津田沼教会 牧師のメッセージ
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「癒し、そして死の克服」(マルコ5:21~43)
マルコ5:21-43、2006・07・30、聖霊降臨後第8主日(緑)
哀歌3:22-33、二コリント8:1-15

マルコによる福音書5:21-43
イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。
 大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのままに話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子たちだけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩き出した。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。


説教「癒しと死の克服」(マルコ5:21~43)
 
私たちは、このところ、主イエスの譬え話から、奇跡物語に移っています。嵐の海で波風を静めるという奇跡の後で、東岸のあるゲラサ人に取り付いていた悪霊を追い払うという奇跡の後の、12年間長血に苦しんでいた女の人の病気、これは、鞭という意味のことばですが、それを主がお癒しになるという3番目の奇跡と、そして、頂点ともいえるヤイロの娘を再び死から起き上がらせる、これは、復活させるということまで意味しているのでありましょうか。そういう4番目の奇跡の出来事、そのふたつが、本日与えられています福音書の奇跡物語であります。
 それを、順を追って、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。もう一度、本日の出来事を思い起こしてみましょう。主は、向こう岸に、舟に乗って渡られます。そして湖のほとりにおられました。おそらく、カファルナウムの辺りではなかったかと思います。大勢の群衆が主のもとに集まってきていました。そして、そこに、会堂長の一人のヤイロという人がやってきてひれ伏し、嘆願するのです。「私の小さい娘が終わりの時を持っています。どうか、やって来て、彼女の上に両手を置いてやってください、そうすれば、彼女は救われ、生きるでしょう」と。会堂長とは、会堂での礼拝の指揮や監督をし、また、会堂の管理もするという名誉な地位にある者であります。その一人のヤイロが、そのような名誉な地位とか威信をすべて投げ打って、神の子とうわさされている主イエスのもとに、希望のすべてをかけてやってくるのであります。私たちも、自分に過剰な自信を持っていたり、自分の力に依存して行く間は、救われることはありません。自分の力のすべてをむなしくして、主イエスのもとにひれ伏すことが、第一であり、そして、それが、毎週の礼拝に集まる理由でもあります。
 主は、何も言わずに、彼と共に出発します。大勢の群衆も、弟子たちも一緒に押し合いながらやって行きます。そこに、別のエピソードが起こり、加えられています。これは、マルコが良く使うサンドイッチのように、真ん中に別の話を入れるやり方でもありますが、ここでは、ペトロが目撃した記憶すべき出来事をそのまま載せていると素直に読んでいいでしょう。すなわち、12年間も長血を患っている女の人がいました。彼女は、多くの医者に財産を使い果たし、医者周りをしましたが何の役にも立たず、かえってますます悪くなるだけでありました。長血を患うということは、旧約の律法では汚れた者であり、人々との交わりもろくにできなかったのであります。
 彼女は、そんな中で、主イエスに信頼を強く抱き、この時群衆にまじってやって来て、後ろから、その衣に触れ、上着のどこかをぎゅうと握り締めたに違いありません。その時、彼女の血の源は乾き、癒されていることを、自分の体で感じました。ところが、主は、自分から力が出て行ったことを察知し、誰が私に触れたのかといわれます。弟子たちは、こんなに群衆が押し合っているのに、誰が触ったのかというのですかとなだめようとします。  
 しかし主イエスは、誰が触れたのか群衆の中を、見回しておられました。その女の人は、恐ろしくなり、ふるえながら、自分の身に起こったすべての真実を、み前に出て申し出ました。主は、12年間も、人々からも交わりを絶たれて暮らしてきたこの女性に言われます。  
あなたの信仰があなたを救った。平和へと出て行きなさい、そして、あなたの病気、―それは鞭と言う字で神の刑罰が病気だと当時は考えられていたのですが、その女性に声をかけー、その病気から今からは守られて健康でいなさい、さようなら」と神との交わりに招きいれ、励まして送り出したのであります。神の力が、イエスさまを通して働くのであります。そして、罪から、肉体も心も癒されるということが、一番大切であり、主はその女の人の主イエスへの類まれな信頼に応えられ、それを公にして、彼女をみんなの前で励ましてその信仰を救い主に対する確かなものにして、新しい人生へと送り出されたのであります。
 さて、主がお語りになっている間に、会堂長のもとから、人々が来て言います。「あなたのお嬢さんはなくなりました。もはや、先生を煩わすことはないでしょう。」主はそれを耳にして言われます。恐れるな、ただ信じゆだねよ。ヤイロは、つい先ほど、女の人が癒され、その信仰に対して、主が語りかけられた言葉を、驚きをもって聞いていたことでありましょう。律法よりも、むしろ、このお方にのみ、望みがあると、確信させられていたことでしょう。主は、3人の弟子たちだけを伴うことを許し、やがてその家に着きます。大声で騒ぐもの、泣くもの、それらを見て主は言われます。「なぜ、嘆いているのか、泣いているのか、その子は、死んだのではない、眠っているだけだ。」不思議な言葉であります。私たち人間にとって、死ほど悲しいことはありません。主もそのことは十分ご存知であります。しかし、主は、喪で悲しむ人々を追い出し、両親と弟子の3人だけで入り、そしてその子が置かれているところへいかれます。そして、その子の片手を取り、「タリタ、クム」少女よ、起きなさいといわれます。すると、その少女は起き上がり、歩き回り始めます。主は、何か食べるものを与えるようにいわれ、そして、このことを誰にも知られないようにと、重々、命じられたのであります。何も食事らしいものを長らく食べていなかったであろうその少女に対する主イエスの愛の配慮の深さを感じさせる言葉です。
さて、この死人が再び起き上がるということは、復活したということでありましょうか。主の復活の後に、私たちの復活もあるかのように考えがちですが、主の十字架と復活の前にも、ラザロを起こし、ナインの独り息子も死の中から起こしています。主は、神の子として既に生前にそのようなことを起こす力をお示しになったと、マルコや福音書記者たちは思い起こしたのでありましょうか。死は、眠りのようなものであります。神の目には千年も一日のようであり、死というその眠りから起こすことが、主イエスはおできになった、ということでありましょう。神にできないことはなにもないのであります。
確かに死を主によって克服された少女も、父ヤイロも、また、12年間長血を患ったが癒された女の人も、皆、やがては老いたり病んだりして地上の命は私たちと同じように、終えたのであります。しかし、大切なことは、信仰を持って、罪から救われて、新しい生活するということであります。そして、それが私たちに約束されている復活の命を生きるということでもあります。
祈ります。
天の父なる神さま。私たちは、あなたに、全信頼を寄せて生きることがなかなかできません。けれども、本日の奇跡の出来事において示されているように、自分の力に頼ることをやめて、心も体も癒されて、あなたとみ子への信頼を持って新しく生きることをえさせてください。キリストによって祈ります。




