津田沼教会 牧師のメッセージ
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「強い者と弱いキリスト」(ルカ4:1~13)中川俊介牧師
ルカ4:1-13、2007・02・25、四旬節第1主日(典礼色―紫―)
ルカによる福音書4:1~13
 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。
 「『あなたの神である主を拝み、
 ただ主に仕えよ』
と書いてある。」そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。
 『神はあなたのために天使たちに命じて、
 あなたをしっかり守らせる。』
 また、
 『あなたの足が石に打ち当たることのないように、
 天使たちは手であなたを支える。』」
イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。



説教「強い者と弱いキリスト」(ルカ4:1~13)中川俊介牧師
 私は四月から八王子教会の方で、働くために引っ越します。今まで12年間、千葉ニュータウンに住んできました。私の住んでいるマンションの北側には大変閑静な住宅街が広がっています。人々は、強い意志をもって朝早く起き、遠い距離を通勤し、一生懸命働いて住宅ローンを返し、週末には大体平均60坪あるゆったりした家で楽しく家族と過ごしている。それが平均的な生活です。まあ、ある面では自分の人生をコントロールできていると言えるでしょう。
 ところが、それがそうではないんだ、という事件が何年か前に起こりました。どこにでもある普通の家族、普通の家庭に起こったのです。きっかけは小さな尖った石でした。これもまた、どこにでもころがっている普通の石です。ただ、あるとき、住宅地の子供がその石を手にしました。そして、マンションの駐車場に何十台も並んだ車を見ました。子供なら、この石で何か、ピカピカの車の上になにか書けないかなと思うこともあるでしょう。その子供は、それを実行してみました。大変に面白かったに違いありません。次々と模様や字をいろんな車に書いていきました。
 残念ながら、強い意志をもって築き上げてこられた、この子供の家は崩壊しました。きっかけは子供のちょっとしたいたずらでした。しかし、20数台に及ぶ被害は、こつこつと住宅ローンを返してきた家族には重過ぎました。あまりにも高額の弁償金を払えず、あの楽しい家庭の土台だった家を売り、親は離婚し、家族はバラバラになってしまいました。その原因はあの一つの尖った石でした。
 今日から、教会の暦では、四旬節、昔の言い方では受難節が始まります。レントとも言います。優しかったイエスさまが、皆から捨てられ、弟子たちも逃げてしまい、罪ある人として十字架にかけられたことを、思い起こす季節です。思うたびに胸の痛むことです。あんなに力のある、あんなにも信仰心も強い、立派なイエスさまが当時のローマ時代の処刑としては、最も苦しく、最も残酷な形で、殺されねばならなかったのは何故でしょうか。私たちも、それほどではないにしても、人生の苦しみを味わわなければならない時がありますが、何故でしょうか。
 今日の福音書の日課は、イエス・キリストの荒れ野での誘惑を通して、私たちに、何故そうなのか、それを語りかけている気がしてなりません。
 本文に入る前に、私の心に時々浮かんでくる聖書の箇所をお読みしたいです。ヤコブの手紙4章13節から16節まで。この箇所は、私たちに何を教えているでしょうか。皆さんはどう思いますか。私はこうです。自分があることを頑張っているとします、人生の段取りを考えています。これもしよう、あれもしよう。でも、その時に、ああ、間違っていた。もし、神の御心なら、それをすることが許されているだけで、自分には人生を支配する力はない。イエスさまが教えたように、私たちは、髪の毛一本すら白くも黒くもできない。本当は弱い存在なのだ。そういうことです。
