津田沼教会 牧師のメッセージ
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「うるわしき救い主」(マルコ13:24~31)中川俊介牧師
マルコ13:24-31、2006・11・26、聖霊降臨後最終主日(典礼色―緑―)
ダニエル書7:9-10、ヘブライ人への手紙13:24-31

マルコ13:24~31
 「それらの日には、このような苦難の後、
  太陽は暗くなり、
  月は光を放たず、
  星は空から落ち、
  天体は揺り動かされる。
 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

 「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」



説教「うるわしき救い主」(マルコ13:24~31)中川俊介牧師
 
 今日の説教のテーマは、終末、あるいは世の終わりと言ってよいでしょうか、そうした厳しい状況のなかで、キリストこそが、賛美歌にもあるように「うるわしき救い主」であるという、福音の原点に立つことであります。
 私たちの教会の内海先生が最近、ルター関係の本を翻訳し、出版してくださいました。「ルターの慰めと励ましの手紙」というタイトルです。私は慰めという言葉が好きです。内村鑑三先生もある友人に、キリスト教はいいね、キリスト教には慰めがあるよと、よく語っていたそうです。
 さて、内海先生の訳された本に、ブリスガーという人への手紙が出てきます。ブリスガーは宗教改革側の教会に鞍替えしたために、カトリックの母親から、カトリックに戻って来ない限り、死んだ父親の財産相続をさせない、と通告されてしまった。その事で悩む彼に、ルターは慰めの手紙を書いています。一番印象に残るのは、手紙の最後の部分で、「聖書には、数多くのあなたにとっての慰めの言葉があります。私たちがすべてを失っても、キリストで十分です。」とあることです。素晴らしい言葉だと思います。「キリストで十分です。」ルター自身が慰められていたからこそいえる言葉です。
 さて、今日は教会の暦の中では、一年の最終主日であり、選ばれている聖書日課も、終末に関するものです。特にマルコ13章は、小さな黙示録とも呼ばれ、厳しい裁きの時の到来を予告しています。しかし、こういう場面でこそ、救い主イエス・キリストへの信頼、福音に絶対的な確信を持ち続けることが大切ではないでしょうか。
 今日の旧約聖書の日課を見ますと、福音書の日課と密接な関係のあるダニエル書7章からの引用です。ただ残念なことに、引用箇所が少し短くて二つのテキストの関連が見えません。30年ぐらい前まで、アメリカ・ルーテル教会で使われていた聖書日課では、ダニエル書7章9-14節までがはいっていました。ですから、救い主が雲に乗って来られるという預言の部分の関連がよくわかりました。もう一つ、テキストに関して、残念な部分があります。それは、マルコ13章27節の部分ですが、そこに「選ばれた人たちを四方から呼び集める」とあります。もともとのギリシャ語原典には「四つの風」から集めるとあります。風というのも方向を表すという説もあるので、四方にしたのだと思うのですが、それだと、ダニエル書7章2節の「天の四方から風が起こって」という箇所との関連が失われてしまいます。例えば、永井直治個人訳の「新契約聖書」というものには、風という表現が出てきます。原典に正確なのです。私たちは、なんでも新しい物は古い物より質が高いと思いがちですが、果たしてそうでしょうか。情報が渦巻く時代に生きている私たちは、自分でしっかり考え、たとえ聖書の翻訳といっても、鵜呑みにしないで比較してみるくらいの心構えが大切ではないでしょうか。植村正久先生という昔の伝道者は、「信徒もよく勉強し、信仰の本質をつかんでいる必要がある。そうでなかったら、信徒は自信がないから職場や家庭でキリスト教を証しできない」、そう言っていたそうです。余談ですが、風という言葉は、ギリシャ語でアネモス、アネモネという花の名前の語源です。そして、アネモネとシクラメンは、イスラエルの原生種で野の花です。イエスさまが、野の花を見なさい、神はこの野の花をも、栄華を極めたソロモン王以上に装ってくださる、と教えたのは、このアネモネのことであるという人もいます。今日の説教題は「うるわしの救い主」ですから、イメージ的には春一番にイスラエルで咲くアネモネを忘れることはできません。
 ただ、また、もとの聖書箇所に戻りますと、大変な終末が予告されているわけです。ダニエル自身も、7章28節で「ここでその言葉は終わった。わたしダニエルは大層恐れ悩み、顔色も変わるほどであった」と書いています。
 私たち自身はどうでしょうか。最後の審判に対する準備はできているでしょうか。卑近な例ですが、私の家内の祖父は牧師で、その息子である家内の父親も、神学校まで行きました。ただ、父親は、癌になり余命いくばくもないと医者から告げられてしまったのです。普段は無口な父だったのですが、そのとき、「困ったことになった、天国には行ったことがないけんな」と不安な気持ちを漏らしていたことを今も忘れません。準備がないときに私たちは不安になります。今は、受験シーズンですが、来春の試験という、最後の審判を控えて、受験生諸君は焦りと不安をもっていると思います。私たちも自分の経験の中で、何かを判定されるという、つらい立場を経験したことがあると思います。ダニエルの恐れ、悩みは、私たちもまた同じように共有する辛さであります。
