津田沼教会 牧師のメッセージ
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「人間のための安息日」(マルコ2:23~28)
マルコ2:23-28、2006・06・25、
聖霊降臨後第3主日(緑)
サムエル記上6:1-6、二コリント4:7-18

マルコによる福音書2:23~28
 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」


説教「人間のための安息日」(マルコ2:23~28)
 
本日のマルコ2:23-28の個所は、大きく2:23-26の前半部分と、2:27-28のおそらく、マルコか、あるいはもっと古い伝承かによって付け加えられた2:27-28の後半部分に分けることができます。
 本日のこの安息日についての論争は、先週の断食についての論争部分の後、それに続いて、だしぬけな始まり方をしています。「そして、こんなことが起こった、すなわち、安息日に主イエスが麦畑の中を通っていくことが。そして、彼の弟子たちは、道を行きながら、麦の穂を引き抜いていた」と。それがどこで、いつ起こった出来事であるかは記されていません。
マルコは、ここでも共観福音書の中では一番素朴に、しかし、大事なことはもらさず、ことのなりゆきを淡々と書き残してくれています。弟子たちは、よほど、空腹だったのでありましょう。そして他人の畑の麦の穂を食べること自体は、旧約聖書の律法によっても許されていることでした。
さて、しかし、それを窺っている者たちがいました。そしてその弟子たちの師である主イエスに、あのファリサイ派の者たちは質問してくるのであります。「あなたの弟子たちは、なぜ、安息日に認められていないことをするのか」と。これは、すなわち、麦の穂を引く抜く、穂の部分をつまみとる行為が、安息日にしてはならない刈り入れや、脱穀としてみなされたのであります。主イエスの時代には、安息日に、禁じられた労働がここまで厳格に細かく決められていたのであります。
しかし、本来は、安息日は、天地創造の神が7日目に、すべての創造の働きを終えて、休まれたことから始まったものであり、喜ばしい時であるはずでありました。当時のユダヤ人たちにとっても、基本的には喜ばしい日として安息日を位置づけていたことでありましょう。
しかし、やがてマルコ福音書が書かれたころには、ユダヤ人たちが厳しく守っていた安息日と主の日、教会で守る今の日曜日との関係が大きな問題になっていたでありましょう。
 また、本日の記事のすぐあとに、出てきますように、主イエスが安息日を当時のファリサイ派のように厳格に守らなかったことが、神の子として、自分を神と同一視しした神の名を冒涜したとみなされたことと共に、主イエスが十字架において殺されることになる大きな引き金・原因となったのであります。
 さて、主イエスは、ファリサイ派に対して、次のように反問なさいます。「あなたがたは、まだ、ダビデが必要を持ち、空腹であったときにしたこと、そして彼の供の者たちもしたことを一度も読んだことがないのか。すなわち、どのようにして、彼がアビアタルが大祭司であったときに、神の家に入り、祭司たち以外には食べてはならないとされていた供えのパンを食べ、彼の供の者たちにも与えたかを」と言われるのであります。
この史実は、実際には、アビアタルの時ではなく、その父アヒメレクの時の出来事でありました。律法で禁止されていることも、このときのように、非常事態のような時には許されたと主イエスは、大胆に答えられたのであります。
そして、さらに、彼らに言われるのであります。「人間のために、安息日が成ったのであり、安息日のために人間があるのではない。それゆえ、人の子は安息日の主でもある」と。
 安息日は、ユダヤ人たちにとって、天地創造の神をおぼえ、神が与えられる安息に与る喜びの時でありました。しかし、主イエスの時代、そのことが見失われて、特にファリサイ派のような宗教的リーダーにとって、逆に人間を拘束し、本来の起こされた安息日の目的が分からなくなり、身動きが取れないものとなっていたのであります。それに対して、主イエスは、ご自分の命をも投げ出されて、安息日を本来のものに回復しようとなされたのであります。
現在の私たちに取りましては、どういうことが、この安息日問題から、学ばれるでありましょうか。週の初めの日を、主日・日曜日として、私たちは、今では主をおぼえ、天地創造の神を覚える時として、守っています。
これは特に、もろくて、すぐに、試みや困難によって倒れてしまいやすい私たち人間のために、日曜日が、安息の日、救いと約束の地を所有するために、今や世界中に与えられています。日曜日が、わたしたちのために与えられ、日曜日のために私たちがあるのではありません。日曜日を、創造の神をおぼえ、私たちの救い主、主イエス・キリストをおぼえるために、歩み、残りの週の六日間の間に、なすべく与えられたすべての働きをこなし、日曜日には礼拝に集う、そのような一週間、一週間でありたいものです。ある人にとっては、毎週の礼拝には行きたくてもかなわない場合もあります。1年に二回か三回礼拝に来るのが精一杯だというご老人もおられます。しかし、それぞれに置かれた、生活の中で、せめて礼拝にはこれなくても、安息の日曜日をおぼえ、喜びの日として心の中で聖別して過ごす、そのような日曜日を送りたいものであります。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。
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2006/06/25(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「私たちの破れをになう方」(マルコ2:18~22)
マルコ2:18-22、2006・06・18、聖霊降臨後第2主日(緑)
ホセア書2:16-22、二コリント3:1-6

