津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主はどんな救い主?」(マルコ9:2~9)
マルコ9:2-9、変容主日(顕現節最終)(白)2006年2月26日(日)
列王記下2:1-12a、コリントの信徒への手紙二3:12-18

マルコによる福音書9:2~9

六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕にも及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現われて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばいいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現われて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけないと」弟子たちに命じられた。


説教「主はどんな救い主?」(マルコ9:2~9)
 
キリスト教は、啓示の宗教だといわれます。啓示とは、難しい言葉ですが、この地上の世界、私たちが人間として考える宗教とは断絶した、それを超える宗教ということではないかと思います。私たちの世界、特に日本の社会においては、30年くらいを期間にして、新興宗教というようなものが、繰り返し生まれています。

私たちは、しかし、本日の記事において、新約聖書、そして、旧約聖書が、何を証しし、それが、誰を指差しているかを、確かにここに知ることができるのではないでしょうか。 本日の個所マルコ9:2-9は、「主の山上での変容、変貌」といわれるものであります。本日は顕現節の最終主日にもあたっています。主のご正体が、明らかにされるという出来事でもあります。 

まず、「6日後に」と出てきます。これは、フィリポ・カイザリアでのペトロの信仰告白、すなわち「あなたは、メシアです」、キリスト救い主ですという告白をしてから6日後と考えられます。マルコは、受難の記事以外では、このように明確な時間、期間を記すことは稀であります。これがいかにも、実際に起こった出来事であることを示しているように思われます。

フィリポ・カイザリアの出来事から6日の後に、彼らはさらに北上し、マルコでは、高い山とありますからヘルモン山に登ったのかもしれません。それは2000メートルを越える山であります。そして、12弟子の中核の3人の弟子、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて上り、彼らの前で形が変えられるのであります。

そして、彼の衣服は、輝いて光っており、どんなさらし職人もそうまではできないほどに真っ白になるのであります。そして、エリヤがモーセとともに現れます。
 
本日の出来事を、特にペトロが幻視をみたのだとか、幻聴が聞こえたのだとか、考えた人もいます。またあるいは、復活後の主イエスの顕現を、生前にさかのぼらせて、ここに、記したのだと考える人もいます。しかし、復活物語に、エリヤやモーセはなじまないのです。終末のときの主イエスの再臨を語っているのだと考える人もいます。確かに、エリヤは、終りの時に主に先立って現れると考えられていました。

しかし、エリヤとモーセがここに現れるのは、預言者と律法の付与者を示し、旧約聖書を代表している二人が彼らが現れたのであります。旧約聖書が約束していた来たるべきメシアがイエスであることを、本日の出来事は示しているのであります。

ペトロは、それをみて、「私たちは、仮小屋を作りましょう,主イエスあなたと、モーセとエリヤに一つずつ」と。彼は何をいっているのか分からず、というのも彼らは恐れていたからだといいます。ペトロは自分たちの得ているこの独自な体験、喜ばしい経験を少しでも長く味わいたいと思っていたのであります。

しかし、この出来事は、ルカの並行箇所に書かれているように、主イエスの十字架での死に向かっての相談を彼らはしていたのであります。しかし、ペトロにはそういうことは、とても理解できることではありませんでした。主は、本日の出来事に先立ってペトロを戒めたように、私たちのために苦しみ、死んでくださるメシアであるのです。

さて、そして、雲がおこり、彼らを覆います。それは神の臨在を示すものです。そして雲の中から「これは私の愛する子、これに聞け」との神の声が鳴り響いたのであります。私たち、キリストを信じるものとされた者、そして洗礼を受けたわたしたちは、他の人間のさまざまな考え方やや事柄によって導かれてはならず、生涯をキリストの教えのみに聞いて進まねばなりません。

多くの誘惑や困難に出会って、救い主イエスを見失いそうになることもありますが、この方にのみ絶えず帰らねばならないことを、本日の記事は、上から、神の側からの啓示として示しているのです。そして彼らは急いであたりを見回しましたが、イエス以外に彼らとともに誰ももはや見えませんでした。主は降りる時、人の子が復活するまでこのことをだれにも話してはいけないと命じられます。

私たちの救い主は、十字架につけられ、復活なさることを、はっきりと3人の弟子たちに前もって示しておかれたのであります。そのことが実現するまでは、主イエスがどんな救い主であるかは秘められたままであります。私たちは、この救い主に、生涯を通して、従っていき、本日の祈りにありましたように、神の子としていただいた喜びに、日々を生きるものとならせていただきましょう。