 ところが、まれに、そうした試練が辛くない人がいます。重大な試合とか、重大な試験とかを楽しみにする人がいます。何故だと思いますか。ルターもそういう心境を述べています。何故かというと、十分に準備ができているからです。準備ができているときに、裁きの時にも確信をもてるのだと思います。
 ある聖書学者は、マルコ13章は、「神の国と宗教組織を同一視することや、この世の団体の成功や失敗が、神のもたらす将来と結びついていると考える過ちに警告を発している」と述べています。自分が教会員だから安心だとは言えないのです。それは、無意味なことではありませんが、十分な準備とは言えないでしょう。何故かというと、裁きに耐え得る準備とは、自分の犯したすべての罪の決着がついているということだからです。この辺がはっきりしていない限り、私たちはマルコ13章をいつも恐ろしい裁きの言葉としてしか、聞くことができず、福音の光をみることができません。準備ができていないまま、試練を受けるという最悪の事態に陥る可能性も否定できません。
 でも、ルターが述べているように、聖書には、数多くの慰めの言葉がちりばめられています。それは、福音の言葉です。一つだけ、私の好きな箇所を引用しましょう。ルカ福音書18章13-14節です。正しい人間だと自分で思っている人は、神殿で感謝の祈りを捧げた、「ところが、徴税人は、遠くに立って、目を天にあげようともせず、胸を打ちながら言った。『神さま、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。」
 イエス・キリストは、正しい人を招くためではなく、正しくない人、罪人のため、尊い命を犠牲にし、十字架の死によって、呪いの裁きを取り除いてくださった。私たちに厳しい命令をしてくる親や上司のようではなく、神の愛に動かされて、私たちの救いのために、どんな犠牲も惜しまない方が、神よりこの世に遣わされた。その方こそ「うるわしき救い主」イエス・キリストであると聖書は繰り返し、繰り返し、証ししています。
 ただ、残念ながら、中世の人々が、権威あるローマ法王を、キリストの代理と錯覚してしまったように、私たちも宗教組織に属していることが神の国に入る合格証であるかのように錯覚してしまう可能性も無きにしも非ずです。ルターも聖霊降臨後第26主日の説教で、キリスト教社会が、神の愛を見失い、説教者も学校の教師も、病院の働き人たちも、日々の食糧にも困っていると述べています。自称クリスチャンが増えてしまったと嘆いています。しかし、そんな暗黒的な状況の中でも、ルターは復員の希望を失っていません。こう言っています。「あなたがたは喜びをもって、最後の日を待つことができる。そして、裁きを恐れることはない。なぜなら、神はあなたがたを選んでくださったからだ。あなたは、『み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。われらの罪を赦したまえ』と祈ればいい。そこで、あなたは喜びに満ちた招きの言葉を聞く。『来なさい、恵まれた者。父なる神のみ国に入りなさい。』」
 私たちの罪は重く、最後の裁きには耐えられないでしょう。私たちの多くは、失格者でしょう。準備のできていない者でしょう。私もその点で、自分は失格者であると痛切に感じる者であります。ただ、そんな場合でも、唯一の、福音的な慰めは、本日の日課、マルコ13章27節の言葉です。うるわしの救い主、み子イエス・キリストは決して自分を救うことができない罪人を「天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、四つのアネモネなる風によって、選ばれた人たちを集め」てくださるのです。この選ばれた者というのは、自分の正しさに自信を持つ者ではなく、救い主にしか最終的な望みはないのだと、自覚させられた者。試練と困難を経て、ダニエルのように、恐れおののく者。己の弱さを認める者のことです。しかし、それは何という幸いでしょうか。まさに、その時にこそ、ルターが言ったように、「キリストで十分」なのです。
 この恩恵に与った者には、新しい使命が与えられます。あの自慢げな祈りを神殿で捧げた者のように、自己肯定することではなく、ルカ6章37-38節の言葉を心に刻み、そのように生きることです。「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。」この信仰と実践という準備が、神の憐れみによって与えられます時に、最後の審判は恐れの時ではなくなります。終末の時は、希望の時。天よりの風、アネモネの花咲く美しい時となります。ですから、是非、共に、終りの日までこの聖書の福音の言葉を、神の恵みによって信じ続けてまいりましょう。アーメン。
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2006/11/26(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神への自己委託」(マルコ12:41~44)
マルコ12:41-44、2006・11・19、聖霊降臨後第24主日(緑)
列王記上17:8-16、ヘブライ人への手紙9:24-28