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2006/07/30(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「波風を静める方」(マルコ4:35-41)
マルコ4:35-41、2006・07・23
聖霊降臨後第7主日
ヨブ38:1-11、二コリント7:1-16

マルコによる福音書4:35~41
 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。


説教「波風を静めるお方」(マルコ4:35~41)
 
日本列島は、現在、梅雨前線が発達して、多くの水害の犠牲者や被害が出ています。改めて、自然の猛威を知らされ、亡くなられた方々のことを思うと、いたたまれない気持ちになります。さて、本日のマルコ4:35-41は、ガリラヤ湖でそのような大自然の猛威に出会った時の出来事を記している奇跡の記事であります。私たちは、今年は、教会暦の三年サイクルのB年として、マルコによる福音書を与えられて、読み進んでいますが、本日の個所も、共観福音書の、マタイ、ルカ、いずれの福音書にも載っています。
絶対にそうだとは言えないのですが、ここでも、マルコの記事が一番、生き生きとしており、おそらく、ペトロの目撃証言に拠っているのでしょうが、具体的に、目で見ているような素朴な文章となっています。それぞれの福音書がそれぞれの特徴を持ち、すばらしいのですが、4つの福音書の中で最も古いと考えられているマルコから、今年は、福音が与えられていることを、改めて嬉しく思います。
 主イエスは、カファルナウムの湖辺で、大勢の群集に向かって、譬えでお教えになり、その日も遅くなったとき、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちにお語りになります。主イエス御自身がリーダーシップをお取りになります。弟子たちは、彼を舟に乗せたまま、お連れします。マルコは、他のマタイ、ルカにはない、彼とともに他の舟どももいたということを記しています。そして、急に、激しい風の嵐が起こります。これはしばしば、ガリラヤ湖では起こることであります。すり鉢状のガリラヤ湖に、北西の方からにわかに突風が吹きつけてくるのです。しかも、この時のものは、嵐には慣れていたはずのついこないだまで漁師であったペトロやヨハネたちにとっても経験したことがないほどのものでした。波が舟に打ちつけ、舟は水で沈まんばかりであります。ところが、主イエスはというと、舟の艫、船尾で、舵取りをするあたりでしょうか、木片か何かを枕にして、眠っていたというのであります。弟子たちは、主イエスを眠りから呼び起こし、言うのであります。「先生、私たちは今にも溺れ死にそうなのに何ともお構いにはなられないのですか」と。主イエスは、起き上がり、風を叱り付けられ、また、海に向かって言われます。「黙れ、静まれ」。この静まれというのは、口輪を付けよという意味の言葉であります。そして、風はやみ、そして、大きな静けさになったのであります。そして、主は言われます。「なぜ、あなたがたは臆病な者であるのか、まだ、信仰を持っていないのか。」そして、彼らは、大きな恐れを恐れ、互いに言っていたのであります。「では、この人は誰なのか、風も海も、この人には従うとは」と。
 一体、この通りのことが、実際に起こったのでありましょうか。自然もまた、主イエスは従わすことがおできになるのでありましょうか。確かに、主イエスが十字架にかかられたとき、神殿の垂れ幕は、二つに裂け落ち、地震が起こったなどということも聖書は記しています。私たちには、考えることができないようなことも、主イエスはおできになられる方であります。
 しかし、ここでは、主イエスが創造主であられる父なる神が私たちを支配しておられることに、どこまでも信頼を置いていたということが記されているのではないでしょうか。そして、この古代の人々にとっては、海、湖、大水は、混沌の世界であり、得体の知れないものであり、また、恐怖や災難や不安、葛藤などを表すものでありました。そして、主イエスをお乗せしたこの舟は、このマルコ福音書の記事を読む人々にとって、教会そのものを表すものとして考えられたでありましょう。
 それから、2000年近くを隔てて、今日の私たちの教会にとっても、沈みそうになっていたこの舟は、私たち自身であります。古代の当時の人々にとって、どうしようもなく、恐ろしい、滅びへと追いやるものが、大水であったように、私たちの信仰生活にも必ず、同様な大きな試練や困難がつきまといます。思い通りに順調には、私たちの信仰生活は進みません。けれども、私たちの舟には、いつも主イエスが共にいてくださいます。主は、父なる神は、私たちを決して滅ぼさない、きっと守り導いてくださると常に信頼を置いておられました。
そして、今も同じで、私たちを見守り、共に進んでくださっているのであります。
 主イエスの時代と違って、科学や文明は一段と発展し、生活は便利になり、多くの人々は、物質文明の中で、宗教はなくても生きていけると考えています。しかし、宗教なしには、そして、聖書なしには、私たちの心の平安、真の平和は決して得ることはできないのではないでしょうか。主イエスの時代から2000年近くたちました現在も、依然として世界には戦争は絶えることなく、憎しみ、争いが続いています。そのような中で、主イエスは、大水や風に向かって「黙れ、静まれ」と今も私たちの傍らで、私たちを見守り、私たち教会につながる一人一人の人生という航海を導き、先立っていてくださるのであります。神のご加護に感謝しつつ、今日からまた新しく出直したいと思います。
ひと言祈ります。
 父なる神さま。あなたは、自然災害において、あるいは、戦争などにおいて、尊い人命が失われることも、現実にありますが、私たちの人間世界のすべてを統べ治めておられます。そして、私たちが、混沌や闇の世界のうちに滅びるのではなく、罪から解き放たれて、互いに愛し合いながら、まっすぐに神と人とに向き合って、生きることを望んでおられます。信仰生活がなかなか思うとおりに進みませんが、主イエスがどんなときにも共にいてくださることを思い起こしつつ、日常の生活を通して、み子による救いを宣べ伝える者としてください。キリストのみ名によって祈ります。アーメン。 






