津田沼教会 牧師のメッセージ
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「まことの光」(ヨハネ1:1~14)
ヨハネ1:1-14、2005・12・25、降誕祭(典礼色―白―)
イザヤ書52:7-10、ヘブライ人への手紙1:1-9

ヨハネによる福音書1:1~14
 初めに言があった。言葉は神と共にあった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。


説教「まことの光」(ヨハネ1:1~14)渡辺賢次牧師

皆さん、本日は、クリスマスおめでとうございます。わたしたちは、4週間ほどの間、アドベントの時を過ごして、主イエス・キリストのご降誕に備えてきました。そして、昨日のクリスマスイブから、本日の降誕祭と順序正しく、今年は、主のご降誕を祝うことができます幸いを感謝したいと思います。
 さて、この降誕祭に与えられている福音書の箇所は、ヨハネ1:1~14であります。聖卓やストールに用いられる色は、紫から変わって昨晩から白い色であります。これは、神さまを表す色であります。クリスマスを迎え、改めて神がいかなる方であるかを、ヨハネの本日の箇所からご一緒にしばらく考えてみたいと思います。今日の箇所は、次のようなものであります。初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。彼は、まことの光であった。そして、この世界にやってきてすべての人間を照らすのであるというのであります。さらに、彼は、ご自分の民のもとに来たが、その民は彼を理解しなかった。光は闇において輝いている。闇は、言葉であるこの光に打ち克つことはできなかった。そして、言葉は、やって来て、この世界に宿られた。この言葉は、肉の欲から生まれたものではなく、男の欲にも寄らず、神によって、受肉したのである。その栄光をわたしたちは見た、そしてその神の栄光は、恵みと真理、真実に満ち溢れていた。そのように書かれているのであります。 さらに、このすぐ後の部分では、神を見たものはいない。神の独り子であるこの言葉、神なる主イエス・キリストだけが、神を啓示したのであるというふうに、ヨハネ福音書記者は、その福音書のはじめに要約して記しているのであります。そして、この栄光とは、主イエスが十字架にあげられることであり、また、復活して父なる神の右の座に座すことであります。これらの表現は、主イエス・キリストの生涯を短く要約したものであります。全聖書を通して、また、福音書を通して、主イエス・キリストがアダムの堕罪に対して、一方的な神の愛によって、この地上のわたしたちのもとに、一時的ではありますが、恵みとして、また、真理として、見えない神を、み子という見える形として現されたのであります。それは無条件の神の愛の表現であります。そして、それを受け入れ、彼の名において神を信じるものたちに、神の子供たちとなる資格、力、権威をお与えになるというのであります。
創世記では、「初めに、神は天と地とを創られた」と出てきますが、主イエスは、被造物の創造よりも前に、神とともに、神に向かって存在しておられたことを、この福音書記者は、教えるのであります。そしてさらに、旧約聖書に約束されていたことが、それをさらに凌駕する形で、主イエスのご到来において、新約として成就されるのであります。その神を、私たちは、聖餐式のたびごとに、「光よりの光」として、ニケヤ信条を通して、唱え信じているのであります。 混沌としていた創世記のはじめのときに、神は光あれと言葉によって、この世界を造られました。そして、罪に陥った人類に対して、主イエスが、創造の初めよりも先におられた独り子なるお方でありましたが、私たちと同じ肉体を持って、地に人となり、宿られたのであります。それは、その十字架による罪の赦しを与えてくださり、私たちをまことの光の中を歩むことが再びできるように私たちを再創造されたのであります。その喜びを、わたしたちは、このクリスマスのときにもう一度喜び合いたいものであります。人知ではとうてい測り知ることのできない、神の平安が、キリスト・イエスにあってあなたがたを守るように。アーメン。





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2005/12/25(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「まぶねの中の主イエス」(ルカ2:1~20)
ルカ2:1-20、2005・12・24、クリスマス・イブ礼拝
イザヤ書9:1-6、テトス2:11-14、

ルカ2:1~20
 そのころ、皇帝アウグスツゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令がでた。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きいな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、
 地には平和、御心に適う人にあれ。」
 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

