津田沼教会 牧師のメッセージ
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「復活の主によるもてなし」(ヨハネ21:1~14)
ヨハネ21:1-14、2006・04・30、復活後第2主日礼拝
使徒言行録4:5-12、一ヨハネ1:1-2:2

ヨハネによる福音書21:1~14

 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ぺキスばかりしか離れていなかったのである。さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現われたのは、これでもう三度目である。



説教「復活の主によるもてなし」(ヨハネ21:1~14)

 本日与えられています福音書の個所は、ヨハネ21:1~14であります。本日からしばらくの復活節、ヨハネの福音書を用います。 本日の個所は、後の編集者、あるいは編集者たちの付加だと考えられています。この部分の前に、2週にわたって、弟子たちに、また、トマスにも、復活の主が現れます。その後に、本日の記事では、ティベリアスの海のそばで、復活の主に会います。
 それは、7人の弟子が、ペトロ・シモンと漁に出ているが、一晩中苦闘しても1匹も取れなかったときのことであります。7人の弟子とは、完全数であり、後に形作られていった教会の全体を現しているとも考えられます。彼らの経験と能力によっても、1匹も取れない一晩であり、夜が明けかかっていました。
そのとき、イエスが湖畔に現れ、何か魚がとれたかと聞かれますが、弟子たちは分かりません。そして、主が、船の右のほうに網をたれてみよといわれるので、そうしたのであります。
 すると、引き上げることもできないほどの多くの大きな魚がかかったのであります。それを見て、大量の捕獲の奇跡を思い出したのであろう「主の愛された弟子」が、「あれは、主である」と叫んだのであります。
 ペトロは、主の前に出るのにふさわしくあろうとして、急いで上着をみにまとい、海に飛び込みます。それは、100メートルほどの距離であったからであります。主に再会しようとするペトロの思いはいかがであったことでありましょうか。一方、他の弟子たちは、網を引きずりながら、後から来ます。
そのようにして、彼らが陸に上がってみると、主は、炭火を用意し、その上に魚がやかれてあり、パンも用意されていました。だれも、主に「あなたはどなたですか」と尋ねるものはいませんでした。彼らは、主であることを知っていたからであります。
 主はやってきて、パンを取り、魚も同じようにして、朝食を取りなさいといわれます。主は、あなたがたが取ってきた魚からも、もってきなさいといわれ、ペトロが船に上がって、網を引き、数えてみると153匹もの、しかも大きな魚が取れていてその中から必要な何匹かをとってきたのであります。それは、1説には、地中海に住む当時考えられた魚の種類であったともいわれます。
 復活の主が、教会を地中海世界に弟子たちを派遣して、救いの網にいれる、弟子たちはそういう人間を取る漁師にいよいいよされていくことが暗示されているのであります。
そしてここでは、復活の主が、ご自分から私たちをもてなし、慰め、招いていてくださいます。多くの困難や誘惑につぶれそうになりがちで、負けやすい私たちではありますが、主は私たちを用いてくださいます。洗礼へと招かれた私たちは、常にキリストを証しするものへと作り変えられている一人一人なのであります。そのことを覚えて、たとえ、何回倒れようとも、主によって立ち上がらされ、死と闇から、新しい復活の命へと今週も、再びここから、派遣され、生かされていきたいと思います。アーメン。
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2006/04/30(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主は生きたまう」(ルカ24:13~35)前田貞一牧師
ルカ24:13-35、2006・04・23、復活後第1主日聖餐礼拝(白)
使徒言行録3:11-26、ヨハネの手紙Ⅰ5:1-5、

ルカによる福音書24:13-35
 
 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現われ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現われたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

前田貞一先生説教「主は生きたまう」(ルカ24:13~35)

