津田沼教会 牧師のメッセージ
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「独り子をも与えたもう神」(ヨハネ2:13~22)
ヨハネ3:13-21、2006・03・26、四旬節第4主日(紫)
民数記21:4-9、エフェソの信徒への手紙2:4-10

ヨハネによる福音書3:13~21

 「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
 神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」


説教「独り子をも与えたもう神」(ヨハネ3:13~21)
四旬節第4主日を迎え、もう受難節も後半に入ってきました。本日与えられている福音は、先ほどお読みしましたように、ヨハネ福音書3:13-21までであります。私たちは、このところ数回にわたって、ヨハネ福音書の中から、福音の記事を与えられています。本日の個所は、いわゆるニコデモとの対話の中から発展したものであります。

本日は、特に前半の3:13から16節までを中心にして、なぜ、この時期にここの個所がふさわしいのかを、ご一緒にしばらく考えてみたいと思います。ニコデモは、新しく生まれ変わらねば、神の国に入ることはできないという主のお言葉を聞いて、年取った者が、どうやって、母の胎にはいって生まれ直すことができましょうか、と主イエスと対話をしていくます。

さて、本日の主イエスの言葉は、そこから発展して、このヨハネ福音書記者の属していた教会の信仰告白ともいえるような内容に進んでいくのであります。それは、主イエスの口を借りて、紀元1世紀末に書かれたヨハネ福音書の教会員の信仰告白ともいえるものとなっているのであります。

ところで、私たちには、旧約聖書が新約聖書とともになくてはならないものとして、新旧の聖書77巻与えられています。キリスト教は、この二つの、旧い約束と新しい約束からなっています。特に旧約聖書は、分厚く、分かりにくく、わたしたちの中にも、旧約聖書は入らないのではないかと考えるキリスト者もいることでしょう。必ずしも旧約聖書の全体が来るべきメシアを預言し、約束しているとは思われないような部分もかなりあるように一見思われます。

しかし、そうではないのです。旧約聖書を、キリストの到来を預言しているものとして読むことが、わたしたち、キリスト者の必要な読み方であります。そして、そのことをパウロの書簡や新約聖書のすべてが、指し示していることを注意しなければなりません。本日の福音の個所はそのことを示しているよい例であります。

今日の個所は、こう始まります。そして、天から降ってきた者、人の子以外に天に上った者はいない。そして、モーセが蛇をあげたように、人の子もあげられることになっている。これは、主イエスが十字架上にあげられねばならないことを示したものであり、ヨハネ福音書の教会の信者たちが主イエスの口を借りて、信仰を告白したものともいえましょう。

本来は、十字架上での主イエスの死は、わたしたちの罪からの身代金として、どこまでも低くなってくださったものと考えられたでありましょう。しかし、紀元後100年のころのヨハネ福音書の書かれた教会においては、主の十字架は苦しみ、受難、へりくだりであるにとどまらず、十字架そのものが神にとっての栄光であり、また、死の後、そこからさらに、三日後に死からよみがえり、ついには父の右に座す高くあげられることになるのであります。

神は、わたしたちこの世界に住む人間が神からはなれ、罪にそれてしまったのをそのままにしておくことができず、わたしたちの死と闇と滅びから救い出すために、その独り子を与えるほどに、この世を愛されたのであります。そして、わたしたちのために息子、その独り息子を敵の手に引渡し、裏切らせることを通して死につけ、十字架上にあげられて、復活させ父のもと、すなわちみ子がもといた場所、父の懐のもとに帰還させられるのであります。

そして、わたしたちは、み子、独り子を信じて、彼において永遠の命をえるか、滅びと罪の暗闇にとどまるか、二つに一つの道を選ぶしかないことを迫るのであります。イザヤ書53章などの主のしもべの預言は主の十字架と復活によって、命に生かされるよう、主イエスにおいて起こった出来事を通して実現したのであります。神の独り子が私たちに与えられたのであります。「与える」という言葉は、敵どもの手に引き渡される、あるいは、ユダを通して裏切られるという言葉と関連しているのであります。この時期、悔い改めの毎日を、今一度ここから始めたいと思います。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

