津田沼教会 牧師のメッセージ
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「新しい権威をもったお方」(マルコ1:21~28)
マルコ1:21-28、2006・01・29、顕現節第4主日
申命記18:15-20、コリントの信徒への手紙一8:1-13

マルコによる福音書1章21節~28節

 一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。
「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。


説教「新しい権威をもったお方」(マルコ1:21~28)
 
本日、顕現節の第4主日に与えられている福音は、マルコ1:21~28であります。神がみ子のかたちをとって、世に顕れたのを、わたしたちは、このところマルコのごく始まりの記事の中に見ようとしているのであります。

さて、本日は、津田沼教会においては総会礼拝でもあります。今日の個所は、先週の4人の弟子たちの召命に続く記事でありますが、マルコが、受け継いだ伝承をここにまとめているのかもしれません。といいますのも、先週の福音の記事は、安息日ではないことが、彼らが労働していたときのことであることからも窺えますし、本日の出だしの「彼らはカファルナウムへとやって来る」と言う文も、必ずしも、先週の4人の弟子たちと主イエスであるとは、明記されていないからです。

しかし、主イエスが、弟子たちを与えられて、最初に人々の前に現れ、おこなったことが何であったかを、本日の記事は明らかにしているのであります。
 さて、本日の記事の内容はこういうものであります。すなわち、一行は、カファルナウムにやってきます。そして、主イエスは安息日にシナゴーグに入って、教え始められたのであります。マルコの書くイエスは、教えられるイエスを頻繁に記しています。ここでは、何を教えておられたのかは書かれていません。しかし、イザヤ書にあるように、囚われていた人に解放を告げるといった言葉が、今やここに実現している、すなわち神の支配の時きたことを告げる、力溢れるものであったでしょう。
そして人々は彼の教えに驚いていた。権威ある者として教えておられたからであると記されているのであります。さて、するとすぐに、そこに、汚れた霊における人がいて、こう言って叫び声をあげるのであります。「ナザレのイエス、あなたと私たちとは何なのか。すなわち、私たち汚れた霊どもにかまわないでくれ。あなたが誰だかは私は知っている。神の聖者だ」と。

私たちと、悪霊がいっているのは、悪霊たちが、みんなで階級をなしていることを指しているのでありましょうか。とにかく、悪霊どもは、自分たちとは違った神の聖なるお方をすぐに見抜くのであります。一般の人々は主イエスがどういうお方であるかを、その生前十分に分からなかったのに、それと敵対する悪霊どもは、自分たちを滅ぼしに来たメシアであることを、その最初からキャッチしていたのであります。

しかし、主イエスは、それに対して叱っていわれます。「黙れ、そして彼から出て行け」と。すると、汚れた霊は、その人をひきつけさせて、大声を上げて出て行ったのであります。人々は、驚き、論じ合ってこういいます。「これは何なのだ。権威ある新しい教えだ。汚れた霊どもに命じると、彼らも彼に従うのだ」と。そして、この聞こえ、知らせは、ガリラヤのあらゆるところへと、出て行ったというのであります。

 現在、日本の社会も、また、世界中が、今から何を信頼していったらいいのか、混沌としています。どのように生きていけばいいのか迷っています。私たちの周りにも、お金ですべてが解決するといった風潮や、幼い子の命を奪うようなむごたらしい事件も起こっています。それは、いまだに、悪霊の支配と神の支配とが、戦いあっている。今も続けられていることを示しています。また、人々は何が救いなのか、誰が救い主なのか、迷いに迷っています。

しかし、わたしたちは、本日の記事を通して、聖所を通して約束されていたメシアが、主イエスであることを知り、また、信じています。申命記18:15以下でモーセのような預言者が現れると約束されていた方が確かに、主イエス以外の誰でもないことを私たちは知っています。