マルコによる福音書2:18~22
 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。
 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

説教「私たちの破れをになう方」(マルコ2:18~22)
 
本日から聖霊降臨後第2主日に入り、教会暦として用いる色も、再び、緑となりました。緑は、神にある希望を表す色であります。そして、福音のテキストも再び、マルコ福音書に戻り、本日与えられています個所は、マルコ2:18~22であります。本日から再び、教会暦の後半を、マルコによりながら、語られた主イエスのお言葉と、そのなされた働きを学ぶのであります。
 さて、本日の個所は、断食の問答である2:18~20とそれに付け加えられたと考えられます、新しい当て布に関する譬えと、新しいぶどう酒に関わる譬えである2:21節と2:22節の二つの部分から成っていると考えられます。それぞれについて、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 まず、断食に関する問答であります。本日の文は、「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の者たちは、断食していた」という文から始まっています。ヨハネの弟子たちは、洗礼者ヨハネの死後、その死を悼んで断食をしていたのであります。また、洗礼者ヨハネは禁欲的な人でありました。それに対して、主イエスは、断食を禁じてはいませんが、別のある場面では、「大食漢」と悪口を言われたことからもう窺えるように、当時の断食に対しては批判的でありました。
ファリサイ派の弟子たちも、その時代には、断食することによって神により近づくことができると考え、週に二度の断食をしたことが、イエスのなさったふたりの人の祈りの譬えの中からも窺えます。それが、その当時には形式的な、むしろ外観を重んじるものになっていたのであります。
主イエスが亡くなられた後、教会でも断食はなされるようになります。しかし、それは、主イエスの十字架の死を覚え、悔い改めを求めるためのものでありました。
 主イエスは、人々がやって来て、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのかと質問したのに対して、言われます。「婚礼の客は、花婿と共にいるときに、断食できようか。花婿が共にいる限り、断食はできない」と。「婚礼の客」とは、「花嫁の部屋にいる息子たち」と言うふうにも解され、あるいは花婿の付添い人、友達と言うふうにも取れる言葉であります。旧約聖書では、長い時がたつうちにやがてイザヤ書などで、この「花婿」は、メシアを表す者であり、神がイスラエルの民の花婿になり、イスラエルの民は神の花嫁になるというふうに考えられるようになっていきます。
主イエスはそれをご承知で、御自分を花婿として、「人の子」と同じように、ヨハネの弟子たちやファリサイ派の者たちに、直接自分をメシアだとは言わないで、そのことを暗示なされたとも考えられるのであります。
そして、「花婿が」イエスの弟子たちから、やがて暴力的に、十字架の死によって命を絶たれる日々が来る。その時、その日には彼らは断食するであろうと答えられました。主イエスの到来と共に、古い律法の行為によってではなく、主イエスへの信仰によって、救われる神の国、福音の時が主イエスがまさに語られている、「今、ここで」始まっていると宣言されたのであります。
 さて、後半の2:21~22節は、たぶん別の機会に主イエスが言われたふたつの言葉、あるいは、譬えをここに付け加えたと考えられます。まず、だれも、新しい布切れでもって古い上着につぎあてをする人はいない。そうでないと、新しい布切れは、古い衣服をはりさき、その裂け目はさらにひどくなる、と言われます。まだ布さらしをしたことのない新しい布切れは、まったく別の品種のもので古い生地とは相容れない。これも、主イエスのまったく新しい福音、教え、あるいは主イエスご自身を表しているでしょう。
 さらに、そしてだれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に注いだりはしない。そうでないと、そのぶどう酒は、皮袋をはり裂き、どちらも失われてしまおう。しかし、そうではなく、新しいぶどう酒は新しい皮袋に注ぐものだと、主イエスは、ご自分のもたらす福音がそれまでの教えとまったく異なる質の新たなものであることを同様に語られるのであります。   
古い洗礼者ヨハネの施した洗礼も、ファリサイ派の人々の律法の行いも、まったく、主イエスの恵みの福音とは異なり、両者が両立することはできないことを、主イエスはこれらの譬えによって示されたのであります。
 しかしながら、私たちは、言葉と思いと行いとによって、日々、多くの罪を犯すものであります。けれども、にもかかわらず、私たちは、主イエスによってもたらされた福音に従って、まったく新しい人へと、既に信仰によって創りかえられている者であります。
聖霊降臨祭を2週間前に私たちは祝いましたが、聖霊が一人一人の上にとどまり、降り注がれることによって、新しい人へと既に変えられているのであります。神にある希望を持って、再び新しい人生へ、新しい1週間へと送り出されていきたいものであります。
天の父なる神さま。
 しもべの1週間を振り返りますとき、あなたから離れ、罪におぼれることの多い1週間でした。しかし、既にお出でになった花婿の友人たちとして、私たちは皆、新しい人生へと既に招かれている者でございます。ここから、新たに、新しい人として、やり直しをなさせてください。そして、今も世の中に沢山いる外の迷える羊をもあなたのもとに導くことのできる者とならせてください。キリストによって、お願いいたします。アーメン。




