マタイ5:1-12、2005・11・06、全聖徒主日(白)―聖餐式―
イザヤ26:1-13、ヨハネ黙示録21:22-27
マタイによる福音書5:1〜12
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
説教「天における大きな報い」(マタイ5:1−12)
全聖徒主日を迎えました。私たちは、毎年この主日に遺族の方々を招いて、礼拝を守ります。しばしば、キリスト教は故人や先祖を仏教ほどに大事にしないというような批判を受けたりします。しかし、本日には、聖餐式もあるように、本来キリスト教の毎週の礼拝は、聖卓を中心として、先に召された方々とともに守っているのであり、私たちは決して、故人や自分たちの先祖をないがしろにしているわけではありません。
本日は、特に、この先に召された人たち、特にキリストにあって召された信仰の先達たちをおぼえる主の日であります。先ほど言いましたように、本日持ちます聖餐も、主の食卓を中心として、今生きている私たちがこちら側に半円を描いて立ち並び、残りの半円は、先に召された方々が、そこに共に立って、終りの日に主が約束された宴に与かるのであります。
さて、全聖徒とは、決して、いわゆる聖人といわれる限られた人々だけを指すのではありません。私たち津田沼教会の教会案内として、週報に時々載せます案内には、聖徒とは、自分の罪に目を留め、罪の贖い主である主イエス・キリストに自分の人生を預けたすべての人を、すなわち今は地上になき人たちも、現在生きています私たちも含めて指しているのであります。
この全聖徒主日において、本日与えられています福音は、マタイ5:1〜12であります。どうして、この箇所が、本日選ばれているのかを、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
本日の箇所は、主イエスがみ国の福音について、実質的にご自分の口を開いて語られる最初の部分であります。いわゆる山上の説教として、先ほどお読みしましたように語り始められるのであります。それは、主が群衆たちに目をやりながら山に上り、みそばに近づいてきた弟子たちに、お座わりになって、口を開かれるのであります。私たち、信者に対してだけではなく、耳を傾ける群衆にも向かって、それらの言葉は語られているのであります。すなわち、これらの言葉は、本日礼拝に集っているすべての人に対して語られているのであります。
本日の主のお言葉は、「幸いなるかな、あるいは祝福されているよ、以下の者たちは」、という言い方が続いています。それらが、八つ並んでいるので八つの至福とか、さらに祝福されているよ、あなた方はという11,12節も含めて九つの幸いとか言われています。
祝福されているよ、心の貧しい人々は、なぜなら、天の国はその人たちのものだから、から始まって、柔和な人たち、義に飢え、渇いている人たち、柔和な穏やかな人たち、悲しんでいる人たちなどが幸いなものたちとして、あげられています。「天の国」という言葉と、「義」という言葉が、鍵になっています。
義とは、私たちのあるべき振る舞いということができるでしょう。主はこの後でも、あなたがたの義がファリサイ派や律法学者たちの義にまさっていなければ、天の国に入ることはできないといわれ、また、あなたがたの天の父が完全であるようにあなたがたも、完全なものとなりなさいといわれています。
さて、主は、その八福の中で、その一つに「悲しんでいる人々は幸いである、彼らは慰められるであろうから」、といっています。嘆き悲しむべきこと、あるいは、辛い挫折の体験などは、私たちはできれば、避けて通りたいものです。しかし、苦しい体験を通して、そして、さらには、キリストのために苦しむような体験を通して、私たちは、神さまからいつの日か、その涙をぬぐわれ、至福の喜びに与かる時、「天における大きな報い」に与る時がくるのではないでしょうか。
主は、その最後に、「幸いなるかな、人々があなたがたにあらゆる悪いことをののしり、とがめるとき、わたしのために偽っていうであろうとき、あなたがたは」と言われます。そして、あなたがたよりまえの預言者たちも同じように迫害されたのであるから、そのときには、喜べ、大いに喜べといわれます。
マタイの教会の時代は、主イエスのなきあと、50年ほどを経過していました。彼らは、ユダヤ人たちや異邦人たちから激しい迫害にあっていたことでしょう。それに比べれば、現代の私たちはそのような形で見える迫害にはもはやあっていないでしょう。けれども、見えない形で、わたしたちの先達も、また、わたしたちも、迫害を経験しながら、また、キリストのために苦しむことをも与えられてきたものであります。
すでにその戦いを終えた先達の信仰を見上げながら、わたしたちも、キリストのために喜んで苦しみをも担う信仰を持ち続けたいと思います。
本日出席された遺族の方々とともに、先達たちの体験したであろう悲しみや、つらいことをも、神さまが、終りの日に、すべて、わたしたちの涙をもぬぐってくださり、天における大きな報いに与ることを確信しながら、信仰の道をこの主の日から再び新たに踏み出していきたいものであります。
天の父なる神さま。
あなたは、わたしたちが、キリストの弟子ゆえに、またそのお言葉に耳を傾けるゆえに受ける苦しみや困難をよくご存知であります。しかし、わたしたちは、そのさきに、あなたによって、また、み子によってもてなされる喜びの祝宴をも知らされています。どうか、わたしたちも、それぞれの人生の終りの日まで、その悲しみや困難から逃げ出すことなく、その後にあなたが与えてくれる喜びと慰めを信じて歩ませてください。キリストによって祈ります。アーメン。
イザヤ26:1-13、ヨハネ黙示録21:22-27