 イエスさまの誘惑の話しに戻りましょう。実は、私はイスラエルに留学したときに、エリコという町の近くにそびえる断崖絶壁のこの誘惑の山に上ったことがあるんです。今考えると、自分もこわいもの知らずだったなと思います。エルサレムからバスに乗ってエリコまで一人で行ったんです。そして、エリコから山までは急な坂道でした。あんまり暑いので手ぬぐいを水で濡らして頭にターバンみたいに巻いたんです。なんと10分でバリバリに乾いたことが、凄く記憶に残っています。誘惑の山といっても丸いやまではなくて、高い高い崖なんです。ここでイエスさまが40日40夜断食し、悪魔から誘惑を受けた。そう思うと、下を見て震え、また何か身震いを覚えます。私が登ったときには、こんな有名な場所なのに観光客は誰もいませんでした。ただ、一人の現地の人が、管理人みたいな仕事をしていて、崖を見下ろすところにある台の形をした石を指さして、ここにイエスさまが座っていたんだ、というのです。ウソだか本当だかわかりませんが、何百年もその事が言い伝えられてきていると思うと、心が震えるんですね。なぜだか解らないんですが、そこを去るとき、そこの管理人が、あなたは立派な牧師になる、と言ってくれたんです。あれは、誘惑の言葉なのか神の言葉なのか、いまも理解できていません。
 ちょっと話題がそれてしまいました。イエスさまの誘惑に戻りましょう。イエスさまは正しい人であったのに、悪魔の誘惑を受けました。それも、三回受けました。一回目は、激しい空腹の中で、石をパンに変えたらどうか、という誘惑です。これは、私たちが乏しいとき、何も持たないときに受ける誘惑の形ですね。自分の力でどうにかしたいんです。本当に飢餓に苦しんでいたら、他人のものを盗んでも、腹を満たしたい、そう思うでしょう。ラインホールド・ニーバーという神学者が言っているんですが、普段私たちは限界に立たされていないから、人を殺したり盗んだりすることは全く自分とは関係のない、言わば、試練を受けていない「善人」として生きている。でも、人間は極限状態で試されなければ、善とは言えない、と言うのです。本当にそうです。試みられていない素朴な善はまだ見せかけの善である。ルターも財布が一杯で、倉庫も一杯、畠にも作物が一杯の人間は、自分が誘惑を受けるということにさえ気づいていない、と述べています。
 何も無い、乏しいという事はつらいです。物だけではありません。会社に行くが、窓際族にされてしまい、仕事がない。これもつらい。学校に行く。だけど、いじめにあって、話してくれる友達がいない。これもつらい。今まで、守ってきた、健康を失い、家族を失う、これもつらい。
 イエスさまの第一の誘惑は、このつらさに関係するものでした。イエスさまは、旧約聖書申命記8章3節の言葉を引用して答えました。ある学者は、ここに、神にしがみつく弱いキリストの姿が表されている、と述べています。神を信じているんだから、不可能なことは無いはずじゃあないですか。石だってパンに変えられるはずです。神という存在において不可能はないとイエスさまは、他の場所で教えておられる。ところが、この誘惑の山で弱い。徹底的に弱くなっている。イエスさまが十字架にかけられた時も弱かったのですね。逃げることだってできたのに逃げなかった。自分はあれができる、これもできるとはおっしゃらない。むしろ、できない。悪魔のほうは、もしお前が神の子なら、これも自由にできるはずだ、あれも自由にできるはずだ、と迫ってくる。
 では、第二の誘惑はどうでしょうか。最初の誘惑に成功しなかった悪魔は、今度は貧しさとは逆に、豊かさで誘ってくる。人間はこれに弱いですね。いろいろと持っていれば、それだけ気前よくなるかというと逆です。手放したくない。芥川龍之介という作家は、蜘蛛の糸、という話しで、人間のそんな気持ちをうまく表現しましたね。自分が握った幸福の糸を手放したくないんです。やっぱり、生身の私たちは、表面的にはどんなであっても、心の底では、人生を思い通りに動かしたいという強い面を持っています。ただ、それでもやっていけるのは、神が忍耐してくださっているからです。お前の命は、明日までだ、と言われて、はい、アーメン、その通りになりますようにと言えるでしょうか。
 イエスさまは、第二の誘惑に対しても、自分はこう思うとか、自分にはこんな力がある、という表現はされないで、旧約聖書を引用しています。これは、私たちも学ぶべき大切な点です。申命記から引用しています。6章13節からです。決して、悪魔の誘惑にのって、私にはそれができるとか、できないという、自己判断をくださない。明日のことを当然明日があるかのように自己判断をくださない。
 ルターは、やはり四旬節第一主日の説教で、荒れ野の誘惑の話を日課としています。ルターは、三つある悪魔の誘惑で、乏しさと豊かさの誘惑は、この世の事柄を扱っており、ルカの福音書では最後の誘惑となる神殿の誘惑は、最も困難な誘惑であり、霊的なものだと述べています。
