津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「神のことを思わず」(マルコ8:27~38)中川俊介牧師
マルコ8:27-38、2006・9・24
聖霊降臨後第16主日―(緑)―
イザヤ書50:4-11、ヤコブの手紙2:1-18

マルコによる福音書8:27~38

 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。

 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神にそむいたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」



  説教「神のことを思わず」(マルコ8:27~38)中川俊介牧師

 今日の日課の中に出てくるイエス様の言葉は、私たちの常識的な考えでは、すこし厳しすぎるのではないかなと感じないではいられない部分もあります。ペトロは自分なりにイエス様の事を心配して忠告したのに、返ってきた言葉は「あなたは、神のことを思わず、人間のことを思っている」、だったのです。これが、実はすぐその前に、ペトロがイエス様は救世主であると信仰告白して、いわば、模範解答した後なのですから、その落差というのでしょうか、評価の差があまりにも大きいのです。何故でしょうか。
 おそらく、イエス様はここで、当時のペトロがまだ強くもっていた人間的考え方というのでしょうか、罪ある人間の考えに基づいた率直な意見と、神の国の思考方法を対比させているように思えます。神の福音が示されるというのは、人間的視点と神の世界の視点の違いがはっきりさせられた時ではないでしょうか。そうでないと、私たちはいつも自分の世界の延長線上に神を想定しがちでしょう。
 例えば、神の善を考えてみましょう。私たちが人間的思考の延長で、その善を考えるなら、どこかで知っているよい人、つまり、善意の人を考え、それをどんどんどんどん拡大します。つまり最高に優しく最高に丁寧で、最高に献身的で、最高に気前がいい存在を神と勘違いしやすいのですね。
 しかし、神というのは、私たちの思考を超えています。旧約聖書のヨブ記にも、神のみ業は、私たちの知識を超えていると書かれています。
 ちなみに、ルターは、「仲間を赦さない家来の譬え」についての説教で、人間的考えと神の考えの根本的な違いについて次のように述べています。
 「そこで、私たちは神の国と人間のそれとを、厳密に区別しなければいけない。人間の国では、罪が叱責され、人間の権利が当然のように求められる。反面、神の国では、罪は赦され、人間の権利の要求には寛容さが求められる。神が福音をもって統治される神の国では、権利要求も義務要求もなく、あるのは、純粋の赦しと、慈しみ、そして、恵みを惜し気もなく分け与えてくださることなのである。そこには、怒りも処罰もない。あるのは、真実の兄弟愛、そして、相互への助け合いである。」
 これを聞いて、その通りだと思えるのなら、私たちの考えは、あの時のペトロ以上ということでしょう。
 でも、私たちに、本当の意味でわかるのでしょうか。何故、神が人間のように罪を叱責せず、七の七十倍もの数、つまりこれは無限にという意味でしょうが、そこまで赦し続けるのか。
 まあ、しかし、この辺をごちゃごちゃ考えるのは今はやめましょう。ルターも、賢人は高尚な知識を求める。しかし、人々に、人が救われる道を教える方が大切だと述べています。今日の聖書の個所で、私たちは知識を増やすのではなく、救いの手がかりを得たいという点に焦点を当てたいものです。イエス・キリストという方が、人間的な発想法、人間的な解決手段しか持っていなかったあのペトロを導き得た、ということは、イエス様の言葉によって、私たちも救いの道に導かれる可能性があるし、現在、どんなに人間的な限界をもっていたとしても、きっと神は救いを用意してくださっているんだ、というところに私たちの慰めがあるんではないでしょうか。