マタイによる福音書5:1〜12
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
説教「天における大きな報い」(マタイ5:1−12)
全聖徒主日を迎えました。私たちは、毎年この主日に遺族の方々を招いて、礼拝を守ります。しばしば、キリスト教は故人や先祖を仏教ほどに大事にしないというような批判を受けたりします。しかし、本日には、聖餐式もあるように、本来キリスト教の毎週の礼拝は、聖卓を中心として、先に召された方々とともに守っているのであり、私たちは決して、故人や自分たちの先祖をないがしろにしているわけではありません。
本日は、特に、この先に召された人たち、特にキリストにあって召された信仰の先達たちをおぼえる主の日であります。先ほど言いましたように、本日持ちます聖餐も、主の食卓を中心として、今生きている私たちがこちら側に半円を描いて立ち並び、残りの半円は、先に召された方々が、そこに共に立って、終りの日に主が約束された宴に与かるのであります。
さて、全聖徒とは、決して、いわゆる聖人といわれる限られた人々だけを指すのではありません。私たち津田沼教会の教会案内として、週報に時々載せます案内には、聖徒とは、自分の罪に目を留め、罪の贖い主である主イエス・キリストに自分の人生を預けたすべての人を、すなわち今は地上になき人たちも、現在生きています私たちも含めて指しているのであります。
この全聖徒主日において、本日与えられています福音は、マタイ5:1〜12であります。どうして、この箇所が、本日選ばれているのかを、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
本日の箇所は、主イエスがみ国の福音について、実質的にご自分の口を開いて語られる最初の部分であります。いわゆる山上の説教として、先ほどお読みしましたように語り始められるのであります。それは、主が群衆たちに目をやりながら山に上り、みそばに近づいてきた弟子たちに、お座わりになって、口を開かれるのであります。私たち、信者に対してだけではなく、耳を傾ける群衆にも向かって、それらの言葉は語られているのであります。すなわち、これらの言葉は、本日礼拝に集っているすべての人に対して語られているのであります。
本日の主のお言葉は、「幸いなるかな、あるいは祝福されているよ、以下の者たちは」、という言い方が続いています。それらが、八つ並んでいるので八つの至福とか、さらに祝福されているよ、あなた方はという11,12節も含めて九つの幸いとか言われています。
祝福されているよ、心の貧しい人々は、なぜなら、天の国はその人たちのものだから、から始まって、柔和な人たち、義に飢え、渇いている人たち、柔和な穏やかな人たち、悲しんでいる人たちなどが幸いなものたちとして、あげられています。「天の国」という言葉と、「義」という言葉が、鍵になっています。
義とは、私たちのあるべき振る舞いということができるでしょう。主はこの後でも、あなたがたの義がファリサイ派や律法学者たちの義にまさっていなければ、天の国に入ることはできないといわれ、また、あなたがたの天の父が完全であるようにあなたがたも、完全なものとなりなさいといわれています。
さて、主は、その八福の中で、その一つに「悲しんでいる人々は幸いである、彼らは慰められるであろうから」、といっています。嘆き悲しむべきこと、あるいは、辛い挫折の体験などは、私たちはできれば、避けて通りたいものです。しかし、苦しい体験を通して、そして、さらには、キリストのために苦しむような体験を通して、私たちは、神さまからいつの日か、その涙をぬぐわれ、至福の喜びに与かる時、「天における大きな報い」に与る時がくるのではないでしょうか。
主は、その最後に、「幸いなるかな、人々があなたがたにあらゆる悪いことをののしり、とがめるとき、わたしのために偽っていうであろうとき、あなたがたは」と言われます。そして、あなたがたよりまえの預言者たちも同じように迫害されたのであるから、そのときには、喜べ、大いに喜べといわれます。
マタイの教会の時代は、主イエスのなきあと、50年ほどを経過していました。彼らは、ユダヤ人たちや異邦人たちから激しい迫害にあっていたことでしょう。それに比べれば、現代の私たちはそのような形で見える迫害にはもはやあっていないでしょう。けれども、見えない形で、わたしたちの先達も、また、わたしたちも、迫害を経験しながら、また、キリストのために苦しむことをも与えられてきたものであります。
すでにその戦いを終えた先達の信仰を見上げながら、わたしたちも、キリストのために喜んで苦しみをも担う信仰を持ち続けたいと思います。
本日出席された遺族の方々とともに、先達たちの体験したであろう悲しみや、つらいことをも、神さまが、終りの日に、すべて、わたしたちの涙をもぬぐってくださり、天における大きな報いに与ることを確信しながら、信仰の道をこの主の日から再び新たに踏み出していきたいものであります。
天の父なる神さま。
あなたは、わたしたちが、キリストの弟子ゆえに、またそのお言葉に耳を傾けるゆえに受ける苦しみや困難をよくご存知であります。しかし、わたしたちは、そのさきに、あなたによって、また、み子によってもてなされる喜びの祝宴をも知らされています。どうか、わたしたちも、それぞれの人生の終りの日まで、その悲しみや困難から逃げ出すことなく、その後にあなたが与えてくれる喜びと慰めを信じて歩ませてください。キリストによって祈ります。アーメン。
2005/11/06(日) 10:30:01| 未分類|
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