津田沼教会 牧師のメッセージ
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「み言葉は時が来たなら成就する」(ルカ24:44~53)中川俊介牧師
ルカ24:44-53、2006・05・28、昇天主日
使徒言行録1:1-11、エフェソ1:15-23

ルカによる福音書24:44~53

 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから初めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムへ帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。


2006年5月28日(日)午前10時半~昇天主日礼拝

説教「み言葉は時が来たなら成就する」中川俊介牧師
説教は後日掲載します。
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2006/05/28(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「友のために命を捨てる方」(ヨハネ15:11~17)
ヨハネ15:11-17、2006・05・21、復活後第5主日
使徒言行録11:19-30、ヨハネの手紙4:1-12

ヨハネによる福音書15:11~17

これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。


説教「友のために命を捨てるお方」(ヨハネ福音書15:11~17)
 
いよいよ、復活を祝う時期も、本日が聖霊降臨後第5主日であり、残り少なくなってきました。本日は、先週のヨハネ福音書15:1-10に続く15:11-17の個所が、福音の日課として与えられています。どうして、復活節にここが与えられているのだろうか、皆さんとご一緒に、しばらく、考えてみたいと、思います。
 さて、先週の福音の記事は、主イエスが「私は、まことのぶどうの木、父はその農夫である」(15:1)という言葉で始まっていました。本日の15:11-17まで、それは続いていると取ることができます。私たちは、真実の、ほんもののぶどうの木である主イエスにつながり、とどまりつづけることが、必要であります。主は御自身をぶどうの木と言われていますから、ここから、聖餐式を思い起こすことも、あながち間違いではないでしょう。私たちは、礼拝には聖餐に与るために来ているともいえるのであります。たとえ、本日のように聖餐式がない日であっても、教会に行くのは、主イエスのからだとその尊い血に与るために行くのであるといっても言いすぎではないでしょう。聖餐式につながり続けることで、一生の教会生活を続けることが必要なのであると、ここの個所でも主は暗示して言っておられるとも言えるでありましょう。
 さて、本日のヨハネ福音書の記事は、「私が、これらのことを話したのは、あなた方の喜びがとどまり、喜びが満ち溢れるようになるため、喜びが完成されるためである」という言葉で始まっています。主イエスは、最後の晩餐において、あるいはその前後で、14章から始まります17章まで続く告別説教、告別講話を語られています。そんなに豊かな、沢山な言葉が、主イエスの生涯の最後の最後で語りつくされたということは驚きでありますが、ヨハネ福音書記者、あるいはその弟子の編集者(たち)は、主イエスの言葉として伝えられていたものを、ここにまとめたものかもしれません。
 その当時、紀元後1世紀末の状況は、主イエスの十字架とご復活をその目で見た弟子たちは殆ど生き残ってはおらず、第2世代になっていたことでありましょう。そして、激しいユダヤ教からの迫害やグノーシス主義(知識主義)やマンダ教とよばれるユーフラテス川下流の地域で盛んになっていた教えが、キリスト教会をもおびやかし、信者たちは正しく伝えられてきたキリスト教が危険にさらされていることを、身をもって感じていた時代であったでしょう。そのような中で、14章から17章にかけての告別説教が大きな励ましとなり、彼らに信仰によって生きていく力を与えたことでしょう。
 主イエスが弟子たちの下を去り、十字架の死をとげ、復活ののちに、天に上げられ、肉の目ではみえなくされたあとも、「あなたがたの喜びが満たされるために」これらの言葉を語っていると主は前もってここで言われるのであります。
