津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「人間をとる漁師に」(ルカ5:1~12)
ルカ5:1-11、2007・01・28、顕現節第4主日(典礼色―緑―)
エレミヤ書1:9-12、コリントの信徒への手紙一12:12-26

ルカによる福音書5:1~11
 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せてきた。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。




説教「人間をとる漁師に」(ルカ5:1~11)

本日は、顕現節第4主日であります。そして、本日は、この礼拝の後、津田沼教会の総会をひかえています。このような特別な日に、日課としてルカ福音書5:1-11が与えられていることは、神さまの導きではないかとさえ思えるのであります。本日の福音の出来事について、皆さんとご一緒にしばらく考えてみたいと思います。
 本日のルカ5:1-11は、ペトロの召命、そしてさらに、ゼベダイの子ら、ヤコブとヨハネの召命にも関わる出来事であります。ゲネサレトの湖畔で、主イエスが立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆が押し寄せるということが起こります。既に主は、その評判がカファルナウムや、ゲネサレトの湖畔の町々に知れ渡っていたのであります。そして、本日の出来事の前に、主はシモンの姑の病気をいやすことをなさっていますので、ある程度、既にシモンたちは、弟子となっていたと考えられます。シモンたちは、一晩中漁をしましたが、1匹もとれませんでした。徒労に終わった漁の後始末に、彼らは、網を水で洗っているところでありました。そんなときに、主イエスは、二そうの泊めてあった船のうちの一そう、ペトロの船に乗り、少し岸辺から漕ぎ出してくれるように頼んだのであります。そして、主イエスはその船の上に座って、群衆に教えておられたのであります。主は何を語られていたでありましょうか。神の言葉であり、それは、神の国の福音に関わるものであったでありましょう。神が私たちのもとにきて、ご支配してくださる、その救いの招きについてであったでありましょう。
さて、話を終えられると、シモンに深みに漕ぎ出して、漁をするために網を降ろすように招いたのであります。シモンは答えました。「先生、私たちは一晩中懸命に働いたけれども1匹も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしに行ってみましょう」。兄弟のアンデレが一緒だったでありましょうか。彼らが沖に漕ぎ出し、深みで網を降ろすと、おびただしい数の魚をいっぱいに囲み、網が裂けはじめたほどでした。彼らはもう一そうの船にいた仲間たちに合図を送り、やってきて一緒に助けてくれるように求めました。もう一そうの者たちもやって来て、網をあげると、舟は魚の大量で沈み始めるほどでした。そのようなおびただしい魚群が、ゲネサレトの湖、ガリラヤ湖では、今でもしばしば見られるそうです。しかしその時、シモン・ペトロは、言いました。「私から離れてください、私は罪深い男ですから、主よ」と。知識による奇跡をもたらした主イエスを、ペトロは神から来られた聖なる方であることを知ったのです。しかし主は、言われました。「恐れるな。あなたは、今からは、人間たちをすなどる者になるであろう」。大きな大漁に恐れを彼らは抱いていたからであると、聖書は記しています。亀井勝一郎氏は、主イエスはどうして、ペトロたち太古の漁民をそのままにしておかなかったのだろうかと書いています。しかし、私たち人間は、神と共に歩むことなくしては、真に人間らしい人間になることはできないのであります。
彼らは舟を陸にまであげて、その大漁の魚も、網や父も何もかもすべてを後にして、主イエスに従ったのでした。本日の出来事はまた、ペトロたちがその後、すなどることになる地中海一帯の多くの人々を表す大漁でもあったでしょう。
私たちもまた、2007年度、人々を教会へと招き、すなどる1年を求めて、津田沼教会の総会をこれから開こうとしています。私たちも、ペトロと同じように罪深い人間ですが、主は、何事も恐れることなく、私にすべてを託して従ってくるようにと招いてくださっています。自分の罪深さにおののくことなく、主にすべてを告白しつつ、人々を教会に招き、人間をとる漁師であると共にまた、牧師も信徒・求道者のみなさんも、私たちは互いに世話をしあう羊飼いでもあることを忘れずに、この一年を過ごしてまいりましょう。