 この世のことは、ある程度コントロールできるのではないでしょうか。一般的な宗教は、それを実践している気がします。千葉県でしたら市川市に日蓮宗の有名なお寺がありますね。そこでは、お坊さんたちのための百日の行というのがあって、約三ヶ月、寺に籠もって不眠不休の修行をするのですね。仏教の教えがそうだと思いますが、いろいろ持っていないと不満をもらしたり、逆に、持ち過ぎていて傲慢になることを戒め、そういうエゴをコントロールするために修行するのですね。キリスト教の修道院なども同じような意図を持っていると思われます。
 ただ、第三の誘惑が難しいのは、それが神殿で起こっていることです。宗教の神聖な場所であるはずのところで起こっているからです。
 アメリカのイラク戦争でも、その戦争を指導しているブッシュ大統領とかライス長官とかは敬虔なクリスチャンと社会的には言われています。でも、本当にそうなんでしょうか。私には疑問です。これを、私がもっと痛切に思った時がありました。それは、第二次世界大戦の末期の記録映画でした。あの広島に原爆を落とした、エノラゲイという爆撃機の映像が出ていました。その前に、どこかで見たような式服を着た牧師が、これから爆撃に行く乗組員に祝福を与えているんです。解説では、ルーテル教会の牧師だということでした。やっぱり、少しショックでした。でも、その牧師だけが悪いのではありません。私もえらそうに言っているだけで、同じ立場に立たされたら、何をしているかわかりません。ここで、私たちがどうしても忘れてはならないのは、霊的な誘惑が神殿の中や、教会の中で起こったことです。そのとき、私たちは本当に傲慢な気持ちが砕かれてしまうのではないでしょうか。愛の家であるはずの教会で愛と反対のことが平気で行われてしまうことがあります。
 イエスさまは、それを十分知っていらしたに違いありません。霊的な誘惑とは、神の言葉を利用してくる誘惑です。悪魔は、ここで、詩編91:11以下の言葉で誘惑してきました。信仰さえあれば、あなたにはこれができる、あれができる。今も、こういう可能性思考は流行しています。人間はそういう霊的な誘惑に弱いです。30年以上前に韓国のヨイド教会に見学に行ったことがあります。牧師のチョー・ヨンギ氏は可能性思考で有名な人です。その時の会員は1万人。教会も巨大でした。現在は数十万人だそうです。でも、それで驚いてはいけないんですね、最近は南米で巨大教会ができて、その教会の会員だけでも220万人いるそうです。やっぱり、人間は信仰を持ったら、不可能はない、というメッセージが好きなんですね。悪魔の誘惑に私たちは勝てません。だから、カール・マルクスのような社会問題と真剣に取り組んだ人からは、宗教は民衆の心を鈍らす麻薬、アヘンである、なんて言われるのですね。
 この詩編91編に対するイエスさまの応答は、やはり、申命記からでした。6:16です。神の上に私たちが立って、神を自分の願いや欲のために利用してはならない、そういうことです。
 ここまで来て、解りました。あの悪魔とは、私たちの考えの中に潜むものなんです。自分が自分の思いのままにしたいんです。それが、神から離れた人間の姿。無残な戦争をも賞賛できる人間の姿。だれが優れているとか、だれが一番だとかに夢中になる人間の姿。強い姿の中に、悪魔が潜んでいます。あるいは、自分が人生をコントロールしようともがいていることを知らない場合もあるでしょう。だからこそ、この誘惑のあと、イエスさまは十字架の道を歩んでくださった。自分の救いのためではなく、悪魔の思考に染められている私たちの救いのために、弱い者になってくださった。ここに福音があるのです。イエスさまが十字架を避けたり、こわがったりしなかったように、イエスさまの救いを信じる私たちも、試練や誘惑を恐れず、自分の力ではなく、神のご恩寵のみを信じて歩んでいきましょう。最後になりましたが、あれほどにイエスさまが引用された申命記ですが、ユダヤ教は申命記から始まるとも言われています。何故なら、ユダヤ人の一日は申命記6章4節以下から始まるからです。おそらく、イエスさまの時代も同じだったでしょう。シェマー イスラエルの有名なことばは、毎朝述べられています。イスラエルよ、聞きなさい。神を愛しなさい、隣人を愛しなさい。自分で何かを成し遂げられると思ってはならない、神にゆだねなさい。神の導きを求め、神の声を聞きなさい。いや、それも誤ることがあるから、ただ救い主を信じなさい。ただ信ぜよ。