マルコによる福音書12:41~44
 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」


説教「神への自己委託」(マルコ12:41~44)
 
私たちは、マルコ福音書を中心としながら、昨年の12月からはじまったアドベントの新年のときから、一年間の教会暦の歩みを続けてきました。来週の主日、聖霊降臨後最終主日をもちまして、一年間の信仰生活の歩みを終えようとしています。そして、本日与えられている福音、マルコによる福音書12章41節から44節では、主イエスとその弟子たちとは、既にエルサレムに入っていますが、12章の35節からは、もはや、ユダヤ教の指導者たちとの論争は終わっており、主イエスは、群衆と御自分の弟子たちに向かって語っておられるのであります。そして、主イエスの、三年ほどあったでしょうか、その公の宣教は、いよいよ本日の個所をもって終わりとなり、幕を下ろす個所となっています。そして、この後の13章は、マルコの小黙示録と言われる部分で、主は、エルサレム神殿の崩壊などについても、弟子たちにお語りになるのであります。
 さて、本日の個所12章の41節から44節に入る前の、群衆たちに教えられる12章の35節の部分から、振り返っておきましょう。主イエスは言われます。「メシアはダビデの息子だとどうして彼らは言うのか。ダビデ自身もこう言っているではないか。『主は、わが主に語られた。「私の敵どもを私の足台とするまで、あなたは私の右に座していなさい」と』。これは、詩編110編1節の言葉であり、ダビデの詩とされているものであります。神が自分の主であり、メシアである方にそう語られたのだから、メシアはダビデの子ではなく、ダビデにとっても主なるお方であると言われるのであります。群衆はこの主イエスのお言葉に大いに喜んだのでありました。そして、38節から40節まで、主イエスは、あなたがたは律法学者たちの偽善によく気をつけなさい、彼らはやもめたちの家どもを食い尽くす者であるなどと激しく批判されたのであります。エルサレムの神殿は、主イエスが宮清めをしなければならなかったほどに、当時の宗教的指導者たちによって、腐敗し偽善に満ちていたのであります。
 それから、本日の福音の記事となります。主イエスは、賽銭箱の向かい側に座って、群衆が神殿の境内、婦人の庭と言われていた個所に置いてあった13あったと言われる賽銭箱、献金箱に金を投げ入れるのをよく見ておられたと始まります。金持ちたちが、多額な献金を賽銭箱にこれ見よがしに入れていました。するとそこに、一人の貧しい身なりのやもめ、未亡人がやってきて、2レプトン銅貨、今でいえば200円くらいでありましょうか、その二つの銅貨を入れたのであります。主イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われます。「はっきりあなた方に言っておく、あの貧しいやもめは、他のだれよりも多く入れたのである。なぜならば、他の者たちは、有り余る中から入れたが、彼女は自分の持っているすべてのものを、全生活費を入れたからである」と。
