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津田沼教会 牧師のメッセージ
「私たちの罪をにないに来る主」(マルコ1:1~8)
マルコ1:1-8、2005・12・04、待降節第2主日
イザヤ書40:1-7、ペトロの手紙ニ3:8-14

マルコによる福音書1:1~8
 神の子イエス・キリストの福音の初め。
預言者イザヤの書にこう書いてある。
 「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
 あなたの道を準備させよう。
 荒れ野で、叫ぶ者の声がする。
 『主の道を整え、
 その道筋をまっすぐにせよ。』」
そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」


説教「私たちの罪をにないに来る主」(マルコ1:1~8)渡辺賢次牧師

 待降節第2主日を迎えました。本日与えられています福音の記事はマルコ1:1-8であります。待降節すなわちアドベントとは、「到来」という意味の言葉であります。今日私たちは、主イエスのご降誕に備える準備をしているのですが、2000年ほど前の主イエスのご生誕を祝うのみならず、第2のアドベントである主イエスの再臨の時に向かっても準備を進めているのであります。
 さて、本日の福音は、マルコ福音書の出だしの個所であります。それは、もとの文では、「始まり、福音の、イエス・キリストの、神の息子の」という表題、タイトルでもって始まっているのであります。これは、どこまでを指すのでしょうか。洗礼者ヨハネが「罪の赦しにいたる悔い改めの洗礼を」説教した部分である本日の個所で切るのか、ガリラヤ宣教の始まりが示される1:15節まででしょうか。しかし、この表題は、マルコ福音書全体の要約であると考えてもよかろうと思います。なぜなら、神の子イエス・キリストという福音、喜びをもって、マルコはこの福音書全体でもって、私たちに喜びを伝えてくれているからであります。
 福音とは、ユウアンゲリオンという言葉で、良い知らせ、戦勝の知らせであったり、あるいはローマ世界では皇帝アウグストの誕生や即位式についても、当時使われていた言葉です。旧約聖書では、もっぱら、動詞形で使われ、「良い知らせを伝えるものの足はなんと麗しいものかな」(イザヤ書)などというふうに使われた言葉でした。イエス、すなわち、天使によって示された「神は助け」という名前でお生まれになった方がメシア、油注がれた救世主であり、この方は神から生まれたその息子であることが、マルコの言いたかったことであり、その人格と宣教・使命は神の子としてのものであり、この方によって罪からの勝利が約束されるにいたったことを、この最初の表題は語っているのであります。
 マルコは、旧約の預言者イザヤの預言の言葉だといって本文を語り始めます。そこにはこう書かれている。「私はあなたの前に使者を送る。彼は、あなたの道を準備するであろう。」というのであります。そして、実際にイザヤが言っている言葉はここから後に続きます。「荒れ野で呼ばわる声がする。主の道をあなた方は備えなさい。彼のその道筋をまっすぐにしなさい」というのであります。ルターはそれを「良い道を準備しなさい」と訳しています。神を迎えるために、そして、救い主イエスを待ち受けるために、み心にかなった、良い、まっすぐな道、信仰、心、生活をすることが大切であります。
 そしてその通り、荒れ野において、ヨハネ、洗礼を施す者が現れ、罪の赦しに至る悔い改めの洗礼を説教していた、と先駆者としての洗礼者の登場がまず、マルコでは最初に必要であったのであります。悔い改めとは、メタノイアという言葉で「心を入れ替える」意味でありますが、ヘブライ語では、シューブといい、神に全存在をもって立ち返ることを指しています。罪とは、神様から離れることであり、目当てとしていることが、み心にそぐわないでいることすべてを指しています。信仰から出ない事柄はすべて罪なのであります。ですから、単に心を変えるという内的なことだけではなく、私たちの生活すべてが神に向けてまともになることであります。洗礼者ヨハネは、その悔い改めの洗礼をユダヤ人たちに呼びかけ、ユダの全地域や全エルサレム住民がぞくぞくと出てきており、罪を告白しつつ、洗礼に与っていたのであります。そして、自分より後に来る方は、私よりずっと力あるお方であり、私はその方の履物のひもを解く値打ちもない、奴隷にも値しないと説教していたのであります。
メシアの到来の前に、エリヤのような預言者、先駆者があらわれると当時の人たちは固く信じていました。洗礼者ヨハネは、禁欲的ないでたちで、らくだの毛の衣を着、いなごと野蜜を日常の食物として、生活しながら、ヨルダン川で、洗礼を施していたのであります。その洗礼は、水で施す洗礼で、主の到来に備える悔い改めの洗礼でありました。
彼は、本日の個所の最後に「私は水で洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をあなたがたに授けるであろう」といっています。旧約聖書の預言者たちが終わりのときに神がみ霊をあなたがたに注ぐ日が来ると約束していました。それは、浄化する火の洗礼でもありましょう。私たちの罪をきよめ、になう方がおいでになって、私たちのすべての罪をとりのぞき、みずからになわれるのであります。
幸いに、本日は聖餐式があります。神は、洗礼と聖餐をもって私たちに救いの手立てを与えてくださいました。私たちは、どんなことがあっても、この二つのサクラメントによりすがり、新しい一年を進ませていただきましょう。
父なる神さま。
あなたは、私たちに、洗礼と聖餐をもって、罪から解き放たれることができるようにしてくださいまして、ありがとうございます。あなたのみ子、主イエスのお誕生を待つ日々でございますが、どうぞ、私たちの信仰生活を、私たちの全存在によって表していくことができますように。キリストのみ名によって、アーメン。

 


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2005/12/04(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)