罪との戦いは私たちの生涯にわたって続くでしょう。しかし、主は、汚れた霊の支配を既にこのとき、打ち破られました。そして神の支配は、既に到来しているのであります。私たちは、日々、聖書に親しみながら、既に罪と死と闇に打ち克たれた主イエスの勝利を、家族やまわりの人々にも告げ広め、雄雄しく生きようではありませんか。アーメン。



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2006/01/29(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
『神の福音を宣べ伝え始める』(マルコ1:14~20)
マルコ1:14-20、2006・01・22、顕現節第3主日
エレミヤ16:14-21、コリントの信徒への手紙一7:29-31

マルコによる福音書1:14~20

 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。マタ、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。


説教「神の福音を宣べ伝え始める」(マルコ1:14~20)

顕現節とは、神の本質的なものが、主イエスを通して、わたしたちの前に顕れた出来事を思い起こすときではないかと思います。
本日は、マルコによる福音書1:14~20が、福音として与えられています。内容は1:14、15節と、1:16~20節に分けられる記事であります。
まず、前段は、主イエスが、洗礼者ヨハネの渡された後に、ガリラヤへと帰られ、神の福音、すなわち神からの福音(良い知らせ)を宣言し、もたらしてくださったのであります。旧約聖書の時代は、内容としてはこの洗礼者ヨハネが捕らえられことまでで、終わるのであります。そして、1000年以上にもわたって待たれていた、すなわち旧約聖書でそのことについて預言されていたメシアがついに世に現れたのであります。ここで主イエスは次のように、福音=よき知らせ、を語られるのであります。「時は満たされた、神の国は近づいた、あなたがたは、悔い改めよ、そして、福音、よき知らせを信じなさい」。
これは、この言葉を語っておられる主イエスのご到来とともに、神の国、神の支配、主権が、もうそこまで来ている、否、既に一部隠された形ではあれ、実現していることを宣言しておられるのであります。
その時から2000近くを隔てた現在も、多くの宗教、神々が、特に日本では私たちの周りを取り囲み、多くの人々がそれらに引き付けられています。しかし主イエスこそがメシア、聖書によって待たれていたお方であることを、わたしたちは、本日の主のガリラヤ宣教の第一声の中にしっかりとつかむことが求められているのであります。
旧約によって約束されていた救い主は、今もここに、お出でになられ、わたしたちに、悔い改め、メタノイア、心の転換、神への立ち返り、新しい生活を求められています。そして、主イエスのこのガリラヤでの顕現、現在とともに、既に神の支配は始まっているのであります。神の国は、この主イエスの宣言とともに始まっているのであります。
私たちは「ここにこそ救いがある」と多くの声が錯綜する中で、いや、他にではなく主イエスのご到来において既に始まっている救いの宣言を、しっかりと保っていくことが求められるのであります。
さて、それに続く後半の記事は、主イエスが最初の4人の弟子たちをお呼びになり、彼らが、すぐにそれに従ったという出来事であります。そして主イエスが私の後に従ってきなさいと招いておられるのは、私たちに向かっても、依然として、同じことなのであります。
本日の個所で、最初に呼ばれた4人、シモン、アンデレ、ゼベダイの子、ヤコブとヨハネ、彼らは12使徒のなかでも、この後、より重要な役割を担っていきますが、それは彼らがよりすぐれていたからでは呼ばれたのではありません。彼らは失敗もしますし、最後の主イエスが捕らえられたときには、主イエスを見捨てて逃げるということをも、犯してしまいます。最初の弟子たちは、ただただ主イエスの側から一方的に呼びかけられ、それに対して、すぐに従ったことが、重要なのであります。
わたしたちも、色々な経過を経て、主イエスのほうから呼びかけられ、招かれ、従った弟子たちなのであります。
具体的にいつ、どこで、どのような環境の下で、どのような思いで、主イエスに従ったかは、呼ばれて従ったということ自体に比べれば、重要ではないのです。そういうわけですから、一生、主に従い、主のように、今度は自分たちの十字架を負いながら、生涯を、人を神の国へと導く漁師、すなわち弟子であり続けることが大切であります。主ご自身が、4人の漁師を神の救いへと捕らえた最初の「人間を取る漁師」でありました。
私たちも、周りの人を、ささやかな出会いの中でも、あるいは最も困難かもしれません家庭において、たとえ一人でも、主イエスの救いへと招く、救い上げる漁師の務めを与えられています。そして、私たち自身も主イエスの声にどこまでも、直ちに方向転換して、神に立ち返り、従って行くことが、私たちの進むべき道であります。
今もなお、主イエスは、本日の聖書記事の出来事を通してご自分のあとに従ってくるように呼んでおられます。主イエスが、この日、弟子たちに現れてくださったこと、そして今もそうであることを確かめながら、生涯の終わりまで従って生きたい。そして、救いを必要としているすべての人々に向かって、主イエスによる救い、福音、良き知らせを伝えたいものであります。アーメン。