私たちの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。アーメン。

スポンサーサイト
2007/01/28(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「恵みの年の実現」(ルカ4:16~32)
ルカ4:16-32、2007・01・21、顕現節第3主日
エレミヤ書1:4-8、コリントの信徒への手紙一12:1-11

ルカによる福音書4:16~32
 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
「主の霊がわたしの上におられる。
 貧しい人に福音を告げ知らせるために、
 主がわたしに油を注がれたからである。
 主がわたしを遣わされたのは、
 捕らわれている人に解放を、
 目の見えない人に視力の回復を告げ、
 圧迫されている人を自由にし、
 主の恵みの年を告げるためである。」
 イエスは巻物を巻き、係りの者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

 イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。




説教「恵みの年の実現」(ルカ4:16~32)
本日は、顕現節の第3主日であります。そして与えられています福音の個所は、ルカ4:16-32であります。これは、主が洗礼をお受けになり、そのとき、聖霊が彼の上にくだりました。その後、聖霊に導かれ、40日間の悪魔の誘惑にあわれた後に、ガリラヤに戻って来られます。そして、諸会堂で彼は教えられ、その名声がガリラヤ一帯に広がったのであります。
そして彼は、お育ちになった立ちになった故郷の町、ガリラヤのナザレに戻ってきます。いつものとおり、安息日に会堂にお入りになり、朗読するためにおたちになります。モーセ五書と言われる律法の書が読まれた後であったでしょうか。係りの者は、イザヤ書の巻物を彼に手渡したのであります。主は既に有名なラビの一人として見なされていたのでありましょう。そして彼は、その巻物をお開きになり、イザヤ書の61編の冒頭の個所を見出します。それは、こういうふうなものでありました。「聖霊が私に向かってとどまっている。そして、主は私に油を注がれた。そして、私は遣わされた。それは、貧しいものに福音を宣べ伝え、囚人たちに解放を告げ、目の不自由なものに、視力の回復を、踏みにじられているものたちを自由において去らせ、主の恵み、主のご好意の、あるいは主に受け入れられた年を告げるためである。」そういう聖書の言葉を読んだ後、聖書を係りの者、今でいう執事のような者にお返しになり、座って語り始められます。「この聖書の言葉は、今日、あなた方の耳において実現された」と。主イエスは、待たれていたメシアとして来られ、今メシアの時代が彼の到来とともに始まったと宣言されたのであります。それは、バビロン捕囚以降の待たれていた社会的な、あるいは政治的な改革者を意味するものではなく、全人類を罪と悪魔と死、人間の闇から解き放つために来られたメシアであり、イザヤ書のその言葉は、私において実現したと言われたのであります。今までの預言者たち、イザヤやエレミヤは、「主はこう言われる」とか「主がこう語られた」と人々に宣言しましたが、主イエスは「私ははっきりとこう言う」と権威をもって語られるのであります。それは、今までの預言者たちにないまったく新しいお言葉でありました。
さて、故郷ナザレの人たち、それを聞いたとき、最初は、彼についてよい証言をなし、彼の口から出てくる恵みの言葉、人をひきつける言葉にただただ驚いていたのでありますが、しかし、すぐに変わり、彼らはこう言うのであります。「この者は、ヨセフの息子ではないか」と。人間的な判断からは、救い主イエスを理解することはできないのであります。 
そして、彼の故郷の人々による拒絶は、その公の生涯の初めにあり、そして、その後に続くイスラエル、主の民による拒絶の前触れ、予告であったのであります。そして、主の民とは異なる異邦人である者たちが、メシアの祝福に与ることになるのであります。
主は言われました。「はっきり言っておく、預言者は彼の故郷で受け入れらないものである」と。そして、エリヤが3年半の大飢饉になって、天が閉じたとき、イスラエルの多くのやもめのところには遣わされず、エリヤはシドンのサレプタのやもめの女のところにだけ遣わされたと言われ、また、預言者エリシャのとき、重い皮膚病の人がイスラエルに大勢いたが、シリアのナアマン以外にはだれも清められなかったと旧約の出来事を引用して言われたのであります。人々は、彼をその町が建っている丘の崖まで町の外へと追い出し、突き落とそうとしたのでありますが、まだ、彼のときは来ておらず、神によって守られて、奇跡的に人々の真ん中を通って去り、進んでいかれたのであります。そして彼は、カファルナウムにくだっていき、会堂で教えられましたが、彼の言葉は、権威、力においてあったので、人々を驚かせたのであります。旧約聖書は、イエス・キリストをメシアとして約束している書物であります。そしてお出でになる方は、イザヤ書に書かれている通り、苦難のしもべとしてのメシアでありました。私たちの罪のために、十字架にかかることが、このようにして旧約聖書を通して予告されているのであります。そして、ナザレでのこの最初の説教は、故郷の人々によって拒まれ、十字架につけられることの予告であります。しかし、主イエスのこの日の到来において、罪赦される恵みの年、メシアの時代が実現していたのであります。私たちも、この主イエスにより、もたらされている恵みの年を、人々に伝える証し人に一人一人がそれぞれに与えられている賜物を用いてならせていただきたいと願う者であります。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。