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2007/02/25(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「キリストにのみ聞き従え」(ルカ9:28~36)
ルカ9:28-36、2007・02・18、変容主日(典礼色―白―)
申命記34:1-12、コリントの信徒への手紙二4:1-6

ルカによる福音書9:28~36
 この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。ペトロがこう言っていると、雲が現われて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。




 説教「キリストにのみ聞き従え」(ルカ9:28~36)
 
本日は変容主日を迎えました。主の変容日は、ローマ教会では今でも8月6日と定められています。ただし、現在はローマ教会でも、四旬節第2主日に主の変容の福音個所が読まれるようになりました。
それに対して、ルーテル教会では、ルターによると言われていますが、日曜日の福音個所として、受難節前第1主日すなわち、顕現節の最終主日に組み込んだのであります。そして、教会で用いる色は神ご自身を表します白となっています。そして、いよいよ今週の2月21日(水)から、四旬節に入り、津田沼教会でも灰の水曜日礼拝を守ります。
 さて、今日の主の変容の出来事を、ルカ福音書9:28-36を通してもう一度ご一緒に思い起こしてみましょう。本日の始まりの部分は、「で、起こったことには、それらの言葉の後8日ほどたって、主はペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山へと上られた」と訳することができます。ルカは、しばしば大事なときに祈られ、あるいは、山に上られて祈られたという主イエスの祈りを強調しています。たとえば、12使徒を選ぶとき、主は山に上られ、世を明かして祈られましたし、ゲッセマネの祈りにおいては、やはり徹夜で祈られ、汗が血が滴るようにぽたぽたと落ちたという記録をルカは残しています。聖書の神は、私たちのために徹夜をなさる神であるというふうに言われるのであります。
さて、ルカが「およそ8日たって」というのは、マルコやマタイの「6日の後」とは異なっていますが、これはおよそ1週間たってという完全数を表しているか、刈り入れの祭り、あるいは、仮小屋の祭り(仮庵祭)が1週間続くのを意識して、変えたのかもしれません。
 そして、起こったことには、彼が祈っているうちに、彼の顔の外観が別のものとなり、その衣は真っ白に光っていたというのであります。マルコは、「彼の姿が変身し」という意味の言葉で表していますが、ルカは、主として異邦人に対して書いているので、異教の神を想像させるマルコの用いている言葉を書き改めているのであります。「そして、見よ、二人の人が彼と話し合っていた」とあり、「それは、モーセとエリヤであり、彼らは栄光において現れ、やがて主イエスが成就しようとしていた最期のことを話し合っていた」のであります。この「最期」と訳されています言葉は、エクソダスという言葉であり、「出エジプト」を表わす言葉であり、さらには出発を表わす言葉であります。
そしてペトロと彼と共にいた者たちは、眠たさでまぶたが重くなっていましたが、なお、起きていると、主イエスの栄光と彼と共にいる二人を見たのであります。ルカだけが、主イエスの栄光を見たことを記しています。モーセは、やがて、自分のような預言者が現れる、その時には彼に聞き従えとイスラエルの民に約束していました(申命記18:15)。また、預言者エリヤは、偶像礼拝に対して徹底して戦い、最後は天に上げられた預言者で終末の時に再び来ることが、イエスの時代には期待されていました。その旧約聖書、特に律法と預言者を代表する二人の人物が、今、ペトロたちの前に現れ、主イエスと、やがてエルサレムで、主が遂げようとしている出発について話し合っているのであります。