 今日は、復活祭のオクターブ、1週間が過ぎましたこの大きな祝いのときに礼拝に招かれまして心から感謝申し上げます。
 で、大きな復活祭の礼拝の続きの中にありますが、キリスト教にはいちばん最初、生まれて、ギリシャの地方で広がって行って、ギリシャ教会というのが今もあります。ギリシャ地方とロシア地方にあります。東方教会とか、東京の御茶ノ水の横のニコライ堂の教会ですね、東方教会、そしてその教会から今度はローマのほうへ行きまして、いわゆるローマ教会、よくカトリック教会といいますが、ローマ派の教会、そしてそこからプロテスタント、となっている。その東方教会で、礼拝の中で、ギリシャ語でエゲイロー、これは起立をしてくださいという意味、会衆の人にも起立をしてくださいという。エゲイローという。このエゲイローというのは、実は、聖書に出てくる、復活というふうに訳されます。今日の日課のなかでも、イエスさまが分からなかった。先週の日課でお聞きになったと思います。天使があの方はここにはおられない、復活なさった、あの方は、エゲイローだ、復活し、立ち上がったとかいうんです。ひとつは、アニステーミという言葉もよく使われていますが、目覚めるという、あの方は目覚められた。あの方は立ち上がられたという極めて日常的な言葉、私たちの生活の中で、けさ何時に起きましたかというのは、エゲイローだったり、アニステーミだったりする。ですから、聖書の中にエゲイローとかアニステーミとかいうのは日常生活用語ですから、何度も何度も、百数十回は出てくると思います。
 イエスさまが舟の中で眠っていた、弟子たちが、イエスさま、起きてくださいといったのを、起こした、起きてくださいというのは、エゲーロー。ですから、復活というふうな言葉で訳してあるのは、大体福音書では25パーセントくらいです。四分の三は他の意味、イエスさまが手を取って立ち上がらせた、子供をみんなの中に立たせた、全部これは、エゲイローとか、アニステーミという言葉。で、私たち、復活と書きますから、また生きるというふうに、とります。特に日本の文化の中でみますと、復活といったら、死んだ後の来世のことをいってるんじゃないか、ところが、この復活というのは、そういう意味では、弟子たちも分からない。先週、あのマリアたちが、イエスさまはおられないということは分かった、けど、天使が復活した、あの方はおられない、復活なさった。これは、マリアたちが復活したというふうに考えたんじゃない、ということを聖書は言っているわけです。天使の声。だけど、いったい復活って、エゲイローって何だろう。イエスさまがエゲイローって何だろう。この分からない期間が、弟子たち、ずうっと続くわけですね。ペンテコステまで、続きます。ペンテコステのときになって、ほんとにみんなが、あっ、イエスさまは生きておられる、ということを、この、知っていくわけです。
 で、それは、今日の日課でも出てきますよね、二人、行ってた、イエスさま、誰か分からない人と二人の弟子が歩いていて、そして弟子たちが、あの方こそ、イスラエルを解放してくださる、と望みをかけていました。で、ところが、つまり、かけていたわけです。そしてもう、十字架にかかって三日もたちました。もう、弟子たちにとっては過去のこととなったわけです。望みをかけていた。おそらく、復活ということを何だろうと考えているこの50日の間、弟子たちが、ここでは失望した。望みをかけていたけど、もうすべてが終わってしまった。そういう失望を感じたり、時には、あっ、イエスさまはこういう方だった、懐かしむこともあったでしょう。そして、ペトロなども、最後エルサレムに入る前に、それはよしたほうがいいですよ、自分たちはとめたのに、あんなにして無理にして入った。なかば、怒りを感じる思いもあったかもしれない。
 で、最後の最後は、ヨハネにありますように、ガリラヤに帰って、もとのように、魚を取る。弟子たちは何のため三年費やしたんだろう。舟もすべてを捨てて従ったのに、結局もとに戻るしかない。そういう迷いの50日を過ごすわけです。そして、そういう迷いの中のひとこまが今日の日課です。二人の弟子がエルサレムと地中海のちょうど中間ぐらいにありますエマオというところに行って。ですから、読んでいくと、私たちは、ある意味で、納得がいかないわけです。イエスさまが、三年間つい三日前まで、一緒にいてですね、姿なり、声なり、話し方なり、通常考えれば、一日歩いて気がつかないなんてことは、ありえないようなことなんです。
 そして、最後の三分の一のところで、一緒に泊まろうとして、そして、夕食のときに、パンを裂いたときに、あっ、イエスさまだとわかった。そう、この食事の席に一緒についたとき、この食事もまだ、普通の日常の言葉ですが、この言葉が、だんだん、今の聖餐という言葉になってきます。まだ、最初のころは、食事に集まるときとかですね、一緒に食事をするとき、という言葉でしか、まだ聖書の中では書かれておりません。そして、あの食事、これが、私たちが言う聖餐になってくる。
 で、私たちのルーテル教会、日本のルーテル教会はやはり、教団の影響を受けていますから、月に一回とか、年に数回しかしませんが、この聖書の時代から、礼拝というのは聖餐のこと、そして、説教というのは、この聖餐のキリストのからだ、このキリストのからだは、聖書のこの方ですよ、という説き明かしをするのが、説教でしたが、私たちは、聖餐と切り離した礼拝を大方しています。
 で、ここに出てくるのも、そうです、食事をしているときに、イエスさまだと分かった。食事をする中で、イエスさまが生きているということが分かった。私たちは、聖餐式で、パンとぶどう酒を罪の赦しのお薬のようなつもりでいただいちゃあならないわけです。そんな効果はひとつもないです。私たちは、ここで、弟子たちがそうであったように、そしてまた、使徒行伝あるいはパウロの手紙などに出てきますように、このキリストにつながって、イエス、これはキリストのからだである、いただいたときに、あの、イエスさまが言われた、ぶどうの幹とぶどうの枝のように、あっ、イエスさまにつながっている。あのイエスさま、あのキリストとは、まさに聖書の中に出てくる、あるときには、本当に優しく、あるときには、厳しく、そして、あるときには、励ましてくださる。もういろんなイエスさまが出てきます。聖書の中で、私たちが聖書を読むときに、イエスさまの前にいろんな人が出てきます。病気でくずおれてる人もいる。ときには、パリサイ人のように、あるいはサドカイ人、非常にかたくなになって、イエスさまの言葉を拒もうとする。
