津田沼教会 牧師のメッセージ
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「老人シメオンとアンナの祝福」(ルカ2:25~40)
ルカ2:25-40、2006・12・31、降誕後主日(典礼色―白―)
エレミヤ書31:10-14、ヘブライ人への手紙2:10-18

ルカによる福音書2:25~40
 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり
 この僕を安らかに去らせてくださいます。
 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
 これは万民のために整えてくださった救いで、
 異邦人を照らす啓示の光、
 あなたの民イスラエルの誉れです。」
 父とは母、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。―あなた自身も剣で心を刺し貫かれますー多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
 また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。

 親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。




説教「老人シメオンとアンナの祝福」(ルカ2:25~40)
 皆さん、改めてクリスマスおめでとうございます。クリスマスは、12月24日のクリスマスイブから始まって、顕現主日すなわち、それはちょうど来年は1月7日が日曜日にあたり、その前日の1月6日の土曜日の顕現日までが私たちの教会暦ではクリスマスにあたります。デパートなどでは、もう新年を祝う門松などが飾られていて、クリスマスは過ぎたかのように扱われていますが、通常の暦で言えば、年末年始の2週間ほどが本来はクリスマスとして祝われるのであります。
 さて、本日、降誕後主日に与えられていますルカ福音書の箇所は、2:25-40までであります。私は、本日の説教題を「老人シメオンとアンナの祝福」というふうにつけておきました。シメオンが老人であったとは必ずしも明らかではありません。しかし、特に、私たちルーテル教会の式文の特徴であるといわれるヌンク・デュミツスの言葉からは、シメオンもアンナと同じく老人であったのではないかと、私には想像されるのであります。二人の老人から、生まれて間もない幼子イエスとその両親が祝福され、神がほめたたえられるということは、救い主としてお生まれになった主イエスにふさわしいことではないかと考えられるのであります。老人は、それも特に信仰深い、敬虔なお年寄りは、真実を見出すのに敏感で、聖霊の導きで待ち望まれていた救い主に出会い、その子のことで神をほめたたえ、感謝し、賛美するというのは、不思議なことですが、確かに起こったことなのだと私は信じる者であります。
 本日の出来事について、ご一緒に、もう一度、思い起こしてみましょう。
さて、エルサレムに、シメオンというイスラエルの慰められるのを待ち望んでいる正しく、敬虔な人がいました。そして、聖霊が彼に向かってとどまっていました。彼は、自分が、主のメシアに会うまでは死を見ないとの約束を、聖霊によって啓示されていました。その彼が、聖霊に導かれて神殿の境内に入ってきたちょうどそのときに、イエスの両親が、彼らの慣例に従ってささげものをするために、同じく、神殿の境内、おそらく婦人の庭といわれるあたりにやって来ました。シメオンは、その幼子を腕に抱いて、彼らを祝福して言いました。「今こそ主よ、あなたのお言葉通り、あなたはしもべを去らせてくださいます。なぜなら、私の両目はあなたの救いを見たからです。これは、万民の救いのために備えられたもの、異邦人たちへの啓示の光、み民イスラエルの栄光です。」これは、私たちが毎週の礼拝の派遣の部で歌うヌンク・デュミツスそのものであります。シメオンは、「ご主人さま、しもべの私は、あなたの救いを見たので、これで見張りの大任を解かれました。あるいはさらに、私は主の救いを見たのでもう安らかに死んでもいいですと歌うのです。私たちは、礼拝の場からそれぞれの生活の場へと派遣されるときに、シメオンとともに、このヌンク・デュミツスを毎週歌って出て行くようにと式文を通して導かれています。
 さて、このシメオンは、両親が驚いているとき、母親のマリアに向かって言います。「この子は、イスラエルの多くのものを倒れさせたり、起き上がらせるために、また、反対されるしるしとして、定められている。あなたの心を、あるいは魂を、大きな槍のような剣が貫くでしょう。それは、多くの人々の心の思い、論法、悪い性質があらわにされるためです。」確かに私たちは主イエスに対面するとき、従順に従うか、それとも主イエスに反抗して、神の裁きを招くか、そのいずれかであります。私たちは、主イエスに心から従いたいと思うものですが、力足りず、あるいは、油断して欲望に負けて倒れたり、主のお言葉から離れてしまうことがしばしばです。しかし、この幼子への信仰によって生涯の最後には、立ちあがり、主の平安に落ち着くことを得たいものであります。この幼子イエスが成長して世に現れても、面と向かって反対する者は、昔から今まで、いつの時代も国のいかんを問わず、非常に多いのであります。
 さて、そこに更に、アンナという年をとった、結婚生活を7年を夫とともにした、84歳になる、あるいは、91歳以上にもなるとも訳しうる女預言者がいて、彼女は、神殿に来ては、夜も昼も断食と祈りをして神に仕える人でありました。この人も、ちょうどこのとき、やって来て、神を賛美し、感謝し、彼イエスのことについて、エルサレムの贖い、救いを待ち望んでいるすべての人たちに、しゃべって聞かせることを続けていたのでありました。このアンナのあり方は、現代の私たちもそうであるべき典型的な、証しする信者の姿であります。
 二人の、おそらく、老人によって、祝福を受けた彼ら夫婦と幼子イエスは、この後、主の律法に定められたことを、両親が済ましたのでガリラヤのナザレに戻り、体も成長を続け、霊的にも強くなり、知恵に満たされて、神の恵みが彼に向かってあったと、本日の記事は結ばれています。アダム以来、初めての罪のない人間が、この地上で体も心も知恵も増し加えられて歴史世界の中で、成長しつつあったのであります。そして、このお方によって、さらに最終的には、この罪なきお方の十字架の死を通して、私たちは、罪をあがなわれ、赦され、そして、新しく生きることができるものとされているのであります。この二人の老人によって、ほめたたえられた主のメシア、生まれたばかりの主イエスの出来事を今一度、年の変わり目に思い起こし、新しい一年の出発をさせていただきたいものであります。
天の父なる神様。
 私たちは、自分の力では決して清くなることも、罪からまぬかれることもできません。約2000年前に生まれた本日の幼子イエスによってのみ、私たちは、罪の奴隷から脱することができます。常に、日々このみ子キリストに立ち返る一年でありますように、私たちを強めてください。キリストのみ名によって祈ります。アーメン。




