ご自分の命を犠牲にしても、悔い改めず、滅びに陥ろうとする私たち人間を救おうとするイエスさまの姿にイエスさまの切実な愛を見ることができます。イエスさまの厳しさもまた、罪に沈んで行く私たち罪人を救おうとされる切実な愛であることが明らかになります。イエスさまは今もなお、私たち一人ひとりのために十字架上で祈ってくださっているのです。
 今日の説教題を、最初は「神さまの忍耐の時」としました。しかし、「今年もこのままに」という園丁のことばに、「今は恵みの時である」という喜びを見出しました。そして、「今」という時が、イエスさまの切実な、文字通り「身を切るような愛」に支えられている今であることに気づきました。
 四旬節の季節です。心を低くしてイエスさまの十字架の下に立ち、悔い改めましょう。「謙遜」という言葉では弱すぎます。むしろ、私たちはイエスさまの十字架上の祈り、その切実な愛、「ご主人様、今年もこのままにしておいてください」という祈りによって、古い、思い上がった私が打ち砕かれ、死に、新しい復活の命に生きる時なのです。「死んで、蘇る喜び」を共に望みつつ、イースターの夜明けを待ちましょう。
2007/03/11(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
test01
test01
「十字架と心からの願い」(ルカ
ルカ18:31-43、2007・03・04、四旬節第2主日(典礼色ー紫―)
エレミヤ書26:7-19、フィリピの信徒への手紙3:17-4:1

ルカによる福音書18:31-~43
 イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。

 イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆はこぞって神を賛美した。




説教「十字架と心からの願い」(ルカ18:31~43)

本日は、四旬節に入って2回目の日曜日です。今年の教会暦では2月21日(水)から、4月7日(土)までの日曜日を除いて計算する40日間が、主イエスの十字架への道行きを覚えて、特に慎み深く生活すべき四旬節・受難節に当たります。この時にあたって、本日与えられていますのは、ルカ福音書18:31-43であります。
なぜ、この個所が、受難節にふさわしいのか、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。本日の個所は、新共同訳聖書ではっきりと分けられていますように、前半の18:31-34の最後の受難予告と、後半のおそらくバルテマイという盲人の目が見えるようになるという癒しの奇跡の出来事から成っています。その内容について、もう一度、思い起こしてみましょう。
主イエスは、12人を呼び寄せて、言われます。直訳しますと「見よ、私たちはエルサレムへと上っていく。そして、人の子について、預言者たちを通して書かれているすべてのことどもは、達成されるであろう。なぜならば、彼は異邦人に渡され、あざけられ、虐待され、つばきをはきかけられ、彼らは鞭打った後、彼の命を奪い、そして三日目に彼は起き上がるであろうからである」、と言われたのであります。
前段の記事も、後段の記事も、マルコがもとになっていますが、ルカは最後のこの予告で「異邦人である人々によって苦しむ人の子」を明らかにしています。しかし、このとき、弟子たちは、「これらのことについて何も洞察を得ることができず、この言葉、あるいはこの出来事は彼らから隠されており、彼らは理解できないでいた」のであります。彼らは、この後、復活の主御自身によって、目と心を開かれ、また、復活の主による食事を通して、ようやく救い主、メシアが旧約聖書で預言されていた苦しみと死をへねばならないメシアであることを、上からの啓示を通して知らされるのであります。
さて、それに対して後半の物語が始まります。「ところで、成ったことには、彼がエリコに近づいたとき、ある盲人が道の脇で物乞いをしながら座っていた」のであります。当時の盲人のこの道端で物乞いをする姿は、人間社会から見捨てられた存在の典型であったでしょう。彼は、群集が通り過ぎていくのを耳にし、「これは一体何なのか」と聞き、知ろうとしていました。それはエルサレムへと過ぎ越しの祭りに向かう巡礼者たちの群集でありました。この盲人は、「ナザレの人イエスのお通りだ」と知らされて、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と言って叫び声を上げます。
「ダビデの子イエスよ」、それは、主がメシアであり、待たれた救い主であることを、この盲人は理解したことを表しています。それは、当時一般に待望されていた政治的軍事的な解放者を意味するものではなく、このお方は、自分の罪と死と闇から解き放ってくださるに違いないメシアであることを、この盲人は信じたのであります。前を行く人々はやって来て彼を黙らせようと咎めますが、彼はますます激しく叫び続けます。
「ダビデの子よ、私を憐れんでください。」これは、私たちの礼拝に集まる姿を現しているのではないでしょうか。私たちは毎週の礼拝において、キリエを歌います。「キリエ エレイソン」すなわち「主よ、憐れんでください」という願いを、このバルトロマイと共に毎週歌うのであります。
主は、立ち止まられ、自分のもとに彼が来るように命じられ、彼が近づくと「私に何をしてほしいのかと」問われます。私たちも、何をしてほしいと教会の礼拝に集うのでしょうか。それを主を前にしてはっきりと告白したい者です。彼は、「また見えるようになることです」と端的に答えます。私たちも自分の心からの願いを十字架につかれた主にはっきりと求めるものでありたいです。そして毎週の礼拝を、「神の言葉が見えるようにされ、あなたのお言葉が分かるようにしてほしいのです」と祈る場にしたいものです。
さて、主は、「あなたは再び視力を得るようになれ。あなたの信仰があなたを救ったのだ」と言われ、彼はたちまち視力を回復し、神をあがめながら、主に従っていったのであります。すなわち、彼はこの時から主イエスの弟子となったのであります。そして、これを見た民衆もみな神を賛美したというのであります。私たち津田沼教会の群れも主イエスがどのようなお方であるかを見抜く目を与えられ、主と共に、この受難節も歩むことができる者となりたいと思います。
望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン。






2007/03/04(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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