2006/01/22(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
『神の子イエスの受洗」(マルコ1:9~11)
マルコ1:9-11、2006・01・15
主の洗礼日礼拝(白)、イザヤ42:1-7、使徒10:34-38

マルコによる福音書1:9~11

 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて”霊“が鳩のように御自身に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。


説教「神の子イエスの受洗」(マルコ1:9~11)

 本日は、主の洗礼日であります。顕現節に入りましたが、依然として、教会の用いる色は白であります。
 マルコの記事によると、イエスの洗礼はわずかに1:9,10,11と3節を用いているだけであります。しかし一致して4つの福音書がいずれも、主イエスがヨハネから洗礼を受けたことが記されています。けれども、罪のない方がどうして洗礼を受けたのか、古くから困惑させられていたようであり、一番後に書かれた福音書ヨハネ福音書には、直接主イエスがヨハネから洗礼を受けたこと自体の記述はなされていません。
 
しかし、マルコは、まっすぐに、ためらった様子もなく、主イエスの受洗礼を記述しています。マルコにとって、主イエスが洗礼をお受けになったのは、至極当然のようであります。1:9-11の3節は、こうなっています。「そして、その日々においてガリラヤのナザレからヨハネによってヨルダン川へと洗礼を受けるということが起こった。そのとき、自ら上がるとじきに、天が裂かれるのを彼は御覧になった。そして、霊が鳩のように、彼へと下ってくるのをごらんになった。そして、声がなった、天から。すなわち、『あなたは、わたしの子、愛する者、あなたにおいて私は喜びをもっている」と。

 主イエスは神の独り子であります。そして、そのあとに、メシアであり、苦難のしもべであることが来るのであります。
 本日のイザヤ書と使徒言行録にも書かれていますように、私たちの罪をにない、悪魔に悩まされている人を癒すという主イエスの宣教は、このイエスの洗礼から始まるのであります。

 さて、現代の日本でも、多くの混沌とした宗教や新興宗教といわれるものもいまだに後を絶ちません。多くの日本人たちはその中で翻弄されているといってもいいでしょう。しかし、私たちには、聖書が与えられています。聖書を、他の宗教と混合あるいは融合したり、あるいは聖書のある部分を差し引いたり、削ったりしては、十字架につき、わたしたちのしもべとなってくださったお方を正しく信じることはできなくなります。
 
皆さん、このお正月、多くの違った宗教や文化、伝統に触れる機会も多かったことでしょう。しかし、繰り返しますが、私たちには長い歴史を持った聖書が与えられています。そして、その聖書が、すなわちイエスや使徒たちにとってはそれは旧約聖書を意味していましたが、その旧約が約束してきたメシアが、主イエスにおいて実現したのであります。
 