ルカ福音書は、エルサレムにおける神殿でザカリヤに起こった出来事で始まり、同じくエルサレムで、弟子たちがオリーブ山において復活の主が天に上げられるのを見送った後、戻って来て、神殿で絶えず神をほめたたえていたという礼拝の記事で終わるのであります。  ですから、主イエスは、十字架での死で終わるのではなく、復活させられ、天へと上げられ、天へと出発するという終わり方になっているのです。イスラエルの民が出エジプトにより奴隷の民から約束の地へと解放されたように、私たちも新しいイスラエルとして、主イエスの十字架と復活と昇天において、罪からの脱出が実現されているのであります。
 さて、モーセとエリヤが彼らから分かたれていったとき、ペトロは主に向かって言います。「師よ、私たちがここにいるのは利点があることです、それで、仮小屋を三つ作りましょう、一つはあなたに、一つはモーセに一つはエリヤに。」彼は自分が言っていることを分かっていなかったのであるといいます。そして、ペトロがそう言っていると、雲が起こり、彼らを覆いました。で、彼らはその雲の中へと入っていくので恐れました。すると、雲の中から声が起こり、こう聞こえたのであります。「これは、私の子、選ばれた者。あなたがたはこれに聞き従え」と。そしてその声が成ったとき、主イエスだけが見出されたというのであります。そして、彼らはその当時誰にも何も彼らが見たことを伝えなかったと、本日の個所の終りには、記されています。
 本日の不思議な出来事に対して、多くの人がいろいろな解釈を加えてきました。ある人は、実際にあったことをそのとおり記していると言います。しかし、もしそうであれば、後にペトロや弟子たちが主イエスを見捨てて逃げ出したということは起こりがたいとして説明が難しくなります。ある人は、この出来事は、ペトロが、あるいは、他の二人と共に一種の心理学的な幻を見たのではないかと主張します。しかし、本日の記事が伝えているような確かな記事は、個人的な単なる幻では書けないものであります。またある人は、主の復活顕現の出来事をガリラヤ宣教の時代にさかのぼらせて書いてあるのではないかといいます。しかし、それも、ここで用いられている言葉と、復活顕現で用いられている言葉とは非常に異なっているので無理があることが指摘されています。
 しかし、少なくと言えることは、この出来事は、ペトロがこの個所のすぐ前のところで「あなたは神からのメシアです」と告白したその出来事の意味をさらに深める内容の出来事であったということです。
主イエスの洗礼のときは、天からの神の言葉は、主イエスに向けての「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という声でありました。しかし本日は、弟子たちに向けて、雲の中に現在する神が「これは私の子、選ばれた者、あなたがたはこれに聞き従いなさい」との啓示の言葉を示されたのであります。このお方は、私たちの罪のために十字架の死を遂げられたのみでなく、復活され天に上げられたお方であります。私たちは、主イエスの時代から2000年たちました現在も、主イエスの伝えているお言葉、聖書の言葉とは異なる、あるいは相反する多くの偽りの言葉や教説あるいはそのような環境に取り囲まれて過ごしています。確かに尊重すべき他宗教の問題もあります。しかし、私たちにとっては聖書が唯一の確かな拠り所であります。私たちは絶えず、主イエスの真実のお言葉に耳を傾け、聖書に親しみ、あるいはそれに常に立ち返りながら、主イエスに聞き従って歩む人生を送りたいものです。これからの1週間もそのような1週間となりますように願います。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みにあふれさせてくださるように。アーメン。