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2006/12/31(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「マリアのエリサベト訪問」(ルカ1:39-45)
 ルカ1:39-45、2006・12・24、待降節第4主日(典礼色―紫―)
ミカ書5:1-4a、ヘブライ人への手紙10:5-10

ルカによる福音書1:39~45
 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」



説教「マリアのエリサベト訪問」(ルカ1:39~45)

 皆さん、クリスマス、おめでとうございます。正確には、クリスマスは12月25日でありますが、今年は本日12月24日が日曜日にあたるものですから、本日は、待降節第4主日兼クリスマス主日として、津田沼教会では祝うことにしました。そして、順序は逆になりますが、今晩7時から再びクリスマスイブの礼拝を守ることにしました。場所によっては、たとえば、私の田舎の教団の教会では、昨夜クリスマスイブの礼拝やキャロリングをすましたらしく、本日を順序正しく、クリスマス主日として守るようであります。
3時から予定していますので、クリスマスを表す白に変えて祝い、今年は、2007年の顕現主日1月7日の前の日、今年はちょうど1月6日の顕現日までの14日間をクリスマスとして祝うわけであります。
 待降節第4主日に与えられている福音書の箇所は、ルカ1:39-45であります。非常に短いエピソードといいましょうか、主ご降誕前の出来事であります。12月の第1日曜日、12月3日から教会暦における新年が、すなわち、アドベントが始まりましたが、3年サイクルのC年であります今年の主たる福音書は、ルカであります。マルコ福音書からルカに変わって、ルカ福音書になじんでいくのにも、しばらく手間取るような思いがしています。ルカは、医者であったともいわれており、また、他の福音書記者と比べてよく分かるのは、同じ著者であります使徒言行録などを考えても窺えるように、歴史家としての一面が特徴的であります。少し、前置きが長くなりましたが、本日の福音、ルカ1:39-45をもう一度、思い起こしてみましょう。先週の天使ガブリエルによる受胎告知に続く出来事であります。マリアは、「そのころ」、もとの文では、「それらの日々において」、準備をして、急いで山里、丘陵地帯へと、ユダの町へと行ったのであります。マリアは、み使いから示されたように、後の洗礼者ヨハネを身ごもって6ヶ月になる、そしてまた、親類でもあるエリサベトを訪ねるのであります。それがどこであったのかは、わかりません。ヘブロンであったのか、それとも、名もなき小さな山里の町であったのでしょうか。その親密な関係からは、ヨセフとマリアは、以前ベツレヘムか、エリサベトの町の近くに住んでいたとも想像されます。また、エリサベトは親類であり、既に年をとっていたとありますから、マリアとは叔母と姪のような関係にあったのでしょうか。