 私たち自身がやはりあのサドカイ派の中に入ってイエスさまと相たいしていく、これが聖書の読み方です。イエスさまが助けてくださった。あの助けられてくずおれている人の中に自分をおいて、イエスさまと向かい合っていく。これが、信仰における、聖書の読み方です。
 そうしたイエスさまを、あのパンとぶどう酒のなかで、その、イエスさまをいただいていく、このイエスさまを、信仰の糧、霊の糧、心の糧にしていく。それを週ごとに、私たちは、新たにしていく。これが、本来、礼拝。で、今日もう一つ。あとひとつ、加えましょう。
 そう、ここは、ニケヤ信条使いますね。たいていの教会、聖餐式のときには、ニケヤ信条とっていますが、ちょっと式文でニケヤ信条のところをお開けくださいますか。
 聖餐式のときにどうして、ニケア信条を使うのか。昔から使っていた。ニケヤ信条というのは、325年ぐらいですから。まあ、できましたあとに、あの、私は信じますというふうにこの、私個人になっていますが、元来は、私たちは信じますというふうに。当時のニケヤ会議に集まった司教たちがお互いの信仰を確認するために、この、作った信条なんです。そこで、こうですね、私たちはこのイエスさまを、キリストを信じます、というふうに作ったんです。ですから、ローマ教会も聖公会も、もういちどこれは、私たちはという本来の言葉に戻そうかと言って今検討がなされています。ルターも、ルターが作りました、ニケア信条の中では、我々は信ずと言って、このニケヤ信条を歌うようにしてますが、礼拝の中では、この、変更された、私はになっています。このニケヤ信条もですね、信条本文の下から、8行目です。三日目に復活し、天にのぼられました、そして、父の右に座し、栄光のうちに再び来て、とあります。で、再び来るというのは、再臨のイエス・キリストは、その下に出てきます、栄光のうちに再び来て、生きている人と死んだ人とはさばかれます。
その支配は終わることがありません。この再び来てというのは、そう、14章ですね、ヨハネ福音書の14章の中に、イエスさまが最後の晩餐のときに、なさったという説教です。心を騒がせるな、神を信じなさい、で、この、今十字架にかかっていくということを語って、私の父の家には住むところが沢山ある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために、場所を用意したら、というのは、これは十字架の死を表わす。戻って来て、また、戻ってきますよ、といっている。これは、パリン・エルコマイという言葉なんですが、聖書でここ一箇所でしか使われない、言葉なんです。
 このニケヤ信条に出てくる、さっき、言いました、栄光のうちに再び来てという、その言葉を使っている。つまり、十字架に殺され、三日目に復活して再び来る、というのは、ニケヤ信条で、これは特に聖餐のためにずっと表明されてくるわけですが、まさに、聖餐のキリストのからだと血、これは再び来られたイエス・キリストだというのが、まさに、使徒たちからの考えであり、教会観。だから、聖餐を大事にしたし、礼拝を大事にした。
 聖餐に与るというのは、再び来てくださったイエス・キリストが、このキリストによって、聖書に書かれているさまざまなイエスさまの行い、教え、そうしたものを私たちはもう一度新たにするし、そして、私たち自身を復活したものとして、生かしていく。パウロが言ってますね、ローマ書の6章で、洗礼というものは、キリストの十字架と一緒に死ぬことだ。そして、もう一度、水から出ることによって、もう一度復活することだ。そう、洗礼というのは、パウロも、ローマ書の6章で言っていますように、私たちの死であり、私たち自身が洗礼によって復活させられたものとなる、イエスさまにつながり。だから、パウロは、あのように強いんです。もうどんなことがあったって、泰然としてやっている。いや、私は復活した人間だ。そう、私たちはそういう意味で、やはり復活の信仰を与えられている。それは、イエスさまが復活したというより、イエスさまと一緒に私自身がもう洗礼において復活した人間に組み込まれているんだという。そして、その復活した人間として、今日来てくだすったイエス・キリストにまた、私たちは、つながっていく。こうして、1週間を本当に、問題がある人はくずおれないで、力を与えられたり、慰められたり、また、ときにはしかられることもあるかもしれない。こうして、この週を、私たちは豊かに過ごしたい。
 で、あのエマオへ向かった弟子たちが、食事のときに、あっ、そうだ、あの最後の晩餐でなすったように、これは、私のからだ、あのイエスさまを本当にこの二人を身近に、そういう繰り返しをしながら、ペンテ・コステの日までを本当に弟子たちは迷いながら過ごしていくわけですけど、少なくとも聖餐の中で、復活したイエスさまに出会っていくという、このわざを、また、今日も皆さんと共に、この、礼拝の中で行っていきたいと思います。では、お祈りをさせていただきます。
 父たる神さま。
今日の礼拝を感謝いたします。どうか、イエスさまが本当に、この教会の中に、そして、その交わりの中に、そしてそのひとりひとりのあなたを信じる民の中に、いてくださいまして、あなたが多くの人に力を与え、勇気づけ、慰めを与えられたように、また、生きた、そのような力を今週も私たちに与えてください。こうして、イエスさまのもとで、私たちが日々、豊かな人生として、感謝しながら、それを過ごしていくことができますように、また、あなたの導きをお与えくださいますよう、願います。主イエス・キリストのみ名によってお願いいたします。アーメン。
2006/04/23(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主ご復活の驚き」(マルコ16:1~8)
マルコ16:1-8、2006・04・16、復活祭(白)
イザヤ書25:6-9、コリントの信徒への手紙Ⅰ15:21-28