2007/01/21(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「キリストが洗礼をお受けになる」(ルカ3:15~22)
ルカ3:15-22、2007・01・14、主の洗礼日(典礼色―白―)
イザヤ書42:1-7、使徒言行録10:34-38

ルカによる福音書3:15~22
 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉にいれ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。

 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。



説教「キリストが洗礼をお受けになる」(ルカ3:15~22)
 
顕現節に入りまして、第二の主日である本日は、主の洗礼日の礼拝であります。ルカ福音書3章の15節から22節までが、本日の福音として与えられています。群衆が、荒れ野とヨルダン川一帯に、呼ばわる者の声として現れた洗礼者ヨハネのもとにぞくぞくと集まって来ます。その群集は、本日の部分では、民衆、ラオスという言葉に変わっています。これは、神の民に、すべての人がなるようにと招かれていることを表しています。世界中のすべての人が洗礼を受け、メシアのもとで救われた民になるように招かれていることを、ルカはその考えの中に入れているのであります。
 民衆は、期待して、彼らのその心の中で、あれこれと思い巡らし、もしかしたら、ヨハネがメシアではないかと考えていたのであります。その生前に人々に及ぼした影響力からすれば、洗礼者ヨハネのほうが、主イエスよりも大きかったのではないかとも考えられます。しかし、福音書記者たちは、一致して、主イエスこそ、はるかにまさる待たれていたメシア、キリストであることを証言しているのであります。そして、ルカも洗礼者ヨハネの口を通して、すべての者に向けてこう言わせます。「私は、水であなたがたに洗礼を授けているが、私よりもはるかに力ある方がお出でになっている。私はその方の履物の紐を解くのにも値しない。その方は、彼の手に箕をもって、脱穀場をきれいにし、麦は倉に、入れ、籾殻は燃え尽きない火で焼き払われるであろう。そして、聖霊と火においてあなたがたに洗礼を授けられるであろう。」
世界中の人が、よき麦の穀物であるか、あるいは、役に立たない籾殻として、焼き払われるか、私たちは、そのいずれかに峻別されると、ヨハネは警告を発しています。そして、ヨハネが授ける悔い改めの洗礼ではなくて、主イエスによってもたらされる聖霊と火における洗礼を指し示したのであります。私たちは、洗礼によって、試練や苦しみがなくなるのではなく、みもとに召されるまで、聖霊と火で信仰が練り清められる者となることが、洗礼者ヨハネによって示され、約束されているのであります。
 すべての人が洗礼を受けに来た後、主イエスも、洗礼を受けられ、祈っていると、天が開かれ、聖霊が鳩のような形で、肉体的な形を取って、下ってき、天から声がなるということが起こります。そして、「あなたは、私の息子、愛する者、あなたにおいて、私は大いに喜んでいる」という声が起こりました。
罪のない主イエスがどうして洗礼を受けられたのでしょうか。それは、主イエスの洗礼を通して、神と人との交わりが回復されるためでありました。そして、洗礼者ヨハネは、すべての民衆にそのための用意をさせ、主イエスがメシアであることを証言し、その方がお出でになられるとき、聖霊がくだることを人々に知らせるために来たメシアの先駆者であります。
別の個所で、「女の中から生まれでた預言者たちの中でヨハネよりも偉大な者はいなかった。しかし、神の国におけるどのような小さい者も、ヨハネよりは偉大である」と主は言われます。私たちが受けている、また、求道者にとっては受けようとしているこのまことの洗礼がどんなに大きな恵みであり、力であるかを改めて噛み締めたいと思うものであります。
祈りましょう。
天の父なる神よ。あなたは、主イエスの受洗のとき、聖霊をくだし、み子に喜びを表されました。私たちにも、父と子と聖霊のみ名による洗礼の大きな喜びを今一度思い起こさせてください。キリストによって祈ります。アーメン。