天の父なる神さま。
キリストを私たちの周りの人々に、真の唯一の救い主として宣べ伝えるのは、至難の業です。どうか、聖書を通して、礼拝を通して、世の中にこの救いを証ししていける上よりの知恵と忍耐とをお与えください。キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

 
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2006/02/26(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「信仰の決断」(マルコ2:13~17)
マルコ2:13-17、2006・02・19、顕現節第7主日
イザヤ書44:21-22、コリントの信徒への手紙二1:18-22

マルコによる福音書2:13~17

イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」


説教「信仰の決断」(マルコ2:13~17)
 
マルコの福音書の出だしのところの記事を、顕現節のこの時期、読み進んでいます。本日の記事は、マルコ2:13-17ですが、これは、2章13、14節の徴税人レビの召し出し、すなわち召命と2章15節から17節までの、徴税人や罪人たちとの食事を通しての交わりに関する出来事とそこでの論争物語といいますか、主のお言葉からなっています。
 
まず、本日の最初の記事は、アルファイの子レビが弟子として主によって招かれるという出来事であります。先週の、中風の人が罪を赦されて、体も癒されて新しい人生へと喜びつつ寝台を担いで帰っていったという記事につづいての出来事となっています。

あるいは、この前半の召命物語と、後半の徴税人たちや罪人たちや弟子たちとの主イエスの会食の出来事は、別々の伝承であったのを、ここにマルコが一つにまとめたのかもしれません。

 本日の部分の書き出しは、こうです。「イエスは出て行かれて、湖のほとりに行かれた。そして、大勢の者たちがやって来ていた、そして、彼は教えておられた」というのであります。そして、彼はそこから戻って通りがかりに、収税所で座っているアルファイの子、レビに目を留めます。そして、「私に従ってきなさい」と主がいわれると、彼は、立ち上がって、主に従ったのであります。

これは、先に読みました1:16~20のシモン・ペトロたち4人を弟子として召された記事を思い起こさせます。いずれもマルコ福音書によれば、非常に唐突な招きであります。実際には、レビは、ガリラヤの海辺で語る主イエスの教えを聞きにいったこともあったか、あるいは、人を介して主の教えや働きを伝え聞いていたかもしれません。

けれども、ここでも、主イエスの弟子となるということは、その人の過去や能力などの条件を問わないことが示されています。ここに集っている私たちの多くも、洗礼を受けたのは、自分の決断によってであると考えることもありましょうけれども、実はその前に、主が招いていてくださったのであります。

問題は、「私に従いなさい」と主イエスによって呼ばれたときに、従順に従うかどうかであります。そしてそれは、生涯続く主の招きであり、悔い改めの毎日を要求されているのであります。

アルファイの子レビは、並行個所のマタイ福音書では、マタイという人となっていて、この二つの名前が同じ人をさしていたのかどうかはわかりません。12使徒を見ても、そこにアルファイの子レビはなく、「アルファイの子ヤコブ」しか出てきません。しかしマルコ福音書の読まれた教会では、ここの書き方だけで十分分かる人物だったのでありましょう。
 
さて、後段の記事に入ります。それはこう始まっています。「彼の家で、食事のために横になるということが起こった。そして、徴税人たちや罪人たちがイエスや彼の弟子たちとともに横になっていた。なぜなら、大勢の人たちがおり、彼らは彼に従っていたからである。そして、彼が、彼らと食事をしているのを見て、ファリサイ派の律法学者たちは、彼の弟子たちにいいます。「彼はなぜ、罪人たちや、徴税人たちと食事をともにしているのか」と。

これは、レビの家でのことであると、わたしたちの新共同訳聖書ではなっていますが、イエスの家とも取れなくはありません。そうだとすると、それは、終末のときのメシアの祝宴をあらわし、主イエスご自身がわたしたちにもてなしの食事をしてくださっていることになります。
 
徴税人レビは、ヘロデ・アンティパスの領域のカファルナウムで関税、通行税のような税を取り立て、時には余分な不正な利得を得ていたことでしょう。そして、徴税人は異邦人と交わることも多かったので、特に、ファリサイ派からは軽蔑されていました。ファリサイ派の律法学者たちは、律法の細かなところまでも守り、それができない徴税人や罪人たち、あるいは、異邦人を忌み嫌っていました。
 
