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津田沼教会 牧師のメッセージ
「まぶねの中の主イエス」(ルカ2:1~20)
ルカ2:1-20、2005・12・24、クリスマス・イブ礼拝
イザヤ書9:1-6、テトス2:11-14、

ルカ2:1~20
 そのころ、皇帝アウグスツゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令がでた。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きいな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、
 地には平和、御心に適う人にあれ。」
 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

説教「まぶねの中の主イエス」(ルカ2:1~20)渡辺賢次牧師
 
皆さま、クリスマスおめでとうございます。今宵はようこそ、津田沼教会のイブ礼拝においでくださいました。私たち、教会では、1ヶ月くらい前からアドベントといって主のご降臨を待ち備える、教会の暦の上での新しい年を、過ごしてきました。それは、紫の色で表され、主イエスがまことの王であり、また、その王は、わたしたちの罪のために十字架につけられた王であることを表すものでした。今夕から、その色も白に変えられ、これは、厳かな色で神さまを表している色であります。
 私たちは、待ちに待ったクリスマスを迎えました。現在、世界中が、クリスマス・ソングやクリスマス・ライトで喜びを表しています。人類のいろいろな宗教の違いや、民族の違いを超えて、今日から来年の初めにかけて、クリスマスが世界的にこれから2週間ほど続くのであります。どうして、人類にとってクリスマスがめでたいのか、その意味についてしばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 旧約聖書、そして、使徒書から選ばれている聖書の箇所にあわせて、福音書、大きな喜びの書であります4つの福音書の中から与えられている福音の箇所は、先ほどお読みいただいたように、ルカによる福音書2章の1節から20節までであります。主イエスのご降誕がどのように起こったのか、またそのことの意味をこの福音書を書いたルカは、非常に簡単明瞭に、そして、素朴に記しているのであります。それは、ローマ皇帝アウグスツスが皇帝の時、そして、シリアの総督がクリニウスのときに最初に、行われた人口調査のときのことであることが、まず、示されます。当時、地中海世界はローマ帝国の支配の下にありました。
 そのときに、ユダヤでも、その命令がくだり、ヨセフとマリアは、故郷のベツレヘムで住民としての登記をするために、そこに向かって進んでいたのであります。もちろんそれは、税の徴収のためであります。ヨセフは、ナザレの現住所から、おそらく、戸籍のようなものがあるベツレヘムというエルサレムの近くのダビデの生まれた町に、聖霊によって身重になっている婚約者のマリアをろばにでも乗せて帰ってきたことでありましょう。そして、マリアは、月が満ちて、もう寄宿舎は一杯で、自分たちを入れてくれるところはないので、何とかして、その裏にあったか、洞穴のようなところであったか、そこに一夜を泊まることにしたのであります。
 ところが、月が満ちて、マリアは、最初の男の子を産み、馬小屋の、あるいは牛小屋のなかで、白い細い布切れでその子をまいて、まぶね、飼い葉桶に寝かせたのであります。普通の庶民の、あるいは、どちらかといえば、多分貧しかったであろう彼らは、人知れず主イエスが生まれるのをそこで世話したのであります。
 このように、地味に、ザカリヤの夫婦から、先に生まれた洗礼者ヨハネの出産のときに、奇跡的なことが起こり、ユダの村里中が喜んだのと違って、まぶねのなかで、普通の子の場合のように、あるいはもっと低い状態で、主イエスはお生まれになったのであります。
 さて、その時、ベツレヘムの下の荒れ野のようなところ、羊飼いの野と呼ばれていた場所で、その知らせは、最初に、やはりおそらく貧しかった、そして、身分の低いものたちであって、人々からも尊敬はされていなかったであろう羊飼いに、み使いによって知らされるのであります。野宿をし、羊の番をしていた彼らのそばに、み使いがさっと立ち、光が彼らを照らしたのであります。彼らは非常に大きな恐れを抱かされました。今のように、都会を四六時中、電気が照らしている時代ではありません。私たちは、現代では都会の明るい電気で恩恵をこうむると共に、神への恐れをなくして、信仰を失いがちになっているのではないでしょうか。
さて、しかし、み使いはいうのであります。「恐れるな、私はあなたがたに大きな喜びを告げ知らせる。今日、ダビデの町で、救い主がお生まれになった。その方は民全体に、世界のすべての人類に与えられるメシア・キリスト、主である。そしてこれが、しるしである、その町で、あなたがたは、飼い葉桶に寝かされている赤ちゃんを見出すであろう」と。
すると、急に、天からの軍勢、天使の群れが、表れ、天において、次のように神をほめたたえながら、歌うのであります。
「いと高きところにおいては、神に栄光があれ。地には平和が、神のご好意の人間たちの上にあれかし。」
他の人々によっては、知られることなく、馬小屋でお生まれになった主イエスのお誕生という出来事は、この世の貧しいものたち、低い者たち、のけ者にされていた人たちに、まず、知らされたのであります。
彼らは、今告げ知らされたことを確かめようと、ベツレヘム、その昔、今からちょうど3000年位前にそこで生まれ、長い歴史の中でただ一人、りっぱな王国を築いたダビデの生まれたベツレヘムまで、確かめに行こうではないかと、急いで向かい、ついに、ヨセフとマリアと、飼い葉桶に寝かされていたその乳飲み子を見つけたのであります。この子こそ、聖書の民、イスラエルの民が待ち望んでいたメシア、救い主なのであります。やがて、神の独り子として、神の国をもたらし、ついには、十字架で死なれ、そして、陰府にくだり、三日目に復活されて今も、父なる神の右の座について、私たちを見守ってくださる、主イエス、救い主メシアのご誕生でありました。
その光景を見た羊飼いたちは、自分たちにみ使いから知らされたすべてのことを人々に知らせました。それを聞いた人々は、ただ不思議に思ったとだけ聖書には記されています。人々にはこのような形でメシアがお生まれになることは信じられなかったのであります。
しかし、母マリアは、これらのこと、言葉や出来事をすべて思い起こしながら、心の中にとどめていたのであります。こうして、羊飼いたちは、自分たちに示されたことが、その通りだったので、神をほめたたえながら、また、羊飼いの野に帰っていったのであります。
「天には栄光が神に、地には平和が、み心に適う人にあるように」。
さて、マルチン・ルターは、良い行いのうちで、最も良い行いとは神を信じることであるといっています。「み心に適った人たち」とは誰でありましょうか。それは、救い主のお誕生によって、神のご好意に与るすべての人間たち、全人類であります。私たちは、今なお、言葉と思いと行いとによって、御前に、日々罪を犯してしまう弱い存在ではありますが、既に、メシア、救い主がお出でになられたことを、信じながら、新しい一年を送って生きたいと思います。地球上のすべての人を父なる神は、ご好意をもって、喜んでくださいます。
その主なる神と、その独り子イエスを心から受け入れ、与えられた生涯、み心に従って生きたいものであります。
天の父なる神さま、私たちを憐れみ、あなたの子らとして新しい一年を歩ませてください。キリストによって祈ります。アーメン。








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2005/12/24(土) 19:00:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)