2007/01/14(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「異邦人によって拝まれた幼子イエス」(マタイ2:1~12)
マタイ2:1-12、2007・01・07、顕現主日(典礼色―白―)
イザヤ書60:1-6、エフェソの信徒への手紙3:1-12

マタイによる福音書2:1~12
 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
 『ユダの地、ベツレヘムよ、
 お前はユダの指導者たちの中で
 決していちばん小さいものではない。
 お前から指導者が現れ、
 わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。




説教「異邦人によって拝まれた幼子イエス」(マタイ2:1~12)
 
皆さん、新年、2007年明けましておめでとうございます。教会の暦の上では、昨日1月6日が顕現日でありまして、顕現主日、本日の前日である昨日までが、昨年12月24日の夕方の礼拝から、クリスマスとして守られたわけであります。本日は顕現節の始まり、顕現主日として、毎年同じ箇所でありますマタイ福音書2:1-12が、福音の箇所として与えられています。そしてこの顕現節は、灰の水曜日の前日、今年の場合、2月20日まで続くことになります。
 さて、顕現主日には、毎年毎年繰り返し、マタイ2:1-12、この部分が説教箇所として与えられるわけですが、この世界の新年の時期に、それは偶然かもしれませんが、ここの記事が与えられていることは、非常に意味深いことのように思われます。皆さんも、きっとお正月、普段会えない家族にあったり、あるいは、友人にあったりされたことでありましょう。私も小学校の卒業後40年の同窓会ということもありまして、短い正月休暇をもらって、帰省してきました。
 家族との親しい交わりや、旧友との楽しいひと時を通して、感じましたことは、私たちの信じていますキリスト教というものは、本当に伝えるのが難しい、一朝一夕では説明できないものだということであります。「イエスさまも、今はこんなに世界中であがめられ、尊ばれているけれども、まさか2000年後にこうなるとは本人も夢にも思っていなかったことだろうね」とか、「キリストが十字架につくということが、旧約聖書のどこかに書かれているのか」といった率直な感想や質問にも出会いました。それに対しては、なんと答えていいのか、即座には答えるのが難しい問題であります。
 それで、そのようなイスラエルの民、選民だと自負していた彼らからすれば、本来は異邦人にあたる私たち、日本人にとって、本日のマタイ2:1-12は、ちょうど今のような時期に考えるのにふさわしい箇所だと思うのであります。本日の福音の箇所の出来事を、もう一度、ご一緒に思い起こしてみましょう。
 あのイエスは、ヘロデ王の御代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そして、見よ、そのころ、東方から、星ののぼるのを見た占星術の学者たち、もとの文ではマギたちと言いますけれども、彼らがエルサレムへと到来したと、本日の文は始まっています。そして彼らは言うのです。「お生まれになったユダヤ人の王はどこにいますか。というのは、私たちはその方の星ののぼるのを見たので、彼を拝みに来たのです」と。ヘロデ王は不安を感じた、そして、全エルサレムも同様だったとあります。この世界がメシア、救い主に対して、最初に抱く感情は、喜びではなく、困惑であります。私たちも、自分自身を振り返りますときに、最初から、主なる神を、そして、その独り子を知らされ、出会って、すぐに受け入れた人はほとんどいないのではないでしょうか。