 





2007/02/18(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「恵みと報いのある生き方」(ルカ6:27~36)
ルカ6:27-36、2007・02・11、顕現節第6主日(典礼色―緑―)
創世記45:3-15、コリントの信徒への手紙一14:12-20

ルカによる福音書6:27~36
「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたちと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」


説教「恵みと報いのある生き方」(ルカ6:27~36)

 本日は、顕現節第6主日を迎えました。そして、次週は変容主日で、顕現節の最終主日となります。その後、いよいよ、今年は2月21日の水曜日から受難節が始まります。本日は、緑の色で示されており、受難節前のしばらくあいた期間を、聖霊降臨後主日の期間と同じように、主イエスのお言葉とみ業について学ぶ時であります。先週に引き続いて、本日は、平地での説教と呼ばれている部分の一節、ルカ福音書6:27-36が与えられています。
ご一緒にしばらく、この個所について、考えてみたいと思います。今日の主イエスのお言葉は、「しかし、あなたがた、聞いている者たちに私は語る」と訳せるお言葉で始まっています。
しかし、なぜ「しかし」なのでしょうか。先週は、あなた方、貧しい者は幸いであると始まり、後半で、あなたがた今富んでいる者は不幸である、既に報いを受けてしまっているから、云々とありました。それに対して、主は、「しかし」私の弟子であるあなた方に、それにふさわしい生き方を改めて示そうと言われ、今度は私たちキリスト者がどうふるまえべきか、取るべき態度、よき行い、愛の生活を教え、命じられるのであります。
 そのように言いまして、主は、まず、「あなた方の敵を愛し、憎む者によくしてやり、あなた方を侮辱する者のために祈りなさい」と言われます。私たちは、友人であっても、信仰の友であってさえも、その友情を保つことは、なかなかできないという体験を味わわされます。しかし、主は、さらにあなたの敵をも愛せよと命じられるのであります。これは、利害関係のある愛情、自分に都合がよい愛情を保つようにということとはまったく異なる、神が十字架のみ子の死をもって示される神的な愛からのみ出てくるものであります。
そして、私たちは、本性としてはそのような気高い愛は持ち合わせていないのであります。立派な人は、キリスト教でなくても、私たちの周りにもおられます。しかし、主がいわれるような愛的の実践は、神なしには、人間の本性からは不可能に近いのであります。
主は、「あなたの一方の頬、顎骨に一撃を食らわす者には、他の顎骨をも向けてやりなさい。また、あなたの上着を取り上げる者には、下着をも拒むな。あなたに要求するすべての者に与えなさい」と、言われ、「あなたから金を借りようとするものには、戻してもらうことを期待しないで貸しなさい」と言われます。そしてさらに、「あなたに人々がしてほしいその通りに、あなたは彼らにしなさい」と言われました。黄金の法則と言われるものであります。
「隣人を自分のように愛しなさい」と旧約聖書のレビ記19:18にありますが、ヒーレルという当時のラビは、「自分にしてほしくないことはするな」と言い、レビ記のその言葉が律法全体を要約しており、あとの旧約聖書全体はその説明に過ぎないとまで言いました。 
しかし、主は、「自分が人々からそうされたいと願うその通りに、人々にも行え」と言われ、私たちがそのような愛に生きることを求められました。そして、言われるのです。「自分を愛してくれる人を愛しても、どんな恵みがあろうか、それは罪人たちもしていることである。人には何も当てにしないで貸してやれ、自分にまた返してもらうことを期待しながら貸したとて、どんな恵みがあろうか、罪人たちもそのようにしているではないか。しかし、あなたがたは、敵を愛し、人々によいことをし、返してもらうことを何も当てにしないでで貸してやれ。そうすれば、あなたがたは、いと高き方の息子たちとなり、大いなる報いがある」と。何も当てにしないでとは、絶望しないで、望みを捨てないで、とも訳せます。人ではなく、神に望みをおいてふるまえと言われるのです。
そして、「なぜならば、いと高き方、父なる神は、感謝をしない者にも、邪悪な者にも、情け深い、すなわち親切であるから」と言われ、最後に「父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者になりなさい」と言われるのであります。マタイは、「父なる神は、善人にも悪人にも雨を降らし、正しい人にもそうでない人にも太陽を昇らせるお方であり、あなたがたはそのように完全な者になりなさいと言われます。神との関係でまっすぐであることが、すべての人に対して親切であり、情け深いということなのであります。
私たちは、父なる神の息子たちとして約束されている者として、日々悔い改めながら、ふるまい、本日のみ言葉に頼って歩んでいきたいものであります。それは、そのような愛の生き方こそ、神の恵み、神からの信望と評判、ご好意と、そして報いを受ける、神の報酬が約束されている生き方だからであります。
一言祈ります。
父なる神さま。あなたのみ子主イエス・キリストのお言葉は真実です。私たちの信仰生活は、日々戦いの連続でありますが、イエス・キリストのお言葉によって日々新たにされ、新約・旧約聖書のすべてのみ言葉において導かれ、日々罪に死に、新たに悔い改める生活を過ごさせてください。キリストによって祈ります。アーメン。





2007/02/11(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「今泣いている人は幸いだ」(ルカ6:17~26)
ルカ6:17-26、2007・02・04、顕現節第5主日(典礼色―緑―)
エレミヤ書17:5-8、コリントの信徒への手紙一12:27-13:13

ルカによる福音書6:17~26
 イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土からエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また、病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。