 その救いの道を知るという、本題に入る前に、今日の他の日課は、福音書にどういう光を当てているでしょうか。はじめに、イザヤ書です。ここでは、人間が闇の中を歩くときも、光のないときも、自分の光に頼っているとあります。イエス様が言われた、「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」、これと全く同じです。当時の人々も宗教行事は行っていたでしょうが、そこには人間の声ばかりが満ちて、神の声は聞かれていなかったということですね。宗教改革のころだって、そうですね。大体、お金を出せば、罪を赦してもらえる免罪符というのは、神の声ではなかったのですが、聖書から真剣に聞こうとしていた少数の人をのぞいて、ヨーロッパの大多数の人は、当時の教会が唱えていた人間の声に従っていたと思われます。
 おそらく、現代の教会の私たちも、神の声を聞かずに、人間の声のほうを聞き、自分の光で闇を照らそうとしているに違いありません。ただ、それは、ペトロの場合もそうでした。でも、私はある面で安心しています。神さまが真実の福音を示してくださるとき、私たちの過ちもきっと訂正されるだろう、そう確信します。そう思えることも、恵みですね。そうでないといつも、脅えて生きていかなくてはならない。宗教裁判が当然のこととして行われ、今から考えると無実としか思えない多くの人々が犠牲となった中世のヨーロッパに戻ってしまいます。
 次に、使徒書の日課は何を伝えているでしょうか。ヤコブの手紙です。ここでも、教会に来た人の扱いについて、「あなたがたは、誤った考えに基づいて判断を下している」と書いてあります。困りますね。また同じですよ。「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。この言葉そのものです。私たちの社会がこんな状態で、教会でさえ、人間的な価値判断に束縛されているなら、ルターが言うような、人の救われる道はどこで示されているのでしょうか。
 やはり、私たちは、ルターがそうであったように、聖書に向かわなくてはならない。もちろん、現代の日本では、三浦綾子さんや遠藤周作さんの本も書店で手に入る。難しい神学書だって読める。ただ、その中にも人間的な考えが入っている。どんなに私たちが感動しても、それは、聖書ではない。そして、その聖書も教会という神が定めた共同体の中で福音的に読まれなくては、やはり、人間的な解釈に陥る危険もある。なぜかというと、アウグスブルク信仰告白にあるように、教会こそ、その中で、福音が純粋に説教される場所だからです。
 そのことをふまえながら、マルコ8章34節の「自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」を見てみましょう。この個所をどうしたら、純粋な福音として聞くことができるでしょうか。難しい点です。中世のカトリック教会は、これを福音ではなく律法として聞いたようです。キリスト教だけでなく、多くの宗教が、救いを手に入れるにはまず難行や苦行を自分に課さなければいけないと教えるのではないでしょうか。
 ドイツでは、ルター、日本では親鸞などが、これを懸命にやってみて、越えられない限界の壁に突き当たっています。自分の虚栄心やプライドからは解放されないんです。苦行は役に立たないんです。ですから、この部分を律法として聞く限り、救いの道は見えてきません。
 ただ、ペトロの人間的な弱さ、私たちの人間的な弱さを知っているイエスさまが、自分の努力で救いを勝ち取れ、と言われているのなら、論理的に矛盾しています。それはあり得ない。イエスさまは、違う意味で言われたに違いない。
 そう思って、ギリシャ語の原点を詳しく見ていたら、捨てるという言葉の原形は、アルネオマイという言葉で、自分の考えに対して「そうではない」とはっきり言うこと、あるいは、その意見を否定することなんです。専門の注解者の解釈をあとで調べてみましたが、やはり同じですね。そうだとすると、「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」という、前に出てきたイエスさまの言葉としっかり論理的に一致するんです。そのように、自分の意見を絶対化するのを止め、自分に対して「そうではない」とはっきり言いなさいという勧めなんです。