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2006/03/26(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「イエスこそ神と民を結ぶ神殿」(ヨハネ2:13~22)
ヨハネ2:13-22、2006・03・19、四旬節第3主日
出エジプト20:1-17、ローマの信徒への手紙10:14-21

ヨハネによる福音書2:13~22

 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへと上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。


説教「イエスこそ神と民を結ぶ神殿」(ヨハネ2:13~22)
本日、私たちは、四旬節の第3主日で、3月も19日を迎え、3月1日の灰の水曜日から、4月16日(日)の復活祭を祝うまでの46日間の半分くらいを受難節として、過ごしているのであります。今は主の十字架の苦しみを思い起こしながら、つつましく、歩むべき季節であります。
 
さて、本日与えられています福音書の個所は、ヨハネ福音書の2章13から22節までであります。この宮清めの出来事とそこで取り交わされました主イエスのお言葉とユダヤ人たちの反応、そして、弟子たちの思い、また、主のご復活の後になって本日の出来事を思い出し、主イエスのお言葉と聖書すなわち旧約聖書を信じるにいたった経過が記されています。 

この個所が、四旬節・受難節のこの時期にどうして、ふさわしいのか、また、本日この個所が与えられている意味について、しばらく、ご一緒に考えてみたいと思います。 これは、がリラヤのカナの婚宴での主の初めてのなされたしるしに対して、今度はエルサレムに上って、そこで起こった大事な出来事であります。

他の3つの共観福音書では、エルサレム入城に続いて、受難週に起こった出来事として、終わりのほうに記されています。しかし、ヨハネ福音書記者は、この出来事は公活動の初めのころに起こったこととして、設定しています。 どちらが史実であったのでしょうか。それはよく分かりません。

しかし、ヨハネの記事が正しかったのかもしれません。少なくとも、ヨハネは、この最初の時期に本日の出来事を記すのが、ふさわしいことだと考えたことはたしかであります。他の福音書も、主イエスの受難と死の引き金になった重要な出来事として、すべての福音書記者は、この出来事に触れています。 

さて、主は過越祭が近づいたので、エルサレムへと上っていかれます。弟子たちも同行したことが後のほうの記事から分かります。主は、牛や羊や鳩を売る者たちや、両替人がいすに腰掛けているのを御覧になります。そして、縄で鞭を作り、羊や牛やその売主たちを追い出されます。そして、両替人の机をひっくり返し、鳩を売っている者たちに言われます。「私の父の家を、商売の家にしてはならない」と。

そのとき、弟子たちは、「あなたの家へお熱意が私を飲みつくす・滅ぼすであろう」という詩編の言葉を思い起こしていました。それほど、主イエスの神殿に対する思いは大きかったのであります。それに対して敵対者として出てくる「ユダヤ人たち」は、神殿守衛長のような者たちもいたでしょうか、応じて言います。「そんなことをするからには、どんなしるしをあなたは見せるのか」と。

主は言われます。「この神殿を倒してみよ、私は、三日においてそれを起こす・建て直すであろう」と。彼らはいいます。「これは、46年もかかって建てられたのに、あなたは三日で建てるというのか」と。主は、ご自分のからだという神殿のことを言っておられたのでした。

弟子たちは、主が起き上がらせられ・ご復活なさった後に、そのことが分かり、聖書、彼らにとってそれは旧約聖書でしたが、それと主が言われた言葉を信じるに至ったのであります。旧約聖書では、特に主イエスのこの時代には、新しい滅ぶことのない神殿が終わりの日、終末のときに、メシアによってエルサレムに再建されると信じられていました。

主イエスは、ご自分が殺され、ご復活させられて、牛や羊の犠牲によるのではない、真の神殿、ご自分のからだを通しての礼拝が行われるようになることを、ご自分の命を代価として約束されたのであります。この後、サマリアの女に言われたように、霊とまこととをもって真の礼拝が主イエスを通して行われるようになることが本日の出来事を通して示されたのであります。