 マリアが、ザカリアの家に入って、エリサベトに挨拶をしました。すると、エリサベトのお腹のなかの胎児、後の救い主の先駆者であり、洗礼者ヨハネとなる赤ちゃんが、喜び、お腹の中で踊ったのであります。母親の経験している感情が、胎児に影響を与えるということは、私たちも、よく知るところであります。エリサベトは聖霊に満たされ、声高らかに、喜びの叫び声をあげます。そして、ここで最初の「幸いなるかな」という言わば賛歌を短く歌っているのであります。あなたは、女たちの中でも特別に祝福されています。あなたの胎内の実、お子さまも祝福されています。主の、すなわち、メシアのお母さまが、私を訪ねてくれるとはどういうわけでしょう。あなたの挨拶を耳にしたとき、私の胎内の子は喜びおどりました、喜びに満ちてはねましたというのです。ザカリヤに天使が示したように、その子は胎内にいるときから、聖霊に満たされていたのであります。そして、エリサベトは、最後に次のように語ったとも訳すことができます。すなわち、「信じゆだねた方は、幸いである、祝福されている。なぜならば、主からその人に語られたことは、必ず実現するであろうから」と。
 私たちは、ここで、旧約聖書の創世記で、エサウとヤコブがレベカのお腹の中で押し合ったという記事を思い起こします。先に生まれた者、兄のエサウが後から生まれた者ヤコブに仕えることになるであろうという出来事を思い起こします。ルカは、歴史家の目でこの福音書を書いていますが、しかしあくまでも聖書の土台の上に立って、歴史の中で起こった救い主の誕生の出来事、そのなさったみ業とその意味を明らかにしようとしています。主イエスは、ルカの後の記事の中で、女の中から生まれた預言者のうちで、洗礼者ヨハネよりも偉大な者はいなかった。しかし、神の国ではその最も小さい者も、彼よりは大いなる者であるといわれています。すべての母親、女の人たちは救い主の母になることを、ユダヤでは、その当時願っていたそうです。神さまは、しかし、それまで、名も知られていなかったナザレという寒村の田舎娘を救い主の母としてお選びになりました。
 マリアは、この後、3ヶ月、共にいて、ナザレへと、いい名づけのヨセフの下へと帰っていったのであります。待ちに待たれた救い主の誕生が、こうしてまもなく実現するのであります。そして、私たちは、こうしてお生まれになり、神の国を説き、奇跡やいやしをなし、ついには、私たちの罪のために、十字架におかかりになった主イエスが復活し、天の父の右の座に着いておられることを信じています。
そして、世の終わりに、このお方は、私たちを、羊と山羊のように、右と左に分けるために再び来られるのであります。
 本日は、この後、洗礼式と転入式があり、そして、聖餐に与ります。マリアのように、主からのお言葉が必ず実現することを信じる者として、新しい一年を過ごしたいものであります。
祈りましょう。
 天の父なる神さま。
待降節、そして、クリスマスと私たちは教会暦の新しい一年を歩みだしています。本日は洗礼を受ける姉妹もおられます。また、一年に一、二度しか礼拝に与れない方、さらに、出席したくても出席できないご高齢の方や事情のある方、療養中の方なども一方にはおられます。
 どうか、私たちが、どこにいても常にキリストを仰ぎ見、キリストから離れない一年を歩ませてください。今年は、ルカの福音書が中心に読まれます。ルカが強調しますように、この一年も悔い改めの日々を、み言葉と共に歩ませてください。この感謝と願いを、キリストのみ名によっておささげします。アーメン。
2006/12/24(日) 10:30:03| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「お言葉どおり」(ルカ1:26~38)古越俊行牧師説教
ルカ1:26-38、2006・12・17、待降節第3主日(典礼色―紫―)
サムエル記下7:8-16、ローマの信徒への手紙16:25-27

ルカ福音書1:26~38
 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。



説教「お言葉どおり」古越俊行牧師(日本福音ルーテル教会引退教職)