マルコによる福音書16:1~8

 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中へ入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。


説教「主ご復活の驚き」(マルコ16:1~8)
皆さん、復活祭、おめでとうございます。私たちは、三月一日の灰の水曜日から、昨日の四月十五日(土)まで、日曜日をのぞく四十日間を、四旬節、受難節として、紫の色とともに、過ごしてきました。この間にも、皆さん、それぞれ、多くのことがあったと思います。主イエスのご受難を思い起こしながら、静かに慎ましやかに過ごすべきときでありましたが、式文にもありますように、日毎に、思いと言葉と行いによって、罪を犯さざるを得ない弱い、罪びとの私たちであります。
 
さて、先週は、四旬節の最後の一週間で、受難週でありました。教会でも、聖木曜日には、洗足の礼拝を設け、聖金曜日には、主イエスが十字架におかかりになったことを思い起こしながら、詩編22編を読み、また、主イエスの十字架におつきになって、息を引き取る、神さまにその霊をお預けになったという記事を読んで、主のみ苦しみに思いを寄せたのであります。
 
さて、主のご復活について、祝うために、本日与えられている福音は、マルコ16:1-8であります。今年は三年サイクルのB年として、マルコを主として読んでいるのでありますが、本日の部分は、おそらく、マルコ福音書の結末であろうと、大多数の学者によって考えられている部分であります。そのあとの16:9-20や結び二は、括弧書きになっていて、後の編集者によって付け加えられたものと考えられています。
 
本日の個所の内容について、もう一度、思い起こしてみましょう。安息日が終わったとき、すなわち、土曜日の日没、6時ころ、三人の女たちは、香料を仕入れに出ます。それは、彼、主イエスのところに行って、その遺体に油をぬるためでありました。そして週の初めの日、すなわちもとの文では安息日からの一日目と書かれているのですが、それは、週の初めの日、今でいう日曜日のことであります。その日の朝ごく早く、それは4時ころを指したでありましょうが、マルコは太陽が昇った後にと加えています。それは、新しい日が始まったときにということを言いたかったのでありましょう。

マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、墓に向って行きながら、「誰があの石を転がしてくれるのだろう」と話し合っていました。ところが、目を上げてみると、その石は転がされていたのであります。「なぜならば、その石は非常に大きかったからである」と少しぎこちなく、文は続きます。
 そして、彼女たちが墓の中へ入ってみると、若者が、白い服、式服のようなものをまとって、右手に座っているのを見出したのであります。彼女たちは非常におびえさせられました。すると、その若者はいうのであります。「恐れるな。あなたがたは、あのナザレのイエス、十字架にかけられた方を捜している。もうここにはいない。復活させられたのだ。彼らが置いた場所を見なさい。」

「それよりも、行きなさい、そして、言いなさい、彼の弟子たちと、あのペトロとに、『彼はあなた方よりも先に、ガリラヤに行っている、そこで、あなたがたは彼を見るであろう、彼があなた方に語っていた通りに。』と」彼女たちは、墓から逃げ出し、身震いし、われを忘れていた、そして、誰にも何も言わなかった。なぜならば、彼らはずっと恐れさせられていたからである。
 
このような、唐突な終わり方で、マルコ福音書は、本来のものは終わっているのであります。すなわち、マルコ福音書のオリジナルでは、主イエスとのペトロや弟子たちの再会、主イエスが、彼らやマグダラのマリアたちにも、復活の姿を現すということは書かれてなく、若者すなわち天使の宣言と命令と約束の言葉以外にはなく、主が納められていた墓は既に遺体がなく、空虚なものになっていたということのみが記されているのであります。
 