そして、事実、教会が誕生し、エルサレムでも、スカルでもない場所で、世界中至るところで、主イエスを通して神と民が結ばれる礼拝が今も守られることになったのであります。そして、礼拝とは、私たちが身を清めて、生活を正してそれから集うというのではなく、神さまが、主イエスを通して、私たちに仕えてくださり、まず、神の側からサービスしてくださることを意味するものであります。そのようにして、私たちの罪が赦され、主イエスの十字架と復活を通して、贖われた後に初めて、本日の日課の旧約聖書出エジプト記にありました、十戒の教えも行うことができるようになるのであります。

祈ります。
天の父なる神様。この受難節、ご自分の命をささげて、私たちに十字架と復活を通してのまことの礼拝ができるように、主は、神殿を清められ、約束を与えてくださいました。私たちが聖書を通して、一人でも多くの方に、旧約史書で約束されていたこの世界の真の救い主、メシアは主イエスであることを伝えることができますように助けてください。キリストによって祈ります。



2006/03/19(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主の道に従い、仕える者に」(まるこ10:32~45)
マルコ10:32-45、2006・03・12、四旬節第2主日
創世記28:10-22、ローマの信徒への手紙4:13-17a

マルコによる福音書10:32-45

 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身起ころうとしていることを話し始められた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」


説教「主の道に従い、仕える者に」(マルコ10:32~45)

四旬節に入り、先週は「荒れ野のキリスト」の個所(マルコ1:12-13)が読まれました。今年は4月16日に迎える復活祭まで、受難主日、枝の主日を含めて6回の主日があります。それらの日曜日に、なぜ、それぞれその個所が与えられているのかは、一目瞭然ではない場合もあります。たとえば、来週の福音書の個所は、ヨハネ福音書の2章の神殿の清めとそこで主イエスが語った言葉が選ばれています。それがなぜ、受難節にふさわしいのかは、すぐにはわかりません。

 本日のマルコ福音書10:32-45の個所はどうでしょうか。それは、この時期にふさわしいということが、皆さんもすぐにお分かりになるのではないかと思います。なぜならば、今日の福音の個所は、主イエスご自身の受難と死、苦しみと十字架に向かっての主イエスのお言葉と出来事から成っているからであります。
 
本日の部分は、三回目の受難予告の部分と、それに続くゼベダイの子らが要求する出来事、そしてそれに対して主イエスが語られたお言葉の三つの部分に分けられます。
 
まず、最初の部分では、主イエスは、エルサレムへと弟子たちの先を歩んでいきつつありました。そして彼らは驚かされ、従う者たちは、恐れていたと記されています。そして、主は12人を再び自分のところに連れてきて言われるのであります。見よ、私たちは、エルサレムへと上っている。そして人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは彼に死刑を宣告し、異邦人たちに引き渡す。異邦人たちは、彼をあざけり、唾をはきかけ、鞭打ち、殺すであろう。そして三日後に彼は起き上がるであろう、と。

 ここでは非常に起こるべき出来事が細かく、見て取るように、人の子の苦しみと死の情景について述べられています。主は、私たちは、一緒にエルサレムへと上っていくと言われます。それは、主の受難と苦しみと、さらには、死までが、主イエスに従う私たち弟子の歩むことになる道であることを教えています。

私たちは、信仰を得れば、平穏無事な生活を送れるものだと普通考えますが、実際は、私たちもまた、主のように多くの苦しみと困難な生活が待ち受けているのであります。ただし、本日の創世記の中で、ヤコブが悟ったように、私たちの日常生活の中に、主なる神は私たちが気がつかなくても、いつも共にいてくださるのであります。
 
さて、そのような受難予告の直後に、ここに来てもまだ、主の歩んでおられる道が理解できないヤコブとヨハネが、主のところに来て、言うのであります。先生、私たちは願うことがあります。それをあなたが私たちにしてくださいますように。主は言われます。あなたがたは何を私にして欲しいのか。彼らは言います。あなたの栄光において、あなたの右と左とに座らせてくださるように、と。