2006/07/23(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「福音の進展と神の支配の実現」(マルコ4:26~34)
マルコ4:26-34、2006・07・16
聖霊降臨後第6主日(緑)
エゼキエル書17:22-24、コリントの信徒への手紙二6:1-18

マルコによる福音書4:26~34
 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。




説教「福音の進展と神の支配の実現」(マルコ4:26~34)

本日の福音個所での説教の題を「福音の進展と神の支配の実現」というふうに、ある少し古い日本人の注解書を参考にしながら、つけさせていただきました。それは、本日の福音の個所、マルコ4:26-34の個所が、神の国の譬えと、譬えで語られる主イエスを記しているからであります。一読すると、簡単な譬え話、あるいは、それを語られる主イエスの状況を淡々と記しているに過ぎないようでありますが、本日の福音の個所が、この譬えにおいて、何を私たちに語ろうとしているのかは、なかなか捉えにくいのであります。本文の内容をもう一度、思い起こしながら、しばらくご一緒に、考えてみたいと思います。
本日の部分は、新共同訳聖書が、区分しているように、3つの部分に分けられます。まず第1の部分、4:26-29を思い起こしてみましょう。これは、不思議な種の成長とその収穫にかかわる譬えであります。「そして、主イエスは、こう語っておられた」とこの部分は始められています。このようなのが神の国であり、それは、ある人が、種を蒔くのに譬えられる、と主は言われます。ところで「神の国」というのは、「神の支配」と同じ意味であります。「天の国」も同じでありますが、いずれも、どこか遠いところにある国ということではなくて、私たち人間の普段の生活を、神さまがご支配してくださるということであります。私たちが神さま以外の、例えば、他の人たちとか、サタンとかによって支配されるのではなく、神さま御自身が私たちの生活の中に入り込み、神さまのご意志が私たちの生活に行き渡るということであります。そのようなことが、主イエスのご到来によって既に始まり、福音、よき知らせが、主イエスとともに与えられており、それが進展するということが、本日の福音個所の3つの部分を通して約束されているのであります。
まず第1の部分では、このようなのが、神の国であり、ある人が、種を蒔いたのに譬えられる、というのであります。彼はその後、夜昼と寝起きし、種は芽を出し、それは長くなるが、どのようにそうなるのか、彼は知らないと言われます。ひとりでに、土は実を結ぶのであり、それは、最初に、草・茎、次に穂、次に穂の中に、豊かな麦の粒をもたらすのであり、その実が許すとき、あるいはまかせるとき、用意ができたとき、彼は早速鎌を入れる、なぜなら、収穫が来たからであると、主は言われています。この譬えは、神の国の譬えであり、これを語っておられる主イエスのご到来において、神のご支配は始まっており、麦の種が蒔かれ、種を蒔いた人が平凡な、普段の生活を送っている間にも、確実に麦が収穫を迎えるように、私たちがどういうふうにしてかは気づかなくても、私たちの生活のすべてにおいて、神さまがみ心を示してくださるときが、主イエスとともに既に始まっているというのであります。
さて、第2に、主はまた語っておられたのであります。「神の国をどのように、私たちは譬えようか、どんな譬えにおいて私たちはそれを置こうか」と二回繰り返す疑問文でまず問いかけられます。そして、それは、からしの種のようだと言われ、それは、土の上に蒔かれるとき、地上のすべての種よりもちいさいが、蒔かれるとき、上に上っていき、すべての野菜、すなわち庭園植物・草本植物よりも大きくなり、大きな枝をはって、その陰に、空の鳥が住み着くことができるほどになる、と言われるのであります。津田沼教会の駐車場のところにも、からしの木が植えてあり、みんなが驚くほどに、木と言っていいほどに成長しているのであります。からしの種は、必ずしもすべての種の中で一番小さいものではないのでありますが、それは格言的に言われており、主御自身も、あなたがたがからしの種ほどの信仰を持っていたならば、この桑の木に海に移って植えられよと言えばその通りになるなどと言われているのであります。このからし種の譬えは、同じく、神の国についての譬えであります。神のご支配が、このからしの種に見られるように、いつのまにか大きな成長をもたらし、やがては、異邦人の国民にも行き渡ることを、主イエスはこの譬えで示されているのであります。
さて、第3の部分では、「主はそのような多くの譬えで、彼らが聞くことができているのに応じて、み言葉を、すなわち福音を語っておられた」と記され、34節では、一方で、譬えなしでは、彼らにお語りにならないでいたが、一方、密かに、彼自身の弟子たちには、すべてを解釈して教えておられた、と本日の福音個所は終わっているのであります。
私たちの理性や理解力では、わからないけれども、確かに神の国、神の支配は既に、主イエスの到来とともに始まっているのであります。私たちの思いを越えて、神さまは私たちの普段の生活において、ご支配、統治を始めておられるのであります。ですから、私たちは、絶望したり、やけになったりせずに、よき知らせ、主イエス・キリストの死と復活による救いの喜びを証しし続け、福音を進展させるように励みたいものであります。1週間の間にも、多くの試練が私たちを襲います。挫折させられそうになる困難に、私たちは毎週のようにぶつかるのであります。けれども、神さまが、私たちの日常の平凡な生活全体の中においてご意志を示してくださるのであります。主がお語りになっておられる譬えの意味を、私たちは、深く汲み取ることができるように、日々、み言葉に親しみ、み言葉、聖書の言葉とともに歩み、どのような困難をも乗り越えていきたいものであります。祈りましょう。
天の父なる神さま。
あなたは、主イエスを通して、あなたのみ心を、私たちの生活の中に示してくださっています。あなたのご意志にそって、私たちも、それに従っていけるように、聖霊の力を送ってください。そしてまた、私たちが礼拝につながり、あなたのご意志を毎週の生活において表すことができますように。主のみ名によって祈ります。アーメン。



2006/07/16(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「赤の他人が隣人になる」(ルカ10:25~37)江藤直純牧師(ルーテル神学校校長)
ルカ10:25-37、2006・07・09、特別礼拝

ルカ10:25~37
 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコヘ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨一枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰るがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

説教「赤の他人が隣人になる」(ルカ福音書10:25~37)江藤直純牧師(日本ルーテル神学校校長・神学校講壇奉仕)

