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津田沼教会 牧師のメッセージ
「復活の主によるもてなし」(ヨハネ21:1~14)
ヨハネ21:1-14、2006・04・30、復活後第2主日礼拝
使徒言行録4:5-12、一ヨハネ1:1-2:2

ヨハネによる福音書21:1~14

 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ぺキスばかりしか離れていなかったのである。さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現われたのは、これでもう三度目である。



説教「復活の主によるもてなし」(ヨハネ21:1~14)

 本日与えられています福音書の個所は、ヨハネ21:1~14であります。本日からしばらくの復活節、ヨハネの福音書を用います。 本日の個所は、後の編集者、あるいは編集者たちの付加だと考えられています。この部分の前に、2週にわたって、弟子たちに、また、トマスにも、復活の主が現れます。その後に、本日の記事では、ティベリアスの海のそばで、復活の主に会います。
 それは、7人の弟子が、ペトロ・シモンと漁に出ているが、一晩中苦闘しても1匹も取れなかったときのことであります。7人の弟子とは、完全数であり、後に形作られていった教会の全体を現しているとも考えられます。彼らの経験と能力によっても、1匹も取れない一晩であり、夜が明けかかっていました。
そのとき、イエスが湖畔に現れ、何か魚がとれたかと聞かれますが、弟子たちは分かりません。そして、主が、船の右のほうに網をたれてみよといわれるので、そうしたのであります。
 すると、引き上げることもできないほどの多くの大きな魚がかかったのであります。それを見て、大量の捕獲の奇跡を思い出したのであろう「主の愛された弟子」が、「あれは、主である」と叫んだのであります。
 ペトロは、主の前に出るのにふさわしくあろうとして、急いで上着をみにまとい、海に飛び込みます。それは、100メートルほどの距離であったからであります。主に再会しようとするペトロの思いはいかがであったことでありましょうか。一方、他の弟子たちは、網を引きずりながら、後から来ます。
そのようにして、彼らが陸に上がってみると、主は、炭火を用意し、その上に魚がやかれてあり、パンも用意されていました。だれも、主に「あなたはどなたですか」と尋ねるものはいませんでした。彼らは、主であることを知っていたからであります。
 主はやってきて、パンを取り、魚も同じようにして、朝食を取りなさいといわれます。主は、あなたがたが取ってきた魚からも、もってきなさいといわれ、ペトロが船に上がって、網を引き、数えてみると153匹もの、しかも大きな魚が取れていてその中から必要な何匹かをとってきたのであります。それは、1説には、地中海に住む当時考えられた魚の種類であったともいわれます。
 復活の主が、教会を地中海世界に弟子たちを派遣して、救いの網にいれる、弟子たちはそういう人間を取る漁師にいよいいよされていくことが暗示されているのであります。
そしてここでは、復活の主が、ご自分から私たちをもてなし、慰め、招いていてくださいます。多くの困難や誘惑につぶれそうになりがちで、負けやすい私たちではありますが、主は私たちを用いてくださいます。洗礼へと招かれた私たちは、常にキリストを証しするものへと作り変えられている一人一人なのであります。そのことを覚えて、たとえ、何回倒れようとも、主によって立ち上がらされ、死と闇から、新しい復活の命へと今週も、再びここから、派遣され、生かされていきたいと思います。アーメン。
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2006/04/30(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)