津田沼教会 牧師のメッセージ
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「まことの礼拝」(ヨハネ2:13~22)
ヨハネ2:13-22、2006・10・29、宗教改革主日(赤)
列王記下22:8-20、ガラテヤの信徒への手紙5:1-6

ヨハネによる福音書2:13~22
 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。


説教「まことの礼拝」(ヨハネ2:13~22)
 本日は宗教改革主日であります。宗教改革は、1517年10月31日、すなわち、11月1日の全聖徒の日の礼拝の前日に、時のアウグスチヌス修道院の修道士であったマルチン・ルターがヴィッテンベルクの城教会の門扉に95ヶ条の提題を貼り付けたと言われる日に端を発しているのであります。宗教改革にはそれ以前にも、またその後にも、先駆者や後継者たちが少なからずいましたが、この時をもって宗教改革の始まりというふうに一般的に言われ、今日では、プロテスタントの教会のみならず、ローマ・カトリック教会もこれを認めているのであります。こういうわけで、私たちルターに源流を発するルーテル教会に属する者にとっては特に本日は記念すべき主日であります。日本でも、鎌倉時代に親鸞や日蓮らによって仏教の刷新が行われ、鎌倉仏教といわれるものが起こったのと似ている出来事であります。
 さて、その宗教改革に本日与えられている福音書の個所は、ヨハネ福音書2:13~22であります。本日、この特別な日曜日に、いわゆる主イエスによる神殿を清める出来事、宮清めの出来事が与えられているのはなぜでしょうか。この記事をもう一度思い起こしながら、私たちの宗教改革の意味について、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 主イエスは、ガリラヤのカナの婚宴で最初のしるしをなさり、栄光を示され、弟子たちはそれを見て信じたのであります。それは、喜びに満ちた結婚式において、ガリラヤの平和な地においてなされた奇跡、しるしの出来事でありました。
それに対して、本日出てくるエルサレムにおけるユダヤ人たちは、主イエスを理解せず、はなはだしい誤解と敵意を示す対照的な出来事なのであります。ヨハネ福音書では、他の福音書と違って、主イエスの公の生涯の活動の最初に、宮清めの出来事が位置づけられています。他の福音書と比べて、一体どちらが、歴史的に正しいのかはよく分かりませんが、少なくとも、ヨハネ福音書記者は、イエスの公の活動の最初にこの出来事をどうしても置かねばならない必要性を感じたのでありましょう。この出来事は、ヨハネ福音書全体にとって、この上もなく大きな意味を持つとヨハネの福音書記者は考えたのでありましょう。主イエスは、先ほども言いましたように、比較的安全であったガリラヤを離れ、過越しの祭りが近づくと、危険なエルサレムへ上ってきます。そして、主イエスは、神殿の境内、異邦人の庭といわれる場所で、牛や羊、鳩などを売っている商人たちや、いすに座って業務を行っている両替人どもをごらんになります。そして、縄で鞭を作り、その場所から、すべてのもの、牛や羊を追い払い、さらには両替人の机をひっくり返します。そして、鳩を売っている者たちに言われます。「私の父の家を商人の家にしてはならない」と。
 そのとき、弟子たちは、聖書、詩編に「あなたの家への熱情が私を食い尽くすだろう」と書いてあるのを思い出していました。ユダヤ人たちは、「あなたはこれらのことをするからには、どんな権威のしるしを見せてくれるのか」と問いただします。主は、それに対して「三日でこの神殿を建て直してみせる」と答えられます。ユダヤ人たちは、「この神殿はここまで建て直すのに46年もかかっているのに、あなたはそれを三日で立て直すのか」と言い寄ります。しかし、それは彼の体の神殿のことだったのであると記者は解釈して記しています。そして「彼が復活した時、主イエスがそう言われていたことを弟子たちは思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」というのであります。私たちの礼拝は、この主イエスとその十字架の死と復活を記念して、守られ、それは説教と聖餐によって成り立っています。ルターは、ローマ・カトリック教会では7つあった聖礼典を、最初は懺悔も残して、洗礼と聖餐との三つに減らしたのですが、聖書に主イエスの言葉、神の言葉として、根拠があるものは、洗礼と聖餐であると凝縮して考え、今では、プロテスタント教会では、その二つだけが、私たちの救いのために神が設定された救いの手段であると考えられるに至っているのであります。私たちは、人間的な努力や生まれ持った才能によって、救いを獲得するのではありません。神へのただひたすらな畏れと信仰のみによって救われるのであります。
私たちは、私たちの罪のために十字架につけられ、復活させられた主キリストを覚えて、まことの礼拝を守り、聖書と主のお言葉によって新しい人生を歩むものであります。こうして、ルターから本格的に始まった宗教改革は、今もなお、日々新たに引き継がれるべきものであります。私たちの礼拝がみ心にかなうように、行いと生活を整え、私たちの罪から解き放つために、来られ、神殿を清められた主イエスの御働きへの信仰のみによって、その血と十字架の死によって、既に私たちの罪があがなわれていることを確認しながら、週ごとにまことの礼拝を守るものとされたいと思います。
 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、キリスト・イエスにあってあなたがたを守るように。アーメン。