マルコにとって、そのような唐突な終わり方が、ふさわしかったのであります。そしてそのような仕方で、控えめに主のご復活を伝えることが、マルコらしいのであります。若者は白い式服を着ており、天使であり、神の代理であることを示しています。
 マルコ福音書は、「神の子イエス・キリストの福音=良いニュースの始まり」と書き出されました。そしてその結びは、やはり、独り子イエスを先にガリラヤに向わせている。主は、もはや、死の領域にはおらず、動きの中に、命の中に移されておられるのであります。そして、その出来事は、女たちを振るいあがらせ、その当時何も誰にも言わせず、なぜならば、彼らは恐れさせられていたままだったからであるというのであります。
 
他の福音書とは違って、マルコはなぜここで、筆をとめたのでありましょうか。神のなさることのへの恐れ、畏敬の念を、マルコの記事は、私たちに伝えています。
 マルコにとっては、神の代理である天使の若者が、「あの方はもうここにはおられない。十字架にかけられたあのナザレのイエスは、復活させられた。行って、弟子たちと、主イエスを否認し・否定したあのペトロに言いなさい。『彼はあなた方より先にガリラヤに行きつつある。そこであなたがたは彼を見るであろう、彼があなた方に言われていた通りに』」と。神のこの約束の言葉で十分であります。

弟子たちは、神の国を主イエスが説いて回ったガリラヤで、復活の主に再会し、再び仲間となり、主との交わりを回復するのであります。そして、主イエスこそ神の子であり、再び生きて、既に死の領域を克服された方として、私たちと交わってくださるのであります。この真理は、たとえ、主イエスの遺体の跡形がかりに今、エルサレムの周辺から発見されたからといって、無に帰するものではないのであります。
 
 私たちは、あの弟子たちのように、復活した主イエスとじかにまみえることはないでありましょう。しかし、私たちは聖書の言葉を通して、そして、信仰の目をもって、主イエスと交わることができるのであります。私たちの地上の命は、どんなに健康な人でもやがて衰え、死をもって終えねばならない日が必ず来ます。しかし、それですべてが終わるのではありません。主イエスのご復活を通して、私たちもまた、復活の命を約束され、またそれを生きることができるのであります。復活祭の喜びを共々に祝い、新しい命に、死と闇と地獄に満ちた旧い、肉の命から、真に自分らしい命に新たに生かされていきたいと思います。

一言祈ります。
天の父なる神さま。本日は、四旬節を終え、待ちに待った復活祭を迎えることができました。多くの悩みや苦しみが、地上の生活にはついてまわります。けれどもあなたは、み子の十字架での死と、復活を通して、私たちに罪から解き放たれて新しく生きる道を備えてくださいました。み言葉によって強められ、生きていく勇気を与えてくださってありがとうございます。どうぞ、私たちがあなたから与えられた生をみ心に従って、あなたによって示された永遠の道をこれからも歩ませてください。そして、その道をひとりでも多くの人々に伝える器とならしめてください。キリストのみ名によって、祈ります。アーメン。
2006/04/16(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「民衆の熱狂と失望」(マルコ11:1~11)中川俊介牧師
マルコ11:1-11、2006・04・09、枝の主日
ゼカリヤ書9:9-10、フィリピの信徒への手紙2:6-11

マルコによる福音書11:1~11
 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」二人は出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
 「ホサナ。
  主の名によって来られる方に、
    祝福があるように。
  我らの父ダビデの来るべき国に、
    祝福があるように。
  いと高きところにホサナ。」
 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。


説教「民衆の熱狂と失望」(マルコ11:1~11)(中川俊介牧師、津田沼教会員)