 そして、自分に与えられた十字架を逃げないで、背負っていくこと。これで、思い出すのは、「炎のランナー」という映画です。これは、パリで開催されたオリンピックの短距離で優勝したイギリス人、エリック・リデルという実在の人をモデルにしているんです。
 エリックの両親がキリスト教の宣教師で、本人も信仰心が厚かった。ところが、オリンピックの百メートル走競技の予選が日曜日に開催されることになってしまった。エリックは、神を第一にして、礼拝に出ようと思い、予選を棄権することにした。ところが、彼を説得しようとするオリンピック委員会の首脳部とイギリス皇太子に呼び出されて、意見を求められた。彼は本当に迷ったのですが、やはり、神を第一として棄権した。ところが、神は、彼を助けたのですね。ハードル競技で銀メダルを既に取った友人がエリックに四百メートル走の権利を譲ってくれた。もともと、百メートルの選手でしたから、無理はあったんですが、エリックは、神にすべてを委ねて、死力を尽くして走った。そして本当に優勝したんです。神の声を聞くことが、奇跡を生むことがあるんだなあと痛感した映画でした。後日談になりますが、その後エリックは、中国に宣教師として赴任し、大変よい働きをしたのですが、苦労が重なって、中国で亡くなったそうです。中国人は彼のことをいつまでも記憶にとどめたそうです。本当に、信仰においても「炎のランナー」だったんですね。
 私たちの人生も同じだと思います。神は、私たちに、十字架を負う機会を与えておられる。私たちは、自分の声のみを聞いて、逃げることもできる。旧約聖書に出てくるヨナがそうでした。でも、神はそんなヨナに対しても、恵み深かった。私たちの十字架は私たち自身の問題かもしれない。あるいは、家族や仕事や教会のための重荷かもしれない。でも、そこに、必ず神の語りかけがある。それは、愛と光に満ちた救いを指し示している。これに聞きなさいということでしょう。私たちは、ここをいつも聞いていきたい。確かに、霊的に鈍いときもある。信仰もくすぶるときもある。でも、中心は自分ではない。自分の言葉でもない。神の恵みの言葉です。それは、ペトロが否定したかった、キリストが私たちの罪のために、受難され、十字架にかけられ、復活された。この尊い言葉です。
 最後に、8:38節で、「この言葉を恥じる者は、私もその人を恥じる」と書いてありますが、この恥じるという意味は、幻滅する、失望するという意味です。ですから、ここにも福音が聞こえます。どんなに十字架が困難でも、失望しないで、信じ続けなさいと、聖書は私たちを心から励ましています。神の言葉を信じていきましょう。最後に、ルターをもう一度引用させてください。「そこで、私たちは、神の国と人間のそれを、厳密に区別しなくてはいけない。人間の国では、罪が叱責され、人間の権利が当然のように求められる。反面、神の国では、罪は赦され、人間の権利の要求には、寛容さが求められる。神が福音をもって統治される神の国では、権利要求も義務要求もなく、あるのは、純粋の赦しと、慈しみ、そして、恵みを惜し気もなく分け与えてくださることなのである。そこには、怒りも処罰もない。あるのは、真実の兄弟愛、そして、相互への助け合いである。」
 キリストが罪深い私たちの赦しのために、受難し、十字架につけられ、罪と死の力を滅ぼして、復活され、私たちの救いの基いとなってくださったこと、ここに、神だけが語る純粋な福音がある。この福音が、皆さんの血となり、肉となり、人生そのものとなる、走約束されている。それを信じましょう。まだまだ、人の声が騒がしいです。神の声を、教会が語る純粋な福音の宣教のなかで聞きましょう。アーメン。
スポンサーサイト
2006/09/24(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「旧約預言の実現」(マルコ7:31~37)
マルコ7:31-37、2006・09・17、聖霊降臨後第15主日(緑)
イザヤ書35:4-10、ヤコブの手紙1:19-27