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2006/10/29(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「天に富を積む」(マルコ10:17~31)
マルコ10:17-31、2006・10・22、聖霊降臨後第20主日(緑)
アモス書5:6-15、ヘブライ人への手紙3:1-6

マルコによる福音書10:17~31
 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました』と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」



説教「天に富を積む」(マルコ10:17~31)
本日の説教題を「天に富を積む」というふうに付けさせていただきました。これは、「天に宝を持つ」というふうにも訳すことができます。私たちは一週間の間にも、多くの困難と闘いと苦しみ悩みに直面します。そのような私どもの一週間を振り返りながら、本日の主イエスのお言葉に耳を傾けてみたいと思います。
 さて、主イエスは、先週の福音の個所以来、既にカファルナウムを出まして、「ユダヤとヨルダン川の向こう側」においてエルサレムに向かっての旅をしています。本日の個所は、先週の記事とは直接つながりはありませんが、主イエスはあらたに旅にでようとなさいます。すると、ある者が駆け寄ってきて、ひざまずき、「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何を私はしたらよいのでしょうか」と質問していたのであります。主は答えて言われます。「どうして私を善い者と呼ぶのか。神お一人の他には善い方はおられない。」主イエスはこのように言われる、父なる神のみ前に非常に謙虚なお方であります。そして続けられます。「あなたは、知っている。殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、偽証してはならない、騙し取ってはならない、あなたの父と母を敬えという命令を」と。主はモーセの十戒の後半部分を順序不同であげられたのであります。モーセの律法を主イエスは引用されます。それは、出エジプトの旅、40年の旅の途上で、モーセがシナイ山で主なる神から与えられた戒めでありました。第二の石の板に書かれた人と人との関係について与えられた戒めであります。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」ということの具体化されたものであります。
マルチン・ルターは、この十戒の中に、すべてのよい行いが含まれているとよく言いました。しかし、私たちは、私たちの罪のために十字架におつきになった主イエスを信じ、そこを通してしか真の意味でこの十戒を守ることはできないのであります。
 しかし、「その人」は、「先生、私は、若いときから、用心してそれらのことを全部守ってきました」と答えます。それは、決して自慢げに言っているわけではありません。その人は十戒に気をつけながら、精一杯自分なりにこれまで生きてきたことを正直に告白しているのであります。マタイは、この人は青年であったといい、ルカは議員であったと伝えています。しかし、マルコは、「ある人」「ある一人」とだけ、記しています。これは、私たちすべての人がこの永遠お命を求めてきた「ある人」として、考えられていると取ることも許されるのであります。
 そこで、主は、その人を凝視し、好意をもたれながら、言われました。「あなたに欠けているものが一つある。あなたの持っているものを売りなさい、そして、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになろう」と。彼はその言葉に愕然とし、悲しみながら立ち去ったのであります。私たちが永遠の命を神から受け継ぐ、賜る、あるいは、神のご支配を受けるためには、この地の世界の天の宝に代わる宝である何物か、それはあるいは「この人」のようにたくさんの財産であったり、あるいは名誉や地位や権力であったりするかもしれません。それを、放棄しなければならないのであります。「この人」はイエスの招きに応じえず、落胆しながら主のみ前を立ち去ったのであります。私たちはどうでありましょうか。主イエスの招きに、心から、新たに従っていきたいものであります。
 主は、さらに、今度は弟子たちを見回して言われます。「金持ちが神の国に入るのは何と難しいことか。らくだが縫い針の目・穴をくぐるよりも、金持ちが神の国に入るほうが難しい」と。それは常識ではできるはずがないことでありますが、主イエスはユーモラスな譬えで、時々なさる表現の仕方でありました。弟子たちは、その言葉を聞いて、お互いにたまげて言い合います。「それではだれが救われるのだろうか」と。