 どうして、主イエスは彼女がやもめであり、2レプトンしか持ち合わせず、しかもそれが彼女の持っているすべてであり、全生活費であったことが分かったのでしょうか。それで、これは実話ではないのではないかと考える人もいます。しかし、大事な出来事のときに用いられる表現である、「弟子たちを自分のもとに呼び寄せて」とか、「私はあなたがたにはっきり言っておく」の表現が記されていますし、私たちは、主イエスの見抜かれるお力を聖書に書いてあるとおりに、素直に信じることが大切であると思います。この記事は、最初にも言いましたように、主イエスの公の生涯の宣教にピリオドを打つ大事な出来事であり、主のお言葉であります。
 そして、この無名の貧しいやもめは、実は、この後、数日後に、十字架におつきになる主イエス御自身を前もって示す人であったのであります。やもめが入れた2レプトンは、彼女の全生活費でした。この「生活費」というのは、ギリシャ語では、ビオスという言葉であり、命、あるいは生涯をも意味する言葉であります。この女性は自分の命を、全部神に明け渡したのであります。そして、主イエスも、この出来事の数日後には、ご自分の命を、生涯を私たちの罪のために、十字架上の死を通して、神さまに渡されるのであります。
 私たちは、私たちの教会の運営が経済的に苦しいことを知っています。マルチン・ルターは、献金について、古くは、十分の一献金と言うことがよく言われましたが、献金は、自分にとって多すぎてもいけないし、少なすぎてもいけないと言いました。今、社会が不安定な中で、献金があまりできないから教会にも思うとおり通えないという信徒の方や一般の方も少なくないでしょう。献金については今の教会が、改めて考え、心しなければならない課題でもあると思います。しかし、教会は、2000年近くの歴史を通して、本日の貧しいやもめの2レプトンの献金を通して守られてきたのであります。
 そして、私たちも、御自分の全生涯を、私たちの罪のために、献げて下さった主イエスに従い、一旦、自分の全生活を、経済生活も含めて、神さまに明け渡し、そこから、神さまによって、新しい人とされ、押し出されて、毎日の生活に遣わされていく一週間一週間を送りたいものであります。詩編の37編の25節にも、「若いときにも老いた今も、私は見ていない。主に従う人が捨てられ、子孫がパンを乞うのを」とあるとおりであります。
 祈りましょう。
 いよいよ一年間の教会暦の歩みを終えようとしつつあります。私どものわが身を振り返っても、多くのことが不十分であり、怠りや罪を繰り返してきました。しかし、あなたは、憐れみ深く、私たちをここまで、守り、助け、導いてくださいました。どうか、私たちも、本日の貧しいやもめに立ち返って、また、私たちの罪のために命を差し出してくださった主イエスに従い、新しい出発ができますように。津田沼教会の新しい一年の歩みに向かって、一人一人が生活を整えていくことができますように。そして、私たちがみ言葉によって養われ、感謝の日々を送れるように支えてください。キリストによって、アーメン。

 

2006/11/19(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神の支配に与かる」(マルコ12:28~34)
マルコ12:28-34、2006・11・12、聖霊降臨後第23主日(緑)
申命記6:1-9、ヘブライ人への手紙7:24-28

マルコによる福音書12:28~34
彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟はこれである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。




説教「神の支配にあずかる」(マルコ12:28~34)