 さて、ヘロデは、民の全祭司長たちと全律法学者たちを集めて、調べていました、どこで、メシアが生まれているのかを。彼らは言いました、「ユダのベツレヘムです、なぜならば、かの預言者を通してこう書かれています。ユダのベツレヘムよ、お前は、ユダの指導者たちのなかで最も小さい者ではない。お前の中から指導者が出て、イスラエルの民を指導するであろうから」と。これは、ミカ書の5章1節とサムエル記下5章の2節から導き、多少の変更を加えて、つないで書かれているものであります。後半は、人々がダビデを王とするときに、「イスラエルの民を牧するのはあなただと以前から私たちは思っていた」と言った文章から来ています。ダビデはベツレヘムで生まれ、小さいときから羊飼いでしたが、ちょうど紀元前1000年の頃に、初代の王サウルの後を受けて王に即位したのであります。そして、やがて人々は、人々の尊敬と信頼の厚かった王ダビデの生まれた町、ユダのベツレヘムから自分たちの救い主メシアがいつか現れると考え、特に正統的な学者たちによってそのように主イエスの時代には考えられるようになっていたのであります。
 救い主メシアが生まれるとき、東方のマギたちは、その星がのぼるのを見て、その星に導かれて、エルサレムまで来ました。古来、偉大な王等が生まれるときに、例えば皇帝アウグスツスが生まれたときにも星が出現したと記録されています。また、モーセがエジプトで生まれたときにも同じように星が現れたと伝えられています。そのモーセは、「私のような預言者がいつか現れる、それにあなたがたは聞き従え」(申命記18:15)と預言していました。この異邦人たちがその星ののぼるのを見たメシアは、新しいモーセ、モーセをはるかに上回る預言者、それどころか救い主であったのであります。そしてその星の輝きは、東方のマギたちに示され、彼らはその星に導かれてエルサレムまでたどり着いたのでありました。
 さて、今度は、ヘロデは、マギたちをひそかに呼び寄せ、その星の現れた時期、時刻を正確に彼らから聞きだし、確かめた上で、彼らを送り出して言いました。「その子のことを行って調べてくれ。そして、見つけたら、私に知らせてくれ、私も行って拝もう」と。そこで、彼らが彼の言葉を聞いて出かけると、見よ、彼らを導いたあの星が再び現れて、彼らに先立って導き、その子のいる場所の真上で止まったのであります。これは、天文学的な常識からは説明できない星の動きであります。彼らはそれを見てすこぶる大きな喜びを喜んだともとの文からは読めます。この非常な大きな喜びとは何だったのでありましょうか。彼らがその家に入ると、その子供と彼の母マリアがそこにおられ、彼らはひれ伏して拝み、彼らの宝物を開いて、ささげたのであります。それはすなわち、黄金、乳香、没薬でありました。それを、教会教父やルターは、黄金は主イエスが王であることを示し、乳香は、神であることを示し、没薬は、主イエスの受難と埋葬を示すものであると解釈しました。しかし、それらは、古代東方の特にアラビア原産とされる贈り物、ささげものの代表であり、彼らの主イエス、救い主に対する服従と忠誠を示すものと考えればいいいでしょう。それらは彼らの会うことを求めてきた救い主に会えた喜びと感謝を表すものでしょう。
で、彼らは、ヘロデのもとに戻るなと夢で警告を受けたので、別の道を通って彼らの国へと立ち去ったのであります。マギたちは、まったく新しい生き方、命を与えられて、東方へと帰ったのであります。主イエスがお生まれになった世界は、どろどろとした罪と闇で覆われたこの私たちの現実の人間世界の真っ只中へであります。そして、主の星に導かれて、み子に最初の礼拝をささげえたものは、マタイによれば、東方の異邦人たちであったのであります。そして、日本人である私たちも、今こうして、主イエスを知る大きな喜びを手にしているのであります。
祈りましょう。天の父なる神さま。私たちは、天地宇宙、万物の造り主であるあなたを知らされています。そしてあなたが、聖書の約束どおりに遣わされたみ子イエス・キリストを信じています。この大きな喜びであるみ子の誕生によって、私たちの罪は赦され、新しい道を歩む者とされています。この喜びを、宝を、一人でも多くの隣人に伝える者とならせてください。2007年の歩みがみ旨に適ったものとなりますように、津田沼教会とそこにつながるすべての人々を祝福してください。キリストによって祈ります。アーメン。
2007/01/07(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。