説教「まぶねの中の主イエス」(ルカ2:1~20)渡辺賢次牧師
 
皆さま、クリスマスおめでとうございます。今宵はようこそ、津田沼教会のイブ礼拝においでくださいました。私たち、教会では、1ヶ月くらい前からアドベントといって主のご降臨を待ち備える、教会の暦の上での新しい年を、過ごしてきました。それは、紫の色で表され、主イエスがまことの王であり、また、その王は、わたしたちの罪のために十字架につけられた王であることを表すものでした。今夕から、その色も白に変えられ、これは、厳かな色で神さまを表している色であります。
 私たちは、待ちに待ったクリスマスを迎えました。現在、世界中が、クリスマス・ソングやクリスマス・ライトで喜びを表しています。人類のいろいろな宗教の違いや、民族の違いを超えて、今日から来年の初めにかけて、クリスマスが世界的にこれから2週間ほど続くのであります。どうして、人類にとってクリスマスがめでたいのか、その意味についてしばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 旧約聖書、そして、使徒書から選ばれている聖書の箇所にあわせて、福音書、大きな喜びの書であります4つの福音書の中から与えられている福音の箇所は、先ほどお読みいただいたように、ルカによる福音書2章の1節から20節までであります。主イエスのご降誕がどのように起こったのか、またそのことの意味をこの福音書を書いたルカは、非常に簡単明瞭に、そして、素朴に記しているのであります。それは、ローマ皇帝アウグスツスが皇帝の時、そして、シリアの総督がクリニウスのときに最初に、行われた人口調査のときのことであることが、まず、示されます。当時、地中海世界はローマ帝国の支配の下にありました。
 そのときに、ユダヤでも、その命令がくだり、ヨセフとマリアは、故郷のベツレヘムで住民としての登記をするために、そこに向かって進んでいたのであります。もちろんそれは、税の徴収のためであります。ヨセフは、ナザレの現住所から、おそらく、戸籍のようなものがあるベツレヘムというエルサレムの近くのダビデの生まれた町に、聖霊によって身重になっている婚約者のマリアをろばにでも乗せて帰ってきたことでありましょう。そして、マリアは、月が満ちて、もう寄宿舎は一杯で、自分たちを入れてくれるところはないので、何とかして、その裏にあったか、洞穴のようなところであったか、そこに一夜を泊まることにしたのであります。
 ところが、月が満ちて、マリアは、最初の男の子を産み、馬小屋の、あるいは牛小屋のなかで、白い細い布切れでその子をまいて、まぶね、飼い葉桶に寝かせたのであります。普通の庶民の、あるいは、どちらかといえば、多分貧しかったであろう彼らは、人知れず主イエスが生まれるのをそこで世話したのであります。
 このように、地味に、ザカリヤの夫婦から、先に生まれた洗礼者ヨハネの出産のときに、奇跡的なことが起こり、ユダの村里中が喜んだのと違って、まぶねのなかで、普通の子の場合のように、あるいはもっと低い状態で、主イエスはお生まれになったのであります。
