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津田沼教会 牧師のメッセージ
「異邦人によって拝まれた幼子イエス」(マタイ2:1~12)
マタイ2:1-12、2007・01・07、顕現主日(典礼色―白―)
イザヤ書60:1-6、エフェソの信徒への手紙3:1-12

マタイによる福音書2:1~12
 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
 『ユダの地、ベツレヘムよ、
 お前はユダの指導者たちの中で
 決していちばん小さいものではない。
 お前から指導者が現れ、
 わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。




説教「異邦人によって拝まれた幼子イエス」(マタイ2:1~12)
 
皆さん、新年、2007年明けましておめでとうございます。教会の暦の上では、昨日1月6日が顕現日でありまして、顕現主日、本日の前日である昨日までが、昨年12月24日の夕方の礼拝から、クリスマスとして守られたわけであります。本日は顕現節の始まり、顕現主日として、毎年同じ箇所でありますマタイ福音書2:1-12が、福音の箇所として与えられています。そしてこの顕現節は、灰の水曜日の前日、今年の場合、2月20日まで続くことになります。
 さて、顕現主日には、毎年毎年繰り返し、マタイ2:1-12、この部分が説教箇所として与えられるわけですが、この世界の新年の時期に、それは偶然かもしれませんが、ここの記事が与えられていることは、非常に意味深いことのように思われます。皆さんも、きっとお正月、普段会えない家族にあったり、あるいは、友人にあったりされたことでありましょう。私も小学校の卒業後40年の同窓会ということもありまして、短い正月休暇をもらって、帰省してきました。
 家族との親しい交わりや、旧友との楽しいひと時を通して、感じましたことは、私たちの信じていますキリスト教というものは、本当に伝えるのが難しい、一朝一夕では説明できないものだということであります。「イエスさまも、今はこんなに世界中であがめられ、尊ばれているけれども、まさか2000年後にこうなるとは本人も夢にも思っていなかったことだろうね」とか、「キリストが十字架につくということが、旧約聖書のどこかに書かれているのか」といった率直な感想や質問にも出会いました。それに対しては、なんと答えていいのか、即座には答えるのが難しい問題であります。
 それで、そのようなイスラエルの民、選民だと自負していた彼らからすれば、本来は異邦人にあたる私たち、日本人にとって、本日のマタイ2:1-12は、ちょうど今のような時期に考えるのにふさわしい箇所だと思うのであります。本日の福音の箇所の出来事を、もう一度、ご一緒に思い起こしてみましょう。
 あのイエスは、ヘロデ王の御代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そして、見よ、そのころ、東方から、星ののぼるのを見た占星術の学者たち、もとの文ではマギたちと言いますけれども、彼らがエルサレムへと到来したと、本日の文は始まっています。そして彼らは言うのです。「お生まれになったユダヤ人の王はどこにいますか。というのは、私たちはその方の星ののぼるのを見たので、彼を拝みに来たのです」と。ヘロデ王は不安を感じた、そして、全エルサレムも同様だったとあります。この世界がメシア、救い主に対して、最初に抱く感情は、喜びではなく、困惑であります。私たちも、自分自身を振り返りますときに、最初から、主なる神を、そして、その独り子を知らされ、出会って、すぐに受け入れた人はほとんどいないのではないでしょうか。
 さて、ヘロデは、民の全祭司長たちと全律法学者たちを集めて、調べていました、どこで、メシアが生まれているのかを。彼らは言いました、「ユダのベツレヘムです、なぜならば、かの預言者を通してこう書かれています。ユダのベツレヘムよ、お前は、ユダの指導者たちのなかで最も小さい者ではない。お前の中から指導者が出て、イスラエルの民を指導するであろうから」と。これは、ミカ書の5章1節とサムエル記下5章の2節から導き、多少の変更を加えて、つないで書かれているものであります。後半は、人々がダビデを王とするときに、「イスラエルの民を牧するのはあなただと以前から私たちは思っていた」と言った文章から来ています。ダビデはベツレヘムで生まれ、小さいときから羊飼いでしたが、ちょうど紀元前1000年の頃に、初代の王サウルの後を受けて王に即位したのであります。そして、やがて人々は、人々の尊敬と信頼の厚かった王ダビデの生まれた町、ユダのベツレヘムから自分たちの救い主メシアがいつか現れると考え、特に正統的な学者たちによってそのように主イエスの時代には考えられるようになっていたのであります。
 救い主メシアが生まれるとき、東方のマギたちは、その星がのぼるのを見て、その星に導かれて、エルサレムまで来ました。古来、偉大な王等が生まれるときに、例えば皇帝アウグスツスが生まれたときにも星が出現したと記録されています。また、モーセがエジプトで生まれたときにも同じように星が現れたと伝えられています。そのモーセは、「私のような預言者がいつか現れる、それにあなたがたは聞き従え」(申命記18:15)と預言していました。この異邦人たちがその星ののぼるのを見たメシアは、新しいモーセ、モーセをはるかに上回る預言者、それどころか救い主であったのであります。そしてその星の輝きは、東方のマギたちに示され、彼らはその星に導かれてエルサレムまでたどり着いたのでありました。
 さて、今度は、ヘロデは、マギたちをひそかに呼び寄せ、その星の現れた時期、時刻を正確に彼らから聞きだし、確かめた上で、彼らを送り出して言いました。「その子のことを行って調べてくれ。そして、見つけたら、私に知らせてくれ、私も行って拝もう」と。そこで、彼らが彼の言葉を聞いて出かけると、見よ、彼らを導いたあの星が再び現れて、彼らに先立って導き、その子のいる場所の真上で止まったのであります。これは、天文学的な常識からは説明できない星の動きであります。彼らはそれを見てすこぶる大きな喜びを喜んだともとの文からは読めます。この非常な大きな喜びとは何だったのでありましょうか。彼らがその家に入ると、その子供と彼の母マリアがそこにおられ、彼らはひれ伏して拝み、彼らの宝物を開いて、ささげたのであります。それはすなわち、黄金、乳香、没薬でありました。それを、教会教父やルターは、黄金は主イエスが王であることを示し、乳香は、神であることを示し、没薬は、主イエスの受難と埋葬を示すものであると解釈しました。しかし、それらは、古代東方の特にアラビア原産とされる贈り物、ささげものの代表であり、彼らの主イエス、救い主に対する服従と忠誠を示すものと考えればいいいでしょう。それらは彼らの会うことを求めてきた救い主に会えた喜びと感謝を表すものでしょう。
で、彼らは、ヘロデのもとに戻るなと夢で警告を受けたので、別の道を通って彼らの国へと立ち去ったのであります。マギたちは、まったく新しい生き方、命を与えられて、東方へと帰ったのであります。主イエスがお生まれになった世界は、どろどろとした罪と闇で覆われたこの私たちの現実の人間世界の真っ只中へであります。そして、主の星に導かれて、み子に最初の礼拝をささげえたものは、マタイによれば、東方の異邦人たちであったのであります。そして、日本人である私たちも、今こうして、主イエスを知る大きな喜びを手にしているのであります。
祈りましょう。天の父なる神さま。私たちは、天地宇宙、万物の造り主であるあなたを知らされています。そしてあなたが、聖書の約束どおりに遣わされたみ子イエス・キリストを信じています。この大きな喜びであるみ子の誕生によって、私たちの罪は赦され、新しい道を歩む者とされています。この喜びを、宝を、一人でも多くの隣人に伝える者とならせてください。2007年の歩みがみ旨に適ったものとなりますように、津田沼教会とそこにつながるすべての人々を祝福してください。キリストによって祈ります。アーメン。
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2007/01/07(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)