 旧約の時代においては、旧約聖書も、富や財産などを豊かにもつ人はむしろ、神さまから祝福を受けた結果だと考えられてきました。ですから、主イエスのお言葉は全く新しいものであり、特別な財産を持っていなかった弟子たちにとっては、さらなる驚きであったわけです。しかし、主は、「人間にはできないが、神にはできないことはない」と言われ、また再び「子たちよ、神の国に入るのは何と難しいことか」と繰り返されます。そして、ペトロがそれに答えて言います。「私たちは、すべてのものを捨てて、あなたに従いました」と。主は、言われます。「だれでも、私のために、また、福音のために、家、父母、兄弟たち、姉妹たち、子供たちを捨てた者は、この世においても、迫害と共に、百倍の家、父母、兄弟たち、姉妹たち、子供たちを受け取るし、来たるべき世においても永遠の命を受ける」と。そして最後に、「多くの先のものが後になり、後のものが先になる」と言われるのであります。み国ではだれが最初の者たちとなり、だれが最後の者たちとなるかは人間的判断からは知ることができないのであります。
 私たちは、人間的な事業や企て、熱意、努力によって、神の支配を受け取るのではありません。神さまの恵みと贈り物として、神のご支配を受け取り、神さまから永遠の命を相続してはじめて、命を喜んで生き、楽しむことができるのであります。私たちの努力や熱意によるときには、特にうまくいっている場合には、多分に傲慢さが根ざしてくるものであります。
 さて、私たちは、一週間の生活でも、本日の主日の祈りにありましたように、多くの危険と誘惑と戦いがあります。主が言われたように、「迫害」、苦しみを持つことが、主イエスの弟子となることによって必ずあると予告されているのであります。しかし、おごった心を打ち砕かれ、どんなとるにたりない者をも、神の支配へとお招きになることができる神さまに全信頼を寄せて歩みたいものであります。
 先日、ディアコニアセミナーがあり、ホスピス、終末期医療などについて学ぶ機会がありました。自分の最後を想定して、京都のホスピスのある病院で働いておられる看護師の信徒の方がワークショップを用意してくださいました。20ほど4つの分野から選んだ自分にとって大切なものを終末が近づくにつれて、その書いた色分けした折り紙の小さな紙切れを、美しい音楽を眼をつむって聴きながら、捨てていきます。家・建物のような物質的なものを私はまず省いていきました。そして、私が選んでおいた大事なものの中で最後に残ったのは、水とか空気とか木や自然、そして、家族でした。私は、一番最後に具体的に書いておいた家族の名を残しましたが、人間にとって一番大切なものは何かについて改めて考えさせられる体験をしました。
さて、私たちには神の家族である教会の交わりが与えられています。私たちがそれに与っているこの生の教会の交わりこそが、私たちに与えられる「百倍の家であり、父母であり、兄弟姉妹であり、子供たち」であります。祈りましょう。
父なる神さま。あなたは、私たちが、弱いものであることを十分にご存知です。あなたが、み言葉によって、私たち何の功績もない者に、神の支配を受け取ることができるように、あなたのみ子の十字架の死を通して教えてくださいました。この世界では、あなたを証しするときにも、誤解され、迫害を受け、苦しみを受ける体験をします。しかし、私たちがあなたにのみ頼り、祝福のうちに生きてゆけることを、あなたはみ子、主イエスのお言葉を通して示してくださいました。これからの一週間も本日の福音の言葉を通して、あなたにすべてをゆだねて、歩ませてください。キリストによって祈ります。アーメン。





2006/10/22(日) 10:30:03| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神による男と女の創造」(マルコ10:1~16)
マルコ10:1-16、2006・10・15、聖霊降臨後第19主日(緑)
創世記2:18-24、ヘブライ人への手紙2:5-9

マルコによる福音書10:1~16
 イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まってきたので、イエスは再びいつものように教えておられた。ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造のはじめから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。


