津田沼教会 牧師のメッセージ
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「鈍くされていた弟子たちの心」(マルコ6:45-52)
マルコ6:45-52、2006・08・27
聖霊降臨後第12主日(緑)
ゼファニア書3:18-20、エフェソの信徒への手紙4:1-16

マルコによる福音書6:45~52
 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いているのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。



説教「鈍くされていた弟子たちの心」(マルコ6:45~52)

本日与えられています福音の個所は、マルコ福音書6:45-52であります。これは大人の男だけでも五千人ものパンを、奇跡を通して主イエスが与え、一同が満腹したという大きな出来事の直後の記事であります。本日のこの記事をもう一度思い起こしてみましょう。 
主イエスは、直ちに、強いて、12弟子たちを先に向こう岸のベトサイダへと舟で送り出します。そして、御自身は、群衆を解散なさります。そして、群衆に別れを告げると、山へと、山といっても日本のような木の生い茂った山というよりも丘陵地というようなところでありましょうが、そこへ、祈るために出かけて行きます。主イエスは、大事な場面でしばしば祈られる方でありました。本日の場面も非常に大事な場面であることが、それによって示唆されています。
そして、弟子たちは、遅くなったとき、海の真ん中において居り、主イエスは陸の上に居られたと出てきます。五千人にパンを分けたときも、遅くなっていたというので、海の真ん中に弟子たちが出たのは、暗くなる前だったとも思われますが、前後関係はよく分かりません。そして遅くなり、彼らは、向かい風で、進むのに苦しんでいました。主イエスは、それを、暗いのにどうやって御覧になることができたのか、不思議ですが、夜明け前に、すなわち第四の時、午前3時ころかと思われますが、海の上を歩き回りながら、彼らに向かってお出でになります。そして、更に不思議なことには、彼らのそばを通り過ぎようとされます。 彼らは、彼が海の上を歩き回るのをみて、幽霊、幻影だと考えて叫び声をあげます。なぜならば、みんなは彼を見てうろたえていたからであるといいます。しかし、主は、すぐに彼らに話しかけられ、お語りになります。「しっかりしなさい。私である。恐れるな」と。そして、彼が彼らに向かって舟に上がられると、風は和らぎ、彼らは心の中でひどくこの上もなく、我を忘れるほど驚いていました。なぜならば、彼らはあのパンどものことに対して洞察を得ることがなく、その心は、鈍くされていたからであるというのであります。
さて、本日の出来事は、少し前に読まれました、嵐の中で主イエスが船尾で枕をして寝ていたという出来事を思い起こさせます。しかし、あの場合は、弟子たちの生死にかかわる大嵐であります。今回は、それに比べると、弟子たちが死に直面しているというほどの場合では必ずしもありません。
ここでは、主イエスは、御自分がどういう者であるかを弟子たちに示そうとされたのであります。しかし、まだ弟子たちの心は鈍くされていて、主がどのようなお方であるかの洞察を得ること、すぐ前に起こったパンの出来事の真の意味を理解することができないでいたのであります。
本日の奇跡について、私たちはどうでありましょうか。海の上を主イエスが歩き回られたということは、私たちの理性では、とうてい信じることができません。また、先週の五つのパンと二匹の魚で五千人の食事を給することができた出来事もそうであります。しかし、私たちの心の飢えを真に満たし、新しい命を生きることができるようにしてくださるのは、旧約聖書において待たれていた救い主メシア、すなわち主イエス以外にはおられません。
そして、神は海の上を、波の上を踏み砕き、死を征服する方だと約束されていました。弟子たちは、主イエスが待ちに待たれた救い主であることを、なかなか理解できませんでした。私たちの理性でもそうであります。主は、弟子たちの舟のそばを通り過ぎようとされました。それは、モーセがシナイ山で主なる神に出会ったとき、神を見ないようにさせられ、神が通過して行ったことを思い起こさせます。主イエスは神の栄光を表そうとして、弟子たちのそばを通り過ごそうとされたのです。
さて、私たちは、ここでも、弟子たちの乗っていた小舟が、現在の私たちの教会を表していることを知ることができます。時が去り、遅くなって、向かい風に悩まされ、進みあぐねているときにも、また、疲れ切って、絶望に囚われているときにも、主は私たちの現状をすべて、ご存知であり、それを知って私たちのもとにお出でになられ、共にいてくださる方であります。
私たちの信仰生活も、必ずしも順調に進むわけではありません。また、入信についても、いろいろな形で信仰に入られる方がおられます。どなたも時、既に遅しということはありません。私たちの信仰の祖ともいわれますアブラハムがウルの地を出発して、約束の地を目指したのは、75歳のときでありました。私たちは、「元気を出せ。私である。恐れるな」という主イエスの、そして神の語りかけを、今も受けています。今日からの1週間が、私たちの生涯にとってそれぞれ新しい一歩、新しい1週間となりますように。
祈りましょう。
天の父なる神さま。
主イエスは、私たちの生も死もすべてをご存知でご支配なさっています。私たちに、それぞれ与えられた生涯を、本当に生きてきて良かったと言えるような生涯へと導いてください。湖の上を主イエスが歩かれたという奇跡を、またその意味を、捉えさせてください。鈍い信仰生活から、しっかりした、めざめた心で生きる信仰生活へと導いてください。主のみ名によって祈ります。アーメン。
望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。