 知らない人を見たら人さらいと思え。こういうことを子供に教えなければならないというふうに思うとやりきれない思いがします。けれども、かわいい小さな子供には、悲しい事故にあったりするのを見ると、自分の子供や孫にもしかしたらそう言って常日頃から教えておかなければいけないんじゃないかという気持ちにさせられます。知らない人、赤の他人、そういう人を見たら、人さらいと思え。何ともやりきれない気がします。
 最近は知らない人だけではなくって、知ってる人でも事件を起こします。近所のおばさんが、あるいはよく知っているお兄さんが、子供をあやめることがある。近所の人だけじゃなくって、子供が親や兄弟を、逆に親がいたいけない子供を、そんな記事が次々に報道される時代です。知ってれば安全ということでもなくなってきました。けれども、やはり、知ってる人は基本的に安全、知らない人は知らない人だからと、思いがちです。で、知らない人には何があってもそれは、知らない人のことだから仕方がないと思いがちです。
 山手線の新大久保駅を通りますと、改札口から階段を上ってプラットホームにあがるその途中の右と左に分かれているところに、このくらいのプレートがはめ込んであります。多分、二年前だと思います、ホームから落っこちた人がいて、電車が近づいて来るのを見た韓国人の青年が、飛び込んでその人を助けて、自分は命を落としてしまった。そういう人の行為に、そしてそういう生き方を覚えるために、プレートがかかっています。去年の2月28日は、私は、雪の北海道にいました。旭川から二両編制だか三両編制だかの小さな電車に乗って、峠を上って行きました。そこは塩狩峠と呼ばれている手塩と石狩をつないだ峠のあるところです。明治42年、1909年、今から97年前、その同じ2月28日に、当時の国鉄の職員であった長野正雄さんというクリスチャンの国鉄マンが、峠の上で汽車に事故が起こってブレーキがきかなくなって、逆におりて行きはじめて、そのままずっとおりていったらカーブになっているから、ひっくり返れば、沢山の人に被害が起こるということを、予想した長野さんは、とっさにできるだけブレーキを手動式のを回したけれども、どうにもならなかったので、彼が自分でその汽車の前に身を投げ出して、自分の体でもって、汽車のブレーキにして、沢山の人の命を救った。その記念碑を訪ねるためでありました。その長野正雄さんのことをモデルにして、三浦綾子というクリスチャンの作家が「塩狩峠」という感動的な小説を書きました。
 そういうドラマチックなことばかりでないにしても、新大久保の事件にしても、塩狩峠の出来事にしても、赤の他人で自分の身の安全だけは守ることがしようと思えばできたわけですけれども、そうでない生き方、この場合は結果的には死に方を選んで沢山の命を救うということがありました。私たちは、やはり、そういう生き方に、惹かれます。惹かれると同時に、さて、自分はそういうことが目の前に起こったときにできるだろうかと思って、自信がなくなります。こういうときに、私たちはそもそもどう考えたらいいんだろうか、どういう生き方を身につけたらいいんだろうかと思うのです。
 自分のことでなくて、他の人の事を大切にする。そのことを、聖書は、キリスト教は隣人愛と言います。聖書ときたら、キリスト教ときたら、愛、というふうにすぐ連想がいくと思います。神は愛なり、あるいは、なんじの敵を愛せよ、といろいろ、聖書の言葉を思い出すと思いますけども、聖書をあけてみますと、愛するということについては、きわめつきはこの二つだ、というふうに書いてある。それが、今日読んだ、聖書の日課にありましたあの二つの教えです。一つは、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、つまり全身全霊を傾けてあなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい。
 ルーテル教会が、95年ほど前に、九州の熊本で建てた九州学院というミッションスクールがあります。千葉英和も一つのミッションスクール、九州学院も一つのミッションスクールでありますけれども、その九州学院のスクールモットーは、「敬天愛人」という、天を敬い、人を愛する。西郷隆盛も同じような言葉を言ったかと思うのですけれども、しかし、この「敬天愛人」が意味しているのは、今聖書に書かれていたイエスさまの中心的な教え、全身全霊を傾けて神さまを愛するようにということと、自分のように隣人を愛しなさい。そのことをずっと四文字熟語に縮めて「敬天愛人」と言ったわけです。
 聖書の聖書たる所以、それは、このキリストの教え、崇高な、立派な教えが教えとしてただ頭の中に知識としてある、口先だけのスローガンにとどまるということではなく、それを実行しなさいと言って、迫ってくるところにあります。そして、そのことについて、とても印象深く教えているのがこの今日の日課、「良いサマリア人」という譬えです。
 今でも、例えば、グッド・サマリタン・ホスピタルというような病院の名前が書いてある。まあ、直訳すれば、「良いサマリアの病院」、つまり、良いサマリア人というのは隣人愛の代名詞のように、使われていますが、この話を少し丁寧に見てみたいと思います。
 この話は、要は、イエス・キリストと律法の専門家、平たく言えば聖書の専門家の問答、やりとりから始まっています。ある律法の専門家が立ち上がってイエスを試そうとして言った。まあ、質問をするわけです。試そうとして言ったと書かれていますから、もう真剣に人生の道を求めて、是非教えを乞うているということではなくて、もう答えはちゃんと自分では出来上がったものを持っていて、さて、自分は正解は知っているんだけど、このイエスはちゃんと答えを正しく知っているだろうか、試してやろうという意地の悪い、しかし丁寧そうな顔をして、どうでしょうか、どうしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょう。永遠の命、本当の命、真実の命、どうやったら人間はそれを手にすることができるでしょうかと、膝をかがめて質問するわけです。