説教「神による男と女の創造」(マルコ10:1~16)
本日の説教題を「神による男と女の創造」というふうにつけておきました。主イエスは、エルサレムに向かって、さらに新たな旅の段階を迎えます。「彼はそこから立って、ユダヤとヨルダン川の向こう側へとやって来られる。そして、群衆どもが集まってきたので、いつものように教えておられた」と、今日の記事の出来事は、始まっています。
するとそこへ、ファリサイ派どもがやってきた後、彼を試そうとして、質問していました、離縁、すなわち、離婚することは律法で認められるのかどうかと。それに対して、主イエスは反問なさいます、「モーセはあなたがたになんと命じたか」と。彼らは答えます。「彼は、離縁状を書いて離縁することを、許しました」と。
主イエスは彼らにお語りになります。「それはあなたがたの心のかたくなさのゆえに、彼はまさにその命令を書いたのだ」と。そしてそれから、人間の創造について、男女の創造について語り始められるのであります。本日の第一の日課にあるように、創世記の始めに、人間の創造、男女の創造について書かれています。神は「人がひとりでいるのはよくない、彼にふさわしい助け手を与えよう」と言って、鳥や獣などを与え、人がそれらに名前をつけるのをはごらんになりますが、どれも人間にふさわしい相手ではありませんでした。それで、神は、最初の人、アダムを眠らせて、そのあばら骨から、女を造り、それがようやくふさわしい伴侶になったのであります。
主イエスは言われました。「創造の初めから、神は、人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は、その父母を後に残して、妻と一体になる、ふたりはもはや別々ではなく一つのからだである。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」  
「神による男と女の創造」について、私たちは、聖書を通してそのことを信じていますが、お互いの尊敬と理解いう点からみると、主イエスが言われるとおりの生活からは、程遠い現実を思い知らされます。後のアダムとエヴァが互いに蛇による堕落について、その責任をなすりつけあったように、感謝と尊敬のいたわりあう関係からは現実は遠いことを痛感させられます。
 さて、その後、家に入り、弟子たちが、そのことについて質問していると、主は言われます。「自分の妻を離縁して、他の者と結婚する者は、その最初の妻に対して姦淫の罪をおかすのである」と。また、「夫と離縁して他の男と結婚する女も姦淫の罪を犯すのである」と。現代一般的になっている一夫一婦制の根源的な始まりは、主イエスの言葉によるところが大きいでありましょう。しかし、結婚生活を続けるためには夫婦の清められた生活が求められてくるのであります。
さて、以上の出来事に続いて、今度は、人々が子供たちを主に触れていただきたいと主のもとに、連れてきます。ところが弟子たちは恐らく先ほどのような教えで忙しかった主イエスを混乱から守ろうとして叱り付けます。
しかし、主は憤られて、「子どもたちが来るのをそのままにさせよ、神の国はこのような者たちのものである」と言われ、抱いた後、手をおいて彼らを祝福するのであります。昨日は幼稚園の運動会に招かれてしばらく園児たちを見てきましたが、彼らは本当に嬉しそうで、目をきらきらと輝かせています。本日のこの部分の主イエスのお言葉は、主イエスの語られた言葉の中でも最も印象的な美しい言葉ではないでしょうか。主は子供たちのように、神のご支配を神からの一方的な賜物、贈り物として、喜んで受け入れる者でなければ、決してだれも神の国に入ることはできないと言われるのであります。
本日の主のお言葉を通して、わたしたちは、男女の関係を神による創造されたものとして、清められ、絶えず神のお言葉である聖書のひとつひとつの言葉に立ち返って、お互いに補い合い、また、子供たちのように心をむなしくして神に信頼を寄せ、主イエスにおいて到来している神の支配を喜び、受け取る者とならせていただきたいものであります。
祈りましょう。
天の父なる神さま。私たちは罪深い者であります。どうか、私たちの家庭生活、また、家族の関係をあなたのお言葉によって清めてください。互いに尊敬し合い、補い合い、ついには、愛によって結ばれた世界を築くことができますように。キリストによって祈ります。アーメン。
2006/10/15(日) 10:30:03| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「人は皆、火で塩づけられねば」(マルコ9:38~50)
マルコ9:38-50、2006・10・08、聖霊降臨後第18主日(緑)
民数記11:24-30、ヤコブの手紙4:13-5:8

マルコによる福音書9:38~50
 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

 「わたしを信じるこれらの小さい者の一人をつまづかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつかずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入るほうがよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身のうちに塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」