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2006/08/27(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「五千人のパン」(マルコ6:30~44)
マルコ6:30-44、2006・08・20、聖霊降臨後第11主日(緑)
エレミヤ書23:1-6、エフェソ2:11-22

マルコによる福音書6:30~44
 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らよりも先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった。


説教「五千人のパン」(マルコ6:30~44)
 マルコ福音書は、4つの福音書の中で最も古く、最初に書かれた福音書と考えられています。本日の「五千人のパン」の出来事も、他の三つの福音書と比較してみるとき、その中で最もオリジナルな記事であることが窺えます。それをいちいち今取り上げることはできませんが、帰られてから、新共同訳聖書にあげられています並行記事を、一度読み比べてみることをお勧めします。
本日は、マルコの記事をもう一度思い起こしながら、本日の記事に書かれていることの意味についてしばらくご一緒に考えてみましょう。
 まず、マルコ6:30-34と6:35-44とに本日の内容は分けることができましょう。使徒たちは、集められ、そのなしたこと、教えたことを皆、主イエスに報告します。彼らは使徒たちと呼ばれています。マルコでは、12使徒の選出の記事を除いては、ここだけでしか、「使徒たち」という呼び方はされていません。彼らは、主イエスの使者として、説教し、悪霊を追い出し、あるいはいやしの働きをしたのであります。主イエスは出入りする人たちが多いので、彼らにしばらく休むようにと優しい言葉をかけます。彼らは、食べる暇もなかったのであります。それで、密かに、彼らだけで舟に乗って寂しい場所、あるいは、荒れ野の場所とも訳せますが、そういう場所へと出発します。ところが、多くの人々は、それを知って、陸路で、イエスの一行よりも早く、すべての町から一緒に駆け出し、寂しい場所に先に着くのであります。主イエスは、人々が飼う者のいない羊どものようであるのを、舟を下りて御覧になり、憐れまれるのであります。
これは、腸がうずくという意味の言葉で、神と主イエス以外にはまず使われない言葉であります。私たちを神とみ子イエスは、今も腸がねじれるような思いで御覧になっておられるのであります。そして主は、いろいろと詳しくお教えになっておられました。
そして、いよいよ、6:35-44の記事に移るのであります。彼の弟子たちは時もだいぶたったので、イエスのもとに来て言います。「彼らを解散なさってください。時もだいぶたちました。彼らはそうすれば、里や村に行って、何か食べ物を買い求めることができましょう」と。しかし、主は言われます。「あなたがたが、彼らに食べることを与えよ」と。
弟子たちは、「私たちが行って200デナリオン、200万円ものパンを買って来て食べさせるのでしょうか。」弟子たちは、不平を言います。しかし、主イエスは、「あなたがたはどれだけパンを持っているのか、行きなさい、見てきなさい」と答えられます。彼らは行って確かめ、「5つです、それと、魚を2匹と」、と言います。主は、弟子たちに命じて、組になって、青草の上に食事のために横にならせるように、命じます。人々は、100人ずつ、50人ずつ、まとまって食事のために場所を取ります。
主は、パンと魚を取って、天へと目を上げ、賛美の祈りを、すなわち、感謝と賞賛を神に表し、パンを裂いて、弟子たちに与えておられました。そして弟子たちは人々に分け与え、また、主は、魚をもすべての人に分配なさったのであります。そして、彼らは皆、食べ、満腹したのであります。そして、パン屑と魚の残りを集めると12籠一杯になったのであります。そして食べた者は男5千人であったというのであります。
これは、何が起こっていたのでありましょうか。この出来事は、荒れ野における出エジプトの民を思い起こさせます。彼らは、不平を言ったとき、天からマナによって、飢えを満たすことができたのであります。
しかし、主イエス御自身こそが、まことの天からのパンであります。出エジプトの民が日々必要に応じて満たされたように、私たちもまた、この五千人のパンの出来事を体験することができます。すなわち、主イエスのなさった動作は、受難と死を前にしての聖餐の設定辞と殆ど同じ言葉が用いられています。この時、弟子たちも、群衆も、このパンの奇跡の意味を理解することはできませんでした。
しかし、後になって、教会の時代になって、この日の出来事の意味を理解していったのだと思います。私たちは現在も聖餐式のたびごとに、また、毎週の礼拝のだびごとに、本日のパンの奇跡の出来事を思い起こし、体験すことができます。
できる限り毎日、このパン、そしてまことの命のパンである主イエスとそのお言葉を、また、聖書のみ言葉を食べること、それによって、私たちは養われることができます。弟子たちは、その意味についてその時、理解できませんでした。そして、この後も、水の上を踏み歩く主イエスを見ておびえ、彼らの心は鈍くなっていて、パンの出来事を理解していなかったのであるとマルコは記しています。主イエスは、朽ちることのないまことのパンであります。救い主として、このとき、お出でになられていた方であります。聖書は77巻すべて、この救い主、メシアがお出でになることを約束しているものであります。この主の体であるパンを、毎週いただき、さらには毎日、日ごとに、み言葉をいただいて、日ごとに新しい人とされて、家庭で、職場で、地域で人々にキリストを証ししながら、歩んでいきましょう。祈ります。
 天の父なる神さま。
なかなか、悪い癖から抜ききれない弱い僕でございます。しかしあなたは、み子をくださり、私たちを、根本から新しい人に作り変えてくださいます。どうぞ、あなたの憐れみによって、新しい人生をやり直させてください。キリストによって祈ります。アーメン。