この食事の出来事を伝え聞いたのでしょうか、彼らは、「弟子たち」に言います。この出来事は、初代の異邦人キリスト者たちを大いに励ましたことでしょう。異邦人も罪人として、救われない者と当時のユダヤ人たちは考えていました。彼らは見捨てられたもの、部外者と考えられていたのであります。道徳的に正しくないものも、罪人と考えられましたが、同じように異邦人も同様だと考えられていたのであります。

 唐突にここで、弟子たちが現れますが、彼らは、主イエスのいわれたこと、なされたことを主なき後も、そのまま引き継いだのであります。マルコの弟子像は、理解の遅い、鈍い弟子たちですが、彼らは少しずつ主の教えを理解し、自分たちが何かを新しく発明したりしたのではなく、主の教えられたとおりに、引継ぎ、宣教していったことをここの文は示しているのであります。
 
 主はそれを聞いていわれます。「丈夫な人に医者は要らない、病人にいうのである。私が来たのは、正しい者たちをよびにではなく、罪人たちを呼びに来たのである」と。
 主は、罪人たちや、異邦人たち、あるいは徴税人たち、部外者をお避けになるような方ではなく、彼らを招いて悔改めさせるために、来られた方であります。

私たちも、主によって、新しい生涯へと招かれているのであり、主と同じように、周囲の落ちぶれている人、部外者のように思われる人を避けるのでなく、主へと招くものにされたいものであります。私たちは、無償で罪赦されたのでありますから、何も報いを求めずに、ルターの表現を用いるなら、ひたすら、隣人に奉仕する「小さなキリスト」にさせていただきたいものであります。祈ります。

天の父なる神さま。
 なかなか、周りの人々に証しすることのできない弱い私たちであります。しかし、私たちも、本日のレビと同じように、み子の側から招かれた者であります。周りの方々のひとりでも多くの人を、あなたにある教会へと招く者とならせてください。多くの罪を赦された私たちでありますから、それに答えて多く愛する者にならせてください。キリストによって、祈ります。アーメン。                 





2006/02/19(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「愛の共同体としての教会」(マルコ2:1~12)
マルコ2:1-12、2006・02・12、顕現節第6主日
ミカ書7:14~20、コリントの信徒への手紙一9:24-27

マルコによる福音書2:1~12

 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。


説教「愛の共同体としての教会」(マルコ2:1~12)内海望牧師

美しい物語です。寝たきりの生活を送っていた病人が、イエスさまの力によって癒され、「床を担いで家に帰って行った」のです。ベッドに縛りつけられた人生から自由になり、再び起き上がり、新しい人生を始めたという再生・復活の物語です。中風の人が、友人に担がれてイエスさまの所に連れて来られた時と、癒され、今まで自分を縛りつけていた床を担いで家路に向かう時の足取りの軽さ、彼の喜びが私たちにも伝わってきます。

ところで、この物語の中で重要な役割を担うのは四人の友人です。イエスさまは、「この四人の友人たちの信仰を見て」、病人に罪の赦しと癒しを与えて下さったのです。「彼の信仰を見て」とは書かれていません。ここで何が示されているのでしょうか?

イエスさまは、「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」(マタイ18:20)とおっしゃいました。イエスさまは交わりの中にいらっしゃるのです。そもそも人間は、孤独の中にではなく、「交わり」の中に生きる時、初めて人間になるのです。天地創造の時、神さまは「人が独りでいるのは良くない」(創世記2章18節)とおっしゃってアダムとエバをお造りになったと書かれています。「便利だから」でなく「良くない」とおっしゃったことに注意してください。

私たちは、今朝も教会に集い、共に信仰の告白をします。「私は信じます」と告白しますが、共に告白することによって、それは「私たちは信じます」という告白になるのです。その時、イエスさまも「今、ここに共に」いて下さるのです。聖書には、「教会とはイエス・キリストが頭であり、私たちはキリストに結び付けられている体(肢体)である」と定義されています。これはルターが「足に怪我をした時、足だけが痛いのではなくからだ全体が痛いと感じるのだ」と適確に言い表したような交わりです。そして、まさにそこにイエスさまも共にいてくださるのです。

この中風という病に苦しんでいる人は、この教会の信仰と愛のうちにイエスさまの御許に召され、罪の赦しと、癒しを与えられたのです。同じように、この交わりに包まれて、幼児も、重い障害を負った方々も共にイエスさまの愛に生きるのです。