2006/06/18(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「霊による上からの新生」(ヨハネ3:1~12)
ヨハネ3:1-12、2006・06・11、三位一体主日(白)
イザヤ6:1-8、ローマ8:14-17

ヨハネによる福音書3:1~12
 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたがなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれなければならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。」

説教「霊による上からの新生」(ヨハネ3:1~12)

 本日は三位一体主日であります。これから、私たちは、復活節、そして聖霊降臨祭を終えて、また、再び聖霊降臨後の主日を、マルコによる福音書によって、主イエスの語られたお言葉と、なされた働きについて、学ぶのですが、それに先立って、今朝のこの三位一体主日が与えられており、典礼色は、復活節と同じく、神を表す白であります。どうして、三位一体主日に本日の個所ヨハネ福音書3:1~12節が与えられているのでしょうか。そのことをしばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 主イエスがガリラヤのカナの結婚式で、最初のしるし、奇跡をなされました。それを見て、弟子たちは信じたとかかれています。そのように、主イエスの働きや教えを伝え聞いて信じようとした人も多かったでありましょう。
 本日は、それに近い状態のニコデモという人が出てきます。既にかなりの年を取っていた人であるようです。ユダヤ人の指導者で、サンヘドリンの議員を務めていた人であります。その人が夜やってきて主イエスと対話をするのであります。「ラビ、あなたが神から来られた方であることを私どもは知っています。神が共にいなければ、あなたがなさっているようなしるしは、誰もできないからです。」と、彼は話し始めます。夜来たのは、主イエスが、光を現すのに対して夜は闇と死を表すものであったからか、あるいは、主イエスを信じようとしながらも、臆病で公にすることができなかったため夜になってきたのか、あるいは、夜にラビと親しく対話することが当時の習慣であったからなのか、よくわかりません。
 さて、主はそのニコデモに対して、なんと答えたでしょうか。「人は新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」と言われるのであります。人が母親の胎内に入って、もう一度生まれることができましょうか。そんなことはありえません」とニコデモは、主イエスの言葉を理解することができないのであります。
 「霊から生まれるものは、霊であり、肉から生まれるものは肉である。」主はいわれます。「風は思いのままに吹く。人はその音を聞くことはできるが、それがどこから、来て、どこへ行くのか、分からない」と。そして、「よくよく言っておくが、上から生まれなければ神の国に入ることはできない」と、主は繰り返されます。そして、「地上のことを私たちは語っているのに、あなたは、ユダヤ人の教師でありながらそんなこともわからないのか、それなら、天のことについて、語っても、どうして、分かるだろうか」といわれます。
 ニコデモは、年をかなりとって、神の国にはいりたい、永遠の命を得たいとは思いながらもそれは無理だと痛感していたのでありましょう。私たちも、自分のこんな癖や罪はなかなか直らないと、絶望的になることがあります。しかし、主は、「水と霊とによって、上から、神の霊から生まれるならば、新しい人間に生まれ変わることができる」といわれます。それはどういうことかというと、洗礼と説教と聖餐によって、また主の十字架において私たちは新しく生まれることができると主はここではっきりと約束なさっておられるのであります。ここに、信頼を持って、新たな気持ちで、これからの新しい1週間を送り直しましょう。人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって、守るように。アーメン。
2006/06/11(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「旧約で約束されていた聖霊の降臨」(使徒言行録2:1~21)
使徒言行録2:1-21、2006・06・04、聖霊降臨祭(典礼色ー赤―)
エゼキエル書37:1-14、ヨハネ福音書15:26-16:4a