 私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン。
 本日の福音書の日課は、ルカ1章26節から38節です。マリアへの受胎告知の場面です。昔から、芸術家は、好んで聖書を題材にして作品を生み出してきましたが、受胎告知の場面からも、音楽家は「アヴェ・マリア」を作曲し、画家たちは、絵筆をふるって、それぞれ名画を生み出しました。レオナルド・ヴィンチの描いた『受胎告知』は、フィレンツェの美術館で140年間門外不出とされて来たそうですが、来年3月20日から、日本で公開されるそうです。
 教会は、この受胎告知を、信仰告白『使徒信条』の中で、こう表現しています。「聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ、ポンティオ・ピラトのもとに苦しみを受け・・・」と。
 さて、天使ガブリエルから、「あなたは身ごもって男の子を産むであろう」と告知されたときの、マリアの驚きは、いかばかりだったでしょうか。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人をしりませんのに」と、全く考えられない、とても信じられない、と言わんばかりの反応を示しています。
 マタイ福音書は、いいなずけヨセフの立場で、その驚きを表現しています。
 マタイ1章18節以下によると、「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」と、この出来事へのヨセフの反応を記しています。
 マリアもヨセフも、一人の人間として、特に、律法のもとに生きるユダヤ社会の一員として、当然の反応でありました。しかし、マリアもヨセフも、そこで不信に陥ることはありませんでした。二人が下した決断は、もちろん、常識を超えたものです。
 マリアは、天使ガブリエルの言葉を、主なる神の言葉として聞きました。その結果、「お言葉どおり、この身に成りますように」と、すべてを受け入れていく決心をします。
 ヨセフも、夢の中に現れた天使の言葉に従って、事態を受け入れ、すべてを神に委ねていく決心をしております。
 二人とも、天使の言葉を神の言葉として信じ、受け入れ、「神にできないことは何一つない」という約束に、すべてを賭けて、決断しているのです。
 マタイ19章を見ると、「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と尋ねた青年に、イエスは「天に富を積み、わたしに従いなさい」と教えられました。しかし、悲しみながら立ち去る青年の姿を見送りながら、イエスは弟子たちに「金持ちが天の国に入るのは難しい」と言われました。「それでは、だれが救われるのだろうか」と驚く弟子たちに、イエスは「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と教えられました。
 「神にできないことは何一つない」。この聖書の言葉は、今日も響いている、主なる神の力強い言葉、約束の言葉であります。ヨハネ黙示録22章6節と7節には、こう記されています。
 「そして、天使はわたしにこう言った。「これらの言葉は、信頼でき、また真実である。預言者たちの霊感の神、主が、その天使を送って、すぐにも起こるはずのことを、御自分の僕たちに示されたのである。見よ、わたしはすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである。」と。
 マリアの訪問を受けたザカリアの妻エリサベトも、マリアに言います。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」。あの「マリアの賛歌」(マグニィフィカト)が、マリアの信仰告白として歌われるのです。
 問題は常に、神の側にあるのではなく、人間の側にあります。
 もう40年ほど前に、出版された一冊の本があります。日本語を勉強している宣教師たちのために作られた、ハンドブックで、英語とローマ字で書かれています。それは、「ナイアガラの滝の物語」というものです。
1. 救われる、ということは、簡単に言えば、どういうことであるか、と、多くの人は知りたがっています。
2. 私は、この救いを「ナイアガラの滝の物語」を引いて、説明してみましょう。
3. ナイアガラの滝は、日光の華厳の滝の何十倍もあるほど、大きな滝です。