 先々週から、宗教改革主日、全聖徒主日と終えまして、再び、私たちは、マルコによる福音書に戻ってきました。もう本日は聖霊降臨後第23主日で、一年の教会暦の主日の残る回数は、本日を含めて、3回のみと残り少なくなってきました。本日与えられました福音の個所は、先ほどお読みしましたように、マルコによる福音書12:28-34であります。私は、説教題を「神の支配に与かる」というふうに付けておきました。私たちは神のご支配のうちに生活したいからであります。
 さて、本日の出来事、ある律法学者と主イエスとの短い対話のやり取りをもう一度、思い起こしてみましょう。復活後の命について、主がサドカイ派の人々と論争しているのを聞き、そこにおいて主が見事に答えられたの見て、この律法学者のうちの一人は、近づいてきた後、主に質問するのであります。既に、主イエスはエルサレムにお入りになっており、その数日後には、十字架の死に付けられるという場面設定の中においての主のお言葉であります。「どういうものが、すべての律法のうちで第一の命令でしょうか」と。主は言われます。直訳すると「第一はこれである。すなわち『聞け、イスラエルよ、わたしたちの主なる神は唯一の主である。そして、あなたは、主なる神を愛するであろう、あなたのすべての心から、あなたのすべての魂から、あなたのすべての理解力から、あなたのすべての力から。』第二はこれである、すなわち『あなたはあなたの隣人をあなた自身のように愛するであろう』。これら以上により大きな命令は他にはない」と。これらの言葉は、本日の第一の朗読で読まれました申命記6:4、5とレビ記19:18とを引用し、一つのものとして取り出されたものであります。
 それに対して、律法学者は、言います。これも直訳しますと、「あなたは、見事に、真実に向かって言われました。『神は唯一であって他にはおられない。そして、神を、心のすべてから、知力のすべてから、力のすべてから、愛することと、隣人を自分自身のように愛すること』は、すべての焼き尽くす献げ物や犠牲よりもよりすばらしいことです」と。そして、主イエスは、彼が「適切に」すなわち、思慮深く賢く答えたのを見て、彼に言うのであります。「あなたは、神の国から遠くない」と。そしてもはやだれもあえて彼に質問しようとする者はいなかったというのであります。
 つまるところ、人を愛することは、神を愛することであると主は言われるのであります。しかし、1週間の私たちの有り様を振り返りましても、すべての人を愛するということはとてもできないことであります。それどころか家族など親しい者をも心から十分に愛することはできません。また、誤解や憎しみが、人間関係においては容易く起こりがちであります。言葉と行いと思いとをもってみ前に罪を犯すのが私たちの1週間の現実でもあります。
しかし、主イエスは、あなたの主なる神を全人格をあげて愛し、また、自分自身のように隣人を愛するという律法の命令が最も重要な掟であると旧約聖書からふたつの言葉を取り出して一つにして、明言なさったのであります。これは、先ほども言いましたように、主イエスが十字架におつきになることを前提に話しておられるのであります。このお言葉を語っておられる主イエスは数日後には十字架の上の人となられるのであります。すなわち、私たちが神を愛するよりも前にみ子の全生涯とその死を通して、神が今からおよそ2000年も前に、私たちの罪を赦し、先に愛してくださっているのであります。
 この律法学者は、「神の国から遠くない」と主イエスによって言われています。主イエスと共に、神のご支配、永遠の命は既に存在しているのであります。その神の支配の中を生き、救いに与かるか、それとも、裁きに服するかの選択を私たちも求められています。神を愛するというと、礼拝とか、聖書を読んだり、祈りをすることを考えがちです。しかし、縦の関係である神を愛することは、横の関係である身近に触れ合う人を愛することと不可分なのであります。人を愛することを通して、神を愛するということが具体的に分かってくるのであります。神さまが私どもを先に愛してくださった。そして、十字架におつきになろうとしている主イエスが今日のお言葉を語り、神の支配のうちに生きるように、この律法学者を、そしてまた私たちを、招いておられるのであります。祈りましょう。
天の父なる神さま。
 私たちの送る1週間の間にも、多くの人間関係の悩みや不安や疑い等が襲ってきます。しかし、私たちには、特に、福音、キリストのお言葉が1週間ごとに与えられています。どうか、それによって、守られ、力づけられて1週間、1週間を歩ませてください。なかなか解決できないでいる課題もめいめいが負っております。しかし、み言葉に励まされてそれらを一歩一歩解決し、改めていく力をお与えください。そして、あなたのご支配に与かって日々を過ごし、それぞれの負わされている問題に力強く立ち向かっていくことができますように。キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

2006/11/12(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「私につながっていなさい」(ヨハネ15:1~17)
ヨハネ15:1-17、2006・11・05、全聖徒主日(白)
エゼキエル書37:1-14、ローマの信徒への手紙