マルコによる福音書7:31~37
 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」


説教「旧約預言の実現」(マルコ7:31~37)

 私たちは、マルコ福音書を通して、特に聖霊降臨後、主イエスの語られたお言葉となされた働きを主日ごとに聞いてきましたが、本日は既に聖霊降臨後第15主日となっています。先週は、主イエスが、ティロスの地方にまで出て行かれ、だれからも知られたくないと思っておられましたが、隠れていることはできず、悪霊につかれた幼い娘のために、主イエスの前にひれ伏し、どこまでも引き下がらなかった母親の信仰に打たれて、離れた地から悪霊を追い出された出来事が福音の記事でありました。
 さて、本日は、それに続く記事であります。「そしてまた、彼はティロスの地方から出て行かれ、シドンの地方に行かれた、そして、デカポリスの真ん中をガリラヤ湖へとやって来られた」というふうに、本日の記事は始まっています。ガリラヤの西の地方をティロスから30キロ以上も北上し、それから、ガリラヤ湖の東側の地方をぐるっと遠回りして、デカポリスという異邦人の多い地方の真ん中を今度は北上してガリラヤ湖にやって来たのであります。文脈から考えましても、それは異邦人が主である地であったと考えられます。
 さて、すると、人々が、彼の所に、耳が殆ど聞こえないで、しかも、言葉を出すのが非常に困難な人を連れて来て、主にその男に手を置いてやってくださるようにと嘆願するのであります。
耳が聞こえにくい、また、ものが言い難いということは、本当に辛いものであります。多分、ここに出てくる人々、彼らは異邦人たちであったと思いますが、主イエスの名声を聞いていて、ここでも、主イエスは知られずにいることができず、集まってきたのでありましょう。
 主は、この人を群衆から連れ出し、両耳に手を差し入れ、唾をして、それでもってその人の舌に触れたのであります。このような療法は、当時のヘレニズム世界やユダヤ人たちにもよく知られていたものであり、特に唾には特有な癒す力があるものと考えられていました。しかし、そのような当時の、また、現代の心理療法的な処置と違うのは、主が天を仰ぎ見、神に祈りつつ、深いため息をつかれた点であります。ため息をつくというのは、嘆き、もだえ、うめく、というような深い意味を持つ言葉であります。主イエスは、私たちに対しても、共感して、うめき、もだえながら、とりなしの祈りを今も天からなしておられるのであります。
 それから、主は、アラム語で「エッファタ」すなわち、「あなたは開かれよ」と言われました。その人と人格的に深く向かい合って、治療による奇跡の働きをなされたのであり、その人は、そのとき強い信頼を主に寄せていたのであります。すると、彼の聞く器官は開かれ、その舌の縛られていたところは、ゆるめられ、その人は、普通にしゃべりだしていたのであります。彼は生まれつきの耳の聞こえない人、また、生まれつき、ものが言えない人ではなかったようであります。
 主は、彼らにこのことをだれにも言わないように命じました。しかし、主がそういうふうに命じれば命じるほど、人々はますますかえって盛んに、「告げ広めていた」のであります。異邦人であったであろう彼らが、説教をし、福音を宣べ伝えていた、ということが起こったのであります。主が、この癒しをなさったのは、見世物にするためでは決してなかったのであります。この沈黙命令は、主イエスがどういうメシアであるかを知らしめるまで、すなわち、十字架の死を遂げるまで、繰り返し主が、奇跡を起こしたときになされたものであります。
 人々は、計り知れず、圧倒されていました。そしてこう語ります。「見事にすべてのことをこの方はなさった。聞こえない者たちを聞こえるようになさり、しゃべれない者たちを話せるようになさるのだ」と。天地創造のとき、主なる神がすべての被造物を造られて、それを御覧になって、その目にすべてが適っていたというのに通じるところであります。
 本日のこの出来事は、イザヤ書35章の5、6節に直接つながっています。他にも似たような言葉が預言されているものがありますが、言葉とその意味においてはイザヤ書に最も近いのです。それは、終末の日にもたらされるメシアの訪れを預言しています。それらの預言は、直接的には、バビロン捕囚からのイスラエルの民の帰還を預言したものでしょう。けれども、それは同時に、この世界の終わりのときに、どうなるかが預言されているのです。それはこう書かれています。「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が沸きいで、荒れ地に川が流れる。」
 終末の時とは、最後の審判と死と天国と地獄の四つが示されるときでありましょう。しかし、主イエスにおいて、この異邦人たちの間で、本日の癒しの奇跡の出来事において、終末がいわば実現しているのであります。私たちの耳も主の言葉をはっきりと聞き取り、また、私たちの口もはっきりと、主イエスにおける救いの実現を証しし、説教し、福音を宣べ伝える者となるように、すべての人が招かれているのであります。祈りましょう。
 天の父なる神さま。
私たちは、それぞれ、弱さを負った土の器にしか過ぎません。しかし、あなたは、主イエスを、私たちに与え、その十字架と復活を通して、あなたの栄光を現されました。異邦人であった私たちが、あなたの栄光と尊厳を告げ広めることができるようにしてくださいまして、有難うございます。私たちはしばしば、自己の弱さに負けてしまう者でありますが、主イエスのお言葉と御働きを通して、慈しみによって私たち一人一人をあなたのことを宣べ伝える良き器とならせてください。キリストによって祈ります。アーメン。

わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
2006/09/17(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「屈しない信仰」(マルコ7:24~30)
マルコ7:24-30、2006・09・10、聖霊降臨後第14主日礼拝(緑)
イザヤ書35:1-3、ヤコブの手紙1:2-18

マルコによる福音書7:24~30
 イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシャ人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供のパンを取って、子犬にやってはいけない。」ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパン屑はいただきます。」そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。



説教「屈しない信仰」(マルコ7:24~30)

 本日の福音の記事は、先週のユダヤ人たちの律法主義に対する主イエスの反論に続く記事であります。マタイにも15章に並行記事がありますが、ここでも、マルコの記事のほうがオリジナルであり、古いものであろうということが、比較してみると、推測できます。ここでは、マルコの記事を中心にしながら、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 主イエスは、そこから、立って、ティルスの地方へと出て行かれます。ガリラヤのゲネサレの地から、なかば異邦人の地であるフェニキアの地方まで行かれるのであります。弟子たちがついて行ったということは文章上は書かれていません。ひょっとしたら、主イエスご自身だけで行ったのかも知れません。
なぜ、そんな遠くまで行かれたのでしょうか。それは、主イエスの宣教の範囲と言いましょうか、ご自分の目指すべき視野がどこまでなのかを考えに、遠く異邦人の地にまで行ったのでありましょう。
そして、主はある家に入り、だれにも気づかれないでいたいと思いましたが、知られずにいることはできなかったのであります。それほどに、主の名声とうわさは広がっていたのであります。そして、直ちに、ある女の人の知るところとなり、彼女はやって来て、主の前に屈みこみ、わが子のために、要求するのであります。すなわち、この女性は、ギリシャ人で、あるいは、それはギリシャ文化の中で育った異邦人というほどの意味であるかもしれません。彼女は、汚れた霊につかれた幼い娘を持っていました。彼女はその子から悪霊を追い出してほしいと嘆願するのであります。
主イエスは言われます。「まず、十分に子供たちに食べさせねばならない。そのパンを取って子犬たちに投げてやるのはよろしくない」と。ここで、子供たちとは、神の選民と自負していたイスラエルの民のことであり、子犬たちとはそれ以外の外国人、異邦人を指しています。ところが、この女性は言うのであります。「主よ、―あるいは、ご主人―、そして、子犬たちは、子供たちからのパンくずは食べています」と。
主イエスは、お答えになります。「その言葉のゆえに、出て行きなさい。悪霊はあなたの娘から出てしまった。」そして、彼女は戻って見ると、その娘は床の上に横になっており、悪霊が去っているのを確認するのであります。この記事を読んだマルコの教会の人々は、異邦人が多かったことでしょう。そして、この女性の中に自分たち異邦人の救いの喜びを垣間見、彼女と自分たちを重ねてみたことでしょう。
そしてそのことは、2000年近くを隔てた私たち、日本人の信者も同じであります。主イエスは生前のこの時期において、ご自分の宣教の範囲を見定めようと、祈りのうちに、考えをめぐらしていたことでしょう。そして、まずは、ユダヤ人たちにその宣教の範囲を限らなければならないとお感じになっていたでしょう。
しかし、本日の女性のように、なんら自分の功績を誇ったり、ユダヤ人の救いがまず求められねばならないことを素直に認めつつ、そこからのおこぼれであるパンくずは、必死になって求める、その謙虚な姿勢の中に、主はゆくゆくはそうなる救いの、全人類への広がりを、しっかりと受け止められ、救いの中へと受け入れてくださったのであります。
 私たちも、この女性のように、主から無代価で与えられている、主ご自身の十字架とご復活によって、救われているものであることを、今一度確かめ、感謝の応答をしていきたいものであります。そしてこのような屈することのない信仰を、この女性とともに日々の生活の中で示していきたいものです。アーメン。
2006/09/14(木) 16:19:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「人間の伝統か、神の命令か」(マルコ7:1~15)
マルコ7:1-15、2006・09・03、聖霊降臨後第13主日礼拝―緑―聖餐式
申命記4:1-8、エフェソの信徒への手紙6:10-20