 一週間ぐらいまえのことです。元駐車場のアスファルトを剥がしたものが山のように道路際に積み上げてあるのを見つけました。近くの畑道にいつも雨の後で大きな水溜りになって、車のタイヤが入ってしまう箇所があったので、これはそこを埋めるのにいい材料だと思い、2枚ほど車に積もうとしました。両手に持った板状のアスファルトの固まりがあまりにも重いので、急いで運ぼうとしたら、躓いて倒れてしまったんです。それも両手に重い物を持ったまま。放せばいいんですが、馬鹿なんですね、足に当たりそうで、離せなく、そのまま頭からドサッと硬い歩道の上に倒れてしまったんです。もう少しで眼鏡も割って顔面血だらけになるところでした。顔は平気でしたが、膝がザラザラした地面に強く当たって血だらけになりました。こんな風に膝を怪我したのは小学校の時以来です。馬鹿なんですね。自分の重荷となっているものを手放せばいいのに手放せないんですから。人間の罪も同じようなものだなと思います。手放せばいいのに手放せないんですから。イエス様の十字架のあがないはどうしても必要だったと思います。
 今日の日課はイエス様の十字架への道のりについてです。ここを学ぶとき、神の聖霊の働きによって、私たちから罪の重荷が少しでもとり除かれ、神の御心に適う人生がおくれるように願っています。
 さて、私は二十年前に、ルーテル教会の海外研修で、半年ほどエルサレムに住んだことがあります。その時に、今日の日課に出てくるベトファゲやベタニアにも行きました。そこはエルサレムを見下ろすオリーブ山の頂上付近にありますから、市内からバスで10分くらいのところでした。
 そこに行きますと、ラザロやその姉妹、マリアとマルタの家の跡も残っています。接待に忙しくイライラしていたマルタにイエス様が「あなたは多くのことに悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つである」とおっしゃった場所ではないでしょうか。
全人類の罪のあがないの為に十字架にかかる決心をされたイエス様は、特別な思いを抱きつつラザロの家に泊まったことと思います。私はそこに行ったとき、「イエス様が辿った道を自分も実際に歩いてみたい」そう思いました。あたりは、緑がほんの少しあるだけで、灰色の建物と灰色の道路ばかりの埃っぽい場所でした。坂を下っていくと、目の前に急にエルサレムの城壁とか、神殿跡に建てられた黄金のドームが見下ろせるように視界が開けてきます。ここで民衆が熱狂的にナツメヤシの葉を敷いたりして、ホサナ、ホサナと叫び続けたのです。イエス様は一体どんな気持ちでこの坂を下りたのでしょうか。
 当時のエルサレムの一帯の人口は普段は20万人くらいだったそうですが、過越祭の時には全国から大勢の人が集まり、人口は10倍以上になっていたそうです。ですから、ベタニアからエルサレム城内までの下り坂での大歓迎、これはすごかったでしょう。
 エルサレム旧市内には、十字架の道として、ヴィア・ドロローサ、と名づけられた道があります。でも、そこに行くなんだか人工的な印象を受けるんです。いわば観光名所です。イエス様の本当のヴィア・ドロローサはオリーブ山からの、この埃っぽい道から始まったという気がします。つまり、イエス様の人生としては、最高に多くの人に褒め称えられ、期待されていたときに、十字架の苦しみが既に始まっていたのですね。やがて熱狂が冷め、失望や憎しみに変わることをイエス様は知っておられた。
 ペトロの手紙一2:20にこうあります。「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。キリストもあなた方のために苦しみを受け、その足跡に続くように、模範を残されたからです。」ペトロもこの埃っぽい道をイエス様と一緒に下ったでしょう。でも、あれほど忠誠を誓った自分がイエス様を否定し、裏切ることになるとは。皮肉なことですね。もう一人の裏切り者ユダは、自分のやったことの苦しみに耐えかねて自殺してしまったのですから。「キリストもあなた方のために苦しみを受け」とペトロが言ったときには、彼はそこに深い意味を込めていたのだと思います。
 ルターの書いた、小教理問答にも「自分の理性や能力によっては、私の主イエス・キリストを信じることも、みもとに来ることもできないことを、私は信じます」と書いてある。
ルターも、ペトロと同じように苦しんだからそこが分かると考えてもいいと思います。私たちもまた、生まれつきの性質によっては、十字架の道を最後の最後までイエス様とともに歩むことはできないのです。熱狂的だった民衆も同じでした。ペトロもそれを証ししています。ですから、イエス様は、皆に見捨てられ、たった一人で、まったく彼とは関係ない犯罪人と一緒に十字架に磔にされたのです。
 この坂道の後、イエス様はエルサレムに入城し、いわゆる宮清め、つまり神殿で商売をしていた人を追い出したりしています。また、ファリサイ人たちの偽善を暴きました。「あなたがた偽善者は不幸だ」と非難しました。また、神殿が破壊されることも予告し、ユダヤ人のプライドを傷つけました。当時のユダヤ教が、神なき宗教に堕落していたのを批判したのです。イエス様が現代の教会に来たら、どうでしょうか。牧師に対して何と言うでしょうか。信徒にどう接するでしょうか。私たちも良い気持ちはしないかもしれません。当時の人々が、イエスに失望したように、私たちもイエス様に失望するかもしれません。
 前に牧会した教会に他教派から移った会社員がいました。彼は、「自分にとって教会は清涼飲料水みたいなところです」といっていた。でも居心地が悪くなったら、連絡もしないで消えてしまった。私も当時は若かったので、教会を利用しているような彼の態度にいやな気持ちがした。でも、今考えると、彼は自分の気持ちに正直だったと思う。教会に限らず、宗教を求めている人には、そういう気持ちがどこかにあるのではないでしょうか。イエス様を熱狂的に迎えた群衆と同じだった。聖霊を受ける前のペトロと同じだった。もし、あの群衆が救われなかったら、またこの清涼飲料水信者が救われなかったら、誰も救われないという気がします。イエス様に神様が託した使命は、救われるはずのないものを救うという難しい働きだったと思います。