主は言われます。あなたがたは自分たちが何を要求しているか分かっていない。あなたがたは私が飲まねばならない杯を飲むことができるか、また、私が受けねばならない洗礼を受けることができるか。彼らはできますと答えます。主は、あなたがたはそのようになるであろう、しかし、私の右、左に座ることは、私が与えることではなく、それが準備されているその者たちに、与えられるのだ、と。イエスが飲む杯、受けるべき洗礼とは、十字架に至る苦難と受難のことでありました。メシアの再臨のときに、だれが、その右、左にいて、共に食事をできるかは、主もご存じないのであり、父なる神がそれをお与えになると、言われるのであります。

 そして、更に言われます。異邦人の間では、支配者とみなされている者たちが、支配し、偉い者たちが彼らに圧制をしいている。しかし、あなたがたのあいだではそうではない、あなたがたのなかで偉くなりたい者は、あなたがたへの奉仕者・ディアコノスになるであろうし、あなた方の中でいちばんになりたい者はすべての者の奴隷となるであろう。そして、なぜならば、人の子も仕えられるために来たのではなく、仕えるためであり、多くの人のための身代金として自分の命を与えるために来たのだからであると、主は結ばれたのであります。理想論ではなく、事実、弟子たちの間においてはそうなのだと言われます。

 私たちは、夫婦においても、また、職場においても、どこにおいても相手から仕えられるのを好みます。奉仕すること、ディアコニアは、私たちの本性は嫌うのであります。けれども、主イエスは、私たちすべての者を罪の奴隷であったところから、身代金として、罪から買い取るあがないとして、そのためにおいでになられたのであります。

私たちが何か功績をあげたから、救われたのではありません。エサウのもとから逃れたヤコブが、自分と共にいてくださる主なる神に気づかされたように、私たちもこの方を理解し、信じることによって初めて罪から解き放たれるのであります。そして、救われたからには、人々にもそれを指し示すためにも、主が歩まれたのと同じような苦しみと困難な道を、喜んで歩み、従い、すべての人々に仕える者となるように、招かれているのであります。この四旬節の時期、心を静かに澄ませて、真に平安な、本日主によって示された道に従っていきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。
2006/03/12(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「荒れ野のキリスト」(マルコ1:12~13)
マルコ1:12-13、2006・03・05、四旬節第1主日
創世記9:8-17、ペトロの手紙一3:18-22

マルコ福音書1:12~13

 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。


説教「荒れ野のキリスト」(マルコ1:12~13)

 私たちは、三月一日の灰の水曜日から、四旬節、受難節、レントとも言いますが、紫の色で現す時期を迎えました。そして、それは春分の日、三月二十一日の春分の日から、満月を迎えての次の日曜日、今年でいえば四月十六日の日曜日の復活祭の前日まで、日曜日を含まない四十日間を荒れ野のキリストを覚え、古来断食や懺悔をして過ごす時として守られてきました。
 
本日与えられています聖書、福音書の個所は、マルコ1章12節と13節であります。それは、簡略で粗野なそっけない文章で書かれています。新共同訳聖書は、日本語として通用するようにできるだけ美しく訳されていますが、原文に沿って忠実に訳しますならば、次のようになります。「そして直ちに、“霊”は、彼を荒れ野へと追い払う。そして、彼は荒れ野において40日をサタンによって試みられておられた。そして、彼は野獣とともにおられた、そして、天使たちが彼に仕えていた。」
 
他の共観福音書、マタイ、ルカには、主の誕生物語が出てきますが、マルコにはそれはありません。人間的な事柄には、マルコは、関心が薄く、「神の子」イエスが、大事なのであります。ですから、マルコ福音書の最初は、「神の子イエス・キリストの福音の始まり」となっています。