 さて、その時、ベツレヘムの下の荒れ野のようなところ、羊飼いの野と呼ばれていた場所で、その知らせは、最初に、やはりおそらく貧しかった、そして、身分の低いものたちであって、人々からも尊敬はされていなかったであろう羊飼いに、み使いによって知らされるのであります。野宿をし、羊の番をしていた彼らのそばに、み使いがさっと立ち、光が彼らを照らしたのであります。彼らは非常に大きな恐れを抱かされました。今のように、都会を四六時中、電気が照らしている時代ではありません。私たちは、現代では都会の明るい電気で恩恵をこうむると共に、神への恐れをなくして、信仰を失いがちになっているのではないでしょうか。
さて、しかし、み使いはいうのであります。「恐れるな、私はあなたがたに大きな喜びを告げ知らせる。今日、ダビデの町で、救い主がお生まれになった。その方は民全体に、世界のすべての人類に与えられるメシア・キリスト、主である。そしてこれが、しるしである、その町で、あなたがたは、飼い葉桶に寝かされている赤ちゃんを見出すであろう」と。
すると、急に、天からの軍勢、天使の群れが、表れ、天において、次のように神をほめたたえながら、歌うのであります。
「いと高きところにおいては、神に栄光があれ。地には平和が、神のご好意の人間たちの上にあれかし。」
他の人々によっては、知られることなく、馬小屋でお生まれになった主イエスのお誕生という出来事は、この世の貧しいものたち、低い者たち、のけ者にされていた人たちに、まず、知らされたのであります。
彼らは、今告げ知らされたことを確かめようと、ベツレヘム、その昔、今からちょうど3000年位前にそこで生まれ、長い歴史の中でただ一人、りっぱな王国を築いたダビデの生まれたベツレヘムまで、確かめに行こうではないかと、急いで向かい、ついに、ヨセフとマリアと、飼い葉桶に寝かされていたその乳飲み子を見つけたのであります。この子こそ、聖書の民、イスラエルの民が待ち望んでいたメシア、救い主なのであります。やがて、神の独り子として、神の国をもたらし、ついには、十字架で死なれ、そして、陰府にくだり、三日目に復活されて今も、父なる神の右の座について、私たちを見守ってくださる、主イエス、救い主メシアのご誕生でありました。
その光景を見た羊飼いたちは、自分たちにみ使いから知らされたすべてのことを人々に知らせました。それを聞いた人々は、ただ不思議に思ったとだけ聖書には記されています。人々にはこのような形でメシアがお生まれになることは信じられなかったのであります。
しかし、母マリアは、これらのこと、言葉や出来事をすべて思い起こしながら、心の中にとどめていたのであります。こうして、羊飼いたちは、自分たちに示されたことが、その通りだったので、神をほめたたえながら、また、羊飼いの野に帰っていったのであります。
「天には栄光が神に、地には平和が、み心に適う人にあるように」。
さて、マルチン・ルターは、良い行いのうちで、最も良い行いとは神を信じることであるといっています。「み心に適った人たち」とは誰でありましょうか。それは、救い主のお誕生によって、神のご好意に与るすべての人間たち、全人類であります。私たちは、今なお、言葉と思いと行いとによって、御前に、日々罪を犯してしまう弱い存在ではありますが、既に、メシア、救い主がお出でになられたことを、信じながら、新しい一年を送って生きたいと思います。地球上のすべての人を父なる神は、ご好意をもって、喜んでくださいます。
その主なる神と、その独り子イエスを心から受け入れ、与えられた生涯、み心に従って生きたいものであります。
天の父なる神さま、私たちを憐れみ、あなたの子らとして新しい一年を歩ませてください。キリストによって祈ります。アーメン。