 そして、主は言われます。「あなたがたに命令を与える。すなわち、互いに愛し合うように」と。キリスト教は愛の宗教だといわれます。しかし、それは何と困難な、実行の難しいことでありましょうか。私たちの肉の思いからは、それは、実現不可能であります。しかし、主イエスという「真実なぶどうの木」につながっているときに、初めて可能になっていく事柄であります。主は言われました。「その友どものために、その命を置く、すなわち差し出す・捨てる。それ以上に大きな愛をだれも人は持っていない。」さらに、言われます。「私は、あなたがたをもはや奴隷、しもべとは呼ばない。なぜなら、私は、父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」と。
 友や友情という思想は、ギリシャ思想などで頻繁に出てくるもので、聖書の中ではあまりなじみのない思想であります。わずかに、アブラハムやモーセが「神の友」であるように言われています。この記事を書いた記者は、どこから、この主イエスの言葉とされるものを引き継いだのでありましょうか。それとも、主イエス御自身の言葉として素直に受け取ってよいのでしょうか。ヘレニズム文化などの影響が背後にあるのかもしれません。しかし、主御自身が、この文に近い言葉を弟子たちに語ったということも考えられうることであります。私たちは、確かに、一方で主イエスのしもべであり、それ以上のものではありません。しかし、同時に、主イエスは、旧約では、一、二の例外的人物に対してのみ言われた「神の友」という呼ばれ方が、私たちすべての信者に対して主イエスによって与えられているのであります。
 旧約聖書の時代においては、考えられもしなかった「主イエスの友」という呼ばれ方が、主ご自身によって、主につながっているすべての信者に与えられたのであります。
 主は、「あなたがたを置く、すなわち、あなたがたが行って、実を結び、もたらし、その実が残るために」と言われます。当時の迫害下にあったヨハネ記者の教会の信者たちだけではなく、主を肉眼では見ることが不可能である、現代の教会の私たちに対しても、主はそのように言われているのであります。そして、私たちが行って、実を結び、その実がとどまるように、私たちを、あなたがたを置く、すなわち、任命する、と。
 「私たちが、実を結ぶ、実をとどめる」とはどういうことでありましょうか。それは、確かに世界中に弟子たちが派遣されていって、主の救いをのべ伝えること、そして、世界中に教会を打ち立てることをも、含んだものでありましょう。
 けれども、もっとも、大切なことは、当時のヨハネの教会の人たちが直面したと同じように、この混迷する時代にあって、私たちが、神、キリストにつながり、それにふさわしい生活をし、そして、この津田沼教会において、お互いに愛し合い、認め合い、励まし合う生活をすることが、世の人々を教会へと獲得する以上に、まずは、第一に必要なことであります。主は、本日の結びも、先週の15章の前半に出てきたと同じ言葉で締めくくられます。「これらのことを、あなたがたに命じる。すなわち、お互いにあなたがたは愛し合うように」と。
一言祈ります。
 天の父なる神さま。あなたは、私たちが、自分の内側からは、何も正しいことをすることができないことをご存知です。私たちは、自己中心的で、家庭においても、職場においても、どこにおいても、自分が一番かわいい者です。しかし、あなたは、み子を送り、私たちにあなたの言葉とみ旨をすべて知らしめ、私たちをご自分の友と呼んでくださいます。有難うございます。どうか、身近なところから、愛し合い、尊敬しあい、相手を尊び、信頼し、高め合う、愛の集団にしてください。それによって、あなたに対立し迫害する世がみ名をあがめることになりますように。キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
2006/05/21(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「私の内にとどまりなさい」(ヨハネ15:1~10)
ヨハネ15:1-10、2006・05・14、復活後第4主日
使徒言行録8:26-40、ヨハネの手紙一3:18-24

ヨハネの福音書15:1~10
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ばないものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。


説教「私の内にとどまりまさい」(ヨハネ15:1~10)
 
復活後第4主日を迎えました。本日、そして来週の日曜日とこの復活節において、特に復活の出来事そのものの記事を扱うのではなく、ヨハネ福音書のいわゆる告別説教といわれるものの中から福音の記事が選ばれています。すなわち、先ほどお読みしましたヨハネ15:1-10、そして来週がその続きの15:11-17であります。
 