説教「人は皆、火で塩づけられねば」(マルコ9:38~50)
 秋が日ごとに深まり、私たちの教会暦の一年間の信仰の旅路もだんだん終りに向かって行きます。本日は聖霊降臨後第18主日となり、マルコによる福音書の本日の記事も、主が十字架を目指して旅している中で、語られた言葉集として位置づけられています。しかし、弟子たちは、主の第2回目の受難予告にもかかわらず、その真の意味が分からないで、先週の個所では、誰が一番偉いかと議論しあっていたのであります。先週の最後の文、マルコ9章37節では、主は、「私の名のために」、これらの子供の一人を受け入れる者は、私を受け入れるのであり、また、私を受け入れる者は、私を遣わした方を受け入れるのであると言われたのであります。
本日の文は、それに続いて、あの雷の子とも主によってあだ名をつけられたヨハネが、主に、「先生、あなたのお名前を使って、悪霊を追い出している者を私たちは見ましたが、私たちに従おうとしないので、やめさせようとしました」と、まず、申し出ます。主イエスは、それに対して、「やめさせないがよい、私の名において、力あるわざ、すなわち奇跡を行い、そしてそのすぐ後に私をののしるようなことはだれにもできはしないであろう」、と言われます。ユダヤ人の生粋の弟子たちでなくても、主の名を使って同じ働きをすることに対して、主イエスは、たとえば「良いサマリヤ人の譬え」でも分かるように寛容でありましたし、それがやがて、初代の教会の人々にとってあるべき姿とされたことが、ここに示されているのであります。「私たちに反対しない者は、私たちの味方である」とは、異邦人の信仰ある者に対して、あるいはさらに、「しもべを癒してほしい、ですからお言葉だけをください」と主イエスに会いに来た異邦人の百人隊長の出来事においても窺えるように、主イエスの立場でありました。
「キリストの者であるという名において」、水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、その報いを失うことは決してないと、その弟子たちを助ける者たちには、大きな報いがあることを約束されているのであります。
それに続いて、「私へと信じている小さな者」すなわち信者、あるいは、求道者も含めてもよいでしょう、その者を罪に陥らせ、信仰から引き離す者は、大きな石のうすをのどにかけられ、海に投げ込まれるほうが良いとまで言われます。私たちは、主イエスへと信じる小さい信仰の者たちへも、さらなる信仰へと導くという大きな使命と責任を頂いているのであります。
さらに続いて、それには、自分自身をささげ尽くし、自分を罪に陥らせることから、回避させられ、永遠の命と神の主権、神の領土に自らを導くことが求められます。
「もしあなたの片手が、また、片足が、そしてまた、片方の目が、あなたを躓かせるなら、それを切って、抉り出して、不自由な体になってでも、命と神の国、領土に入るほうが、五体満足であっても、火が消えないゲーナへと落とされ、投げ込まれるよりも、あなたには良い」と、主は言われます。地獄、ゲーナとは、私たちが天国がゲーナか、どちらかに行くことになるその一方の場所であります。私たちは果たしてどちらに行くのでありましょうか。真剣に問わなければなりません。
腐敗と滅びの場所、「ゲーナ」では、彼らの蛆が死ぬことなく、その火は消されることはないのであります。
そして、主は言われます。原文では「なぜならば、すべての者は、火で塩味がつけられるであろうからである」と。それは、殉教や迫害と言った苦難の中で、当時の信者たちが経験していた試練を信者たちには想起させる言葉であったでしょう。しかし、このことは、2000年を隔てた現代の私たちもまた、現代の至るところに闇が覆っているような世界で、真実の弟子となるために火によって塩づけられ、純化されねばならないのであります。「塩は良いものであるが、もし塩が塩気をなくしたら、あなたがたは何によってもはや塩味をつけられるであろうか」と主は言われます。
キリスト者は、自分たち自身において塩を持ち、健全な常識を持つようにと、主によって招かれているのであります。そうすれば、穏やかな言葉や態度によって、お互いに平和に過ごすことができるのであります。キリスト者だからといって欠点のない完全な人物になることはできません。しかし、キリストを通して私たちはそれぞれに、渋い、味のあるキリスト者に、多くの試練や困難を通して成長させていただくことができるのであります。祈ります。
父なる神さま。あなたは、火によって、私たちを塩づけられ、ちょうどささげものに塩をかけて、清めるように、私たち一人一人を神の国へと、永遠の命へと、困難や訓練を通して純化してくださいます。私たちが、自己を放棄して、神と隣人のために、おのおのの十字架を喜んで担い、堪え忍んでいく者とならせてください。そしてまた、罪に陥ることから私たちを守り、み言葉に、どんな時にも聞き従っていく者とならせてください。キリストによって祈ります。アーメン。




2006/10/08(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「十字架への主と社会奉仕」(マルコ9:30~37)
マルコ9:30-37、2006・10・01、典礼色―緑―
聖霊降臨後第17主日、エレミヤ書11:18-20、ヤコブの手紙4:1-10