2005/12/24(土) 19:00:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神の恵み深い訪れ」(ルカ1:17~79)
ルカ1:67―79、2005・12・18、待降節第4主日
ゼファニア書3:14-17、フィリピの信徒への手紙4:2-7

ルカによる福音書1:67~79
父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。
「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。
 主はその民を訪れて解放し、
 我らのために救いの角を、
 僕ダビデの家から起こされた。
 昔から聖なる預言者たちの口を通して
     語られたとおりに。
 それは、我らの敵、
 すべて我らを憎む者の手からの救い。
 主は我らの先祖を憐れみ、
 その聖なる契約を覚えていてくださる。
 これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。
 こうして我らは、
 敵の手から救われ、
 恐れなく主に仕える、
 生涯、主の御前に清く正しく。
 幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。
 主に先立って行き、その道を整え、
 主の民に罪の赦しによる救いを
     知らせるからである。
 これは我らの神の憐れみの心による。
 この憐れみによって、
 高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、
 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、
 我らの歩みを平和の道に導く。」


説教「神の恵み深い訪れ」(ルカ1:67-79)

 本日の待降節第4主日に与えられました福音はルカ1:67-79であります。これまで、待降節、教会暦の上での新しい年に与えられました箇所は、エルサレム入城から始まり、そのあとは、マルコ福音書の初めの個所「主が来られるのに、備えをなせ」というものであり、そのために第三の待降節主日はヨハネによる福音書の、悔い改め、罪を懺悔するために、現れた洗礼者ヨハネに関する記事でありました。
 そして、本日待降節第4主日は、そのヨハネが奇跡的に生まれ、それに対して、その父、祭司ザカリアが最初は疑ったのでありますが、ついに主をほめたたえる記事であります。本日は、ルカ福音書から与えられ、24日のイブ礼拝のときに読まれる、主イエスお誕生の箇所ルカ2:1-20とともに、マルコ福音書からは離れて、特別の個所として、本日の個所が選ばれているのであります。
 これもまた、主イエスがお出でになられるのを、先週の内海先生の説教から表現を借りるならば、ザカリアもまた救い主誕生を告げる「脇役としての地位」に、喜んで従うのであります。ルカ福音書は、神殿でのザカリアの不信仰からおこった出来事ではじまり、最後もはやり、弟子たちが、エルサレム神殿に戻ってきて、今度は主をほめたたえるという出来事で終わっている福音書であります。痛感させられていることは、私たちも、罪を犯すことから、そう簡単に抜け出せないで、礼拝と通常の1週間の生活との間を、ひょっとしたら、一生涯、繰り返すのかもしません。しかし、ルターが言ったように、私たちは、「罪人にして同時に義人」とされる洗礼を、この場の殆どの方々が受け入れ、そして、信じて、聖餐を受け続ける者であります。激しい罪との戦いに敗れることもたびたびあるでしょう。しかし、私たちは、本日のザカリアの歌、ベネディクツスと言われる祭司の歌を、あるいは、堂々としたマリアの賛歌を、それぞれ歌い続けることが出来るのであります。ザカリアの歌は、これらの言葉を、旧約聖書の中から選び取って作られています。詩編や、イザヤ書やミカ書やマラキ書、あるいは、創世紀や出エジプト記などから、救い主が来るとの約束の言葉を引き出しているのであります。暗闇に、また、死の陰に座している人間に朝日が昇るように、主がお出でになられるのであります。ザカリアは、洗礼者ヨハネが自分たち夫婦が老いて後に、奇跡的に生まれたときに、救い主がそのすぐあとにお出でになることを、今や信じ、確信をもって歌っているのであります。私たちは、暗闇と死の陰に座りこんでいる、そういう存在ではないでしょうか。私自らも振り返りまして、闇の中に座し、伏して、罪を繰り返す弱い、愚かな存在であることをしばしば痛感させられますが、この罪、闇、死を打ち破ってくださるのは、神からのメシア、主イエス・キリストをおいて、他には何もないし、また誰もいないのです。しかし、そのような私どものところにも、主は、闇から上ってくる太陽のように光をもたらすお方であります。そして、洗礼者ヨハネのように私たちもまた、「清く正しく」歩むことができる存在へと変えられるのであります。それは、神の一方的なみ恵みによるのであり、私たち自身の内側から救われる可能性はゼロであります。自分の罪を繰り返す悲しい現実の中に主が入ってきて、生活を支配してくださることを、心から待ち望み、また願う者であります。
天の父なる神さま。
あなたが、独り子イエスを、私たちに与えてくださる時を私たちは迎えようとしています。しかし、み心に適った生活がなかなかできません。あなたとあなたがくださった独り子の十字架と復活の力によって、どうぞ、私たちの罪を取り除き、あなたとみ子の約束を心から信じる者となさせてください。キリストのみ名によって祈ります。アーメン。





 

2005/12/18(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主の輝きを指し示す」(ヨハネ1:19~28)
ヨハネ1:19-28、2005・12・11、待降節第3主日礼拝
イザヤ書61:1-4、テサロニケの信徒への手紙一5:16-24

ヨハネによる福音書1章19節~28

 さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
 「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。
 『主の道をまっすぐにせよ』と。」
遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。


説教「主の輝きを指し示す」内海望牧師(津田沼教会引退教職)