ヨハネ福音書の14章から16章、17章にかけては、洗足の記事や最後の晩餐の出来事の後の告別説教となっているのであります。最後の晩餐の後に、彼らがギデロンの谷の向こう、ゲッセマネに向かって進んでいくときに、これらの膨大な講話の内容を、主イエスが歩きながら述べられたとは到底考えられません。

これは、この福音書の場所に、ヨハネ福音書記者が、あるいはその弟子が、まとめて、ここにこれらの文章を編集して残していると考えられます。復活節を祝っている今、この時期に、本日はヨハネ福音書の15:1-10が与えられている意味について、ご一緒に考えてみましょう。
 
主イエスはいわれます。わたしは真実なぶどうの木であり、父はその農夫である。そして、あなたがた弟子たち、すなわち、私たちは、その枝、あるいは、そのつるである。父なる神は、良い実をもたらす枝はさらに刈り込まれ、手入れをなさるが、豊かな実をもたらさない枝は切り取られるといわれるのであります。
 
ぶどうの木は、イスラエルの民を表すために、旧約聖書でしばしばたとえられています。しかし、旧約のイスラエルの民は、その長い歴史を通じて、しばしば不信仰に陥り、良い実をもたらすことはできなかったのであります。それに対して、主イエスは、ご自身を、真実な、まことの、良いぶどうの木といわれます。それは、父なる神に対して常に従順にそのみむねに従われたからであります。そして、父の命令、すなわち、ご自分の弟子たちを最期まで愛するという命令に、あくまでも従ったのであります。

そして、枝である私たち弟子たち、使者たちに対しても、主イエスが守られた愛のうちに、中にとどまるようにと、忠告なさいます。ぶどうの枝は、それ自身では、実を結ぶこと、豊かに実を結ぶことはできないのであります。そして主は、私の内に、中に、その愛の命令にとどまりまさいといわれます。私たち自身の考えや、功績に頼っては、豊かな実を結ぶことはできないのであります。

この豊かな実とは、主イエスこそ父から遣わされた救い主であり、その子である主イエスによってこそ命と真理が与えられると、堅く信じるようになる教会の一員となる一人一人を指しているということもできるでしょう。私たち、すなわちイエスの弟子たちは、その父なる神の使者でもあります。そして、豊かなぶどうの実をもたらすことができるためには、その木であり、幹である主イエスから絶えず養分を、その力の源から与えられることが必要なのであります。
 
私たちは主イエスを通さずして、命と真理と救いにいたることはできないのであります。また、教会においでになられる新来者の方々は、私たち信者が、しっかりと、主イエスというぶどうの木につながっている、とどまっていることがなければ、豊かなぶどうの実となることができないのであります。

そして、主は父なる神が主イエスにお与えになる命令、すなわち、自分のものたち、弟子たちをとことん愛しぬかれることを守り通されました。私たちも、主イエスが示された愛しあうという命令を守り、主イエスの弟子であることにとどまるとき、それは、父なる神の栄光を現すことになるのであります。
 
そして、イエスが父なる神のうちにとどまられたように、私たちも、イエスの内にあり、 
その命令を守るなら、私たちが願うどのような祈りも聞かれるのであります。
 私たちは、主イエスの命令、互いに愛し合い、主イエスの言葉にとどまり続けることは至難の業であります。けれども、私たちは、これらの主イエスの言葉によって、既に清くされている者であります。

 主イエスに対して、父のもとから遣わされたみ子に対して、世は敵対しています。しかし、私たちは、主イエスによって、命と真理の道を歩むように選ばれている者であります。主の愛のうちに、その中にとどまるように、召された者たちであります。ぶどうの実である一人でも多くの方々を、新来者を得ることができるように、そのために、お互いに愛し合おうではありませんか。主イエスが父から受けた命令、そして、私たちが主イエスから受けている命令とは、お互いに私たちが愛し合い、そこから豊かな実を結び、父なる神の栄光を現すようになることであります。