マルコによる福音書7:1-15
  ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。―ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。― そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。
 『この民は口先ではわたしを敬うが、
  その心はわたしから遠く離れている。
  人間の戒めを教えとしておしえ、
  むなしくわたしをあがめている。』
 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたがたは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」
 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」


説教「人間の伝統か、神の命令か」(マルコ7:1~15)
 本日のマルコ7:1-15は、7:1-8と、7:8-13と7:14-15に分けることができます。そして、共通して言えるのは、汚れの問題を扱っているということです。
 本日の福音の記事に沿って、しばらくご一緒に考えてみましょう。
まず、ファリサイ派とエルサレムからの律法学者たちのある者たちが、主イエスのもとに集まります。そして、イエスの弟子たちのある者たちが、すなわち清くない手で、手を洗わないで食事をしているのを見ます。当時のファリサイ派やすべてのユダヤ人たちは、身を清めてからでないと、食事をせず、他にも、市場から戻ってきたときには、水を振り掛けるとか、杯や鉢や銅の器や、寝台も水で洗うといった多くの似たようなことどもを守っていました。これは、敬虔なユダヤ人たちが、マルコがこの記事を書いたころの状態だったと考えられます。
 手を入念に洗うというのは、こぶしでこすって、水で洗ったのか、手首のほうまで洗ったのか、その実態はよくわかりませんが、「あなたの弟子たちはそのような古くからの言い伝え、長老からの伝統によって歩まず、洗わない手で、パンを食べるのはなぜなのか」と彼らは質問したのです。主イエスは、イザヤ書の言葉を取り出して、語られます。ヘブライ語のイザヤ書29:13には「この民は、口でわたしに近づき、唇でわたしを敬うが、心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても、それは人間の戒めを覚え込んだからだ」と記されています。
 外側だけの敬虔さ、儀式的・祭儀的な表面だけの清さに過ぎないと、主は、ファリサイ派や律法学者を鋭く、激しく、非難されるのであります。あの慈愛に満ちた方が、「災いなるかな、律法学者やファリサイ派の者たち、あなたたちは偽善者だ」と真っ向から批判し対立なさるのです。それが、直接の十字架につけられる引き金ともなったのです。
 第二の部分は、同じく、「あなたがたは人間の言い伝え、伝統を固くたて、神の命令、神の掟を捨ててしまった」と繰り返して始まります。モーセは、「あなたの父と母を敬え、あなたの父と母を悪く言う者は死につけられる」と言ったのに、あなたがたは、「だれでも私の持っているものは、コルバン、すなわち、神へのささげものです」といえば、その人は父、母にとっての助けになるものでも、与えなくてよくなると言って、神の掟を無効にしていると、当時の神の掟、命令から離れた人間の戒めを作り出していることを、厳しく批判なさいました。
 そして、第三の部分で、群衆を呼び寄せて言われます。「あなたがたは皆、洞察力を持ってよく聞きなさい」と言われ、「人間の外から入るものは、人を汚さない、かえって、人間のうちにあるものが、人間を汚すものどもになるのである」と言われました。
 ファリサイ派たちは、細かな施行細則を作って、神の命令を具体化しようとしましたが、人間の思いでそれを取り違えてしまっていたのです。私たちは、常に、主イエスと結ばれて、聖書の神に固着することが必要であります。本日は、幸いに、このあと聖餐式があります。主イエスのお言葉をもう一度思い起こしながら、十字架で私たちのために命を差し出されたお方と交わり、つながって、汚れを取り除かれ、新しい1週間を神の掟・命令に従った生き方をしたいものであります。
天の父なる神さま。私たちを、心の底から清めてください。あなたによってのみ、罪赦され、新しい1週間へと立ち上がらせてください。人間の言い伝え、伝統に縛られるのではなく、あなたの命令を聞き取り、真の自由を与えられていることを洞察していく者とならせて下さい。キリストによって、祈ります。アーメン。

2006/09/03(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。