 6節から9節にはヨハネについて語られています。彼は「まことの光が世に来て、すべての人を照らす」というクリスマスの出来事を指し示すために来た人物であるのです。
 クリスマスをヨハネは「光の到来」として示しているのです。いつの時代でも、どこでも「もっと光を!」と光を求める叫びは絶えることがありません。飢餓に苦しむアフリカで、戦禍に苦しむイラクで、パレスチナで、アフガンで。24時間こうこうと灯が消えることのない日本でも「光を!」と叫ぶ声が絶えないのです。
 この叫びを神さまは聴き取って下さったのです。そして、まことの光としてみ子イエス・キリストを救い主として私たちの真ん中に送って下さったのです。
 しかし、ヨハネは主役でなく、あくまでも「光」を指し示す脇役として登場しました。ヨハネは大きな感動を人々に与えた人物でした。彼は「荒れ野で『らくだの毛ごろもを着、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物とし、』」禁欲的な生活をしながら「悔い改めの説教をしていた」人物です。その奇跡的な誕生の物語と共に人々に大きなインパクトを与えたことは当然です。従って、「エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿い一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、彼から洗礼を受けた」と記されています。
 人々は、待ち望んでいたメシア(救い主)が来たのではないかと考えたのです。それが19節にあらわれています。「エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたはどなたですか」と質問したのです。これは当時の指導者がヨハネの所に来たことを示す文章です。彼らはヨハネを呼び出すことも出来たのです。それほど高い地位にいたのです。しかし、わざわざ膝を折ってヨハネのところにまで来たのです。
 私たちは、人々から持ち上げられるとすぐに主役になりたがります。しかし、ヨハネは「違う」「そうではない」という三回にわたる断固とした否定は感動的です。「指」に留まっているのです。
 ヨハネは自分の人格、行いについて何も触れず、ただ「(私は)荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と語る者だ。」と答えただけでした。自分は「声」に過ぎない、私が指し示す方こそ、自分を含めて、従うべき方である」と「光を指し示す者」にとどまったのです。
 ここで、私たちはマリアを思い浮かべます。マリアは、「私は主のはしため(端女=召使)です。お言葉どおり、この身になりますように。」とイエスさまの母になることを受け入れ、「私は主をあがめ、主を喜びたたえます。なぜなら、主はこの身分の低い、私にも目を留めてくださったからです。」と「無であり、無価値であり、軽蔑され、悲惨な死んだ者を尊い者、名誉ある者、祝福された者となさる」神さまの顧みにひたすら感謝と賛美をささげました。ルターは「こんなに大きな賜物を受けたマリアが傲慢や自負に陥らなかったのは、彼女がこのような賜物を受けたことよりも大きな奇跡である。」とまで語っています。
 民衆はヨハネの「主の道をまっすぐにせよ」という言葉に打たれました。これが、「(あなたの人生に)主をお迎えする準備をしなさい。主が歩む道を整えなさい」という意味であり、「悔い改め」を促す言葉であることを正しく理解したからです。それでぞくぞくと悔い改めの洗礼を受けるためにヨハネのもとに来たのです。
 教会また信仰者は、まさにこのヨハネの役割を負っているのではないでしょうか。
 教会について次のような文章を読みました。「キリストが人間の姿をとって、その民の中に来られたことを告げる、明るい神さまの松明として、愛が教会の中で燃えさかるようであって欲しい。」というものです。まだ朝日は昇っていないとしても、そこ、ここに朝の気配を感じさせることこそヨハネの役目でした。同じように、このイエス・キリストの到来、その輝きを指し示すために教会があり、私たち信仰者ひとりひとりが生きている場です。
 私たちのどんな行いも決して光ではありません。ヨハネは立派な人格と生活をしました。
しかし、彼は指に留まりました。マリアは救い主の母親という大きな賜物をうけました。
しかし、彼女もひたすら光を指し示すだけでした。
 私たちもそうです。私たちもまたヨハネの前に並び悔い改める民の一人です。自分を誇ることは何もありません。罪人です。しかし、ヨハネは力強く語ってくれます。あなた方の只中にイエスさまがいらっしゃると。罪人であり、無価値であるこの私たちも光を指し示す指になることは許されているし、可能なのです。このことを感謝して、光栄ある脇役となりましょう。そして、イエスさまの香りをこの地にもたらす群れとなりたいと思います。


2005/12/11(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「私たちの罪をにないに来る主」(マルコ1:1~8)
マルコ1:1-8、2005・12・04、待降節第2主日
イザヤ書40:1-7、ペトロの手紙ニ3:8-14

マルコによる福音書1:1~8
 神の子イエス・キリストの福音の初め。
預言者イザヤの書にこう書いてある。
 「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
 あなたの道を準備させよう。
 荒れ野で、叫ぶ者の声がする。
 『主の道を整え、
 その道筋をまっすぐにせよ。』」
そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」