 けれども、さっきも言いましたように、彼は、自分の中では、答えは持っていて、さあ、どうだと言ってイエスを追い詰めるつもりで、質問をしました。ところが、主導権はあっさり逆転します。律法の専門家がイエスに迫っていたはずだったのが、くるっと立場が逆転して、律法の専門家が答えを迫られる、そういうふうな構図に逆転してしまいます。さあ、律法には何と書いてあるか、つまり聖書には何と書いてあるか、あなたはそれをどう読んでいるか、どう解釈しているか。そんなふうに、イエスさまのほうが問いを投げ返します。彼が答えないといけなくなる。それで、彼はしぶしぶと言いますか、あるいはじゃあ教えてやろう、俺は知っているぞというわけで、申命記の中に書かれている言葉を一つ、レビ記に書かれていることを一つ、つまり、あの全身全霊をあげて神さまを愛することと、そして、自分自身を愛するように隣り人、隣人を愛すること、その二つですというふうに答えます。そして、どうだ、これが正しい答えだぞというわけ。
 そしたら、イエスさまは、それで、そうですね、その通りですねと言うだけで終わらずに、「正しい答えだ。それを実行しなさい」ともう一遍彼の方に投げ返します。あくまでも、あなたが問題ですよと言って、問い返し、問いを投げ返されるわけです。神に問うているうちに、神さまから私が問われている。そういう場面になってくる。イエスさまを困らせようと思ってやって来たわけですから、この人はこのままそうそうと引っ込んでしまうわけにはいかないので、もう一遍何とか逆転しようと逆襲しようと思って、こう言います。ただそれを実行しなさいと言われたんですから、わかりました、そうします、有難うございましたといって引っ込まずにですね、もちろん、そうしますけれども、そうしますよ、そうしますけれども、念のためにお尋ねしますが、それは私の隣人に対してですよね、と確認して、自分が間違っていないということを何とか言い張ろうとします。
 自分の隣人を、私の隣人を愛すればいいんですよね、隣人を愛しなさいと言われたんだから、ええ、私の隣人を愛しますよ、それでいいんですよね、と逆襲しようとするわけです。そのとき、彼は自分の頭の中には、「誰が自分の隣人か」。そのことをよく知った上で、ということは、そのことに限定した上で、その人たちを愛すればいいんですよね、というふうに逆襲を試みているわけです。
 イエス・キリストはそれに対して、そうだとか、違うとかおっしゃるんじゃなくて、一つの譬えをもって、話を、答えを与えられようとします。たとえと言いますから、私たちはつい話し上手な人が、作り話を考えたと思うかもしれません。そうかもしれませんし、私は、もしかしたら、これは実話の人だったかなあとも、もしかしたらそうかもしれない、そうでないかもしれない、わかりませんけれども、ともかく、その話を手がかりにして、この聖書の専門家に、イエスさまはあなたはもう一遍考え直すようにと言って、投げかけられます。
この良いサマリヤ人の譬えというのは、いろんなときに、聖書の代表的な話として、今までも聞かれたことがあるかもしれませんが、エルサレムからエリコに下って行く途中、2千年前にも、今も、このエルサレムもエリコもあります。3千年前に既にエルサレムも、エリコもあった、どっちも古い町です。ただし、エルサレムの場合には、海抜700メートルくらいの高い所、エリコはずうっと低いところですから、下っていくというのは本当に坂道をどんどん下って行かねばならないわけでしょう。そこを旅人が通っていた時に、追いはぎが出てくる。日本語では追いはぎとだけ書いてありますけども、横文字の聖書を見てみると、複数になっているから、二人か、三人か、四人か分かりませんけども、何人かで襲ったわけです。そして、半死半生の目にあわせて、やっつけて持ち物を身ぐるみはがして持っていってしまった。そこで、彼は道路でうつぶせになって、あるいは仰向けになっていたでしょうか、わかりませんけれども、なりながら、このまま日が暮れていってしまったら、朝には冷たくなっているんだろうか、このまま死んでしまうんだろうかと心配だったろうと思います。
そこに、大変幸いなことに、足音が聞こえてきて、まず、最初に祭司、神殿で神さまに奉仕する、日本で言えば神主さんといったらいいでしょうか、そういう役目の人が通りかかる。着ているものですぐわかる。それから、その次にレビ人、この人は祭司のもとでやっぱり神殿で奉仕する人たちです。その中の一人が通りがかる。祭司が来たときも、レビ人が来たときも、彼らは道の向こう側を通り過ぎて行ったと書いてあります。
どういう気持ちで通り過ぎて行ったでしょうかと、創造されます。聖書はもう極めて簡潔に、要点だけを書いてありますから、そのとき、この人がどういう気持ちだっただろうかということは書いてないので、想像するしかありません。その場面を思い浮かべて、そこにうなっている人がいて、そして、自分がそこに通りがかった時、その時にこの人は結果的に通り過ぎて行きましたから、かわいそうにあいつ、追いはぎにやられたんだろうけれども、運が悪かったんだなあ、俺は助けてる暇はないし、大体俺とお前とは赤の他人だから、関係ないよ、あばよといって通り過ぎたと思われますか。それは、考えにくいですよね。私たちは聖書を何度も読み、この話を聞いてると、祭司とレビ人は冷たく通り過ぎて行ったから、何とまあ冷たい人間だと、冷酷非情な人間だと思いがちですけれども、結果としてはそう言われても仕方がないんですけども、おそらくはかわいそうにと思わなかったはずはないだろうと思います。だれでも温かい人間性が少しはあると思いますから。そんなのが、温かい血が、一滴も流れてない人は一人もいないと思います。
でも、もう一つの人間性、つまり、もしかしてまたここに追いはぎが出て来たら、自分も巻き添え食ったら、たいへんだ、自分も同じような目にあうかもしれないと思うと、恐くなる。恐くなると、介抱しているうちに、自分がやられてしまったら、と思ったら、この際、知らんぷりしようという気持ちが起こったかも知れません。あるいは、介抱しているうちに、とうとうもう手遅れで死んでしまったら、自分はこの人に、死体に触れたことになる。そうすると、当時の教えでは、自分自身も死体に触れることで汚れたことになって、神殿での聖なる仕事に差し支える。なら、どうせ助からないだろうから、いいだろうと、いう思いになったかもしれません。