それを他の宗教や科学など別の何かと混合しては、決して正しい信仰を保つことはできません。そうすることがいわゆる宗教間の対話となることではありません。私たちはそのことを、確認し、おぼえるために、毎週の礼拝があたえられているのであります。この真実の道から離れないように、聖霊によって導かれながら、この一年を送っていきましょう。キリストのみ名によって、アーメン。




2006/01/15(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「やはり、別の道を」(マタイ2:1~12)
マタイ2:1~12、2006・01・08、顕現主日
イザヤ書60:1-6、エフェソの信徒への手紙3:1-12

マタイによる福音書2:1~12

イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、
占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
『ユダの地、ベツレヘムよ、
 お前はユダの指導者たちの中で
 決していちばん小さいものではない。
 お前から指導者が現れ、
 わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」



説教「やはり、別の道を」栗原茂牧師説教(ルーテル日吉教会牧師)骨子

「顕現節」とは、耳慣れない言葉である。顕微鏡がそうであるように、見えないものが顕かに見えるようにされるときに使われる言葉である。三人の博士たちがアラビア辺りから、救い主誕生として顕れた星を頼りに旅をしてやってくる。私にとっては、教会学校以来おなじみの聖書の個所でもある。

さて、救い主をどこに見出すのか。エルサレムの、それも暴虐な王であったヘロデ大王のもとになぜ彼らは「ユダヤの王」としてお生まれになった方を尋ねに行ったのか。彼らは、再び現われた星に導かれて、ベツレヘムの家にまでたどり着く。人口もその当時そう多くない町、あるいは、村であった。彼らは、それを見て喜び、黄金、乳香、没薬をひれ伏して、嬰児イエスにささげる。

ところが、彼らは、その夜、夢を見て、ヘロデのもとに帰るなとの天使のお告げを受けて「別の道を」通って帰っていく。ヘロデのその後での激怒は容易に想像される。そのために、何人かの、あるいは10人、20人ほどであったであろうか、3歳以下の男の子がヘロデによって虐殺される。ところで、考えてみるに、彼らが同じ夢を同じ夜に見たとは信じがたい。しかし、要するに彼らは、彼らにとって多く選択肢のある道のなかで、神によって導かれる道を選択して、それぞれの国に帰っていくのである。そのように帰られたのである。私たちも、現代、多くの道があり、世界は混沌としている。その中で、神によって示される道に是非従っていきたいものである。



2006/01/08(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「新しく創られる私たち」(ヨハネ2:1~12)
ヨハネ2:1-11、2006・01・01、降誕後主日
イザヤ62:1-5、コロサイの信徒への手紙1:15-20

ヨハネによる福音書2:1~11
三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変った水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

「新しく創られる私たち」(ヨハネ2:1~11)