四人の友人たちは、この交わりのなかの一人が病に苦しんでいた時、それを「他人事」でなく、自分の痛みと感じました。だからこそ「屋根をはがす」という乱暴なことまでして、友人をイエスさまの御許に運んだのです。ここには愛と共に、イエスさまに対するゆるぎない信頼があるのです。この信仰の友の信仰と愛とを見て、イエスさまは罪の赦しと癒しを与えてくださったのです。最後の審判のおり、神さまは「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25章40節)とおっしゃいました。このような愛の共同体こそ教会なのです。「我らの信仰」=「教会の信仰」という言葉をしっかりと心に留めたいと思います。

もう一つ大切な点があります。それは、この中風で苦しんでいる人は「病気を癒される」よりも前に「罪の赦し」を宣言されたということです。何故でしょうか。奇跡を行うということは人々の喝采を浴びることでしょう。しかし、イエスさまは魔術師でなく「救い主」なのです。イエスさまは単に一つの病を治すということでなく、「苦しむ人」を根っこから癒してくださったのです。それが「罪の赦し」なのです。

「罪の赦し」は人間を「神さまとの交わり」に入れるということです。永遠の生命である神さまと私たちの間に橋を架けてくださったということです。
中風だけ癒されても、他の諸々の病気への心配は残ります。死への恐れは消えません。「死への恐れ」は神さまとの交わりを断絶することです。

あるいは思わぬ人生の落とし穴に落ち込み、欲望に引きずられ、神さまから離れてしまう時があるかも知れません。反対にすべてに絶望して神さまを見失うこともあります。
しかし、その時も、彼に「私が共にいて神さまとしっかり結びつける」とイエスさまはおっしゃるのです。そのためには、私たちのすべての重荷、恐れ、罪を背負って十字架にまで歩まれる方なのです。それが「罪の赦し」の意味です。

この「赦される」というみ言葉は「赦されている」という意味です。未来のことを予想しているのではありません。「今、ここで」罪は赦されるのです。

この病人は中風を癒されて本当に嬉しかったでしょう。しかし、彼にとって「イエスさまが今も、後も共にいてくださる」というみ言葉こそ何にも優る救いであり喜びであったのです。それが彼の足取りを本当に生き生きとさせているのです。これは一過性の癒しではなく、生涯続く喜びとなるのです。

この津田沼教会も、そのようにして造られた新しい共同体の一つです。イエスさまは、私たちに、「私は決してあなたがたを見捨てない」と約束してくださっているのです。この約束を信じ、互いに愛し合う群れが存在することこそ、イエスさまが今も働いているということの証しであり、これこそ世界の望みなのです。


2006/02/12(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「ガリラヤの春」(マルコ1:29~39)
マルコ1:29-39、2006・02・05、顕現節第5主日
ヨブ記7:1-7、コリントの信徒への手紙一9:16-23

マルコによる福音書1章29~39節

 すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。

 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。


説教「ガリラヤの春」(マルコ1:29~39)
 顕現節第5主日の本日の記事は、いわゆる「ガリラヤの春」とも呼ばれているイエスの宣教、神の国の福音の宣言の始まりにあたる部分であります。「ガリラヤ中に使信を伝える」と最初は題をつけていたのでありますが、「使信」ケリュソーという言葉はわかりにくいということで、「ガリラヤの春」としたのであります。
 
ここには、非常に印象に残る、ガリラヤ宣教の始まりが、記されています。私も一度だけ、海外旅行で、神学生のときに、「出エジプトの旅」ということで、エジプトからシナイ山、そしてガリラヤをへて、エルサレムに到達するという2週間の旅行を楽しんだことがあります。一緒に行かれたある牧師先生は、主イエスが吸われたのと同じ空気を吸えることが、聖地旅行のすばらしさだといわれていましたが、確かに「ガリラヤの春」は、3月末のことでありましたが、すばらしい景色と湖の美しさを見ることができ、イエスの吸われた空気を吸えて、一生忘れられない思い出となっています。
 