説教「私たちの罪をにないに来る主」(マルコ1:1~8)渡辺賢次牧師

 待降節第2主日を迎えました。本日与えられています福音の記事はマルコ1:1-8であります。待降節すなわちアドベントとは、「到来」という意味の言葉であります。今日私たちは、主イエスのご降誕に備える準備をしているのですが、2000年ほど前の主イエスのご生誕を祝うのみならず、第2のアドベントである主イエスの再臨の時に向かっても準備を進めているのであります。
 さて、本日の福音は、マルコ福音書の出だしの個所であります。それは、もとの文では、「始まり、福音の、イエス・キリストの、神の息子の」という表題、タイトルでもって始まっているのであります。これは、どこまでを指すのでしょうか。洗礼者ヨハネが「罪の赦しにいたる悔い改めの洗礼を」説教した部分である本日の個所で切るのか、ガリラヤ宣教の始まりが示される1:15節まででしょうか。しかし、この表題は、マルコ福音書全体の要約であると考えてもよかろうと思います。なぜなら、神の子イエス・キリストという福音、喜びをもって、マルコはこの福音書全体でもって、私たちに喜びを伝えてくれているからであります。
 福音とは、ユウアンゲリオンという言葉で、良い知らせ、戦勝の知らせであったり、あるいはローマ世界では皇帝アウグストの誕生や即位式についても、当時使われていた言葉です。旧約聖書では、もっぱら、動詞形で使われ、「良い知らせを伝えるものの足はなんと麗しいものかな」(イザヤ書)などというふうに使われた言葉でした。イエス、すなわち、天使によって示された「神は助け」という名前でお生まれになった方がメシア、油注がれた救世主であり、この方は神から生まれたその息子であることが、マルコの言いたかったことであり、その人格と宣教・使命は神の子としてのものであり、この方によって罪からの勝利が約束されるにいたったことを、この最初の表題は語っているのであります。
 マルコは、旧約の預言者イザヤの預言の言葉だといって本文を語り始めます。そこにはこう書かれている。「私はあなたの前に使者を送る。彼は、あなたの道を準備するであろう。」というのであります。そして、実際にイザヤが言っている言葉はここから後に続きます。「荒れ野で呼ばわる声がする。主の道をあなた方は備えなさい。彼のその道筋をまっすぐにしなさい」というのであります。ルターはそれを「良い道を準備しなさい」と訳しています。神を迎えるために、そして、救い主イエスを待ち受けるために、み心にかなった、良い、まっすぐな道、信仰、心、生活をすることが大切であります。
 そしてその通り、荒れ野において、ヨハネ、洗礼を施す者が現れ、罪の赦しに至る悔い改めの洗礼を説教していた、と先駆者としての洗礼者の登場がまず、マルコでは最初に必要であったのであります。悔い改めとは、メタノイアという言葉で「心を入れ替える」意味でありますが、ヘブライ語では、シューブといい、神に全存在をもって立ち返ることを指しています。罪とは、神様から離れることであり、目当てとしていることが、み心にそぐわないでいることすべてを指しています。信仰から出ない事柄はすべて罪なのであります。ですから、単に心を変えるという内的なことだけではなく、私たちの生活すべてが神に向けてまともになることであります。洗礼者ヨハネは、その悔い改めの洗礼をユダヤ人たちに呼びかけ、ユダの全地域や全エルサレム住民がぞくぞくと出てきており、罪を告白しつつ、洗礼に与っていたのであります。そして、自分より後に来る方は、私よりずっと力あるお方であり、私はその方の履物のひもを解く値打ちもない、奴隷にも値しないと説教していたのであります。
メシアの到来の前に、エリヤのような預言者、先駆者があらわれると当時の人たちは固く信じていました。洗礼者ヨハネは、禁欲的ないでたちで、らくだの毛の衣を着、いなごと野蜜を日常の食物として、生活しながら、ヨルダン川で、洗礼を施していたのであります。その洗礼は、水で施す洗礼で、主の到来に備える悔い改めの洗礼でありました。
彼は、本日の個所の最後に「私は水で洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をあなたがたに授けるであろう」といっています。旧約聖書の預言者たちが終わりのときに神がみ霊をあなたがたに注ぐ日が来ると約束していました。それは、浄化する火の洗礼でもありましょう。私たちの罪をきよめ、になう方がおいでになって、私たちのすべての罪をとりのぞき、みずからになわれるのであります。
幸いに、本日は聖餐式があります。神は、洗礼と聖餐をもって私たちに救いの手立てを与えてくださいました。私たちは、どんなことがあっても、この二つのサクラメントによりすがり、新しい一年を進ませていただきましょう。
父なる神さま。
あなたは、私たちに、洗礼と聖餐をもって、罪から解き放たれることができるようにしてくださいまして、ありがとうございます。あなたのみ子、主イエスのお誕生を待つ日々でございますが、どうぞ、私たちの信仰生活を、私たちの全存在によって表していくことができますように。キリストのみ名によって、アーメン。

 


2005/12/04(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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