そして、荒れ野での洗礼者ヨハネの悔い改めの説教があり、本日のすぐ前の出来事は、主イエスの洗礼の時の出来事であります。水から主が上がられたとき、天が裂け、鳩のような形をした”霊“がくだり、天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が主イエスには聞かれたのであります。神によって、「あなたをわたしは気に入っている」と宣言されたその直後に、本日の40日の誘惑の出来事が続くのであります。わたしたちも、絶頂のときと思えるときが、実はもっとも危うい時であります。逆に、もう駄目だと思われるようなときが、かえって、そんな時こそがチャンスの時でもあることを覚えたいと思います。
 
さて、主イエスは、その同じ神の霊によって、荒れ野へと追い出されます。これは、主イエスが悪霊を追い出しになるときに使われている言葉であります。それは、エリコの辺りであったという言い伝えもありますが、荒れ野とは、出エジプトの民が40年間旅をしたときの大部分の場所でもありました。出エジプトの民は、神から離れ、罪を犯し、モーセも含めて、約束の地イスラエルに帰ることはできなかったのであります。荒れ野は、悪霊の出没するところ、死の場所と考えられていました。そして、野獣が住む場所であり、遊牧民族として過ごしていたイスラエルの民にとって、過酷な、恐ろしい場所でありました。

 主イエスは、そのような荒れ野に、神の霊によって追いやられ、サタンによって誘惑を40日間にわたって受けておられたのであります。マルコは、マタイやルカのようにその誘惑の中身についてはいちいち具体的な例を挙げていません。それは、わたしたちが受ける誘惑のあらゆるものを含んでいるからではないでしょうか。出エジプトの民は、モーセに逆らい、神から離れ、ヨシュアなどの例外を除いて、その世代は荒れ野に屍をさらさねばなりませんでした。

 しかし、主イエスは、神の子として、あらゆる誘惑に打ち勝ち、その試練に打ち勝つことができたのであります。誘惑というと、それに負けてしまうというニュアンスがあり、試練と訳すと、それはどんな困難にも耐えて、神につながり続けたという意味合いになります。

そして彼は、野獣とともにおられました。これは、マルコ福音書にしか出てこないものであります。野獣が、主イエスに危害を加えず、神がもたらされる平和が支配していたのであります。そして、それは、アダムが楽園から追放される前に、野のあらゆる獣たちをまかされていた、そういうアダムの堕罪前の平和な状態が回復されたことを意味しているかもしれません。 終末のときに、羊と獅子が草を食むと預言されているイザヤ書や、また、天使たちが神により頼む人を支え、守ってくれるとの旧約の約束が(詩編91:11,12)、主イエスにおいて実現したことを、野獣が共にいたことや、天使たちが主イエスに、40日の間、仕えていたという、そっけない記事は私たちに教えてくれるのであります。
 
主イエスが、サタンと戦って勝利した荒れ野とは、私たちにとって何でありましょうか。それは、私たちの現代の生活そのものではないでしょうか。私たちの生活は、苦悶・苦悩と疑いに満ちています。孤独が頭をもたげ、物質こそ豊かにあふれていますが、私たちは何を信じ信頼していけばよいのか、だれもが迷っています。
 
しかし、そのような現代の荒れ野の中に、主キリストは、既に勝利して、私たちを導いていてくださるのであります。私たち、教会につながる者もそれぞれが言い尽くせない重荷と、それぞれの十字架を負っていることでしょう。しかし、私たちの抱えている荒れ野においても、主は私たちのために、サタンの誘惑を打ち破り、困難な試練を乗り越える力を、本日の出来事を通して、与えてくださるのであります。
 それぞれに与えられた生活の中の持ち場、持ち場で、私たちは、この四旬節を克己と懺悔の心を持ちながら、また、復活の主を待ち望みつつ、40日間を過ごしたいと思います。

祈ります。
 天の父なる神さま。私たちは、罪深く、一人では到底、誘惑や試練に打ち勝つことはできません。しかし、私たちの「荒れ野」の中に、あなたが、み子において既においでくださり、あらゆる罪に勝利してくださいました。神さま、そして、イエスさま、あなたがたが聖霊を通して、私たちの生活を支え、導いてください。キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
 人知ではとうていはかり知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。                               
 





2006/03/05(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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