 聖書によれば、私たちは異邦人であり、この世で希望を持たず、神を知らずに生きていた。しかし、キリストの十字架の血により神に近いものとなった。十字架によって、神は私たちの心の深くに巣食う敵意を滅ぼされた。(エフェソの信徒への手紙2:12以下)
 あの信仰心の厚かったダビデ王さえ、死ぬ直前になって、自分をこれまで助けた軍指令官ヨアブについて「彼を安らかに黄泉に下ることをゆるしてはならない」と怒りをあらわしている。(列王記上2:6)ヨアブはダビデがバテシバを好きになったときに、その主人を抹殺するのを助けたりして、神に逆らっても、主君のダビデに仕えたにもかかわらずです。人間の心の敵意、争い、ここに地獄がありますね。赦しがなかったら、本当に生きることは地獄です。赦しの神を知らないんですから。地獄です。
 私たちの地獄的人間関係について、聖書は私たちを、「怒りの器」(ローマ9:22)として表現しています。本当にそれは当たっています。ダビデ王も怒りの器だった。皆さんは自分をどんな器だと思っていらっしゃいますか。あの坂道での民衆のようにホサナ、ホサナと言っているだけなら、まだ自分が神の救い主を十字架につけるような、怒りの器だという自覚はないでしょう。でも、そんなことはないはずです。キリストの十字架は私たちのすべてに責任がある。私たちや聖書の登場人物の問題点は、何かを得ようとして生きている、そこにあると思います。得られないから、失望し、失望が怒りに変わるのです。
 私たちもあの清涼飲料水信者と同じように、宗教によって何かを得ようとしている。それは、かなえられない地位。プライド。慰め。癒し。非難するわけではないのですが、創価学会の組織で、講師、助教授、教授、と段階があるのに驚きました。でもそれが励みなんです。聖書の登場人物の問題点も同じです。何かを与えようとしているのでなく、何かを得ようとして生きている。得られないから、失望します。何度も何度も失望するとき、失望が怒りに変わるのです。
 私はルーテルの本郷学生センターを通してキリスト教に導かれました。そのセンターも今年の4月18日で50周年を迎えるそうで、記念礼拝の案内が来ました。その案内に「これまで154名の洗礼・堅信者が与えられた」と書かれていました。しかし、悲しいことにその中で教会を去ってしまった人が実に多い。自分の求めていた清涼飲料水のようなものが得られなくて、失望したのだと思います。中には教会の実態を知って怒りを覚えて去った人もいるでしょう。
 しかし、このことは人間的には残念なのですが、信仰という視点からみたときにはどうでしょうか。怒りの器がもたらした、もっとも悲惨な十字架が、もっとも救いに近いものだと分かります。ここに、神様のじつに遠大なご計画があったといえます。あのオリーブ山から下る道でイエス様を熱狂的に迎えた民衆の裏切り。弟子たちの裏切り。マルコ12章10節以下とペトロの手紙一2章8節にある、躓きの石になったのがイエス様です。「実はそうなるように以前から定められているのです」とある。イエス様に躓かない人はいない。なぜなら、それも神の定めだからです。私たちは救いに入れられる前に、まず砕かれる。怒りの器としての自分が粉々になることは悪いことではない。神様はそれによって新しく生まれ変わる道を用意しておられる。ですから、私たちは滅びの子としての自分を恐れずに見つめていきたい。「肉の思いに従うものは、神に敵対しており、神の律法に従いえないのです。」(ローマ8:7)こう書いてあることを、実感したい。ルターも人間の力では信じることも、こうして礼拝に来ることもできない、と断言している。
 私たちが、オリーブ山の民衆と同じようにイエス・キリストに失望し、イエス・キリストに躓くとき、私たちを苦しめている罪の重荷が落ちます。あの私の不注意で起きた怪我は象徴的なものに過ぎませんが、私たちが信仰に躓き、人生に躓き、自分の描いていたキリストに失望するとき、私たちは本当のイエス様に出会う。古い自我を手放すことになるからです。得ることではなく、手放すこと。ほめられる、のでなく、否定されることに。賞賛されることではなく、侮辱されることに。支持されるのではなく、捨てられることに。生きようとすることではなく、死ぬことに、命への道がある。それがまさにキリストの十字架なんです。この十字架により人の怒りと罪があらわにされると同時に、神の限りない赦し、深い愛も明らかにされた。そして怒りの器だった私たち、弟子たち、多くの民衆に、憐れみの器になる道が開かれているのです。
 教会の伝道の不信が叫ばれて久しい。現代の人間が求めているものを教会が与えられなくなっている。教会がユダヤ教の神殿のようになってしまっている可能性もある。オリーブ山の群衆のようであるかもしれない。せっかくイエス様が大切なことを教えても、全然頭に入らないで、多くのことを悩んでいるマルタのようかも知れない。しかし、イエス様はロバから降りて故郷のガリラヤに帰ろうとはしない。十字架に向う。ご自分の命さえ与えるために、十字架の道を進む。それほど私たち罪びとを愛し、裏切られても、裏切られても、決して裏切らない神の福音を示すために。そして、人生の失望と苦難の後、私たちも喜んでイエス・キリストの埃っぽい道を、キリストに従って歩き、神の和解の憐れみの器とされたことをこの世に証することになる。そう定められているんです。最後に、ペトロの手紙一2:20をもう一度読みます。「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。キリストもあなた方のために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。」アーメン
2006/04/09(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「わたしを遣わされた方を信ぜよ」(ヨハネ12:36b~50)
ヨハネ12:36b―50、四旬節第5主日(紫)
エレミヤ書31:31-34、エフェソの信徒への手紙3:14~21