マルコによる福音書9:30~37

 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。

 一行はカファルナウムに来た。家についてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」



説教「十字架への主と社会奉仕」(マルコ9:30~37)
本日の福音マルコ9:30-37は、30-32の主による二回目の受難予告と、「途中で何を議論していたのか」という主イエスの質問とそれに続く33-37の御言葉から、なっています。それぞれについて、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
先週の福音では、主イエスの最初の受難予告の記事が含まれていました。ペトロはそれを聞き、主イエスを叱り、いさめようとさえします。今回はどうでしょうか。本日の記事は、第一の受難予告の後、高い山での主の変貌の出来事があり、その後、下界におりて、ある人の悪霊に取り付かれた息子を癒し、「そこから出て、彼らはガリラヤを通って行った。そして、主はだれからも知られることを望んではおられなかった」(9:30)と始まっています。もはや、ガリラヤでの宣教は終わりを告げ、主はこっそりとガリラヤを通り抜けて行くのであります。そしてそれは、弟子たちを教えるためであり、彼はこう語っていたのであります。「人の子は、人間どもの手に渡される。そして彼らは彼を殺すであろう、そして彼は殺された後、三日目に起き上がるであろう」と。人々の手に渡されるというのは、神さまによって渡されるという意味であり、神のご意志なのであります。
しかし、彼らは彼に質問することを恐れていました。本当の意味において、主の言葉を彼らは理解できなかったのであります。
それから、彼らは、カファルナウムにやって来ます。そして主は家においておられ、彼らに質問されます。恐らく、ペトロの家であったでしょう。「途中で何をあなたがたは議論していたのか。」彼らは黙ってしまいます。なぜならば、彼らは、「途中で、だれが一番偉いか」と議論し合っていたからです。この「途中」というのは、「その道において」と素朴に訳せます。そして、主イエスは、エルサレムに向かう十字架の道において、弟子たちを教えるために、だれにも気づかれずに、ガリラヤを通りぬけようとしていたのであります。
栄光の主が、十字架の苦難という道に向かって進んでおられるのに、弟子たちには、分からないのであります。第三の受難予告の後には、幾分か、主の向かわれている道が分かったのか、「あなたが栄光の座に着くときに、あなたの右と左に私たちを座らせてください」とヤコブとヨハネは申し出ています。しかし、主が十字架の死を遂げ、復活なさるまで、主がどのような道を歩まなければならないか、主がどのようなメシアであるかは、弟子たちはついに分からなかったのであります。栄光の主であるべきイエスが、そのためにまず苦しみを受ける「人の子」でなければならない、その神のご計画を理解できなかったのであります。
主は、お座りになって、12人を呼び出し、語られます。「あなた方の中で、一番になりたい者は、すべての者の最後の者となり、すべての人への仕える者、ディアコノスにならなければならない」と。ディアコニアという言葉は、このディアコノスと関係し、すべての人に仕えるという言葉であります。あえて、日本語に訳せば、社会奉仕といえましょうか。主イエスが私たちに仕えてくださったように、すべての人に仕えるように、私たちキリスト者は招かれているのであります。ルターも、キリスト者はすべてのものの上に自由な王であると共に、すべての人に仕えるべき僕であると言っているとおりであります。私たちが救われたのは、まわりのすべての隣人に仕えるためであります。
 さて、この後、主イエスは、一人の幼い子どもを彼らの真ん中に立たせ、抱いてのち、言われます。このような子どもの一人を、私の名のために、名の上に、すなわち、キリスト御自身のゆえに、受け入れる者は、私を受け入れるのであり、私を受け入れる者は、私を遣わされた方を受け入れるのであると。「私の名のために」という言葉は、次週に続くこの後の主イエスの言葉集のなかに、何回も出てきます。おそらくマルコがここに、主イエスの言葉集のなかから編集したために、少し分かりにくい文脈となっているのであります。
幼い子どもは、無力で大人に頼らなければ生きていけない存在であります。神の国に入る者も、神の支配に生きる者も、そのように謙虚で、神のご意志に従順でなければ神の国に入れないのです。
私たちも、十字架の道を行く主イエスの言葉に従い、すべての人に仕えるディアコノスとなって、また、謙虚な幼い子どものような存在もキリストのゆえに受け入れる者となって、神に受け入れられる道を歩んでゆくものとなりたいものであります。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。




2006/10/01(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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