4. このお話によると、ウォーカーさんという人が、毎週一度、長い針金をナイアガラの滝の端から端まで渡して、その上に樽をころがしながら渡るのでした。
5. その日は、ウオーカーさんの綱渡りが行われる日でした。
6. 見物人の中で、3人の人が、話しておりました。
7. 一人が言いました。「私は、ウォーカーさんが綱を渡るのを、この目で10回も見た。今日もあの人はきっと渡るにちがいない」と。
8. もう一人が言いました。「いや、彼は、今日は落っこちる」と。
 すると、先の一人が言いました。「いや、いや、きっと渡る」と。
9. こんなことを、しばらく言い合ってから、二人は、とうとう、「じゃあ、ひとつ、賭け  
 をしよう」と言いました。
10. そうして、二人はポケットからお金を取り出して、3番目の人に、「賭けが済むまで、このお金をあずかっていてください」と頼みました。
11. 3番目の人は、「ええ、喜んで」と言って、さらに、「しかし、あなたは、一体、私が誰だか、知っていますか?」
12. 「いいえ、知りません。どなたですか?」
13. 「私はね、あなたが、今、賭けをしようとしているウオーカーです。」
14. 「あなたは、私が、向こう岸まで渡ると信じるなら、一つ、お願いがあります。」
15. 「どうぞ、私の樽の中に入ってください。私はあなたを、樽と一緒にころがしましょう。いいですか?」
16. その男は、急に怖くなって、「喜んでそうしたいんですが、私は、今、歯医者へ行かなければならないんで、ね。じゃ、さよなら。」と言って、逃げてしまいました。
17. あなたは、この人を笑うかもしれませんが、この男は、あなた自身であるかもしれません。
18. これは、救いの例です。
19. 人間は、3つの部分、すなわち、感情・意志・霊性すなわち、知・情・意を持っています。
20. 第1、この人は、ウォーカーさんが、渡るということを頭で信じました。
21. しかし、彼は、樽の中に入りましたか?。いいえ!
22. 第2に、感情が働きました。この人は、ウォーカーさんを信じて、ポケットからお金を取り出しました。
23. この人は、樽の中に入りましたか?。
24. 第3に、これは最も大切なことですが、彼は、ウォーカーさんを信じた以上、自分の意志を殺して、ウォーカーさんを信じ、頼って、その樽の中に入るべきだったのです。
25. しかし、樽の中に入りましたか?
26. いいえ!、彼は、最も大切なところへ来て、言い訳を言って、逃げてしまったのです。
 滝の上に張られた1本の綱、それは、天の父に至るキリストの道でしょうか。樽に乗るか乗らないか、決断を迫られます。しかし、罪人である人間の弱さは、最も大切なところで、逃げ出します。
 旧約のヨブのように、「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」と言い切れない。マリアのように、「お言葉どおり、この身になりますように」と言い切れない、例話の中の人物のように、「樽の中に入ります」と言い切れない、それが人間の弱さです。
 しかし、信仰・救いは、この弱い人間の決断に先行する神の恵みのみ業です。先ず、神がかえりみてくださった。そして、み言葉を与えてくださった、その結果、信仰が起こされます。神のみ言葉があっての信仰です。信仰は、聖霊の働きです。そして、聖霊は常にみ言葉と共に働くのです。
 天使ガブリエルは、マリアに、「主があなたと共におられる」「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」と告げました。それは、マリアに与えられた神のみ言葉です。その結果、「お言葉どおりに」というマリアの信仰が起こされたのです。
 主イエスの誕生は、神の救いのみ業です。神が、わたしたちのところへ、神の方から来てくださった出来事です。その恵みの支配は、あなたの上にも臨み、終わることなく、いつまでも続きます。
 クリスマスと、新年が、み言葉に導かれたものとなりますように。
祈りましょう。
 天の父よ。
 あなたは、深いあわれみをもって私たちをかえりみ、わたしたちを救うために、救い主み子イエス・キリストをお贈りくださいました。また、日ごとに、豊かな恵みをもって支え、導いていてくださいます。
 どうか、私たちが主に信頼し、すべてを委ねて生きることができますように、み言葉を与え、聖霊の助けと導きを与えてください。
 津田沼教会の働きの上に、渡辺牧師はじめ信徒一人一人の上に、恵みと祝福が豊かにありますように。
 主イエス・キリストのみ名によって、祈ります。
アーメン。