 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
 「貧しい人々は、幸いである、
  神の国はあなたがたのものである。
  今飢えている人々は、幸いである、
  あなたがたは満たされる。
  今泣いている人々は、幸いである、
  あなたがたは笑うようになる。
  人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
 しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、
 あなたがたは飢えるようになる。
 今笑っている人々は、不幸である、
 あなたがたは悲しみ泣くようになる。
 すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」



説教「今泣いている人は幸いだ」(ルカ6:17~26)
 
本日は、顕現節第5主日であります。神の顕現、キリストが世に現れたことを覚える時に、本日の福音の記事は、12使徒を選び出し、山からくだってきたときの出来事であります。前段では、主が山からくだると、主は平地にお立ちになる。すると、大勢の弟子たちの群れや、全ユダヤ、エルサレム、海岸地方の異国のティルスやシドンからも、おびただしい民衆が、イエスに聞くために、また、病気を癒されるために触れようとしてやって来たのであります。それは、彼のもとから、力が出て行き、汚れた霊どもを追い出していたからであると、聖書は記しています。私たちが、一週間ごとに礼拝に集まり、主のみ言葉を聞くのも、ある意味では、汚れた霊から清められ、悪霊から来る広い意味での病気を癒していただくためであります。
さて、主は、後段で、四つの幸いと、四つの不幸をあげています。主は、教えるために座っておられたのか、その目を持たげて、弟子たちを見つめて言われるのであります。まず、祝福されているのは、貧しい者たちである、なぜならば、神の国はあなたがたに属するからである、と。マタイの山上の説教では、心の貧しいものは幸いである、天の国は彼らのものである、と言われました。そこでは、三人称で語っておられます。しかし、ここでは、貧しいあなた方は幸いであると、具体的にこの説教を聞いている弟子たちに語りかけられています。貧しさは、厳しい苛酷なものであります。しかし、すべてを捨てて主イエスに従った貧しい弟子たちは、今現在、神の支配に身をゆだねており、神の助けを願うしかないのであります。さらに、今泣いている者たちは、祝福されているよ、なぜなら、あなたがたは、笑うようになるであろうから、と言われます。私たちは、笑っているとき、傲慢になります。しかし、泣いている人は、神さまの慰めによって引き上げられ、笑うように変えられるのであります。さらに、今空腹であるものたちは祝福されている、なぜならば、あなた方は満腹にされるであろうからと言われます。飢え渇きというものは、豊かな現代日本においては、あまり深刻に感じられないものであります。しかし、当時の弟子たちは、すべてを捨てて、主イエスに従ったのであり、空腹感に襲われることもしばしばあったでありましょう。現代日本でも、リストラの問題や、毎年3万人以上の自殺者が絶えないように、私たちが何とかやりくりして生きるのは大変なことであります。
四つ目に、人々があなた方を忌み嫌い、人の子のために、当時のシナゴーグの会衆から、また、社会から除外するとき、悪口を言うとき、そしてキリスト者というその名をいやなものとして鼻であしらうとき、あなた方は祝福されている、あなた方は喜び踊れ、あなた方の報いは大きいからであり、彼らの先祖たちも同じことを預言者たちにしたからであるといわれます。預言者エレミヤの場合などが特に思い起こされます。
しかし、反対に、富んでいるあなた方は、ああああ、悲しむべきかな、あなたがたは、地上でもう慰めを受けているからと言われます。そして、今笑っている者たちはああああ、不幸だ、あなたがたは泣くようになるからだと言われます。あるいはこの説教を聞いている者の中に、エルサレムから来た律法学者のような者たちがいたのかもしれません。
今満腹しているものたちよ、あなたがたは不幸だ、飢えるようになるから。そして、今笑っているあなた方は、ああああ、泣くようになるから憂慮すべきだ。そして、人々があなた方をよく言うとき、あなた方は不幸だ、なぜなら彼らの先祖も偽預言者たちに同じことをしたからであると言われます。この主イエスの言葉は真実であります。私たちは、自分の力に、偉さに、成功に決して誇り、頼るべき者ではありません。そうではなくて、私たちは神が慰めて下さる、ルターが死を前にして言ったように神の前の乞食であるべきです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださいますように。アーメン。





2007/02/04(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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