私が今まで、この聖書の個所で聞いた話の中で一番皮肉たっぷりの解釈はこういうものでした。祭司の胸のポケットの彼の手帳には、今夜7時からエリコの町で隣人愛について講演することになっているから、それはまあ余りに皮肉な話だと思いますけれども、ともかく心の中には、ごめんねという気持ちがあったかもしれない、助けてやらなくちゃあという気持ちが起こったかもしれない、分からないんですけども起こったんじゃないかと思いたいんですが、最後はしゃっぷりして行くことを選んでしまいます。そのとき、どういう理由で自分を納得させたか。手帳に何が書いてあろうとですね、最後にそれを納得させるのは、この人は自分にとって赤の他人だ、ということで納得させるんじゃないでしょうか。もしこれが自分の子供だったら、自分の愛する人だったら、たとえ手帳に何が書いてあろうと、もしかしたらまた強盗が来るかもしれないけれども、助けないではおられないんですが、助けない自分を正当化する最後の理由は、この人、赤の他人だから、助けなくったって仕方がないと思ったんではないでしょうか。
共通点と言えば、同じユダヤ人だという民族のことをあげることはできるかもしれないけど、家族が同じなわけじゃない、同じ村の出身じゃない、まあとにかく知らない人なんだ、赤の他人なんだ。そのことで、自分を納得させてしまって、そこを通り過ぎたんだろうと想像します。
それに対して三番目にやって来たのは、サマリヤ人、まあ、この見出しは「良いサマリヤ人」となってますけど、最初から良いサマリヤ人だったわけじゃない、普通のサマリヤ人がここに通りかかります。ビジネスマンだったことだと思いますね。荷物を持っていて次の日の仕事がある。その彼が通りがかったときには、ここは彼の心の思いが一つだけ書いてあります。「そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って、云々」と書いてあります。「憐れに思い」と書いてある言葉を別の日本語の聖書で見てみますと、「断腸の思いにかられて」と書いてある、腸がねじれ切れるばかりの強い痛みを感じて、はらわたがえぐられるような、ひきちぎられるような痛みを自分の中に感じた。それは、彼の痛みを自分が共感したということであります。
そうしたら、彼はそのときにつつつつと走ってかけよっていって助けたと、私たち、大体、まあ、教会学校でもそんなふうに、紙芝居見ながら教えられたように思うんですけれども、さっきの祭司やレビ人がもしかしたら憐れみの心もちょっと抱いたけれども、踏み切れなかったのとちょうど裏っかえしに、この人の場合も、助けたい、けど、助けると恐い、もしかすると巻き添えをくうかもしれない、まだそこらへんに山賊がいるかもしれない。いろんなことを思わなかったわけじゃないと思うんです。彼も人の子ならば、厄介なことはいやだな、とか、自分が怪我しないかなとか、殺される目に遭わないかとかそういう不安がよぎらなかったとは、思わないんですね。完全無欠の高潔な人物がここにいたとは思わない。しかし、それでも彼は、この人のところに、近づきます。そして、応急手当をします。私は、聖書は全部正しいことが書いてあると思うんだけれども、順番、これ逆じゃないかなあと、不遜ながら思うのはですね、ぶどう酒、アルコールで消毒して、その次に消毒した傷口に油を塗るというのが正しい順番じゃないかなあと思いますけれども、まあ、そういう細かいことは、ともかくとして、近寄って傷に油とぶどう酒を注いで、そして、包帯をして、自分のろばに乗せ、ろばに乗せるということは、ろばの背中に乗せていた自分の荷物を自分が背負うということですから、ほんと大変だったろうと思いますが、そして、坂道をずっと下って、宿屋まで行く。そして、宿屋に行って徹夜で介抱する、翌朝、熱が引き、痛みも少し弱まったんでしょうから、もう命を取り留めたと確認した彼は急ぎの仕事があったからでしょう、その人の分のお金まで払って、翌朝去って行きます。
彼は、サマリア人と書いてある、そして、怪我した人はユダヤ人。これはですね、まあ言うならば、民族的に言うと隣同士の不倶戴天の敵と大げさに言えば、そういうことなんですね。もともと、先祖を辿っていけば一つの所に行くのに、何百年も前に二つの民族に分かれてしまった、宗教も異なるようになってしまった。それは、むしろもとが一緒だっただけに、近親憎悪、近かっただけに憎しみの気持ちを引きずって、その民族同士いつも避けていた。イエスさまがわざわざヨルダン川の東側を旅された、当時の人々そうしていた、でも、イエスさまはサマリアの地を通ったと書いてある記事もありますけれども、わざわざそこは通らないで、みんな、遠回りしてでも接触をしたがらないような、嫌い、憎しみ合っている、あるいは蔑んでいる、関わりを持つことをできるだけ避けてきた。それを、最近のことじゃなくて、百年、二百年、三百年、何百年もやってきた。まあ、これこそまったく赤の他人のなかの他人、これぐらい関係を持ちたくないと思っているお互い同士、なのに、なのに、サマリヤ人は助けました。
さっきの祭司とレビ人は、赤の他人だということで、自分を納得させました。サマリヤ人の場合は、もう納得させるも何も、もう正真正銘の赤の他人、赤の他人どころか嫌い合っている、憎しみ合っている者同士。なのに、彼はこの行為ができた。この違いは何がそれを生み出したでしょうか。赤の他人は赤の他人、そして親しい隣人は、親しい隣人。こんなふうに区別をして、私たちは日常生活を送っています。
多くの人がそうしていますし、この聖書にでてくる律法の専門家も、祭司もレビ人もそうしました。多分私もしばしばそうしていることだと思います。赤の他人であるあの人ということはすなわち、私の親しい隣人ではない。だから、いざというときは関わらなくてもよい。それが自分が関わらないことへの正当化の根拠であります。
祭司とレビ人も、そのことを赤の他人だからというふうに言いました。自分を守るためによく使う手です。ところが、サマリヤ人の発想は、まったく逆でした。確かにあの人、あの怪我をしている人は、私にとっての赤の他人、ということは、言い換えれば、私は、あの人にとって赤の他人、民族的、歴史的にも現在も、どこから見ても接点がない、そう助けなければいけない義理はない。
しかし、彼は、先ほども言いましたように、はらわたがちぎれるほどに、あの人の痛みを感じ取りました。伝わってきました。その時に、あのサマリヤ人には、あの人は私にとっては赤の他人ということは変わらなかったんですけれども、あの人から見たら赤の他人である私が、あの人にとっての隣人になろう。いや、ならねばならない、という思いがよぎってきたのです。あの人が私の隣人にふさわしい、私の愛や友情や助けを受けるのにふさわしい者に変わるのではない。私が隣人に変わるのです。