2006/12/17(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」(ルカ3:1~6)
カ3:1-6、2006・12・10、待降節第2主日(典礼色ー紫―)
マラキ書3:1-3、フィリピの信徒への手紙1:3-11

ルカによる福音書3:1~6
 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。
 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
 『主の道を整え、
  その道筋をまっすぐにせよ。
  谷はすべて埋められ、
  山と丘はみな低くされる。
  曲がった道はまっすぐに、
  でこぼこの道は平らになり、
  人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」

説教「人はみな神の救いを見る」(ルカ3:1~6)

 本日は、アドベントの第2主日であります。先週のアドベントの第1主日は、主イエスのエルサレム入城に関わる出来事でありました。本日の記事は、主イエスの先駆者である洗礼者ヨハネの宣教の始めに関わるものであります。アドベントとは待降節と訳されていますけれども、そして、クリスマスを迎える準備の時だというふうによく言われますけれども、アドベントには、2000年ほど前の主イエスのご降誕によって実現したメシアの到来と言う第1のアドベントと、終末の時に、再びお出でになられる主の到来という第2のアドベントと二つの意味があると思います。本日選ばれていますルカ福音書3:1-6は、そのいずれに関わるものでしょうか。来週からの第3アドベント主日と第4アドベント主日の記事は、2000年ほど前の主イエスのご降誕そのものに直接関わる、お誕生前の出来事であります。本日の記事は、主イエスが公の宣教をお始めになる前の先駆者、神の使者としてのヨハネの宣教に関わる出来事であります。それは、主イエスのご降誕を迎えるに当たって、私たちの生活を整えるという意味合いもあるでしょうが、むしろそのお方が終末の時に再びお出でになるメシアを迎えるにあたっての生活の転換、神さまに、全生活と心を転換させる、もっと言えば、むしろ神さまの側から既に人間すべてに対して救いの道が備えられていることを思い起こす記事ではないでしょうか。
さて、本日の記事をもう一度ご一緒に思い起こしましょう。ルカは、歴史家でもあります。医者であったとも言われますが、現実の歴史の中に救い主が現れた次第を、歴史家の目で記しているのであります。それはまず、皇帝ティベリアスの統治の第15年目のことであったと記しています。皇帝アウグストゥスの後を受けて、即位してから15年目とは、紀元後28年くらいになるそうであります。この記事の後、主イエスの出来事があり、また、イエスが公の生涯にお入りになったのは、年齢30歳くらいのことであったと出てきますので、紀元前4年よりも前に生まれている主イエスが30歳過ぎの頃と思われます。
 その当時はパレスチナは、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデ・アンティパスがガリラヤの領主、フィリポ・ヘロデがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがこれには疑問もあるのですが、アビレネの領主であり、次に聖職者は、サンヘドリンのトップ、大祭司が、アンナスとカイアファであったとき、荒れ野において神の言葉、神の出来事とも訳せますが、それが洗礼者ヨハネに向かって起こったのであります。ヨハネは、洗礼を授ける必要からもそうであったのでしょう、ヨルダン川近隣の低地の一帯をやって来ては、罪の赦しにいたる悔い改めの洗礼を宣べ伝える、あるいは、神からの使者として、その必要性を説き、告げ広めていたのであります。悔い改めとは、メタノイアという言葉であります。心を変える、あるいは、神に立ち返るということであります。
それは、預言者イザヤの言葉の書に出てくる通りだというのです。イザヤ書40章の始めのところからです。そこでは、すべての谷は埋められ、山や丘は低くされ、主の道をまっすぐにせよと言われており、曲がった道はまっすぐにされ、また、でこぼこの、高低のある道は平らにされ、特に「すべての肉・人・人類は神の救いを見るであろう」と言われているのであります。それは、私たち自身の努力や才能によってではなく、神の側から、神によって、そのような救いの道が人間との間に備えられていると、聖書は約束してくれているのであります。
昔、出エジプトのイスラエルの民が、罪にまみれたエジプトの生活から、モーセを通して導き出され、ヨルダン川を渡り、約束の地に入ったように、私たちも罪に満ちた者でありますが、神さまの側からすべての人にヨルダン川を渡るという救いの道が備えられるのであります。このアドベントの良き日において、その主、神、み子に全てを委ねて、すべてを賭けて、歩んで行く者に再びさせていただきたいものであります。アーメン。
2006/12/10(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「叫ぶ石」(ルカ19~28~40)
ルカ19:28-40、2006・12・03、待降節第1主日(典礼色―紫―)
エレミヤ書33:14-16、テサロニケの信徒への手紙二3:6-13

ルカによる福音書19:28~40
 イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。二人は、「主がお入り用なのです」と言った。そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。
 イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
「主の名によって来られる方、王に、
祝福があるように。
天には平和、
いと高きところには栄光。」
すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」