2006/08/20(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「この世界に派遣されて」(マルコ6:6b~13)
マルコ6:6b-13、2006・08・13、聖霊降臨後第10主日(緑)
アモス書7:10-15、エフェソの信徒への手紙1:3-14

マルコによる福音書6:6b~13

 それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物を履くように、そして、「下着は二枚着てはならない」と命じられた。また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出て行くとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。


説教「この世界に派遣されて」(マルコ6:6b-13)

 主イエスによって、私たちは、この世界へと派遣されて生きている者であります。本日は、マルコ福音書の6章6節後段から13節までを、福音として与えられています。現代の私たちに対してそれが持っている意味について、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 最初の、6章の6節bは、主がナザレ伝道で失敗した結果、やむをえず、来たした状態なのか、それとも、私たちの用いている新共同訳聖書が、位置づけているように、十二人の宣教のための派遣に属する文として、マルコか、あるいは別の編集者が新たな出来事として、始まりを示すものなのか、学者にも争いがあります。どちらとも取りうるのですが、ナザレの伝道における失敗とは、別の新たな展開を示すものとして、私たちに与えられているペリコペーにあるとおりに、6章の6節後段から13節までとして、考えていきましょう。
主イエスは、周りの小さな町、あるいは村々を、お教えになりながら、経巡り、旅をしておられたのであります。そしてその時、十二人を召集し、彼らに汚れた霊、不浄の霊どもに対する権能をお与えになりながら、二人ずつにして、派遣することをお始めになっておられたのであります。この私たちの住む世界は、残念ながら、汚れた霊ども、不純な霊どもの潜んでいる世界であります。それは、アダムとイブの堕罪のあと、そうなっているのであります。そして、主イエスが十字架におかかりになり、私たちを罪の奴隷から解放してくださった後も、汚れた霊がなくなるということはなく、私たちはそれに対して、用心し、戦わねばならないのであります。私たちが、聖書のみ言葉によって、悪霊を追い出し、祈りと礼拝とによって、あるいは、説教を聞き続けることによって、それらに、打ち勝って行くことができるのであります。
 さて、主は以下のように、彼らにお命じになりました。それは、パンも、袋も、―これは、ずだ袋、僧たちが今日でも時々、人々の行き交う場所に立って物乞いをしてお経を唱えたりしているのを見かけますがー、そういう袋も持たず、杖、護身用の棒とサンダルを履くことは別ですが、それ以外には、帯に銅貨も持たず、飲み食いよりも、宣教に、伝道にのみ専心するように、戒められたのであります。本日の個所は、非常に徹底していて私たちを困惑させるものなので、これは後になって、教会が主イエスの口を通して、そのあるべき伝道の姿を示したものではないかという学者もいます。けれども、この緊迫した調子の中での言葉は、主イエスの語られたものに違いないのであります。マルコ福音書では、杖とサンダルは認められていますが、マタイやルカではそれも認められていません。ローマの世界に向けて書かれたマルコ福音書においては、杖とサンダルなしには、宣教旅行は考えられなかったからでありましょう。また、「下着は二枚はあなたがたは着てはいけない」と禁じています。ここには必要なものは、神によって必ず備えられるという強い確信があります。私たち現代のキリスト者も、聖書一冊を携えながら、必要最小限度のもののみをひっさげて、家族に、地域に、職場に、主イエスのお教えを告げ広めたいものであります。