使徒言行録2:1~21
 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現われ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。
 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されるのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フィリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、
またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
 『神は言われる。
  終わりの時に、
  わたしの霊をすべての人に注ぐ。
  すると、あなたたちの息子と娘は預言し、
  若者は幻を見、老人は夢を見る。
  わたしの僕やはしためにも、
  そのときには、わたしの霊を注ぐ。
  すると、彼らは預言する。
  上では、天に不思議な業を、
  下では、地に徴を示そう。
  血と火と立ちこめる煙が、それだ。
  主の偉大な輝かしい日が来る前に、
  太陽は暗くなり、
  月は血のように赤くなる。
  主の名を呼び求める者は皆、救われる。』」



説教「旧約によって約束されていた聖霊の降臨」(使徒言行録2:1~21)
 
皆さん、本日、私たちは、聖霊降臨祭を祝っています。さらに、嬉しいことには、この後、洗礼を受ける兄弟がおられます。本日の使徒言行録の記事の意味についてしばらくご一緒に考えてみたいと思います。
さて、キリスト教の三大祭りとして、復活祭、聖霊降臨祭、そして、降誕祭があげられますが、復活祭と聖霊降臨祭は、ユダヤ教から、すなわち旧約聖書から取り入れられたものであります。旧約聖書に記されている三大祭りは、過越し祭、そして、本日の五旬祭、もう一つは仮庵の祭り(スコトの祭り・仮小屋の祭り)であります。本日の出来事が起こった五旬祭、七週の祭りも、収穫の感謝などの意味もありましたし、新約聖書の書かれた時代よりもずっと後になっては、シナイ山で律法が与えられたことを感謝する祭りになったこともあり、時代によってユダヤの祭りの意味は変わるのですが、三大祭りはいずれも、出エジプトの出来事をイスラエルの民に想起させるという意味が与えられた点では共通するのであります。過越しの祭りにおいて、主は十字架につけられ、40日間、弟子たちの前に復活の姿を現し、弟子たちを教え励まし、そのとき、主は聖霊が下るのを待つように指示して、天にあげられたのであります。
 ところで、使徒言行録は、ルカが書いたものであります。ですから、ルカ福音書の24章から、本日の使徒言行録2:1~21の記事は、一体であるものとして考える必要があります。本日の聖霊降臨の出来事に際して起こった事柄こそ、主のご復活の出来事の完成と言えるのであります。ペンテコステ、それはすなわち、過越しの祭りからの50日目という意味ですが、この出来事は、ルカがこの使徒言行録において、その福音書に続いて第2巻として記録しているものであります。それよりもずっと早くから著述したパウロの手紙には、この日の出来事に関しては何も書かれていません。
 後の時代になってから、おそらく、紀元後70年代か、80年代のころに、この本日の記事は書かれたのであります。それは何のためであったのでしょうか。おそらく、聖霊降臨のこの出来事が記し、まとめられる必要がルカの属する教会にあったからでありましょう。そして、この記事は、それ以降、現代に至るまで、教会の生まれた時代からの真実なあり方を繰り返し問いかけながら、大きな力を与え続けてきたのであります。
  前置きが少し、長くなりましたが、本日の出来事をもう一度思い起こしてみましょう。五旬祭すなわちペンテコステの日が満たされたときに、弟子たちは、一つの場所に集まって祈っていました。前に出てくる12使徒たちを中心とする120人ほどの人々であったかもしれません。すると、突然、激しい風のような音が彼らがいた家を満たします。そして、炎のような舌が一人一人に向かってとどまります。そして、彼らは預言をしていた、すなわち、神の啓示を宣言していたのであります。そして、エルサレムにはそのとき、天下のあらゆる国から敬虔なユダヤ人たちやユダヤ教への改宗者たちが帰ってきて住んでいました。