ヨハネによる福音書15:1~17
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」


説教「私につながっていなさい」(ヨハネ15:1~17)
 毎年10月31日は全聖徒の日でありますが、私たちは今日、全聖徒を記念する全聖徒主日の礼拝に与かっています。ここに言う聖徒とは、本日の週報の裏に教会案内を載せて、紹介していますように、一部の聖人を指して言うのではありません。聖徒とは自分が罪深い存在だと気づき、罪を悔い改めて、新しい生涯に入っていったすべての信徒を意味するのであります。
今朝は、この後、聖餐式にあずかりますが、それは、食卓の主である主イエス・キリストを中心として、私たち生きている者が手前に半円を描き、そして、既に天国に先に召された故人たちが、向こう側に半円を作って、主イエスのそのからだと尊い血に与かるのであります。そして、私たちは、一年に一度しか召天者記念礼拝をこの礼拝堂では、持ちませんが、実は、毎週の礼拝は、仮に聖餐式はなくても、天に召された方々と一緒に聖餐卓を囲んで、集い礼拝しているのであります。
 さて、本日与えられた福音の個所は、ヨハネ福音書15章1節から17節までであります。非常になじみのある個所であり、ここで主イエスは、ご自分は純正な良いぶどうの木、あなたがたはその枝であると言われています。そして、父なる御神は、そのぶどうの木の園丁、農夫であって、その枝の手入れをなさると言われるのであります。今、秋でぶどうのおいしい季節でありますが、パレスチナのあたりのぶどうの木は、その枝を石垣などにも這い伸ばし、私たちが日本で目にする棚のぶどう園以上に、たくましく育っているとのことであります。
ぶどうの木は、聖書では、旧約の時代から、イスラエルの民の象徴でありました。そしてしかし、イスラエルの民は、しばしば神さまから離れてしまい、悪いぶどうの木になりさがったということが、しばしば、旧約聖書を通し預言者などによって書かれています。私につながっていなさい、と主は繰り返し言われます。しかし私たちもまた、なんと容易に、み言葉から、そして主イエスのお言葉から離れやすい存在であることでしょうか。まがりくねったぶどうの枝は、良い実を結ばなければ、何の役にもたたないのであります。 
間違うことの決してない正しい真のぶどうの木である主イエスにとどまり続けることが、一番大事なことであります。そして、そのぶどうの木にとどまり、主イエスにとどまるならば、私たちは、私たちの力を超えた大きな実をむすぶことができると主は約束してくださっています。
そして、私たちが、豊かな実を結ぶ時、主イエスの弟子になるとき、天の父がそれによって栄光を受けると言われるのであります。主イエスにとどまり続けることが、必要なのであります。
 さて、本日の個所の後半では、主は、私たちをご自分の友だと言ってくださいます。そして、あなたがたを選んだのは私であって、あなたがたが、私を選んだのではないと言われます。
例えば、私たちが信仰を持ち、あるいは洗礼を受けたのも、私たちの決断によるのではなく、実は、主イエスのほうから、私たちを選び、招き入れてくださったのであります。     
さて、確かに、周りの私たちにかかわりのある人たちを、キリストへと招きいれるのは、困難な務めであります。しかし、選ばれた私たちには、私たちが実を結び、そしてそこにとどまり、人々を救いに入れる使命も一人一人の私たちに与えられているのであります。それは、主イエス・キリストが私たちのために、命を差し出し、命を私たちのために置いて、命を捨て、与えてくださり、神なるお方が私たちをしもべではなく、今やご自分の友と呼んでくださるからであります。
そして、主イエスは、私たちに一つの命令、掟を与えられました。それは主イエスが私たちを愛してくださったように、私たちも互いに愛し合うということであります。教会につながっている私たちが、愛し合うことこそが、その死を前にして、主イエスによって、私たちに命ぜられている唯一の命令であります。
私たちは、毎日多忙なことが多いのですが、この主の遺言に立ち返り、福音書を中心として、日々、神の言葉である旧約聖書、新約聖書によって力を与えられ、生かされていきたいものであります。そういう中で、先に召された信仰の先輩のことをも忘れることなく、覚えていきたいのであります。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。


2006/11/05(日) 10:30:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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