一言祈ります。
父なる神さま。主イエスは復活され、私たちが愛し合って、それによって豊かな実、新しく主を命、真理として受け入れる人たちを一人でも多く教会へと導くことを願っておられます。そのために、自分たちの力に頼むのではなく、常に主イエスという真実なるぶどうの木にとどまり、つながっていくように導いてください。自分だけの救いにとどまるのではなく、豊かな実を結ぶように、他の人々の救いのためにも働くものとならせてください。それによって、父よ、あなたに栄光を帰することができますように。キリストによって祈ります。アーメン。

2006/05/14(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「私の群れを養いなさい」(ヨハネ21:15~19)
ヨハネ21:15-19、2006・05・07
復活後第3主日、使徒4:23-33、一ヨハネ3:1-2

ヨハネによる福音書21:15~19

 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

「私の群れを養いなさい」(ヨハネ21:15~19)
 復活後第3主日を迎えました。先週から私たちの教会ではヨハネ福音書から、福音を聞いています。確かに、聖霊降臨まで待って初めてゆるぎない信仰者たちへと、弟子たちは変えられていくのでありますが、今は復活の出来事を与えられて、復活の主によって将来の道を備えられようとしている場面であります。
 本日与えられていますヨハネ21:15-19も、つながりとしては、先週のティベリアの海、湖のほとりで、大量の魚の捕獲の出来事の後、主によって用意された朝食のもてなしに続く場面となっています。
 朝食が終わると、そのとき、主は、シモン・ペトロに三度にわたって、同じような質問をなさるのであります。「ヨハネの子、シモンよ、あなたはこれらの者たちがそうである以上に、私を愛するか」。ペトロは、言います。「あなたは、ご存知です、私があなたを愛していることを。」主はいわれます。「私の小羊どもを世話しなさい」。主はまた、二度目にいわれます。「ヨハネの子シモンよ、あなたは、私を愛するか」ペトロは答えます。「私があなたを愛することをあなたはご存知です。」主はいわれます。「私の羊たちを牧しなさい。」
 主は三度目にいわれます。「ヨハネの子シモン、あなたは私を愛するか」。ペトロは、三度も「私を愛するか」と聞かれたので、悲しさと恥とでいっぱいになって、「主よ、あなたは何もかもご存知です。私があなたを愛していることはあなたがご存知です。」と語るのであります。
 これは、ペトロが、主の予言したとおり、鶏の鳴く前に、三度、主を否認したことを前提としています。その上で、主は、生前父なる神から主に託された群れを今からは、ペトロに託すといわれるのであります。これらの文章は、三回の質問を重ねながら、変化をつけた美しい文章で書かれています。それによって、ペトロへの委託を重ね重ね強調しているのであります。
 主が予告されていた通り、主の弟子たちを、信じるものたちの群れを養うことになると約束されるのであります。牧師とは、羊飼いを意味します。世話をし、命を与え、導くのであります。それは、教会の指導者たちが確かに中心になっていますけれども、一人一人のクリスチャンが、お互いに励ましあい、導きあうことをも含んでいるといっても、あながち、間違いではないでありましょう。このあと、主は、ペトロに、どのようにしてその死が神に栄光を帰すことになるかを告げます。このヨハネ21章の編集者は、ペトロの後のさかし十字架刑における殉教を知っていたのでありましょう。行きたくないところに、手を差し出して、からだを帯で縛られて連れて行かれることを、主は予告なさいます。そして、そういわれながら、「私に従いなさい」と招いてくださるのであります。私たち信者も、行きたくないところへと、連れて行かれるようなときが、くるかもしれません。しかし、永遠の命と平安に導かれるこの信仰に絶えず戻るしかありません。主にしたがって、福音をのべつたえていきましょう。アーメン。
2006/05/07(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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