ヨハネによる福音書12:36b~50

 イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。
 「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。
主の御腕は、だれに示されましたか。」
彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。
 「神は彼らの目を見えなくし、
  その心をかたくなにされた。
  こうして、彼らは目で見ることなく、
  心で悟らず、立ち帰らない。
  わたしは彼らをいやさない。」
 イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。

 イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて
わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」


説教「わたしをつかわされた方を信ぜよ」(ヨハネ12:36b~50)

本日の福音は、前半12:36bから43までと後半12:44から50節までに分けられます。ここの個所が、なぜ受難節に読まれるのか、どうして主の十字架への道行きをおぼえるこの時期に、ふさわしいのか、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 どうも、本日の個所が一読して分かりにくいのは、前半と後半では、後半においては、ヨハネ福音書記者の著作のうえに、さらに後の編集者たちの手が加わっているからかもしれません。
 
さて、前半では、主は光の中を歩き、闇に追いつかれないようにと言うような言葉を残した後、彼らすなわちユダヤ人の前からお隠れになったというところから入っています。
 そして、主は多くのしるしをなさったが彼らは信じないでいたのであります。それは、預言者イザヤのことばが実現するためであります。主よだれがわたしたちの知らせ、説教を信じましたか。また、主のみ腕は誰に明らかにされましたかというイザヤ書の言葉が引用されています。
 
そしてそれは、彼らの目が見えなくされるためであり、彼らの心で理解することがなく、彼らが立ち返らず、私、すなわち主イエスは彼らを癒さないであろうとふうに、引用されています。これらのイザヤの預言は、イエスについて、その栄光について語っていたものであるといいます。しかし、とはいえ、議員たちの中にも、ニコデモやアリマタヤのヨセフにように、主を信じる者は多かったが、彼らは神の栄光よりも人からの栄光を愛したので信仰告白するには至らなかったのであるといいます。

それは、ヨハネ福音書の書かれた時代を背景にいわれており、イエスの時代のみならず、ヨハネ記者の時代にも、ユダヤ人たちからの会堂での宗教的な交わりを拒まれることを恐れるキリスト教の信者が多かったのであります。わたしたちの現代の状況はいかかでしょうか。今も、形こそ違うにしろ、主イエスを主、唯一のメシアと告白するのは勇気がいることであります。

 さて、そういうなかで、後半では、主イエスの語ったとされる言葉が要約されています。主は、ご自分は、ご自分を遣わされた方から聞くままに語っているといわれ、自分を遣わされた方、父に従って、語るのであり、わたしを信じる者は、わたしを遣わされた方を信じ、またわたしを見る者、すなわち、信仰の目で見る者は、わたしを遣わされた方を見ているのであるといわれます。亀井勝一郎氏は、そのような言葉で表現なさる主イエス、耶蘇をなんと謙虚な言い方をするものであろうか、こういう繊細な精神の持ち主がどうして生まれたのであろうかと評しています。

 さて、主はそのご自分をお遣わしになった父の命令は永遠の命であると、結んでいます。それは、未来にわたっての死後の神的命であるにとどまらず、今ここで私たちが楽しむことができる命、真の本来の自己自身であります。わたしのことばは、父の命じたままに主張しているものであり、それを受け入れない者、拒む者、是認しない者をわたしは裁かない。わたしは、光として父のもとからきて、あなたたちが闇、心の闇や、精神的な死にとどまることがないように、来たものだといわれます。そして、さばくものは別にあり、わたしの語った言葉が終りの日に、すなわち、再臨の時にその者を裁くであろうといわれます。 わたしたちは、命の言葉を、主イエスの言葉を通して与えられています。世には多くの人間の知恵があり、すぐれた人物も沢山おり、活躍していますが、わたしたちを死と闇から解き放つのは、主イエスの言葉であり、主イエスご自身だけでであることを、主イエスは権威をもって、本日の福音は語っています。
祈りましょう。
父なる神さま。わたしたちをあなたの子として受け入れ、わたしたちが罪の闇と死の中から、新しい命、朽ちることのないみ言葉を与えて、これからも守ってください。キリストによって祈ります。アーメン。




2006/04/02(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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