イエス・キリストは、この律法の専門家に、二つの質問をされています。まあ一杯質問されてるんですけど、イエスさまが一つ、そして、律法の専門家のほうが一つ、ようく似た質問をしています。ようく似ているんです。しかし、決定的に違う、そういう質問をしているのを見つけ出したいと思います。聖書の中で言いますと、一つは29節、のところなんですけども、彼は自分を正当化しようとして、「では、私の隣人とはだれですか」と言った。だれが私の隣人ですか、と聞くわけですね。で、その時に、だれが隣人なのかはさっきも言いましたように、知っていた上で、だれが私の隣人ですか、その人だけを助ければいいんでしょと言いました。でも、イエスさまが聞かれた問いは、違いました。36節、「さて、あなたはこの3人の中でだれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」だれがあの、追いはぎに襲われた人、あの人の隣人になったか。だれが、あの人の隣人になったか。もう一つの問いは、「だれが、私の隣人ですか」。
 よく似た質問です。同じようではないかと思いがちですけども、決定的に違うところが二つあります。一つは、律法の専門家が聞いたのは、「だれが、私の隣人ですか」と聞きました。イエスさまは、「だれがあの人の隣人になるか」と聞かれた。私の隣人、あの人の隣人、どっちが中心かということですね。イエスさまのこの私の隣人じゃなくて、あの人の隣人、というふうに視点を180度向きを変えられた。今、はやりの言葉に自己中という言葉がありますけれども、どんな虫かと思うと、そうじゃなくて、自己中というのは自己中心、世界の中心が私だと思う、あの自己中。自己中の発想でなくて、あの人を中心に考える。それが一つ、そしてもう一つの違いは「だれが私の隣人ですか。」それに対して、イエスさまが聞かれたのは、「だれがあの人の隣人になったか」。「であるか」、「になるか」。「であるか」というのは、もう既に決まっているんですね、そうなっている、固定している、閉じられている。それに対して「になる」というのは、これからのこと、動的なこと、開かれていること、これから決定されるんですね。イエスさまは出来上がった世界の中でどう生きるかということを教えられませんでした。今から、作られていく世界、しかもその世界の真ん中に、私を置くんじゃなくって世界の中心は自分だというんじゃなくて、今現に困っている立場にあの人を置くということを考える。
それが、一番目、あの人を中心に置く、その次に、私はどうする、その時に「になる」という発想、「になる」という行動が起こってきます。きわめて主体的なことです。あの人を中心、そして「になる」という発想、それはきわめて主体的だと言いました。主体的と言いますと、自主的とか、自分の意思に基づいた、積極的な行動をするというふうに考えられますけれども、もう一つ隠れた意味があると思います。それは、この漢字を見て、与えられたインスピレーションです。主体とは主の体と書きますよね。主イエス・キリストの体。聖書の中で、使徒パウロは、私たちに向かって、あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分ですと言います。私たちは、キリストの体、そして頭であるキリストの思いを実行するのが、手であり足であり、あるいは指であり、この主の体として、主の体的な生き方、そのときに私たちのする行為は、自分で考えた自主的な行為のようでありつつ、実はキリストの思いが実現されるその道具としての器としての生き方になるのですう。
そもそも、キリストの思い、キリストの心というのは、神さまの心。同じ使徒パウロは、聖書の中で、キリストは神の身分でありながら神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。言ってみれば、神さまから遠ざかってしまった、ということは赤の他人に人間の所に神さまの側から、キリストとして来てくださる。隣人になってくださる、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで、徹底的に隣人になってくださる。赤の他人が隣人になったモデルが、ここにあります。これが、神の愛、これが真の人間の生き方。この生き方へと、私たちは招かれています。赤の他人としてあの人とは知らない、この人とは知らない、無関係に生きるのではなくって、自らその人の隣人となる、その時に世界が広がり、豊かになります。それが愛の生き方です。数年前になくなった、カルカッタでずっといい奉仕をしてこられたマザー・テレサというシスターは、愛の反対語は何だ、と質問して、それは、普通私たちが考えるように愛の反対は憎しみではなくて、愛の反対は無関心ですと彼女は教えてくれました。憎しみ時はまだ相手の存在を認めていますよね。そしてそいつが嫌いだと思って憎むわけですけれども、無関心と言ったらもうその人は私にとって存在していないことになる。
赤の他人として無関係に生きる生き方、それを生きていくか。あの人を中心に、そして自分がそれになっていくというその隣人となる生き方を選んでいくか。
だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。律法の専門家は言った、「その人を助けた人です。」そこで、イエスは、言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
お祈りしましょう。
恵み深い神さま。
生まれたままの私では、自分のことを大切にしてくれる人だけを隣人として、関係を作っていきます。その中で親しい人とだけ、仲良くしていく生き方です。赤の他人は赤の他人として無関係に生きていこうとします。けれども神さまは、イエスさまを通して、赤の他人の隣人となる愛の生き方を示してくださいました。
神さま、どうぞ、私中心でなくって、困った立場にあるあの人を中心に自分の既にできている関係でなくて、新しく隣人になっていく。そのような主の体にふさわしい生き方をする力を、私の中に与えてください。聖霊によってその心を、キリストの心を、私たちの内に満たしてください。そのような思いをもって今週1週間を過ごしていくことができますようにお導きください。感謝と願いを救い主イエス・キリストのお名前を通してお祈りいたします。アーメン。