 次に、主はまた、こう言われていました。「ある家に入ったなら、そこを出るときまでその家にとどまりなさい。場所があなたがたを歓迎せず、人々があなたがたに耳を傾けなかったなら、そこを出るときに、彼らへの証しとして、足の下の塵を振り払いなさい」と。これは、呪いのしるしではなく、警告の言葉であり、人々が十二人に聞かなかったのは、主イエスに聞かなかったことになるのであり、弟子たちの失敗は、主イエスの失敗であることを、主は派遣に先立って彼らに保証してくださっているのであります。
 彼らは、人間的才能などに頼るのではなく、ただ一人、主イエスのお言葉に従って全力を尽くせばよいのであり、後の結果は、主イエスがすべて引き受けてくださるのであります。
このような主イエスの指示に従って、彼らは出て行き、使信を宣言します、すなわち、人々が悔い改めるように、勧めるのであります。「悔い改める」というのは、「心の向きを変える」という意味の言葉が使われています。心を神に向けるように人々に説くのであります。私も1週間の休みをいただいて、家族で旅行し、親戚や実家に帰ったりしてきました。主イエスの福音、すなわち、主イエスという良い知らせ、また、主イエスによってもたらされる良い知らせを、十分に伝えることができたかと言えば、必ずしもそうではなく、恥ずかしい思いにさらされます。何と、主イエスのお言葉から、また、全聖書のみ言葉から、離れやすく、牧師として恥ずかしい生活にひきづられ安いことでしょう。
 さて、しかし、最後に彼らは、多くの悪霊どもを追い出していましたし、病人たちにオリーブ油を塗っていました、そして彼らは、いやしの業を果たしていたと、本日の個所は締めくくられています。主イエスが教えたように、十二弟子たちも教えることができたのであり、それは、言葉だけの教えではなく、行いによる教えでもあり、悪霊を追い出し、病人をいやすという力を持った働きができていたのであります。
 この十二弟子たちの働きは、私たちにも同じようにできると主イエスは今も約束してくださっています。そして、今は、主イエスは、天の父なる神の右に座して、聖霊を送って私たちを励ましておられます。私たちは絶望することなく、新しい人となり、キリストをこのわが身の上にまとって、新しい歩みを、ここから、踏み出していきましょう。祈ります。
天の父なる神さま。
この世界は、争いと憎しみが現存し、悪魔は、私たちを、み言葉から引き離そうと、猛り狂っています。私たちはそのことをしばしば忘れ、あなたのみ言葉から迷い出してしまいます。どうか、上からの聖霊の力によって、私たちが汚れた霊によって支配されることからお守り下さい。そして、周囲の出会いますすべての人々に、罪からの解放者、主イエスを言葉と行いにおいて、力強く宣べ伝えることができますように。キリストによって祈ります。アーメン。

2006/08/13(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「キリストは敵意を滅ぼす」(エフェソ2:13~18)
エフェソ2:13-18、2006・08・06、平和主日
ミカ書4:1-5、ヨハネによる福音書15:9-18

エフェソの信徒への手紙2:13~18

しかし、あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。
 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。

説教「キリストは敵意を滅ぼす」内海望牧師(日本福音ルーテル教会牧師・津田沼教会員)

この日は、平和主日として、平和を覚える聖餐礼拝が、内海望牧師によって守られました。
2006/08/06(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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