説教「叫ぶ石」(ルカ19:28~40)
私たちは、本日からアドベント、それは到来という意味ですが、私たちの日本語では待降節と呼んでいます教会暦の新たな一年を迎えています。アドベントで教会暦の一年が始まるということは、第1のアドベントである2000年前に、主イエスがお出でになられたということと共に、第2のアドベントである終末のときの主イエスの再来を待つということでもあります。そして、本日のエルサレム入城の記事が、一年の教会暦の最初に必ず読まれるということは、先週の聖霊降臨後最終主日の記事につながっているのであります。
そして、本日からは、ルカ福音書を中心として用います、三年サイクルのC年に入りました。先週までの、マルコ中心の一年から、ルカ福音書への切り替えの時を迎えました。
さて、ルカ福音書については、「旅空のイエス」というルカの解説書がありますが、ルカ9:51から、エルサレムに向かって旅をする記事が中心となります。そしてまた、ルカ福音書の最初の出来事もエルサレム神殿でザカリアが洗礼者ヨハネの誕生の知らせを天使を通して聞くことから始まり、ルカ福音書の最後も、弟子たちがエルサレム神殿で絶えず神をほめたたえて礼拝をしていたという記事で終わります。これを見ても分かるように、エルサレムが中心となって記事が展開されています。そしてまた、悔い改めの大切さや、異邦人に、すなわち全人類に救いがのべ伝えられるということが、大きなテーマとなっています。
さて、本日は、エルサレム入城の記事であります。ご存知の通り、アドベントの始まる日曜日と、受難週の始まる枝の主日にここだけが毎年2回にわたって読まれます。それほどに、本日の記事は教会にとって重要な出来事であるということが窺えます。
本日の記事をご一緒に、もう一度思い起こしながら、考えてみたいと思います。イエスはムナの譬え話を終えられると、既にエリコをたって、エルサレムを目指して先に立ち、進んでいかれます。そして、ベトファゲとベタニア、これは、ベトファゲのほうがエルサレムにより近いとされているのですが、そのふたつの地区一帯をベトファゲと呼んでいたのかもしれません。
さて、そこに近づいたときに、二人の弟子、多分、ペトロとヨハネでしょう、その二人を遣わして言われます。向こうの村へ行きなさい、そうすると、まだ誰も乗ったことのない子ろばがつながれているのをあなたがたは見出すであろう。それを解いて引いてきなさい。もし誰かがなぜそんなことをするのかと訊いたら、主がお入用なのですと答えなさい。そして、彼らが出かけていくと、彼らに言われたとおりに出来事が起こるのを彼らは見出します。まだ誰も載ったことのない、というのは、神聖な動物が用いられることが、メシアにとってはふさわしいからであります。彼らがほどいていると、その持ち主たちがなぜそんなことをするのかと訊きます。彼らは、主がお入用なのですと、主イエスに言われたとおりに答えます。主イエスは、神の子、メシアですが、自分お一人で、救いを達成しようとはなさらず、主の御用に当たるものをおもちいになります。私たちも、たとえどんなに私たちが欠けの多い弟子でありましても、主は必要とされるのです。事柄が主の言われたとおりに進行し、彼らは主のもとにその子ろばを引いてくると、上着を子ろばの上にかけ、主イエスをお乗せします。他の者たちも服を脱いでその前に広げます。これは、人々がそうしたとありますが、ガリラヤから巡礼に来ていた大勢の弟子たちの群れがそうしたとも読めます。そして彼らは、見聞きした主イエスのなさった奇跡どもをほめたたえ、喜びながら大声で歌います。「主のみ名によってこられる方、王に、祝福があるように、天には平和、いと高きところで栄光があるように。」ルカは、ホサナという言葉を用いず、また、ダビデの国にといった言葉も用いません。なぜならば、全人類の救い主であるメシアである主イエスをほめたたえるからです。ファリサイ派の人々は、その大勢の弟子たちの賛美と歓呼を防ぎえず、騒ぎとなることも恐れて、その代わりに、主イエスにやめさせるように叱ってくださいと詰め寄ります。しかし、主は、彼らが黙ったなら、石が叫ぶであろうとお答えになるのです。主イエスこそが、メシアであり救い主であることを、何者も隠しておくことはできず、周りに転がっている石でも、弟子たちがやめたなら、代わりに叫ぶことであろうと答えられるのです。今や、主は、これまで秘めてきた御自身がメシアであることを公然と宣言し、子ろばをもお用いになって、全人類の救い主、メシアであることを宣言なさいます。私たちも、この弟子たちの一人として、再びお出でになられる、終末のときにまた、お出でになられるメシア、主を待ち望み、子ろばに乗って来られる平和の君、王であるイエスをそれぞれの心の中に迎える備えをしながら、一年の教会暦の初めをスタートしていきましょう。
父なる神さま。
また、新しい一年間の歩みを始めました。あなたの証し人として、本日の弟子たちのように、心から主、救い主の到来をほめたたえる一年を過ごさせてください。主こそ、私たち全人類の救い主、平和の君であります。キリストによって祈ります。アーメン。 
2006/12/03(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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