2006/07/09(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「私たちの渇きをいやすキリスト」(マルコ3:1-12)
マルコ3:1-12、2006・07・02
聖霊降臨後第4主日(緑)
イザヤ書58:11-14、コリントの信徒への手紙二5:1-10

マルコによる福音書3:1~12
 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。
 
 イエスは弟子たちと共に湖の方へと立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただし群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まってきた。そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。

説教「私たちの渇きをいやすキリスト」(マルコ3:1~12)
 本日の福音マルコ3:1-12の部分は、マルコ2章の1節から、まとめられています5つの論争物語の5番目の3:1-6の手の不自由な人と安息日の出来事と3:7-12の湖畔の群衆のふたつの部分から構成されています。それぞれについて、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 さて、本日の個所は、主イエスは、「再び」安息日に会堂にお入りになったという文章で始まっています。マルコ1章21節の「一向はカファルナウムに着いた。イエスは安息日に会堂に入って教え始められた」に続いて、「再び」なのか、カファルナウムにはその当時、一つの会堂があって、そこに、いつものように「再び」お入りになったのか。いずれにしても、主イエスは、伝道の当初のころ、努めて、会堂に入って教えられたのであります。しかし、マルコによる福音書では、ここを最後に、あとは、故郷のナザレで、会堂に入って教えられた記事がのちに出てくる以外は、会堂での最後の出来事となっています。この後は、主イエスは、ガリラヤ湖畔や、外で教えられるように、ここを境に変わるのであります。
 さて、会堂には、片手の不自由なと言いましょうか、片腕が動かない人がいました。そして、人々は、彼が安息日にその人を癒されるかどうか、みつめていたのであります。これは、他の共観福音書を見ればわかるように、ファリサイ派や律法学者たちのことを言っているのであります。彼らは、ここでは、何も質問してはいませんが、安息日を主が破るのかどうかを凝視していたのであります。皆さん、ご承知の通りに、十戒で安息日に働いてはならないことになっていました(出エジプト記20:10他)。ただし、生命にかかわるような場合には、治療したり、助けてやることは認められていましたが、この場合はそのような緊急事態とはいえません。主イエスは、動かない片手を持った人に言います。「真ん中へと立ち上がりなさい。」ある正典外の福音書によると、この同じ出来事が書かれており、それによると、この人はもとは石工であって、そのきき手の右手がきかなくなった人であるそうです。マルコはそんな背景については何も記していませんが、右手で職をこなし、家族をそれでもって支えていた人が、その人であったとすれば、さらに気の毒だと主イエスはお思いになったことでしょう。
 主は、怒りをもって周りを見回され、彼らの心のかたくなさ・盲目性を悲しまれながら、彼らに言われます。「安息日に命を救うことと滅ぼすことと、良いことをなすことと、悪いことをなすことと、どちらが認められるのか。」彼らはずっと黙っていました。彼らは、律法をただ形式的に守ることを重んじ、形骸化していました。しかし、主イエスは、安息日という律法が本来あるべき姿を取り戻されようとなさり、そのためには、ご自身の命をもかけて挑戦なさいました。戒律主義に陥っていたユダヤ教と真っ向から戦うことをいとわれなかったのであります。
 そして、主はその人に言われます。「その手を伸ばしなさい。」その手を直してあげようと言われたのではありません。その人は、手を差し出します。そうすると、その手が回復したのであります。信仰が先にあって、いやしが起こるのであります。ファリサイ派の者たちは出て行ってすぐに、ヘロデ党の者たちと、どうやって彼に対して殺そうかと相談を与えていたと、この5番目の論争物語は、最も、主イエスへの敵対が明らかになる物語として終わっています。主イエスの最初のころの伝道は、「ガリラヤの春」とも呼ばれますが、マルコによれば、最初の伝道の時点から、主イエスの十字架の暗い影が漂っていたのであります。私たちの病気が癒されることは私たちの願いであります。ましてや、死が避けられない病気が癒されればどんなにか嬉しいことでしょう。しかし、私たちはいつかは病気やあるいは寿命によって死を迎えるのであります。田園調布教会を牧会された藤井浩先生の娘さんの恵美さんは、36歳の若さで乳がんに侵され、天に召されるその父と娘の最後の数週間を記録した「娘からの贈り物」というNHKの「心の時代」に収録されたビデオを見させていただきました。小さいときからの父との和解と永遠の命の希望をもって恵美さんは天国へ先立たれたのであります。病気が癒される以上に、罪の問題や人間的な渇きが癒されることがもっともっと大事な問題であることを知らされるのであります。
 さて、後半の3:7-12は、湖畔の群衆という小見出しがつけられています。これは、むしろ、主イエスがこれからなさる事柄を、あらかじめ要約してここにまとめたようなものであります。主イエスは、ガリラヤの海へと立ち去られます。すると、おびただしい大勢が、ガリラヤから、また、エルサレムから、ユダヤから、イドマヤから、ヨルダン川の向こう側から、ティロスやシドン辺りから、そこに住んでいたユダヤ人たちでありましょう、彼のなさっている癒しの奇跡を聞いて彼に向かってやってきました。ここでの描写も、マルコが一番鮮やかに、目で見ているかのように記しています。主は、彼が押しつぶされないように舟を彼に用意するように弟子たちに言われています。なぜなら、彼は多くのものを癒しておられ、そのおびただしい大勢が病気を持っているものが皆、彼に触れようとやってきていたからであります。ここでも、主イエスは、皆をいやされたとは書いてありません。治療を受ける者たちの態度、姿勢が大切なのであります。
 そして、汚れた霊たちは、彼を見ていたとき、ひれ伏して、こう語りながら叫んでいました。「あなたは、神の息子です」と。主イエスは、何度も、彼らが彼のことを明らかにしないように命じておられた、と本日の記事は終わっています。
 汚れた霊どもとは、神と敵対するサタンの勢力を表わしています。そして、彼らは自分たちと相対する「神の子」イエスを敏感に察知することができました。しかし、主イエスは、彼らによって、神の子であることを知らせることをよしとしませんでした。主イエスは、神の子として、メシアとして、サタンに縛られている私たち人間を真に自由にするために、そして、罪によって縛られていた私たちの渇きをいやし、罪から解き放つために、地上においでになられた方であります。マルコは、そのような超人間的な「神の子」として来られた主イエスを、ここで、私たちに悟るように、これらの記事を前もって要約して記してくれているのであります。主イエスこそ、苦難のしもべ(イザヤ書42章等参照)としてお出でになられている、まことのメシアであることを、当時の気づかなかった大勢の群衆や弟子たちと同じになるのではなく、十字架に独りでお進みになる主イエスを理解し、信じ受け入れる者と今一度なりたいものであります。祈ります。
 天の父なる神さま。 私たちは、聖書によって、唯一の救い主メシアが、主イエスを措いて、おられないことを、絶えず知らされています。にもかかわらず、罪を繰り返し、迷走することの多い、罪深い私たちでございます。どうか、やれるだけのことをやり、度をはずして怠ることなく、精一杯の人生を、あなたのお恵みのうちに歩むものとなさせてください。この感謝と願いを、キリストのみ名を通しておささげいたします。アーメン。
2006/07/02(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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