 皆さん、新年明けましておめでとうございます。今日は2006年の初めての主日であり、聖書日課をみますと、文字通り「新年礼拝」としての聖書の個所、次に、主の命名日としての個所、そして、降誕後主日の聖書個所の3つの選択肢が与えられています。私は、本日の個所として、降誕後主日のテキストを選ばせていただきました。私たちは、教会暦では、昨年の11月27日のアドベント、待降節から、新年を祝ってきました。そして、現在は、来週の顕現主日の1月8日まで、クリスマスが続いているのであります。
 では、どうして、「降誕後主日」すなわちクリスマスの個所として、ヨハネ福音書の2:1~12が与えられているのでしょうか。そのことについて、しばらく、ご一緒に考えてみたいと思います。
 本日の記事は、非常に簡略に、出来事が展開していきます。それは、三日目のことでありました。その翌日、その翌日という言葉が、本日の記事の前に何度も出てくるので、それらをあわすと1週間になり、天地創造に対応させる意味で、この三日目が出てくるのではないかと考えた人もいるようです。しかし、十分にそれに対応しているとは必ずしもいえない本日の記事の内容ですので、むしろ、三日目というのは、完全数に過ぎず、特に隠された意味はないとも考えられます。そして本日の出来事は、不必要なことは、書かれておらず、非常に簡単明瞭な物語となっています。ヨハネは、伝えられていた伝承を受け継ぎ、最後の2:11節くらいだけが、ヨハネが書き加えた総括のようなものであるようであります。
 三日目に、主イエスの母のマリアが、ガリラヤのカナにいて、結婚式があった。そして、主イエスと彼の弟子たちもその結婚式に呼ばれていました。ところが、披露宴でぶどう酒がたりなくなったとき、母のマリアは、主イエスに言うのであります。「彼らはもうぶどう酒を持っていません。」さて、当時の結婚式とその披露宴は1週間、場合によれば2週間も祝われたといわれています。また、当時の結婚式に呼ばれた者たちは、プレゼントをするのが慣わしであったともいわれています。
 さて、しかし、このとき、主イエスはなんと答えたでしょうか。直訳すると「女の人よ、あなたと私とは、何なのか。私の時はまだなのです。」一見、母に対して非常に冷たい返事のように思われます。
けれどもそれは、神のみが「その時」を決めうるお方なのだと伝えた言葉なのであります。十字架にあげられた時、主イエスは、母に「女の人よ、ここにあなたの息子がいるよ]といって、弟子のヨハネにその後の母の世話をさせられました。
 また、母のマリアは、主イエスの言葉に従順に従って、召使たち、食事の世話をしている者たちに、「この人の言うことは何でもその通りにしてください」と頼んでいます。同じガリラヤのナザレから、大工であった主イエスは、知り合いの結婚式に、北西にあったこのカナまで、招かれてきていたのでしょう。主イエスは、自分を遣わした神なる父のみが、イエスの栄光を表すときを知っておられることを、母に諭したのであります。そして、そこに、6つの、2ないし3メトレスはいる石製の水がめが、ユダヤ人の清めの慣習に従って置かれていました。1メトレスは、39.39リットルなので、少なくとも500リットル以上もの水が蓄えられることになります。そして主は、召使たちにその6つの水がめに上まで水で満たすように命じたのであります。そしてその水を汲んで、料理頭あるいは、世話役とも訳せる人のところに持っていくようにいうと、彼らは運びました。料理頭は、その水を味見すると、それは、ぶどう酒に変わっていたのであります。しかし、彼はそれがどこから来たものなのか知りませんでした。一方、運んだ召使たちは知っていました。料理頭は、それで、花婿を呼んで言います。「誰でも、まず、良質のぶどう酒を出して、人々が酔いが回ったときには、劣ったものを出すものだ。しかしあなたは、良いぶどう酒を、今までとっておかれた」と花婿を賞賛したのであります。こうして、すべてのうちの最初のしるしを、主はなさり、主イエスの栄光を現されたのであります。「そして、弟子たちは、それを見て、主イエスを信じた」と、本日の出来事は結ばれています。
 この出来事は、主イエスこそが、豊かな、良いぶどう酒であることを示しています。旧約の律法の清めの水にはるかにまさってすぐれた、救いのメシアがおいでになられているのであります。そして、私たちも、主イエスこそが、旧約によって約束され、更にそれ以上に恵みと真理にあふれた救い主として来られた方であることを、信仰の目をもって知っているのであります。今日から始まります2006年のこの一年、どのような困難や試練がありましても、イエス・キリストという私たちを新しい人間として創り替えてくださるお方につながりながら、その喜びを周りの人々にも告げ知らせる一年としたいものであります。日ごとに聖書に親しみ、礼拝につながり、それぞれの持ち場、あるいは与えられた場所でみ言葉につながって、一年を過ごしていきたいものであります。
天の父なる神様。
私たちは、罪にまみれた、また、おのおの弱さを持った罪人でありますが、よきぶどう酒であるみ子、主イエスを知っており、また、信じているものであります。この一年を聖書によって、良き実を結ぶものとならせてください。キリストのみ名によって、アーメン。




2006/01/01(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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