彼らは、その時、その物音に驚いて、やって来ます。そして、キリストの弟子たちが、それぞれ集まってきた人々の言語で、舌で語っているのを見てあっけにとられるのであります。そして、言います。この人々は、ガリラヤ人たちではないか。それなのに、我々の自国の言語でしゃべっているのはどうしたことか、と。
 それは、東の方のエラムやパルティア人、北のほうのポントスやアジア、カパドキアや、南にはアラビヤや、西のクレネに隣接するリビアやエジプト、当時交流のあったローマ世界やユーフラテス地域など、ディアスポラ・離散していたユダヤ人たちやユダヤ教への改宗者たちが来て住んでいた、あるいは滞在していた人々であります。彼らは、主イエスの弟子たちが、それぞれ自分の国の言葉で預言しているのをみて、皆、神のなされる大きなみわざに、驚き戸惑うのであります。しかし、中には、「彼らは、甘い新酒に酔っているのだと嘲る者たちもいました。 
そこで、ペトロが、家の外の通りに出て来たのでありましょうか、11人と共に立ち上がって、説教を演説のようにするのであります。「ユダヤ人の皆さん、そしてすべてのエルサレムに住んでいる皆さん、私の言葉を知るように、耳を傾けてください。今は、朝の9時だから、この人たちは酔っ払っているはずはありません。実は、これは、預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。『終わりの日々に、私は私の霊から、すべての肉に、すなわちすべての人に注ぐであろう。そしてあなたがたの息子、娘は預言するであろう。あなたがたの若者たちは、幻を見、老人たちは夢を見よう。あなたがたのうちのしもべも、しもめも、預言するであろう。そして、天では日は闇に変わり、月は血のように変わるであろうし、地では火と血と煙の蒸気が、主の大いなる、著しく輝かしい主の日の来る前に。そして主の名を呼び求めるものは皆救われるであろう』との旧約の約束が実現したのである」と、ペトロは大胆に説教するのであります。
主イエスのみ教えや奇跡のわざが理解できなかったし、特に、十字架の主の死以後は、絶望のただ中にあった弟子たち、特に最後まで主について行きながらも、主を知らないと否認したペトロがまったく新しい弟子へと生まれ変わったのであります。そして、ペトロは、旧約を引用して、それにより、3000人もの仲間が加わるような画期的な説教をする者へと変えられたのであります。
ここに、教会が、キリスト教が形をもって、始まりました。それは、初めの時から本日の記事に示されているように、普遍的な宗教として出発したのであります。男も女もなく、老人も青年も同じように、主人も奴隷も、預言する日が来るとヨエル書に預言されていたことが、この日に実現したのであります。そして、聖霊に満たされた弟子たち、そして、教会は、世界の果てにまで宣教を始めていったのであります。
この日の場合と同じように、私たちの信仰を新酒に酔っているかのように、嘲り、一笑に付する人々が、今も私たちの周りを囲んでいます。しかし、聖書の救いの約束、聖霊を与えるとの約束は、ペンテコステの出来事のあったこの日に成就されました。私たちも、力強くそれぞれの持ち場、持ち場で「救い主・主イエスのこの名のほかに、この世界に救いは与えられていないのです」と、世界に向かって働きかける光栄を与えられているのであります。
私たちは1週間の間にも多くの危険や困難に出会います。しかし、主のみ言葉、聖書はそれらを克服する癒しの力を与えてくれます。今週もその力を受けて、礼拝から派遣されていきましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。
2006/06/04(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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