さて、本日の福音の記事は、非常に鮮やかで、印象に残るものであり、美しい記事であります。先週の個所である1:21~28を受けて、三段落くらいに分けられる記事であります。先週の個所で、主は最初に会堂で説教なさり、汚れた霊を追い出すという奇跡のわざをなされ、彼ら一行は、シモンとアンデレの家にすぐに向かうのであります。この記事はシモン、すなわち、ペトロの追憶が、その母体となっていると考えても、あながち、間違いではなかろうと思われます。あの最初の人々の前での、シナゴーグでの説教と汚れた霊、すなわち、悪霊を追い出すという力ある働き、奇跡をなさったあと、主は私たちと共に、なんと私の家に直行してくださったのです、というふうに、一人称で本日の最初の記事を読み替えて読むと、より生き生きと本日の個所の出来事をイメージできると思います。
 
さて、家に入ると、彼らはすぐに、シモンの姑のことについて、報告します。彼女は、熱を出して床に伏していたのであります。そして、主は、近づかれて、彼女の一方の手を取られて、彼女を起こすと、熱は出て行き、彼女は、彼らの世話をしたというのであります。それは、ディアコニゾーという言葉で、ディアコニアすなわち、もともとは食事の世話をする意味であります。しばしば、女の弟子たちは、主イエスへのそのような奉仕をすることを通して、弟子であることを示したのであります。
 
次にその日の夕方となり、日が沈むと、人々はすべての、あらゆる種類の病気であった人々や悪霊にとりつかれた者たちを運んできつつありました。安息日、土曜日のこと、安息日が終わったので、そうすることができたのであります。そして、その町全体がシモンの家の戸口に向かって群衆となって集まりつつありました。そして主は、様々な病気の者たちを大勢、また、悪霊に所有されたものたちの多くを、癒しておられたのであります。
 
しかし、2000年を隔てました私たちも、主イエスによって深い意味で、この人々と同じように、癒されなければならない一人一人であります。そしてそのことは、主のみ言葉を聞くことによって、確かなものとなるのであります。

とこえろで、ここでは、「主は悪霊たちにものをいうことを許されなかった、なぜならば、彼らは彼のことを知っていたからである」と書かれています。なぜ、主は、ご自分について何者であるか言わないように、沈黙命令をなさっているのでしょうか。それは、主イエスの力が神からの権威にもとづくものであり、主イエスの本当のメシアである意味は、主の十字架と死、わたしたちの罪のために、とことん低くなってくださることにおいて示されることを、知らしめるためではないでしょうか。主は、見栄えのする形で、あるいは見世物のように、病人たちを癒したり、悪霊を追い出したり、その他の奇跡を、なされるわけではないのであります。
 
さて、その翌朝、まだ、夜ともいえるころに、主イエスは起きだし、さびしいところへと出て行かれ、祈っておられました。すると、シモンやその仲間、おそらく四人が、気づいて、彼の後を追います。これは、敵意をもった言い方であり、獲物を追うといったときに用いる言葉です。そして、彼らは彼を見つけていいます。「みんながあなたを求めています」と。マルコに出てくる弟子たちの像は、主のなされていることが、なぜなのか理解できないでいる弟子像であります。これほど、成功を収めているのに、なぜ、人々のところを離れるのですか、といぶかるのです。

しかし、主は「他の方向にむかって、近くの市場町を回ろう、そこでもわたしは、宣教する、すなわち、説教する。そのために、私は出てきたのだから」と言われます。そして、ガリラヤ中を、彼らの会堂へと説教をしながら、また、悪霊を追い払いながら、彼はやっていかれた」と本日の記事は結ばれています。
 主の神から託された第1の使命は、よき知らせを伝える、すなわち、説教することであります。神の国がご自分において近づいたことを知らせることであります。もちろん、悪霊を追い出すことも必要な働きでありますが、第一の主の務めは、みことばを語ることであります。私たちも、長い人生の間にはいろいろな病気にあい、あるいは、悪霊によって、所有され、神から引き離される。何か悪い力によって悩まされるということが起こります。しかし、私たちは、主のよき知らせ、そして、み言葉によってこそ、真の意味ででいやされ、そして、周囲の人々にも、この喜びを伝えることが可能になるのであります。

祈ります。
私たちは、主のこの世界への顕現を、この時期、おぼえています。私たちは、多くの試みを受け、無残にも罪に陥ることがしばしばあります。しかし、私たちは、救い主がイエスであり、この方こそ、神の独り子であり、私たちを罪と死と闇とから解放してくださるお方であることを知って今す。この礼拝の場から、再び、この主に感謝し、応答して歩んでいく1週間を、私たちにお与えください。キリストのみ名によって祈ります。アーメン。










2006/02/05(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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